第6話 科学世紀の神様

 結局、多聞が押したボタンの正体を知ったのは、事件から――一連の騒動は、リニアコライダー施設への反対派デモと研究所の衝突という形で、世間には知らされていた――二ヶ月近く経過した頃だった。

 「こんにちは、お邪魔します」

 「いらっしゃい、宮下くん」

 すっかり夏の気配が色濃くなった頃、多聞は銘刈家に招かれていた。初めて訪れる家の敷居を跨ぐのは、少し緊張する。

 「それで、結局どうなったんですか?俺が押したボタンは一体、何だったんですか?」

 「あれはね、SCC・ULD401という装置の遠隔起動ボタンだよ」

 冷たい麦茶をすすりながら、銘刈博士は何でもないように答えるが、多聞が聞きたいのはそういうことではない。顔をしかめて不満を伝えると、博士は「ごめんごめん」と言いながら、あれの正体を話し始めた。

 「SCC・ULD401っていうのはね、宇宙にあるすごく大きな筒状の装置なんだ」

 どうやら、E1のモニターで多聞が見た謎の物体こぞが『SCC・ULD401』だったらしい。

 「数年前から、宇宙開発事業の宇宙ステーション建造だとかの影で少しずつ作られていたものなんだけれど、そっちの方が地上のリニアコライダーよりもよほど大きくてね」

 リニアコライダー自体が三十キロメートルにも及ぶ巨大設備だ。それよりも大きな長さの物が宇宙空間に浮いているだなんて、どんなに想像してみても、多聞にはどうしても現実離れした光景に思える。

 「宮下くんには一度話したけれど、あの研究所でやっていたことは、つまり地球に近付いて来るブラックホールを消失ないし、縮小させる方法だったんだ。そして、私たちはブラックホールのあまりに巨大な質量を如何に少なくするか、ということを考えた。結果として、物質に重さを与えるヒッグス粒子に注目したんだ」

 「つまり、ブラックホールからヒッグス粒子を引き離す、ということですか?」

 「そう。魂はヒッグス粒子を引きつけて重さを得る、という話もしたっけ?けれど、魂に限らず、ヒッグス粒子が好む媒介粒子というものはあるんだ。私たちは、SCC・ULD401を使って、ブラックホールに媒介粒子を大量に射出、ヒッグス粒子をブラックホールから奪って、ご自慢の重さを減らしてやろうと計画していたんだ」

 「?……正直、全然想像がつかないんですけど、俺、なんかすっごいレーザーのボタンを押しちゃった、てことではないですよね?」

 「はは、レーザーのように目に見えるものではないさ。目に見えないほどの、原子より小さな素粒子が射出されるんだもの。……ねえ、学校でリニアコライダーの話って全然しない?」

 自分の仕事についてあまり知られていないのが不満らしく、銘刈博士は自分の娘に話題を振る。

 「するわけないじゃない。少なくとも、高校の物理化学で話題にしても、喜ぶのはごく一部の生徒でしょうね!」

 スイカを切り分けてきた千佳は、父に呆れた眼差しを向けながら熟れた赤い実を多聞の皿に取り分けてくれた。「ねえ、宮下くん」と同意を求める彼女は、今、多聞と同じ高校に通っている。少し季節外れの転校生になってしまったが、楽しく過ごしている姿をよく見る。

 「まあ、いいや。えっと、そういうわけで、宮下くんのお陰で地球がブラックホールに飲み込まれる危機は回避したわけだ。何であれ、君のお陰で地球は助かったんだ。天使病も、いずれ原因になっているウイルスの変異が止まり、終息するだろう。……それから、重さに縛られてブラックホールになっていた魂も、自由になっているのかな、と思うよ。私は」

 「……あの、博士は、魂や神というものを信じますか?」

 「ん?」

 「ずっと、疑問だったんです。KIKに係わっていた研究者は、皆あの日、神という存在が絶対で、それを信じ崇める自分たちが特別で、他の人間とは違う……という風にふるまっていました。科学者にとって、神って何なんですか?」

 「それは、答えにくい質問だね」

 博士は困ったように、本当に心から困っているように口元を引き締める。しかし、その目は穏やかで、あの騒動に巻き込まれた多聞を労わるものだった。

 「多分、私たちと彼らの信じる宗教そのものが異なる……いや、宗教というものが、その人の人生そのものに大きく食い込んでいるから、尚更難しくなってしまうのかな」

 「食い込んでいる?」

 「そう。宮下くんだったら、日常的な宗教の行事と言っても、小さい頃の七五三とか、除夜の鐘、初詣……あとは、厄年のお払いくらいしかないだろう?けれど、彼らはね、信仰上、幼い頃に洗礼なり聖餐(せいさん)なりの儀式をするんだ。そうすると、神への信仰を通じで、原罪や今まで犯した自らの罪が赦されるとされている」

 「なんか、都合いいっすね」

 「その通り。だから、昔は死ぬ直前に洗礼を受けて、生きている間の罪をチャラにしてもらって安心して天国に行こうとした人も多かったらしい。これはね、一種の精神的生まれ変わりだよ。信仰を通じて罪を赦されて、『綺麗な体』に生まれ変わるということだ」

 「つまり、神によってそこから新しい人生が始まる……一種の人生の節目なんですね」

 「そう考えると、日本の七五三に近いかもしれないね。もっとも、彼らの場合にはその行事を通して、天国行きだの地獄行きだの死後のことまで決まってしまうんだ。しかも日曜学校で地獄が如何に恐ろしいか、神に赦されることが如何に天国に行くために大切なのか教え込まれる。ヨハネの黙示録なんて、神に認められなかった人々がいかに苦しんで世界の終わりを体験するか、やたら詳しく書いてあるくらいだ」

 「地獄から逃れたいという心理が、信仰の根底に作られるということですか?」

 「私はそう考えているかな。ところで話は変わって、一つ問題が起こるんだ」

 「何ですか?」

 尋ねる多聞に、博士はちょっと勿体つけてから口を開く。

 「ずばり、神が七日で世界と最初の人間を作ったという聖書の記述を、一信者として信じるか。もしくは、ダーウィンの唱えた進化論を信じるかということさ」

 「ああ、なるほど」

 「しかも、例えばアメリカでも、進化論を信じないという人が半分を占めている。結構多いでしょ?私はね、神の存在と科学の板挟みになってしまうのは、かえって彼らの方だと思うよ」

 「……」

 「自分の信仰や正義に矛盾、疑問を感じた時、一番安心する方法を知っているかい?それはね、誰かを攻撃することだよ。肌の色、宗教、文化、理由は何だっていい。ただ、『自分はこうだと信じている、お前は違うからおかしい』って言うだけでいいんだ。そうすると、自分がすごく正しいように感じられる。本当の問題は解決できないのにね」

 「……だからって、差別したり、科学を否定する理由には……」

 「ならないよ……ならないんだけど、ね」

 しかし、未だ世界にはそれ故に生じる軋轢も多いのだと、言外の意図を多聞は読み取る。

 どうしようもない理由なのに、人の心から生まれるものであるが故に、簡単には解決できないのだ。そして恐らくは、人が人である以上、この世から無くならない問題でもある。

 「……宗教も科学も、そういう問題を解決するためにあればいいのに」

 多聞は祈るように呟いた。

 「そうあれば嬉しいね。……いずれは」

 いずれは――科学者として生きながら、恐らく実現する日を生きて見ることはないだろう銘刈祐介の嘆息を思わせる一言だ。

 「……すみません、色々、聞いちゃって」

 「いや、私の方こそ、君と千佳には謝ることが沢山ある」

 千佳と多聞を自分の向かいに座らせ、銘刈博士は深く頭を下げる。

 「宮下くん、娘を私の代わりに支え助けてくれてありがとう。千佳、仕事の都合とは言え、お前に何も言わずにいてすまなかった」

 「お父さん……」

 「そんな、俺、何も……やめてください、そういうの、えっと……」

 大の大人に頭を下げられ、多聞はかえって困惑してしまう。

 「いや、大人だからさ。迷惑をかけた相手には、それなりの態度を示すべきだ。なあ、千佳?」

 「わ、私に……何で……」

 どうして話を振るのだと僅かに抗議する様子を見せた千佳だが、言いかけてすぐに口を噤み、多聞に向き直る。

 「ううん、そうだね……。ごめんね、宮下くん。私、最初に宮下くんに助けてもらったことも、病院から逃げるのを助けてもらったことも、全部感謝しています」

 「いや、本当、気にすんなって」

 「でも、私、宮下くんにひどいこと言った後、今までちゃんと謝ってこなかったもの。言うチャンスなんて、いくらでもあったのに……ごめんなさい」

 「……いいんだ、もう。そりゃあ、あの時は少しショックだったし、落ち込んだけどさ。でも、もう気にしてない。銘刈が無事でよかった」

 「……ありがとう、宮下くん。お父さんにも、ごめんなさい。私、お父さんのこと仕事中毒みたいに思い込んでて、どうしてそこまで仕事に打ち込むのか、聞こうとはしなかった。でも、教えられないことは教えられないんだって言ってね。今度は」

 「ああ。けど、こういう仕事はもうそうそう無いだろうな、うん」

 「そう言えば、博士は今後どうするんですか?」

 多聞は、彼のこの町での仕事が既に終わっていることを知っている。

 季節が変わるより先に、研究所は開店休業状態になってしまったと噂に聞いていたからだ。役割を終えた研究所は職員の多くが解散し、国内の大学職員の中から管理を委任された者が、今後の調整や設備維持を勤めていくことになったのだと、噂好きのご近所さんが言っていた。

 治療のために諸外国の病院へ転院していた天使病の患者らも、担当した医師の異動に伴い、帰国の手続きを進めているらしい。

 全て表向きには、リニアコライダー反対派住民との折り合いの為だと伝えられている。もっとも、真実を知る者は誰もそれを話そうとしないので、事実が周知される日は来ないだろう。

 「うん、しばらくはこの町で、研究所の後始末かな」

 「そう、ですか」

 では、千佳はまた転校して行かなくて良いのだ。ほっと胸を撫で下ろした多聞は、どうしてそんなことを気にするのか尋ねる、二人分の視線に気付く。

 「ま、まあ、よかったよな。そろそろ大学受験とか考えないといけないしさ。これからまたどこか引っ越しなんて、大変だもんな!」

 「……そうね。どうしたの、早口になって」

 「いや……何でもない」

 まあ、もう何も心配することなく、平穏な日常という幸せに浴せるのならば、何も言うことはあるまい。

 

 

 傾きかけた日が、まるで自らが沈むことを主張するような眩しい光を投げかける。その熱を千佳と多聞は背に浴びていた。

 結局あの後、スイカを食べきった後に遅めの昼食まで用意して多聞をもてなしたために、彼を送り出す時間が予定よりも随分遅くなってしまった。千佳の父が随分多聞に構いたがり、夕食も食べていけばいいなどと言い出したので、慌てて千佳は多聞を連れ出したのだ。

 流石に夕食まで振る舞っては、かえって多聞のほうが恐縮してしまうというのに。

 「ごめんね。お父さん、ちょっとテンションおかしくて」

 「ああ、あんな親しげな人とは思わなかった」

 「学者だからなのかしらね。頭は良いと思うんだけど、時々変に常識が無いの。変人なの」

 「あはは」

 笑う多聞に、本当に変人なんだと言い募っても、信じてはもらえないかもしれない。

 「ねえ、聞いてもいい?」

 小さく笑う多聞は、ひょっとして今ならば答えてくれるかもしれない。そんな気がして千佳は問いかけた。

 「研究所で宮下くんが言ってたことどういうこと?……自分のために、私を助けてくれていたの?」

 「ああ、あれか……」

 思い出したらしい多聞は、少し恥ずかしそうに、そして言いにくそうに視線を逸らした。そう言えばあの時も、多聞は言うのをはぐらかすような素振りを見せていたことを思い出す。

 「言いに難いようなこと?」

 「いや、むしろ、聞いてもそんな大したことではないと思うと思うんだけどさー。……俺、ずっと自分でも誰かの役に立てるんだって思いたかったんだよ」

 「……宮下くんが、誰かの役に立たないなんてこと、ないと思うけどな」

 「ありがとな。……俺、親父が死んだ後、ずっと家族の邪魔になってると思ってたんだ。そんなことなかったって最近知ったけど。でも、銘刈を助けようとして、結局、大した役にも立たなかったのは本当だ。銘刈に言われた通りだったと思う」

 「……そんなことないよ」

 「でも」

 「あのね、宮下くん、聞いて」

 夕日を背にまとった千佳は、多聞に大きく一歩近づいた。熱気をはらんだ空気が揺れて、新しい汗が浮く。

 「あの日、私を助けてくれた宮下くんはね、私にとって神様みたいだったよ。あの時だけじゃないね。本当にダメだって思った時、宮下くんはいつも神様が助けてくれるみたいに現れたもの」

 そう言って笑う千佳は、橙の光を反射しながら肌を伝う汗を拭った。照れ隠しの動作だった。

 「……私、実はちょっとあの人たちの気持ちが分かる気がするんだ」

 「え?」

 「イタリアで……、宮下くんのお姉さんのところで、私、テオくんのことを……ごめん、その時のことだけどね、あの時、私は神様に突き放されちゃったように思ったんだ。ずっと、私の手を引いて、味方になってくれていた宮下くんのこと、何があってもそうしてくれるって、思い込んでいたの」

 「……」

 相手にあまりにも絶対的な信頼を寄せていたからこそ、多聞と対峙した千佳は、真っ暗闇に突き放されたような不安を味わった。今まで自分をすくい上げてくれた手が、千佳のものではなくなってしまう恐怖を味わったのだ。

 「けど、分かったのはそれだけじゃなかった。神様の手はね、本当は人間の手だってことにも気付いたの」

 千佳の視線が多聞の手に落ちる。少し骨ばった大人になりかけの、けれどまだ少年の手だ。あの日と違い、今は少しだけ日焼けしている。

 「本当は、人間のできる以上のことはできない手だったんだ。私を助けてくれたのは。なのに勝手に神様みたいに感じて、一緒にいれば大丈夫だって思い込んで、私の全部を認めてくれて、いつも味方になってくれるんだって信じていた……」

 言い切って、熱く湿気った空気を肺に吸い込む。

 「……あの人たちの神様は、傍にいないから、いつまでも『神様』でいられるんだわ。熱狂的なまでに絶対だと信じていられるのは、きっと相手がずっと遠くにいるからなのね」

 「そうかもな」

 実際のところなんて、千佳にも多聞にも分からない。けれど、あの研究所で信仰と神の名を唱えながら立ちはだかった人々の姿に、かつての自分の姿を千佳は見たのだ。醜いとは思わない。だが、哀れだ。

 すぐ傍にいて手を取れる相手よりも、遥か彼方、どこにあるともしれない天上の神を心の拠り所にするなんて。遠くにいれば相手に幻滅することもないが、相手の目には自分は永遠に映らないのに。

 例え神様ではなくなっても、千佳の隣に立つ多聞は、しっかりと千佳に向き合ってくれる。それがどれだけ心を満たすものなのか、千佳はもう知っていた。

 「あー、あのさ……」

 「ん?」

 多聞がおもむろに口を開く。掻き消さんばかりに鳴く蝉の声の中でも、彼の声はきちんと千佳まで届いた。

 「ただの人間の俺では、ダメですか?」

 まさかそんなことを言われるとは思わなかった千佳は、きょとんと目を見開き、しかしすぐに両目は弧を描いた。

 「人間の宮下くんとも、これからもっと仲良くなりたいよ」

 「はは、そっか、そっかあ……あー」

 そして、多聞も千佳が真っ正直に答えるとは思わなかったのだろう。自分から聞いておきながら、額の汗を拭ったり、シャツの裾を手ではためかせて体に風を送ろうとしたり、しばらくせわしなくやっていた。

 「じゃあ、いつか花火見に行こう」

 「花火?」

 「毎年やってるんだ。今年はほら、町が色々ゴタゴタしてるから中止になったけど、河川敷を会場にして、結構大きな花火大会が開かれる」

 「わあ、楽しそう」

 「だろ?だから、来年の夏な、約束」

 「いいわね、約束よ」

 来年の夏、きっと千佳はまだ末黒野の町にいる。だからこそ、一年先の約束も、二人は何の心配も無く交わすことができた。

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