第5話 魂の宇宙
「魂の重さを知っているかい?」
突然の問いに、多聞はきょとんと目を丸くした。
あまりに突飛な内容だったからかもしれないし、『末黒野素粒子物理研究所』などという研究施設で話すには、あまりに不釣り合いな内容だからかもしれない。
多聞はその日、千佳の父、銘刈祐介(めかる・ゆうすけ)博士に連れられて、彼の職場にまでやって来ていた。連休だろうが祝日だろうが、常に一定数の職員が働いているというそこは、多聞が訪れた時にもちらほら白衣姿の職員が目につく。
しかし、現場に係わる研究者のみが出勤していて、雑務をこなす者はいないらしい。祐介が自らコーヒーを注いでカップを差し出してくれた。
年齢なりに老いた男の手から、多聞は温かいそれを受け取る。
「どうぞ。ごめんね、私が淹れたやつだけど」
「いえ、ありがとうございます」
「それで、知ってるかい?魂の重さ」
「……二十一グラム?」
昔、面白コラムで読んだ記憶を辿り、一つの数字を思い出す。
「そう。……実際には、二十.四十五グラムから二十二.一グラムの間くらいだ」
「はあ……」
何が言いたいのだろう。多聞は視線で尋ねる。どうにも、博士の言うことは遠回りで良くない。
「はは、ごめんね。でも、こらから君に話す上で、非常に大切な前提なんだ」
「前提?」
「そう。魂には重さがある、という前提だ。……ところで、何年か前に発見された『ヒッグス粒子』というものを知っているかい?」
「……名前だけ、聞いたような気がします」
幾枚ものオブラートに包んだが、ようするに、多聞はヒッグス粒子なんて知らない。けれど、しばらくニュースで騒いでいたような気がする名前だ。
「ふふ、それくらいの認識だよね。ヒッグス粒子はね、ものに質量を与える粒子なんだ。これをもとに考えていくと、ニュートンの万有引力の原理が覆されてしまう可能性も……おっと、話がそれたね。つまり、魂に重さがあるということは、魂はヒッグス粒子を捕まえることができるということになるよね」
「……そう、ですね。えっと、すみません。物質に質量を与えるヒッグス粒子は魂にも重さを与えている、ということでいいですか?」
「そういうことだね。さて、ここで話を宇宙全体に変えようか」
「はあ……」
小難しい話だったら、これ以上理解できる気がしない――多聞の主張ははっきりと顔に現れていたらしく、銘刈博士を苦笑させた。
「宇宙というか、空間と質量の話なんだ。多聞くんは高校生だね。ならばもう、目に見えない空気にも沢山の物質が満ちていることは知っているよね」
「酸素とか窒素、のことですよね?」
「満たしている物質は違うけれど、宇宙も同様に色んな物質で満たされているんだ。その物質には、勿論私たち人間を含めてね。そして、地球から百三十四億光年という距離が現在分かっている宇宙の端だ。地球から宇宙の際まで行くのに、光の速さで百三十四億年かかるってことだね。途方も無い距離だ。その広大な宇宙空間に対し、物質……つまり、質量を持っているものは、実は多いんだ。現在計算上出されている宇宙空間の体積に対し、宇宙空間内には、多すぎる質量が存在している」
「……宇宙は、重すぎるってことですか?」
「簡単に言えば……そうかな、うん。そして、宇宙にある『重いもの』の代表と言えばなんでしょう?」
「ブラックホールですよね……って、待ってください。まさか、ヒッグス粒子で重さを得た魂が、ブラックホールのどんでもない重さを形成していると言うんですか?そんな、まさか……」
約二十一グラムの魂が、途方もない宇宙の旅を経て一箇所に集まり、ブラックホールになってしまったと言うのか。
「そんなの……オカルトとSFがごっちゃだ!あの、こういうこと言う相手じゃないって分かってますけど……科学的じゃないですよ!」
「科学的ではない、か……確かに。未だ霊魂というのもが結局何であるのか、判明してはいません。ふむ、宮下くんは物質を構成する最小の単位として、『原子』というものを知っていると思いますが、それは、更に細かな粒子に分けることができるんです。その中に、特にヒッグス粒子を引きつけやすいものがあり、魂はそういった粒子の形状の一つなのではないかと考えている者もいますね」
「魂は、粒子?」
「仮説の段階ですよ、何もかも。けれど、人魂がプラズマ現象で説明できるようになった今、霊魂の正体が科学的に説明できてもおかしくはないでしょう?……けれど、何にでも仮説さえ立てられない現象はあるものです」
銘刈博士は、薄く浮かべていた微笑みを消し、余裕の無い、渋い表情を作る。
「……地球を飛び出していったはずの魂の群れが、『肉』に依存する性質だけは失わない。これだけは、オカルトや都市伝説、昔話からアプローチした方が、納得できるでしょうね」
「魂は『肉』に依存するんですか?」
「葬儀でご遺体の上に包丁を置くところは、見たことはありますか?」
「ああ、はい。葬式屋さんが貸してくれたような……」
多聞は父の葬式を思い出す。突然のことだったので慌ただしかったが、白装束の父が腹の上に包丁を置いている姿を奇妙に思ったことは、よく覚えていた。
「その包丁はね、遺体にその辺をふらふら漂ってる霊が入らないようにするお守りです。体の中から持ち主の魂が抜けてしまったわけですから、遺体は霊にとって入り込むための空家みたいな状態なんですね」
「……ヤドカリみたい、ですね」
「いい例ですねぇ。他にも、葬式をしている家や、霊柩車の前では親指を隠せという話もあります。……この話は最近は聞きませんが、これも、親指の爪の間から霊魂が入り込んで体を奪ってしまうといういわれがあるためです」
「へー。俺も小学生の頃にやってましたけど、何だったか……確か、そうしないと親が死ぬ、とかいう理由だったと思います」
もっとも、忠実にそれを実行しても、多聞の父はあっけなく死んでしまったが。そういえば、それ以降、多聞はあまり都市伝説やオカルトじみた習慣には興味を無くしたように思う。
「習慣も変化していくものですね。……いや、もしかしたら、子供の体に入り込んだ霊が、いずれ家族の体に乗り移ってしまうという理由からかもしれませんよ。そうなれば、事実上家族の魂は死んだも同然ですから」
「……怖いこと言わないでくださいよ……」
想像力豊かな銘刈博士に、多聞は現代っ子らしく否定を示してゆるく首を振る。
そんなことありえないだろうと思う多聞の脳裏には、甥っ子のテオバルドの姿が浮かんでいた。
魂は肉体を求め、入り込む隙を窺っている――例えば、テオに入り込んだ『救世主』を名乗る魂のように……?知らず恐ろしい現象を目の当たりにした実感が、改めて背筋を冷やしていく。
「さて、脇道にそれたね。以上の、魂には重さがある、魂はブラックホールという集合体を作っている、魂は肉体に引かれる……これを組み合わせた結果が、君があの日、電話で口にしたことだね」
「世界の終焉……?」
あの日、多聞がそう口にした瞬間、確かに銘刈博士は態度を変えた。
「その通り。人間の魂の性質を持つブラックホールは、地球へと次第に近付いている。物質がブラックホールに飲み込まれたときどうなるかは、知っているよね。まあ、つまり……地球は一巻の終わりだ」
「……」
宇宙や物理の話をしていると思ったら、いつの間にか、テオの口を借りた何者かが言っていたことと同じ結論に行き着いていた。それも、今話している相手は、物理学の研究者だ。救世主だと自称する、正体不明の存在ではない。
「ところで、宮下くん。君はどうも、世界が終わることを知っている口振りだったね」
「……」
「沈黙は肯定だよ。私たちはね、ずっとこのことを世間に隠して研究してきたんだ。どうすれば、ブラックホールと化した魂の集合体から世界を守れるかってね」
「あ、の……俺……」
「……ひょっとして、天使病が発生した原因も知っているのかな?ふむ、随分色々と知っている様子だけれど……」
「一体誰が、君にそんなことを教えてくれたのか、私たちの教えてくれないでしょうか?」
言葉を継いだのは、いつの間にか銘刈博士の後ろにいた男だった。
「!……どうして」
その男は、多聞も知っている人物である。
「どうして、県知事がここに?」
銘刈博士の背後に現れた彼は、かつて多聞と千佳、戸来の前に現れたその人だった。
「どうしてって……そりゃあ、今まで私たちがひた隠しに隠してきた世界の終わりを知っているらしい一般人がいるなんて聞いたら、ねえ?気になってしまうじゃないですか」
「県知事も、知ってるんですか?」
「ああ。専門的なことは分からないけれど、地球へ近付いて来る走行性のあるブラックホールの存在については、報告を受けています。まあ、つまりは……一定上の立場にいる人間や研究の関係者は、知らされているでしょう」
「……知っていて、銘刈が困っている時に助けてくれなかったんですか!?」
目の前の彼は、何もかもを聞かされていて、それで尚、困っていた千佳や多聞を見捨てた。あの時、それなりに恨めしく思った相手が、ますます憎くなってくる。
怒りを隠そうとしない多聞に対峙して尚、知事はあくまでも冷静な様子で語りかけた。
「恨むならば、恨んでくれて構いません。地球の滅亡が近いことは、混乱を招かないように市井には伏されることが、世界中で決まっていました。私は私のするべきことを順守したまでです」
「銘刈よりも、自分の仕事を優先したんですか?俺たちから、情報が漏れないように?」
「仮にあなたたちから噂が広がり、知らなければ生まれなかった不安や混乱を抱くことを考えたまでです。それに、あの時点では銘刈博士たちの研究は完成の目処も立っていなかった。下手にあなたたちに騒がれて、研究に協力している研究者や、資金協力をしている他国に手の平を返されては困るんですよ」
かつて知事が、このリニアコライダーに関する研究には多額の金が動いていると言っていたのを思い出す。世界の滅亡を回避できる手段が判明するまで、研究は続けられなければならなかった。そのためには、千佳たちが危険を訴え騒がれてはならなかったのだ。
「でも、だからって……」
だからと言って、あの時千佳の主張を却下したことには変わらないではないか――言いたかった不満は、多聞の喉に引っかかり、出てくることはなかった。
事情は分かるのだ。いつ研究が実を結ぶかも分からないのに、中断や遅延が生じるようなことは避けたいということくらい。だって、下手に中断されてしまうと、世界はブラックホールに吸い込まれて滅亡してしまうのだ。
千佳の身を守るために行動して、結果的に人類という単位で滅びてしまっては本末転倒だ。
恐らく、家族をないがしろにしていると思わせるほど銘刈博士が仕事に打ち込んだのも、そういう理由なのだろう。どんなに変質者や差別主義者から迷惑をかけられたと千佳が訴えても、研究をスムーズに進める方を重視したのだ。
「それで、君は一体誰から、地球に接近するブラックホールの話を聞いたのか、教えてもらえますか?」
「え……?」
「今回は大きな騒ぎにはなりませんでしたけれど、まかり間違えば、市民の不安を煽る結果になっていました。そんな大事な情報をあなたに教えてしまったのは、どこのどなたなんでしょうか?……個人的には、銘刈博士の可能性も考えているんですが」
「私ですか?」
「ええ。だって、博士のお嬢さんと宮下くんとは知り合いなのでしょう?ならば、大元にある漏洩の原因にあなたがいると思っても、仕方がないのでは?」
「ははは、面白い話ですね。三文推理小説によくありそうな」
銘刈博士に移動した知事の眼差しは、疑いの色を隠しもしない。言葉の応酬は、互いに浮かべた微笑みの裏側を思わせる刺があった。
「ちょ、や、やめてください」
いい年齢の大人二人が腹を探り合うところなんて見たくない。博士らに待ったをかけた多聞だが、しかし同時に自供を拒めなくなってしまう。
「でも、あの……信じてもらえるかどうか……その、すごーく、非現実的な話で……」
話したところで、信じてもらえなければ多聞の話し損だ。
正直なことを言うと、多聞自身、もし第三者から自分の体験したことを言われても――生まれたばかりの赤ん坊の口から救世主である自分を殺して欲しいと、そうすれば世界は終焉の危機から救われると聞かされたなんて言われても、信じられる気がしない。
「どんなことでも、まずは話してみてもらえませんか?その話がどれだけトンチキでも、真偽は別です」
「じゃあ、えっと、端的に言っちゃうんですけど……救世主みたいなものに会ったんです」
「救世主みたいなもの?」
相当ふんわりした言い方なのは、大人二人か首を傾げるより、多聞が十分自覚している。
「はい。自分のことを、かつて人々の原罪を贖(あがな)った魂で、今度は世界の終焉から世界を救うために子供の体に宿ったって言うんですよ。どう考えても……」
ガッシャーン!!
破砕音が多聞の言葉を邪魔した。
「っ!?」
思わず肩をすくませ音のした方を振り返る。そこには、足元に割れたカップを気にするでもなく、驚き目を見開いた研究員がいた。じわりと床に広がる液体が靴を汚している。
「だ、大丈夫かい?」
「……」
銘刈博士が呼びかけても、その若い研究員はじっとこちらを――いや、明確に多聞だけを見つめていた。
「……会ったのですか?」
穴を穿つかの如き凝視が、多聞を縛り付ける。決して、嘘の答えは許さないというように。
「だ、誰に……?」
「世界と義人を救い、天の国へと導く者に会ったのですよね?」
「い、いや……」
近付いて来る。じっと多聞を見据えたまま、研究員がこちらに来る。
「おい、君、ちょっと」
様子がおかしいことを察した銘刈博士が間に割って入ろうとするも、研究員は上司であるはずの博士を押しのけて、多聞へと迫る。
「会ったのですね!?」
「だったら、何だってんだよ!」
答え方を間違ったと多聞が気付くのは、次の瞬間だった。
「――――!!」
多聞には理解できない言語で研究員は絶叫したのだ。同時に、たった一つしかない入口から、白衣の職員たちが何事か喚きながらなだれ込んでくる。
「やめろ!はなせよ!」
「君たち、やめないか!」
何本もの腕が多聞を捕らえた。彼だけではない。銘刈博士も知事もあっという間に両腕を拘束され、部屋から連れ出されてしまう。まさに多勢に無勢、僅かな時間の出来事だった。
「いってえよ!くそ!」
手を振りほどこうと暴れる度、抑える力が強くなる。早々にそれに気付いていた大人二人は、自らを拘束する者に逆らおうとはしなかった。銘刈博士だけは、多聞の知らない言葉で何事か研究員たちに語りかけているようだが、返ってきた返事も含め、その内容を知ることはできなかった。
研究所は多聞が想像していたものよりもずっと広く、随分長いこと廊下を歩かされた後、三人は小汚い物置部屋へと放り込まれた。ダンボールや、色が茶色に変わりつつある紙の束が紐で縛って重ねられているのが見える。どうみても、物置部屋だ。
乱暴に閉じられたドアは、外側から何かしたらしく、内鍵が空いているのにビクともしない。閉じ込められたのだ。
「何なんですか、あいつら!!」
多聞は苛立ちを隠さず銘刈博士に食ってかかる。
「……まさか、ここに来てああなるとは……」
銘刈博士の声は、僅かに震えていた。突然の職員の暴挙だ。動揺しないほうがおかしいだろう。しかしすぐに知事に駆け寄り、腰を抑えている老人を助け起こした。
「どうなってるんですか、これは。さっき、あなたが他の研究者と話してるのを見ました。まさか……」
「グルだなんてことはない。考え直すよう説得を試みたが、だめだったね」
「彼らは……ここの職員なんですよね?」
「そう。けれど、君はもしかしたら気付いているんじゃないかな?……彼らはね、KIKという白人至上主義者と、その同調者さ」
ここに来て、まさかKIKの名を再び聞くことになるとは思わなかった。多聞は、軽い眩暈を感じる。
「いや……でも、最初の人は違ったでしょう?日本語を喋って……いや、日本人じゃなかったとしても、アジア人でした。白人じゃない」
「クー・クラックス・クランの流れを汲む組織は、かつてあったほどの力を失っている。どういうことかというと、組織の者を増やすために、同じ宗教さえ信じていれば肌の色を問わずに入会させるんだ。さっきの子も、アジア人だけど確か信仰は仏教ではなかったはずだ」
「そんな……待ってください。じゃあ、さっき俺たちがしていた会話も……」
「知られてしまったようだ」
「あんな奴らが同じ建物の中にいるっていうのに、どうして他人が入ってこられるような場所で……!」
「信じていたからだ!」
銘刈博士の過失を責める多聞は、怒声で思わぬ反撃を喰らう。隠していた激情が多聞の言葉をきっかけに剥き出しになってしまったのだ。それくらいは、多聞にも分かった。
「信じていいたんだ。たとえ信じる神も、肌の色も、何もかもが違っても、地球を救うというたった一つの目的のために、私たちは一致団結できると信じていたんだ!」
「でも、あいつら……」
「ああ、裏切られ……いや、私が勝手に信じて盲進していただけだ。……いずれにしろ、彼らは自ら開発に携わった方法ではなく、信じる神による救いの方を選んだんだ。……最後の審判、そして神にとって良き信者であった自分たちを天の国に導いてもらう方をね」
「え、待ってください。……てことは、あいつらの目的って……」
多聞が何かに気付きかけた瞬間、締め切られていたドアが外側から開く。ぬっと顔を覗かせたのは、屈強な体格の外国人らだった。白衣を着て研究者を名乗る割に、随分と体格が良い。
「君は、こっちへ」
「!……いやだ!」
再び腕を掴まれ、今度は物置部屋から出される。助けを乞う視線を銘刈博士に投げても、彼は無力であることを詫びるように首を横に振った。
(誰か、誰か……)
確かスマートフォンを持ってきていたはずだ。外部に電話が繋がれば、異常を察してくれるかもしれない。ポケットに手を突っ込んで、震える指で画面に触れた。
「ここは精密機器が多い。それらに影響を与えないよう、通信機器の電波は遮断されている。妙な気は起こさないように」
「……」
考えを見破られた上、見破られなくても誰かに救助を乞うことができないようだ。多聞は悔しさのあまり、下唇を噛み締める。
「入って」
銘刈博士たちと別れ、多聞が連れて来られたのはまた小さな部屋だった。さっきの物置部屋に比べれば、椅子や小さな机が置いてあり、まだ使われている気配がある。しかし、その広くもない室内には、ぎっしりと研究員たちが集まっていた。多聞を部屋の真ん中に座らせ、ぐるりと取り囲む。背の高い彼らから覗き込まれる圧迫感に、呼吸さえ苦しくなりそうだった。
「それで、君が話を聞いた救世主とはどこの誰のことなんだ?」
「!」
さっき気付きかけたものの正体が分かった。彼らは、単純に世界を自分たちの信仰により救い、科学による救済を放棄したのではない。信仰の中心に据えるべき者を、救世主を……つまり、テオを探しているのだ。
(誰が言うか!)
教えるどころか、口を開くつもりさえ無いと周囲を睨む。精一杯の抵抗は何の効果も無く、かえって彼らを苛立たせた。脇腹が勢いよく蹴られる。
「うっ!」
暴力に予告など無い。身構えることもできず、多聞はただ食い込んだつま先の痛みに呻く。誰も、多聞を気遣うことはなかった。
「―――!素直に言うことを聞けば、最後の審判で温情をかけてもらえるようにしてやったのに!」
「結構、だね!」
最初の罵声は、日本語ではないので聞き取れなかった。けれど、何を言っているのか想像できる。そして、多分間違っていない。
「もう、こいつの周囲の人間を片っ端から尋問していけばいいだろ?人一人トラブルに巻き込まれたって、外国人相手ならば日本人は甘いからな。個人の問題で済ませるさ」
「私は反対。目立つ行動はあくまで最終手段だ。この間、イタリアの病院で先走った過激派と同じことはしたくない」
相談を始める彼らは、不思議なことに皆日本語をある程度理解しているようだった。恐らくは、諸外国から寄り集まったせいで、彼らの共通言語が英語か日本語かになっているのだろう。
(?……イタリア?)
彼らの会話は、数日前のニュースを思い出させた。
「目的は、私たちの神による同志の救済だ。それはイタリアの連中だって同じだろう?」
「しかし、移民による混血や、移民連中にも不妊治療のために医療費が負担されている現状への抗議は、主の救済とは何の関係もないじゃないか」
「私たちに同意しない限り彼らには救済などない。わざわざ病院を襲撃しなくても、無事に審判で地獄行きが決まっていたさ。焦ることはなかったはずだ」
ニュースでは、犯行の原因にイタリアの医療法体制を挙げていたが、実際は人種差別的思想にあることに多聞は気付く。事件そのものには彼らの中にも賛否があるようだが、いずれにしても、ニュースで伝えられた情報とはかけ離れた動機なのは確かだ。
「待て、今は問題なのは、私たちを救ってくれる主の居場所をこの日本から聞き出すことだろう?あまり長引かせるつもりはないぞ」
言い合いをなだめ、研究員たちは再び額を突き合わせる。その間も、多聞は逃げ出さないよう左右から捕まえられていた。
(どうしよう……)
母は何も知らない。だから、何か聞かれてもテオのことを話してしまうことはないだろう。しかし、家族の経歴まで調べられれば、彼らがやがてテオの存在に気付くはずだ。
果たして、テオが救世主を宿す子供だと気付くかは分からないが、そうだと理解したとき、KIKはどんな手段を使ってもテオを拐おうとするだろう。
いや、何より恐ろしいのは……
「……ところで、こいつが会ったという救世主は、まさか日本人じゃあないよな?」
「!」
びくり、と肩が震えるのを抑えるだけで精一杯だった。
彼らはどう思うのだろう。もし、救世主が有色人の血を引いているなんて知ったら、どういう判断を下さすのだろう。
「まさか。主は罪のある者の体に宿るはずがない」
「君、モルモンだったのかい?彼らの言う、ネイティブ・アメリカンは罪がそそがれたら白人になるなんて教えは、さすがの僕でもおかしいと思うよ」
ハハハ。場にそぐわない笑いが起こる。口元だけで笑う彼らの表情は、何を考えているのか分からない。理解不能な生物を前にした時どんな気持ちになるのか、多聞は思いがけず知ることになった。
「しかし、本当に日本人だったらどうする?少なくとも、私たちと信仰を同じくしていれば、組織に引き入れることは厭わないが……」
「……ねえ、もしそうなら、降誕される体を間違ってしまった可能性はないかしら?」
誰が提示したとも分からない仮定に、皆はっと息を飲む。
多聞を囲む研究員たちは、「その可能性は考えていなかった」という驚きで、多聞は更に悪い可能性を考えて、息を飲んだ。
「ならば、その体はいらないな!」「そうだ、いらない!正しい体を主に用意しなければ!」「ああ、私の妹が今妊娠中だ。その子供を呼ぼう。妹もその夫も純血の白人だ」「良いアイディアだわ」
多聞の悪い予感は、まさしく目の前で現実になっていく。
「や、やめろよ……」
テオにも誰にも手を出させたくない。しかし、彼らを止める術など、多聞にはわkらない。むしろ、多聞が些細な言葉で止めようとしたことが、彼らの気に障ってしまったらしい。
「そんなことを言い出すなんて、やっぱり主が降りた体の持ち主は日本人なんでしょう?」
「ち、ちが……!」
「違うなら誰なのかはっきり言ったらどうだ?」
苛立った者の何人かは拳を振り上げる。また暴力が多聞に襲いかかると思われた、その時だった。
「おい!まずいぞ!警察だ!」
慌てふためいて飛び込んできた男が、思いもよらない救助を知らせたのだ。
「……?」
どうしてか、多聞の声が聞こえたような気がして千佳はふと視線を彷徨わせる。
「銘刈さん、いいですか?」
「あ、はい」
戸来の声が千佳を呼び、注意を促した。周囲にいる『神の王国の使徒協会』のメンバーも皆同じ方を向いている。千佳たちは今、末黒野市で活動するKIKへの抗議デモをするべく、最後の打ち合わせをしていた。
(いよいよね……)
千佳の胸は興奮に高鳴る。KIKに同じ信仰を持つ者として抗議をしようとしているわけではない――だから、戸来たちとは志が同じではないのだが、それでも、今まで散々脅かされた相手に、堂々と抗議し、自らの受けた仕打ちを白日の下に語ることができるのだ。
抑圧されていたものが解放される喜びに、千佳の胸は早鐘を打つ。
もっと早くにこうすれば良かったのかもしれない。もっと早くに行動を起こせる選択をしなかったことを、千佳は少しだけ後悔していた。
ひょっとしたら、この抗議により今後また新たな問題が生じるかもしれないが、やらない後悔よりやって後悔しろというものだ。
渡された横断幕の端を握り、千佳はしっかりと前を向いて歩き出した。
「人種差別主義反対!横暴を許すな!」
「天使病患者を差別主義者から守れ!」
拡声から、不快な電子音が交じる声が響く。道行く人々は、奇妙なものを見る眼差しで通り過ぎていくが、配っているビラを受け取っていく者もいる。デモの参加者も決して少ない人数ではなく、閑静な地方都市で行われるデモとしては大きなものだった。
千佳は知らなかったが、どうやら道路を練り歩くデモというものは届出が必要であるもののようで、デモ行進は警官に伴われる形で進んでいく。いつもはテレビで見るだけの行進を参加者の立場から見るのは、少し不思議だ。
「道をそれないでー」
警官の声がやはり拡声器を通して聞こえてくる。帯同する警官がデモ隊の先頭に寄り、何かを支持していた。どうやら、何か理由があって、進行方向を変えることになったらしい。
(……あれ、この方向……)
本来であれば、これから末黒野総合病院へと向かい、天使病患者の特別寮の前などで、人種差別主義の外国人医師らによる、治療以上の危険性を訴える予定だった。だが、デモ隊は警官に導かれるまま、千佳の父が勤めている研究所へと向かっているではないか。
不思議には思うが、諸外国から研究員を集めている研究所だ。当然、千佳たちが糾弾しようとするKIKに関係する者も少なからずいるだろうと考え直す。元より、そうでなければ、今日のデモ行進の何もかもが無駄になってしまうのだ。
(そんなの嫌!)
決して、今日の抗議を無駄にはさせない。千佳はいっそう声を張り上げた。
奇妙なことに、研究所に近付くにつれ、少しずつ帯同する警官の数が増えていく。他の者は気付いているのだろうか。視線だけで左右を窺うと、千佳と同じように視線をあちらこちらと巡らせて、周囲の気配を探ろうとしていた。どうやら、皆同じ違和感を覚えてはいるらしい。
誰も、警官の数が増えていく理由が分からないのだ。気持ち、拡声器から響く声も戸惑っているように聞こえる。よもや、警官の数に怯え、中途半端にデモを終わらせはしないだろうとか危ぶんだ時、思わぬことが起こった。
「――!」
「―――!―――!!」
前方から、日本語ではない怒鳴り声が聞こえてきたのだ。それも複数が、口汚い英語のスラングを交えた罵声を唱えている。
「危ない!」「伏せて!」
誰かが叫んだ瞬間、千佳の横を何かが過ぎ去っていく。前方から、物が投げられたのだ。
その辺に落ちている石から飲みかけの缶まで、人の手で放れるサイズのものがデモ隊に向かって飛んでくる。
「きゃっ」
右腕を掠めて飛んできたコンクリート片は、手加減して投げたような速さのものではなかった。千佳たちへ攻撃を、それも悪意をもって行う連中が進行方向に――研究所の方にいるのだ。
「下がって、下がって!」「物投げないでください!」間に入っている警官が随分頼もしく見える。しかし、彼らの制止も虚しく、飛んでくる罵声も、物理的な攻撃も止まらない。
それが逆に、千佳たちを焚きつけることになった。
「皆さん!気をつけて進みますよ!」
その一声をきかっけに、行進する足が早くなる。建物の正面玄関に迫る頃には、ほとんど駆け足になっていた。皆が皆、何かを叫びながら走る。千佳も、もう自分でも何を叫んでいるかも分からないまま、投げつけられた物が頭上を掠めても気にせず走った。
「押さないで!」「離れて!」警官の制止など、何の意味も無い。
そしてとうとう、衝突の瞬間を迎える。
ぎゃあという悲鳴が聞こえた。最早物を投擲する必要もない。人々は手の届く者を手当たり次第に相手取り、殴る蹴る罵るの阿鼻叫喚だ。
(……お父さん、もしかして……)
まさか、千佳の父はいつものように休日出勤しているのではないだろうか。もしかして、今もこの騒ぎの中に巻き込まれていたら……。
(どこか、電話できるところ……!)
もみくちゃにされながら、一人になれる隙間を探す。よもや着信拒否に設定したために、かえって手間取ることになるなんて想像もしなかった。
「ちょ、どいて……!」
騒ぎを抑えてくれるかと期待した警官は、数を増やしたのに言葉だけで制止するものの、実際に殴り合う人々を押しとどめることはしない。
いや、むしろ警官たちはあっさりと千佳たちの押す勢いに負け、研究所の内部へと共になだれ込んでしまう。まるで、そうするのが本来の目的であったように。
(……?)
違和感を覚えるが、研究所に入り込めたことは幸運だった。父がいるならば、直接探すことができる。
「お父さん……いない、の?」
勤め先であることは知っていたけれど、内部に入るのは初めてだ。騒がしく、物の壊れる音が響く正面玄関とは反対に、内部は妙に静かである。まさか、全部の職員が表の騒ぎに参加しているわけではないだろう。
表立って敵対しているのは、恐らく千佳たちの起こした抗議を煩わしく思う者――つまり、KIKの関係者だと思われるが、ここの研究員全てがそうというわけではないはずだ。少なくとも、千佳の父は違う。
「どうして、誰もいないの?……誰か、いませんか?」
静けさが冷え冷えとした研究所を包んでいる。肌寒さを覚えながら、千佳は奥へ奥へと向かった。喧騒が少しずつこちらに近付いて来るのだ。どうやら、もう入口から中に場を移しつつあるらしい。
「!」
誰か――千佳と同じ呼びかけをする、何者かの声が聞こえた。
「ここ、なの?」
プレートも無いドアの向こうから声は聞こえてくる。恐る恐るドアノブを回すも、鍵が掛けられていた。
「誰かいるのか!頼む!いるなら返事をしてくれ!」
ノブが回る音に気付いた内部の人間が、今度ははっきりと千佳を呼ぶ。
「宮下くん!?」
声は多聞のものだった。
「銘刈か!?すまない!ここを開けられないか?」
「無理よ。鍵がないし……内鍵は?」
「あいつら、内鍵壊していきやがった。くそっ……ところで、親父さんには会ったか?」
「やっぱり、お父さんはここにいるのね?ねえ、どうして宮下くんがここにいるの?」
本来、ここに多聞はいるべき人物ではない。千佳はいよいよ混乱する。
「話は後だ。親父さんを探して……」
「教えて!どうしてここにいるの!まさか、表の騒ぎに宮下くんが係わってるわけじゃないよね?」
「表?今、研究所はどうなってるんだ?」
「……私、戸来さんたちと一緒に、KIKの抗議デモをしていたの。本当は、病院へ向かう予定だったんだけれど、同行していた警察の人の誘導で、こっちにずれて来ちゃって。そしたら、ここの職員みたいな人たちが出てきて、怒鳴ったり物を投げたりして、大騒ぎに……」
「そうか、あいつらが急に警察がどうのって言って出てったのは、銘刈たちのお陰だったのか。助かった」
「どういうこと?」
「戸来さんが言っていた、KIKの連中がこの研究所にもいたんだ。ちょっと、色々あったんだけど……あいつら、テオを狙ってるんだ。俺、テオが世界を救うだの何だのって言い出したことを、あいつらの前で話しちまったんだ」
「テオくんの……あのことね」
多聞の言うことは、千佳は身にしみてよく知っている。何しろ、千佳はテオの口を借りた何者かの指示に従い、彼の命を奪おうとしたのだ。
「そしたら、あいつらテオを祀り上げて、自分たちだけ助けてもらうようにするとか言い始めたんだ。テオの名前や所在は話してないけど、あいつら俺に吐かせようとして蹴りやがった」
「それ、大丈夫なの?」
「何とか。なあ銘刈、親父さん探してもらえるか?」
「え、宮下くんは?」
「見張りがいないならこっちのもんさ。通気口が天井にあるから、俺、そっちから出られるか試してみる」
「分かった……気をつけてね。あの、私が言えることじゃない、けど……」
こんな状況でなければ、多聞とは口もきけなかったかもしれない。多聞を心配に思う気持ちは嘘ではないが、やはり最後にした会話が会話だけに気不味い。
「いいんだ、気にしてないって言うか、俺、やっぱり銘刈のこと心配なんだ。銘刈はそう思ってないかもしれないけど、親父さんだって同じだ。銘刈の病気のことも、すっげえ気にしてたぞ?」
「……」
「まあ、詳しくは後でな。多分、親父さんからのが詳しいこと聞けるさ」
その言葉を最後に、ドアの向こうから多聞の声は聞こえなくなる。代わりに何かが倒れる音がした後、室内は静まり返った。天井からずりずり這い回る気配がしたが、それも遠ざかっていく。
「……宮下くん」
彼は父親が千佳を心配していたと言った。
「……信じても、いいよね、もう一度」
あれだけ父のことを冷血漢のように思っていたのに、千佳を心配していたと多聞から聞いた時、確かに嬉しいと感じたのだ。その気持ちを素直に受け入れたかった。
「早く探さないと……!」
駆け出そうと振り向いた瞬間、
「……千佳!」
「あ、お父さん!?……と、知事?」
千佳は早々に目的の人物に会うことができた。知事は千佳の父に支えられて、腰をかばいながら歩いている。
「え、どうしたの?知事は、一体……?」
「はは、ちょっと……ところで、警官は到着していますかな?」
「あ、はい。正面玄関で……えっと」
デモ隊と研究員たちが争うのをなだめているはずだと、それをそのまま伝えるのは、かえって誤解を与えるような気がして、千佳は言いよどむ。騒ぎはもう通路の近くまで迫っているので、信じてもらうのに問題はないかもしれないけれど、やはり突飛な話だ。
しかし、当の本人は至極満足そうに頷いた。
「そうか、よかった。やはり定刻に帰らなければ、通報するように言っておいてよかった」
デモの途中から増え始めた警官たちは、デモの帯同とは別件で集まっていたらしい。
ひょっとしたら、研究所に彼らが踏み込むために、デモの進路をわざとこちらに変更させたのかと考えるが、尋ねても答えは貰えないだろう。
「千佳、実はここに宮下くんが来ていて……」
「さっき会ったわ。このドアが開かなくて、それで部屋の通気口を伝って外に出るって言ってた」
「そうか……千佳、すぐに宮下くんを追って。二人で……いや、二人のうち、どちらかだけでもいい。研究所の奥にある『E1』という部屋へ行きなさい」
「E1?」
「そこで、このカードを使って……」
白衣のポケットから取り出された三枚のカードが千佳に手渡される。プラスチック製のよく見るカードだ。
「このカードで、E1の部屋にあるボタンを押すんだ。そうすれば、何もかも解決できるはずだ」
「何それ、そんなものが?」
そんなに都合の良いものがあるのだろうか。手の中のカードを胡散臭そうに眺める。
「詳しくは後だ。何もかも解決したら、その時に」
「絶対だよ、お父さん」
「ああ……」
奥へと駆け出した千佳は、背中で喧騒が刻一刻と近付いて来るのを感じる。警官が来れば、知事と一緒にいる父も保護してもらえるだろうけれど、急がなければ。
「宮下くん、どこ!?宮下くん!!」
天井裏まで届くよう、声を張り上げながら走り回る。
一体今どこにいるのか見当もつかない。だからこそ、彼にも千佳を見つけてもらわなければ。
「……銘刈?」
息が上がり始めた頃、頭上で天井板を叩く音と共に、多聞の声が千佳を呼んだ。
「宮下くん!出てこれる?お父さんが、E1っていう部屋に……」
「おい、何している!?」
「!」
天井へ向かって話しかけていた千佳に、不審そうな眼差しの研究員が近付いて来る。質問に答えない千佳に、彼は眉間に寄せた皺をますます深くした。
「その持っているカード、ここの職員のものだな?どうして、そんなもの持ってるんだ?しかも……!」
大きな手がぬっと伸びて、千佳が握りしめていたカードを奪おうとする。しかしその時、天井板が一枚外れて、研究員の頭上に落ちた。
「あぐっ!」
「うっわ……」
脳天に強烈な一撃を食らった男は、板の下敷きなりながら呻く。彼の味わった痛みをまざまざと想像した千佳も、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「大丈夫か?」
「宮下くん!?」
ぽっかり空いた天井の穴から顔を覗かせたのは多聞だった。千佳の足元で痛みに震えている男の上に、多聞は容赦なく降り立つ。
「危なかった、のかな?大丈夫か?」
「うん。……見つけてもらえてよかった」
「で、それを取られそうになってたのか?」
多聞もまた、千佳の持つ三枚のカードを見る。勿論、彼にも千佳同様、どういう用途のものなのかは分からない。
「これを持って、E1っていう部屋に行って、ボタンを押せってお父さんが言ったの。そうすれば、何もかも解決するって」
「何だそれ?」
さっきの千佳と同じく多聞も首を傾げるが、千佳には分からないと首を振ることしかできない。
「分かった、とにかく探そう」
「うん、……ひっ!?」
倒れていた男が、千佳の足を掴んだ。
「行かせ、なっ……!」
「放せよ!」
最後の力を振り絞り前進を阻もうとした彼は、多聞に思い切り手首を蹴られて再び呻く。自由になった足で、千佳たちは急ぎ駆け出した。
「待てっ、誰か、誰かっ!E1に!!」
男の叫び声が後方から聞こえた。千佳たちを逃さない執念の咆哮だった。応じるように、数人の足音が追ってくるのが聞こえる。
「どうしよう!」
「……もう一回、通気口に入ろう」
「ええ!?」
通路の左手に見えてきたトイレの……それも、女子トイレの中へ多聞は駆け込んだ。女性用の入口に躊躇いなく入っていく後ろ姿に、千佳はちょっとだけ引きながらも後に続く。
「ど、どうしてここに入ったの!?」
「うまくいけば誰にも合わない場所だし、こっちなら会うのは女だろ?何かあっても勝てるかなって」
何でもないことのように言う多聞は、器用に手洗台の上から飛んで通気口の蓋を押し上げる。
「銘刈、先に行って」
「私!?」
備え付けの大きなゴミ箱を通気口の下に持ってきて、さあ上がれと多聞は促すけれど、それなりの高さがある上、中は暗くていかにも薄汚い。
「いいから早く!」
「ひゃあっ!」
躊躇って登ろうとしない千佳を、ついに多聞が押し上げた。次いで、本人も登って来て、通気口の蓋を閉じる。内部は思った通り、埃っぽく、じめじめしていた。
「……これから、どうするの?」
「……とにかく、親父さんの言っていたE1の部屋を探そう」
それぞれのスマートフォンを光源に、狭い通路を這って進む。デモ行進用に動きやすく汚れてもいい服を着てきてよかったと千佳は思う。背中の翼はちょっと邪魔だ。
「ねえ、宮下くん。……お父さんと何か話したの?」
体中埃まみれにしながら、千佳は気になっていたことを尋ねる。
どうして多聞がここにいるのか、父と多聞の繋がりは何なのか、千佳は何も知らない。
「ああ。そうだな、まず日本に帰ってきて、銘刈と別れて数日経った頃なんだけれど……」
多聞は、今までの経緯を掻い摘んで説明してくれた。
多聞と千佳の父が連絡を取りあったこと、そもそも千佳の父が娘を顧みずに研究に打ち込んでいたのは娘を病から救うためだったこと、そしてその研究は同時に――
「テオくんが言っていたことを、お父さんも知ってたの?世界が終わるって?そのために天使病の……」
「ああ。テオは自分の魂で世界を救おうとしたけれど、銘刈博士たちは、科学の力で世界を救おうとしていたんだ。……でも何より、銘刈の病気を治すための手段としても、親父さんは研究に打ち込んでいたんだと思うよ。俺は、そう思った」
「お父さん……」
幼い頃から、父は休日も大学の研究室へと足を運ぶほど仕事、いや、研究熱心な人だった。そこに拍車をかけたのが、千佳の発病だったのだ。それにより寂しい思いもし、父を恨めしく思うこともあった。
「私、お父さんに言うことが沢山できたなぁ……」
「俺に言ってもいいんだぜ?」
「そうだね、宮下くんにも……ありがとう。あの時、あんな風に言っちゃってごめんね」
「ううん、いいんだ。俺だって……少しは自分のために、銘刈を助けているトコあったしさ」
「宮下くんのため?」
「うーん……」
後ろで首を傾げているだろう千佳は、きっと多聞の応えを待っている。けれど、父が亡くなった後、何もできない無力な自分に打ちひしがれていたなんて、千佳に話すのはどうにも気恥ずかしい。
「まあ、色々あって……」
多聞の男子としての矜持が、女子に弱みを見せることを、どうしても邪魔するのだ。
通気口はいくらか枝分かれし、時には行き止まりになっている。一進一退を繰り返しているうち、足元が騒がしくなり始めた。「E1」だとか「探せ」だとか言う声が、天井板一枚を通して聞こえてくる。
「確かに、通気口の中で正解だったかもね」
「だろ?」
例えこの中にいると知られても、簡単に大勢に囲まれることはない。いくら勝手知った研究所とは言え、まさか彼らも通気口がどのように繋がっているかなど知りはしないのだ。
「ねえ、もしかして、E1って皆が行く方向にあるんじゃない?」
「行ってみるか」
千佳たちの目的地がE1であることを彼らは知っている。ならば、追いかけてE1に向かっているのではないかと千佳は考えたのだ。もっとも、実際には彼らが千佳たちをE1に誘導している形なのだが。
「結構広いんだな、ここ……あ」
足元の人の気配と声を追って行くと、やがて行き止まりに突き当たる。今まで見たフェンス状の通気口の仕切りではなく、完全に壁だった。
「嘘、ここまで来て……」
「……一度降りてみるか」
まさか建物の終点に来て、まだE1に到着していないとは思えない。少なくとも、近くまで来ているはずだ。
多聞は人の声が聞こえないことを何度も確認してから、一番近くの通気口の蓋を開けた。
恐る恐る降り立った先には、重厚な金属製のドアが見える。一見、観音開きの扉に似ているが、取っ手のようなものは見当たらない。代わりに壁にはカードリーダーの装置が備え付けられていた。
「……銘刈、カード使うとこ、ここだ」
「え?本当?」
通気口から顔だけ覗かせた千佳は、多聞と同じ物を見つける。
「と言うことは、E1はこの奥ね」
「多分な。皆、先に行っちまったか……急ごう」
「うん!」
千佳の持っていたカードは三枚。それぞれの用途は分からないが、一枚は正解だった。カードリーダーのランプが緑に変わり、二重の重い扉が開く。
内部をよくよく見渡すと、さっきまでいた建物とは床や壁の材質が違うようだ。どうやら、あの扉を挟んで別棟になっているらしい。しかし、いくら別の建物とは言っても、職員のみの利用を前提にしたそれには、親切な案内図など備え付けられてはいない。
無機質な扉がぽつぽつと並ぶその中から、千佳たちは目的の場所を探さなければならないのだ。
「……ねえ、また通気口か何か探さない?」
「……そうするか」
通路は一直線で隠れる場所がない。それぞれの部屋は千佳が渡されたカードで入ることができるかもしれないが、十中八九、一度入れば行き止まりだ。
適当な通気口の蓋を明け、再び千佳たちは埃にまみれながら進む。だが、すぐにさっきまでの建物と様子が違うことに気付いた。
「え、行き止まり?もう?」
そうなのだ。さっき見渡した通路の距離に比べて、通気口の長さが短いのだ。枝分かれも少なく、どうやら建物としての構造そのものも様変わりしているらしいことに気付く。
「……もしかしたら、ここは実験棟なのかもしれないわ」
「実験棟?」
「ほら、特殊な薬剤なんかを実験室内で誤って散布してしまった時とか、通気口などで部屋や通路が繋がっていたら困るでしょう?」
「そうか、漏れちゃうもんな」
「……E1も、何かの実験室なのかも」
「どうだろうな」
千佳の父は、ボタンを押せと言っていたらしい。その言い方は、実験室よりも何か大掛かりな装置がある場所を連想させ、ますます正体が掴めなくなる。
「!……誰か来る」
「!」
多くはないが、複数の人間の足音が近付いて来る。ぼやく声からは、未だ千佳たちが見つからないことへの苛立ちが感じられた。
「ど、どうしよ……」
「と、とりあえず、ここに」
カードリーダーではなく通常のノブが付いたアナクロなドアは思いがけず容易に開いた。
遮蔽物のない通路にいるよりはマシだろうと飛び込んだ二人は、早々に慌てることになる。
「ここ、ゴミ捨て場?」
「それっぽい、かな?」
物置というには汚く、据えた匂いを放つポリバケツも並んでいる。恐らくは一般ゴミ用の場所なのだろうが、それにしても臭いものは臭い。
「っ……」
息を止めるが如く口と鼻を塞いだ千佳に対し、多聞は果敢にもそのポリバケツを台に薄暗い天井を探り始めた。
「……あった」
「み、みやしたくんー……」
さすがにこんなところの通気口に入るのはごめんだと、千佳は声に込める。
「ほら、早く」
「うう……」
どんなに嫌でも、背に腹は変えられない。千佳は渋々多聞に続いて通気口に入り込んだ。
ゴミ捨て場から伸びる通気口は、最初に通った通気口とは違うもののようだ。先は暗く、一見どこにも繋がっていないか、あるいは果ての無い闇に繋がっているような不気味さがあった。
「……うわっ!!」
その闇の中に這い出た多聞は姿を消す。一瞬の出来事だった。
「え、みやし……わあっ!!」
慌てて多聞がいた辺りに這った千佳は、どうして多聞が消えたのかを知る。この通気口は、真っ直ぐ伸びているのではなく、途中で大きく下に曲がっていたのだ。
「ああああああっ!!」
二人はさながら滑り台を滑るように、下へ下へと落ちていく。角度のきつすぎる滑り台は、二人にただただ絶叫させた。
行く先も見えない闇の中、突然始まった滑り台は終わりも突然だった。突き当りの蓋を蹴破って、二人は空中に投げ出される。そして、重力に従って落下した。
「いったあ!」
硬い床に投げ出されたわけではなかったが、ふかふかのクッションが敷かれていたわけでもない。やたら厚みだけあるごわごわした物の上に二人は落っこちたのだ。
「ってて……銘刈、ごめん、重い」
「あっ、ご、ごめん」
千佳は、落下ついでに多聞を下敷きにしていたことに気付き、慌てて退く。滑るついでに埃やカビを拭き取った服を見てうんざりしてしまう上に、たった今落下した部屋もゴミ捨て場で、更に気分は落ち込んだ。ちなみに千佳たちを受け止めてくれた何かは、ゴミの詰まったビニール袋だった。
「ゴミ捨て場どうしの通気口が繋がっていたのね。そりゃあ、他の場所には繋がないか」
「まあ、そうだよな」
痛めた箇所を摩りながら多聞も身を起こす。
「多分、地下なんだろうけど……出てみるしか、ないよな」
「気をつけて」
外に通じるドアは、最初に入ったゴミ捨て場と同じく施錠されてはいなかった。外から話し声や足音が聞こえないことを確認してから、多聞は慎重に、少しだけドアを開ける。
「……あった」
「え?」
「E1、あった」
多聞の示す先、数十メートルほどのところに、E1のプレートが掛かったドアが見えた。
「あそこなのね」
「ああ」
「そうだ、宮下くん。提案なんだけれど……」
ドアの前は無人。行くならば今だ。足音を忍ばせて近づいたカードリーダーに、千佳が一枚のカードをかざした。すると、ライトの色が点滅しながら変わり、重い音と共にドアが開いていく。
いよいよだ。ようやく、この騒ぎにも終止符が打たれるはずだ。
緊張した面持ちでドアの向こうを睨む二人は、こちらを見つめ返す複数の目を見た。
「あっ!」
小さく叫んだ千佳に皆の視線が集まる。通路に人がいないはずだ。多聞たちを探している何人かのうち、いずれE1に来ると踏んだ何人かは、先回りして待ち構えていたのだ。
「やっぱり来たか」「考えなしに飛び込んでくるなんて」――怯える千佳を前に、待ち構えていた者たちはしてやったりと、いやらしく笑う。千佳はそれを堪えるように、胸元でカードを握り締める。
「そのカードキーを返せ!」
「いや!来ないで!」
悲鳴と共に脱兎の如く逃げ出す千佳の後を、研究員たちが追いかけていく。千佳しか目に入っていない彼らは、入れ違いにE1の内部に滑り込む多聞には気付きもしなかった。
多聞の手には、千佳が持っていた三枚のうち二枚がある。この部屋を開けるための一枚は、さっき千佳が持って逃げた。
千佳が提案したのは、この中に既に人が待ち構えている可能性を考えての策だった。もし中に人がいれば、自分がカードを持っているように見せかけて逃げるから、その間に多聞が中へ入って欲しいと、彼女は自ら囮役を買って出た。
「ボタンって、どれだよ!」
大きなモニターが目立つ他は、大きな機材がひしめき合う室内は、以外に雑多だ。そのうちのいくつかをドアの前に動かして簡易なバリケードを作りながら、それらしい物を探す。
「……これ、か?」
ようやく見つけたボタンは、ランプも何も無い地味な作りだ。しかし他に思い至る物も無く、多聞は平たいそれを指で押し込んだ。
『――SCC・ULD401、エネルギー装填まで三分です』
「!」
その瞬間、電子音のアナウンスが響き、正面のモニターに光が走る。大きく映し出されたのは、細長い銀色の円筒だ。それが、暗い背景の中に――宇宙空間にぷかぷかと浮かんでいるのだ。
「なんだ、これ!」
『残り二分四十五秒、装填後、射出指示をする場合には、スロットに専用のカードキーを……』
混乱する多聞をよそに、淡々と機械音声がカウントダウンを続ける。どうやら、多聞の手元に残ったカードはこの後に必要になるものらしい。
「誰だ!スイッチを押したのは!」
「やべっ」
高らかに響いたアナウンスは、どうやらこの部屋以外でも放送されたようだ。さっき千佳を追いかけていった連中が駆け足で戻って来る。
『残り二分』
カードキー式の電子ロックなんて、どうやって開かないようにすればいいのか分からない。多聞はなりふり構わず、手近な椅子で読み取り用の機械を壊そうと試みる。
「くっそ!こわ!れろ!」
精密機器とは言うものの、存外外見は丈夫にできているものだ。プラスチック製のカバーにはひびが入るのに、ランプはそうあるのが正しいと主張するように光っている。
バリケードこそあるが、開けられるのは時間の問題だ。そう判断した多聞は、さっきのボタンの場所に戻り、カードを入れる挿入口を探す。
「これか!……あれ?え、あれ?」
一枚のカードは挿入口に滑らかに飲み込まれたが、もう一枚の挿入口は蓋が閉じたまま、カードを受け付けようとしない。
「な、何で!」
「そっちはエネルギー装填後、発射の最終確認に使うからだ!」
結局壊せなかったドアから人がなだれ込んでくる。バリケードに阻まれてはいるものの、もう猶予はない。
「邪魔させない!絶対、これで、終わらせてやる!」
多勢に無勢、四面楚歌。何でも来いだ。覚悟を決めた多聞は、カードをぎゅっとポケットにねじ込んで身構える。
「終わらせる?たかが人間の、いや……全能である私たちの神を信じないお前が、なんとおこがましいことを!」
バリケードを破り最初に入ってきた男は忌々しげに多聞を睨めつける。負けじと、多聞も目尻を釣り上げた。
「救世は神の領分。主の信徒にして義人たる我々ならばともかく、お前のような異教徒が手を出すなど、以ての外!」
「神の領分だって言うなら、何故ここでそれに係わる仕事をしてたんだよ!荷物まとめて国に帰りやがれ!」
多聞に言わせれば、そんな選り好みする神に救っていただかなくて結構である。現に、千佳の父をはじめ、科学の徒である彼らの手で世界は救われようとしていたのに、一体何が不満なのだろう。
「私たちは主が現れないから、科学にその道を求めただけだ。これは言わば代用品。主によって救われた世界、神の国へと迎え入れられるならば、それこそ本望」
「……わけ、分かんねえよ。あんたたち、科学者なんだろ?どうして、信じている宗教と科学がごっちゃになってるんだ?頭おかしいって!」
続々とバリケードを破り、近付いて来る全ての人間に多聞は叫んだ。
確かに、千佳の父だって霊だの魂だの、科学とは相反する存在を認めている節はあったが、目の前の連中は度が過ぎている。
『残り一分』
アナウンスだけが調子を変えず、淡々とカウントダウンガ進む。
「科学者だったら、どうして自分の知識や研究で、宗教や人種に関係なく多くの人を救いたいって思わないんだ!?」
「私たちが科学者である以前に、一人の人間だからよ!」
多聞の必死の叫びに、甲高い怒鳴り声が応じた。
「そうだ!俺たちだって人間だ!完全に公平で、何者にも頼らない完全な存在じゃない!」「自分たちが信じたものに、心の拠り所に従って、何が悪い!」
同調の声と共に距離をつめてくる彼らの目は、完全に据わっている。最早穏便にことを済ませるつもりなど毛頭ないだろう。
(まずい……あ)
どうやってあと一分を耐え、最後のカードキー一枚を使うべきか。身構えた多聞は、じりじり近付いて来る人々の後ろに、千佳の顔を見た。
「宮下くん、大丈夫!」
彼女の声に皆が振り返った瞬間、千佳は構えていた消火器のレバーを握る。白い粉末が濃い霧となって目をくらませた。
「お父さん、早く!」
千佳の持つ消火器が仕事を終えるより早く、第二射が噴霧された。不意打ちを食らった人々は怒りの言葉を吐きながら床の上をのたうち回る。しかし、呪詛よりも大きな銘刈博士の声が、多聞を動かした。
「宮下くん、カードキーを!」
『発射準備完了しました。最終確認の上、射出許可キーを挿入してください』
見計らったように、アナウンスがその瞬間を伝える。たった一つ、全てを終わらせるのに必要なものは、多聞が既に持っている。
「やめろっ!!」
「誰がやめるか!!」
無我夢中で押し込んだカードキーは今度こそするりと機器に飲み込まれ、続いて『射出許可確認』とアナウンスが流れる。それを聞いた全ての者が、静まり返った。
「何てことを……」「どうして……」――そんな悲嘆のを漏らしながら、消火剤の粉まみれになった人々は項垂れている。改めて見ると、本当にひどい状態だ。
「終わった、のか……?」
多聞の問いに頷いて答えたのは、千佳に続いて現れた銘刈博士ただ一人だった。
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