第2話 しゅうまつの町
電話口の多聞は随分息を荒げている。呼吸の合間合間に何かを伝えようとしているらしいのだが、寝ぼけたままの耳はなかなか音を拾ってくれない。
「ごめんね、寝ちゃってた。どうしたの?」
「あ、無事、なんだな?」
「うん。あ、でも今日、変な人に会ってさぁ」
「変な人!?どんな!」
言い切るより先に割り込む勢いの多聞に、千佳は電話口で驚く。何というか、昨日助けてもらった時に、同じ年の割に冷静な男の子だと思っていたのに、そうでもないのだろうか。
「えっとねぇ、ほら、時々自宅訪問して「あなたは神を信じますか~」みたいなこと言う人いるでしょ?そんな感じ」
「外国人、ではなかったんだな?」
「うん。日本人のおばさん。少なくとも、見た感じはそうだった」
電話の向こうで多聞が大きく息を吐く。肩の力まで抜けたような安堵の溜息の理由は分からないが、多聞の問いで一つ思い出したことがあった。
「そうそう外国人って言えば、病院の先生が昨日助けてくれなかった外人さんだったの」
「え?」
「あ、でもね、先生は私のこと見てないって言うんだよ?絶対、先生だったと思うんだけどなぁ。あの時見たの」
「あ、あのな、銘刈」
震える声が千佳を呼んだ。不思議な偶然の出会いが彼をそんなに動揺させてしまったのだろうか。確かに俄かには信じられないかもしれないけれど、だが、事実だ。
「う、嘘じゃないよ。……そりゃ、私の記憶違いじゃなければ、だけど」
「大丈夫、信じる。でも、そいつには絶対近づくな」
「な、……何言ってるの?オバリー先生は、天使病の患者が入る寮の主治医なんだよ?近づくなって、そんな……」
「オバリー!?」
驚愕の声が耳を打つ。思わずスマートフォンを耳から離してしまう。
「そう、えっと……ライアン・オバリー先生。もしかして有名人なの?」
多聞が驚く理由が分からない。良い理由で驚いているのならばいいなと思うけれど、さっきの彼の反応からすると期待できないだろう。それでも、悪ことを考えないようにするのは、嫌なことが昨日今日と続いているせいだ。もうこれ以上、悪いニュースは欲しくないというのに。
「いいか、銘刈、落ち着いて聞いてくれ」
重く沈んだ声は、やはり悪い知らせを告げるものだった。
リニアコライダーの設置をきっかけに町に増えた天使病の患者と、患者らを狙う変質者。その変質者たちの裏で、白人至上主義の外国人たちが暗躍していること。気狂いじみた差別主義者たちは、同時に天使病の患者をキリスト教義上の天使と同一視し、天使の出現は、世界の終末が近いことを示していると考えていること。その時善良な信者を導く天使から有色人種を取り除こうとしていること。
「なに、それ……」
俄かには信じられない。突拍子もないことを突然聞かされて、それ以上の言葉が出ないほどだ。
「信じられないだろ?俺も、まだ全部信じきれてないし、混乱してる。けど、銘刈が心配で、とにかく話しておきたくて……」
「……私のこと、心配してくれたんだ。もしかして、息が荒いのも……私のところに来ようとしてくれてたから?」
「当たり前だろ。昨日助けたのに、また何かあるんじゃって思ったら、ほっとけない」
「あ……ありがとう」
昨日会ったばかりだというのに、こんなにも身を案じてくれる人がいる。嬉しかった。疲れていた心が癒されていくようだ。
「いや、俺は何も、本当に何もできないんだ。とにかく、入寮手続きは取り消して、もうそのオバリーって医者には関わるな」
「待って。……宮下くんの言い方だと、先生が、まるで……」
「そうだ、その医者もグルだ。寮に入ってる患者をたてに、別の患者を誘拐させて、言うことを聞かなければ人質にしていた患者を……」
続きは多聞の口から聞くまでもなく、想像できる。病状が悪化したと言ってしまえば、いくらだって患者の存在を闇に葬れるのだ。天使病という解明されていない病の発生に頭を抱えている状況に乗って、悪事をはたらくなどとんでもない奴らだ。しかも、宗教と結びついた人種差別が根っこにあるのだから、質が悪い。
千佳だって知らないわけではない。人種や宗教を理由に過激な反社会的行動をとる集団は、ずっと前から問題視されながらも、未だ根絶されてなどいないのだ。それがある日突然に、隣に現れる可能性はゼロではない。
だが、千佳には一つだけ疑問があった。
「ねえ、オバリー先生の話は誰から聞いたの?」
多聞の情報源である。昨日の多聞は、千佳に早々の入寮を勧めてくれた。今日になって急に手の平を返したのだから、何かがあったのは間違いないはずだ。
「ああ、昨日銘刈を襲った奴がいただろ?あいつに今日会って」
「え、そんな人の言うこと信じたの?」
「気持ちは分かる。けど、あいつひどい怪我をしていて、その怪我を負わせたのがさっき離した外国人の連中だって言ってたんだ。あいつは妹が寮に入ってって、それで……」
「もういい!やめて!」
これ以上聞きたくなくて、千佳は無理矢理多聞の言葉を遮った。
「そんな人の言うこと信じたの!?私に何しようとした人か知ってるでしょ?なのに……信じらんない!!」
あの恩人のこと、さぞ確かな根拠があると思ってみればこれである。よもや暴行未遂の男の言うことを簡単に信じてしまうなんて。彼のことをヒーローだと思っていた自分が馬鹿らしくなる。
「俺だって、半信半疑だったさ!でも。そいつ昨日路地で見た外国人の名前知っていたんだ、オバリーって!俺はそんな名前の医者がいることも知らなかった。銘刈が今日あった医者は、昨日見た外国人と同じ容姿だったって言ってたよな?名前も一緒だ。なあ、偶然か?ここまで一致する偶然ってあるか?」
「それは……そうかもしれないけど。でも、あの男の人が言ってたんでしょ?無理だよ、信じられないよ」
偶然、というにはでき過ぎている。でも、根拠にするにはあまりに弱い。しかも、加害者である男が言っていたからだなんて、マイナスにしか働かないではないか。
「わかった、ごめん。でも、気を付けてくれ。それだけ」
「うん、心配してくれたのは、ありがとう」
気遣いには感謝するが、それだけだ。
続けて会話を弾ませる気も起こらず千佳は早々に通話を終わらせる。多聞が心配してくれた――それだけで温かくなっていたはずの心は、すっかり冷め、眠気もどこかに行ってしまう。
「……ほんと、馬鹿じゃないの?」
多聞には言えなかったが、彼のことを馬鹿だとしか思えなくなっていた。いや、馬鹿だからこそ、千佳が困っていても後先考えずに助けに飛び込むことができたのかもしれない。でも、それとこれとは話が別だ。
「あーあ……」
どんなヒーローでも、物事の分別がつかないのではお話にならない。善良故に悪の軍団に騙されて負けてしまうヒーローなんて、千佳は望んでいないのだ。
「切られた……まあ、そうだよな」
ツーツーと話中音だけになった電話を切り、多聞は踵を返す。千佳の家に向かっていた足は、今度は最短距離で自宅へと向かった。とにかく無事だったならばいいさ――自分に言い聞かせてみても、胸のもやもやは消えない。
千佳の言うことはもっともだ。昨日ひどい目に合わせてきた相手の言うことを、簡単に信じられる人間の方が少ないだろう。多聞とて、いつもならば信じない側の人間だ。それなのに、今回に限ってあの男の言を信じてしまうのは、彼の表情にどうしても偽りを見いだせなかったからだ。
だって、そっくりだったのだ。父を亡くした直後の母が、悲しみと絶望に浸りながらも母を支えるべく気丈に振舞おうとした姉が、彼に重なって見えた。妹が戻ってこないだろう事実に直面し、しかし諦めきれずにもがいていた。
「……でも、確かに証拠も無いんだよなぁ」
男を信じたのは、多聞の勘によるものが大きい。物的な証拠は何も無かった。あの怪我だって、いくらでも理由をでっち上げられる。客観的な根拠にはならないだろう。
「ま、何かあったら、きっと連絡してくれるよな」
千佳に言った「何かあったら言え」という気持ちは本心だ。連絡があれば、必ず駆けつけようと思う気持ちは変わらない。ならば、今の多聞には、彼女に何もないことを祈りつつ、見守ることしかできないように思えた。
「……いや、待てよ」
ピンと豆電球が頭上で灯るのが分かった。何もできない、ということはない。むしろ、何も知らない一般人の立場を利用してできることがあるではないか。思い立ったが吉日、多聞は早速スマートフォンで番号を入力した。
「はい、末黒野(すぐろの)総合病院でございます」
「すみません、天使病の患者が入れるっていう寮について伺いたいんですけど」
多聞がひらめいたのは、病院に直接聞いてみるという至極単純な作戦だった。単純すぎて馬鹿らしくなるが、施設について知りたいと思っている一般人が使う手段としては、どこもおかしくない。妙な腹積もりがあるから後ろめたくなってしまうだけだ。
「では、担当の者に繋ぎますので、そのままお待ちください」
やはりきちんと対応部署があるのか。当たり前のことに感心していると、間もなく別の女性が電話に応じた。
「お待たせいたしました。末黒野病院特別外来寮でございます。ご本人様のご利用予定でよろしいでしょうか?」
「いえ、えっと……親戚です。天使病に罹ってしまって、専門の先生がいるこの町に、もうじき引っ越してくる予定で」
よくもまあペラペラと嘘が出てくるものだ。自分で感心してしまう。
「そうですか。でしたら、こちらの窓口は平日は十九時まで受け付けておりますので、ご本人様からご連絡いただければ……」
「あーっと、えっと、実はですね、えっと……」
しまった。考えてみれば、こういう問い合わせを親戚がするなんておかしい。同じ屋根の下に住む家族ならばいざ知らず、違う町に住んでいる程度の親戚が、それも高校生の少年が掛けてくるなんて。勢いで吐いた嘘を、多聞は早々に後悔することになった。
「あ、あの、そちら寮に入ったきり、帰って来ない人がいるって聞いたんですよ!」
苦し紛れの嘘をありもしない噂に変えてみる。他にこのまま電話を切らせない方法を思いつかなかったのだ。
「いえ、私どもの方ではそのような……」
「でも妹さんがそちらに入ったら別の施設に移されて、それっきり連絡が取れなくなってるって人いるんですよ!そういう噂があるところに親戚を入れるのって、やっぱり心配じゃないですか。そこのところ、どうなのかなぁって」
押し切るように畳み掛けると、一瞬だけ電話の向こうの呼吸が変わったような気がした。ごく短く飲み込むような音。噂というのは、今日聞いたばかりの男の妹をモデルにしたでっち上げだが、上手いこと相手の動揺を引き出せたかもしれない。
「ただの、噂ですよ。確かに、患者さんによっては治療のために外国の提携病院への転院をする場合がありますので、そのせいで連絡がつきにくくなっているだけなのでは」
「じゃあ、提携病院ってどこなんですか?」
「…………いたずら電話なら、止めてください!」
沈黙と怒声。どちらが本当の答えかなど明らかだ。裏付けるように、怒鳴る声は多聞の質問には解を出さない。
「教えていただけないんですか?それとも、知らない……知らされていないんじゃないですか?」
「あ、あなたねえ……あっ!」
急に声が遠ざかった。くぐもった音で何者かの会話が聞こえるが、内容までは分からない。
「?……もしもし?」
「……はい、お電話変わりました」
聞こえてきたのは男の声だった。
「え、あ……え?」
「天使病は未だ明らかになっていない部分が多く、症状によって紹介する転院先は違います。なので、一口に提携病院はどこか、とはお答えできかねます」
突然現れた正体不明の男はすらすらと答えを提示する。落ち着いた声はどこまでも滑らかで、人を説得する力があった。しかし、それで引き下がる多聞ではない。ここで引き下がれるほどの覚悟で電話をしたのではないのだ。
「じゃあ、一口じゃなくてもいいです。教えてくださいよ、例えばどこと提携しているか」
「そんなことより、どこで聞いたんですか?」
「はい?」
「この病院から天使病の患者が消えるという噂ですよ。どこで、誰から聞いたんですか?そういうこちらを貶めるような噂をねぇ、やたらめったら流されるとこちらも困るんですよぉ。ねぇ、誰から聞いた?」
ああ、まずい。この声はまずい。丁寧に敵意を見え隠れさせる、知性のある獣の声だ。油断すれば喉元を食いちぎろうとする。
「聞いたのは、う、噂ですよ、ただの!」
本能が鳴らす警鐘に従って、多聞は通話を切る。無意識のうちに喉を撫でていた。じっとりと汗の浮いた皮膚は繋がっている。よかった、食い破られてはいなかった。
「てか、これ、マジかよ……」
半信半疑が確信に変わる。あの病院はおかしい――特に、電話口で出た男。彼だけは確実に何か隠そうとしている。そのためには手段を選ばないだろうという予感があった。
「くそっ、銘刈!」
もう一度スマートフォンを手に取り、悩む。千佳にこのことを伝えても、彼女は果たして取り合ってくれるだろうか。さっき随分と不機嫌にしてしまった自覚はある。きっと、今日はもう聞く耳を持たないかもしれない。
「仕方がない、明日、もう一度……」
だが、間に合うのか。明日の朝までまだ十二時間以上ある。それまでに千佳の怒りが収まっていなければ、多聞には取り付く島もない。何より、相手に先手を打たれてしまったら。
「くっそぉ……!」
悔しさで口の中が乾く。せめて気を紛らわせようと貰ってきたパンに噛み付いたが、まるで味がしなかった。
「末黒野総合病院特別寮ですが、銘刈さんですか?」
「はいぃ、銘刈ですが」
麗らかな土曜の朝、千佳はスマートフォンの着信で起こされた。
「大変申し訳ございませんが、本日お時間ございましたら病院にいらしていただけないでしょうか」
「え、何かありましたっけ?」
「すみません、昨日の診察結果を受けて、精密検査をした方が良いと医師の判断がありまして」
「え、ええ?でも、昨日は何も……まあ、分かりました。行きます」
何も言われなかったのに、今日になって何事だ。けれど、病気のこととなれば話は別である。万が一があっても面白くない。千佳は渋々と起き上がり、出掛ける準備を始めた。
「お待ちしておりますね。病院の方ではなく、直接寮にお出で下さい」
「?……分かりました」
検査ならば施設が揃っている病院側に行くべきではないのだろうか。もしかしたら、今日が土曜日だから、平日と対応が違うのかもしれない。僅かな疑問はすぐに霧散し、千佳の心に残ることはなかった。
「銘刈ですー、こんにちはー」
「お待ちしておりました。突然で、申し訳ございません」
昼前には寮の受付にやって来た千佳は、すぐに応接室のような部屋に通された。まるで待ち構えられていたように、ソファーに座るまもなく昨日の医師が、オバリーが現れる。
「あの、先生。私、精密検査が必要なんですか?」
挨拶もそこそこに本題を切り出すと、オバリーは彫りの深い顔に、さらに深く影を落とした。
「ええ、そうです。できれば、より施設の整った病院への転院をお薦めしたいのですが、その、場所が……」
「遠いんですか?」
「提携病院はアメリカにあるんです」
「……アメリカ?」
突然国境を超えての転院の話を持ち出されても、千佳には答えを出せない。戸惑う千佳を見つめるオバリーは話を続けた。
「天使病の患者は、日本だけにいるのではないのです。世界中でこの病気の解明は行われていますから、何も心配はありませんよ」
「あ、はい。そうだとは思うんですけど、あの、ちょっとアメリカは……」
遠すぎる、と続くはずの言葉は千佳の喉から飛び出すことはなかった。オバリーの目のせいだ。くすんだ青色の目玉が二つ、獲物を見定めるような鋭さで見つめている。医師のする目ではなかった。
「ところで、銘刈さん。この寮に関する噂を聞いたことがありますか?何でも、寮に入ったきり行方不明になってしまうとか……根も葉もない噂ですが」
オバリーの声が低くなる。
「いいえ、知りません……」
半分は嘘だ。噂ではなくとも、昨日同じ話を多聞から聞いている。どうして目の前の医師が同じ話題を持ち出してきたのか、真意を測りかねる。
「そうですか。昨日、高校生の男の子がその噂をもとにいたずら電話をかけてきまして、ひょっとして、銘刈さんぐらいの年齢の間で流行(はや)っているものなのかなぁ、と、ねぇ」
粘着く声が耳にまとわりつく。この声は嫌だ。誰かを陥れようとしている、それを隠そうとしない人間の声だ。
「銘刈さん、どうして黙るんですか?」
微笑むオバリーの顔が怖い。笑顔は完全に仮面だ。わざわざ仮面で隠すその下に何があるか、千佳にさえ透けて見え始めている。
「……質問を変えますね、銘刈さん。私、そのいたずら電話の声に聞き覚えがあるんですよ。ねえ、どういうことか分かりますか、銘刈さん」
「せ、先生は……やっぱり、一昨日……!」
「……やはりあの時邪魔してきた子供か」
「!」
しまった。まだオバリーは多聞が――あの路地で千佳を助けた少年が、いたずら電話の犯人と同一人物だと確信していなかったのだ。さも「自分はもう気付いているのだぞ」と思わせる態度を見せて、答えを得ようとし、結果、千佳はまんまと彼の望む反応を返してしまった。
多聞が危ない。思うが早いか、千佳は出口へと駆け出した。
「待て!おい、誰か!患者が逃げる!」
オバリーの声に応じ、複数の足音が追ってきたが、捕まるわけにはいかない。
だって、本当だったのだ。多聞の言っていたことは。ならば、捕まれば体のいい人質になってしまうし、その後、どんな目に合わされるかも分からない。
(ごめんなさい、ごめんなさい……)
届かない謝罪を唱えながら、ガラス戸の向こうを目指す。表に出てしまえば。人目をはばかるようなことはできないはずだ。運がよければ、追うのを止めさせられるかもしれない。それだけを希望に、千佳は走った。
「あと、少し……あっ!」
ガラス戸から半身を出したところで、腕が掴まれる。
「大人しくしなさい!」
「大丈夫よ、不安にならなくても。私たちがサポートするし、先生も一番良い治療を考えてくださるからね!」
「いや!放して!」
違うのに、違うのに。逃げたいのは病気からではない。
必死にガラス戸を掴み、体を外に押し出そうとしても、複数の大人に引っ張られては多勢に無勢。もう多聞に謝ることすら叶わないかと諦めかけた、その瞬間だった。
「銘刈!!しっかり掴め!!」
「宮下くん!?」
あの日現れたヒーローは、再び千佳の目の前に現れた。
千佳を捕まえる腕を振り払い、代わりに多聞が彼女を手を引く。外へ外へ、門の脇に停めてある自転車に向かって二人は走った。
「乗れ!」
「うん!」
年季の入った自転車の二台に千佳を乗せ、多聞は力いっぱいペダルを漕ぎ出す。戻るよう呼ぶ声がまだ聞こえるが、決してスピードは落とさない。車で追いかけられたら、勝ち目はないのだ。
「どうして、宮下くんがここに!?」
「昨日、あの後やっぱり心配になって、今朝電話したんだ」
「電話?あ、そうか、私……」
病院のような携帯電話の電源を切ることが推奨されている施設では、千佳はスマートフォンの電源を切っていた。多聞の着信にも気付きようがなかったのだ。
「そう。電話の電源なんて、滅多に切らないだろ?でも切れてた。だから、銘刈は病院とか電源を切らなきゃいけないような場所にいるって思ったんだ」
そして、多聞の予想は見事に的中したというわけだ。
「宮下くん、ごめん。昨日、心配してくれたのに、私……!」
「気にするなよ。俺だって悪かったんだ、急にあんなこと話してさ。困らせたよな、ごめん」
「ごめんね、……ごめんなさい」
「うん、うん。そういうのみんな、後でな」
「え?」
ホイールの軋む音が大きくなり、多聞の漕ぐ力が増したことを訴える。それに気付いた千佳が振り返ると、背後から一台の車が迫るのが見えた。
「っ……!?」
「頑張ってぇ、振り切るから!」
「……うん!」
飢えた獣のように執拗に追ってくる。追われている事実は恐ろしかったが、背中にしがみつく千佳を思うと、恐怖も吹き飛ぶ。怯えている場合ではない。自分がかん貼らなければ、誰が千佳を救うのだ。強烈な使命感が多聞を突き動かした。
「あ、あ……ダメ、宮下くん……っ」
「ううっ、ぐうっ」
けれど、追っては存外しつこかった。お互いにホームグラウンドのせいで、狭い路地で撒いたと思っても、違う道から追いかけてくるのだ。人通りの多い道では、車も自転車も走行を阻まれてしまい、思ったほど引き離すことができなかった。
必死に走り回る多聞の体力は、限界に近付いていた。額にも背中にも汗が流れ、ハンドルを握る手は今にも滑りそうである。千佳の声にも、まともに返事ができないほど呼吸も荒くなっていた。
「くそ、これで……!」
再び狭い路地に滑り込む。比較的長い路地の先、回り込むまで時間がかかることを見通した最後の作戦だった。早く早く。作戦を成功させるためには、速度を落としてはならないのだ。痛む足を叱咤し、最後の一漕ぎをした瞬間、路地の出口に迫る自動車が見えた。
「……ごめん、銘刈」
助けられなかった――諦念の溜息を吐く。
「ううん、いいの……ありが、」
キキイイイイッ、ガシャン!
千佳が最後に多聞に伝えるはずだった感謝は、鋭いブレーキ音と金属同士が激しく衝突する音でかき消された。
「え!?」
「な、なに!?」
自分たちを追っていた車が、目の前で弾き飛ばされる。横っ腹に突撃した車もろ共ひしゃげ、多聞たちの道が開けたのだ。何というタイミングだろう。しかし幸運に喜ぶ暇はない。この隙に少しでも逃げなければ。
「どいて!どいてください!すんません!」
突然の交通事故。当然のように集まる野次馬に自転車で突っ込む。「なんだ!」「危ないじゃない!」と人だかりから文句が飛ぶが、構うものか。時に人にぶつかり、人の足を轢きながら、多聞は漕ぎに漕いでとうとう自宅にたどり着いた。
「ここ、宮下くんち?」
「ああ。取り敢えずあがって」
千佳の家は病院にもう知られているはずだ。その可能性を考えて、多聞は自分の家へと千佳を招き入れた。
「お邪魔します……?」
居間のソファーに腰掛けた千佳が、襖の向こうに視線を投げる。開け放たれた仏間に、父の遺影を見つけたのだ。
「……宮下くんのお父さん?」
「うん、中学の時、事故でさ」
千佳は仏前で手を合わせ、目を閉じる。
「宮下くんに助けてもらいました。宮下くんのお父さんにも、ありがとうございます」
「……」
家族親族以外が父に手を合わせるのは初めてで、多聞は少し気恥ずかしくなる。嬉しいような、女の子の友達を思いがけず父に会わせてしまったような……。
「お、お茶淹れたから」
自分をごまかすように魔法瓶の中から湯を注ぎ、来客用のカップにお茶を注ぐ。
「ありがとう。……何か私、宮下くんにお礼言ってばっかりだね」
「いや、俺にできるのって、これくらいしかないし。ってか、これからどうするかとか、考えてないんだ」
問題はここからだ。このままでは、いずれ見つかるのは時間の問題である。できれば、千佳だけでもどこか安全な場所に移動させなければ。
「銘刈、家族の人に連絡は……」
ピンポーン!
突然、電子音が割って入る。いつもより鋭く聞こえる音に、思わず多聞も体を震わせた。
まさか、見つかった?もう?ならば、どうする?――多聞の頭が一気に回転し、けれど状況を打開できるアイディアは一つも湧いてこなかった。
「……宮下くん」
不安げな千佳は、体を小さくして多聞を呼ぶ。どうしようか。彼女の目は雄弁に問いかけていた。
「見てくる。ここにいて、俺が危ないって叫んだら、裏口から逃げろ」
「やだ!一人で逃げたって、どこにも行けないよ。一緒にいてよ、宮下くん、一緒がいいよ……!」
「……分かった」
正直、相手が複数で襲いかかってきたら、多聞にできることなど何もなかった。だが、千佳が、他に頼るもののない女の子がそう願うのならば、何をしてでもその願いを聞き届けたいと思うのだ。
それが、かつて多聞を支えた姉や母の姿を真似たものなのか、あるいは千佳への特別な思いがそうさせるのか、多聞には分からなかった。もとより、考えるほどの余裕も無いのだが。
「どちら様ですか?」
覗き穴から伺うと、ドアの前に二人組の婦人が立っているのが見えた。小柄で上品な笑みを湛えた、どうみても日本人の女性だ。それが、多聞を油断させた。
「宮下さんですか?すみません、町内会のお知らせで……」
「ああ、はい」
僅かに開けた隙間に、二十本の指が差し込まれる。
「ひっ!?」
突然外から滑り込んだ二人分の手。驚き飛び退く多聞を余所に、婦人の一人がチェーンを切断し、宮下家の内部へと侵入を果たしてしまった。
「なんだ!お前らもしかして……!」
近所のおばさんというには、あまりに良い手際だ。先の状況と合わせて、彼女らを追っ手だと判断するのは至極自然な流れだった。
「突然の訪問、申し訳ございません!」
「私たちなりに、お助けできることがあればと思ったのですが……!」
全身を強ばらせ臨戦態勢に入った多聞の目の前で、婦人二人は深く頭を下げる。それはもう勢いよく綺麗に腰から九十度曲げた、完璧なお辞儀だった。多聞の勢いを削ぐ程度には完成されていた。
「え、えっと……あんたたち、オバリーの仲間……?」
「まさか!」
「いいえ!」
お辞儀をした時と同じ勢いで頭を上げた二人は、多聞の問いを即座に否定した。
「じゃあ、一体なんなんですか?」
違うと言われても、正体不明の女二人だ。怪しいことには変わりない。どうしようかと考えあぐねていると、背後で千佳の気配がした。
「宮下くん?その人たちは……あ!」
「まあ、ご無事でしたか!」
婦人の一人が千佳に反応する。千佳も彼女に覚えがあるらしく、困ったように玄関口の三人を見比べていた。
「……知り合い?」
「ううん、全然」
「昨日、町でお話させていただきましたね」
否定する千佳を前に、婦人ははっきりと関係を明言する。聞けば聞くほど、知り合いと呼べる間柄ではなさそうだ。
「話しましたけど、でも、何の用なんですか?私、あの時お断りしたはずです」
不機嫌を隠さない口調は、やはり親しい人間に放つものではない。
「気をつけて、宮下くん。その人たち、変な宗教の勧誘よ」
「じゃあ、やっぱり……!?」
再び身構えた多聞へ、パンフレットが二部差し出される。『神の王国への道』『覚醒せよ』――大きなゴシック体が表紙を彩るそれらを、多聞さえ見たことがあった。
「え、と……『神の王国の使徒協会』……?」
「はい、ご覧になったことがありますか?」
「ありますかっていうか、町でよく配ってますよね?あと、こうやって訪問してきたり」
キリスト教の一派を自称する『神の王国の使徒協会』は、独自に解釈された教義や宗派としての信条を綴ったパンフレットを配り歩いている。パンフレット自体は悪くない出来なのだが、とにかく挿絵がおどろおどろしく、子供や保護者の間では評判が悪い。突然訪問してくる布教のスタイルも嫌われていた。
「……まさか、あんたたちは銘刈を勧誘しに?」
「いいえ。私たち『神の王国の使徒協会』は、そこのお嬢さんを……銘刈さんの保護し、『KIK(ケー・アイ・ケー)』との全面対立を決めたことをお伝えに参りました」
「ケー、アイ、ケー?」
千佳も多聞も、何を言っているのか分からずに顔を見合わせる。
「立ち話も何ですから、奥でお話させてください」
「ここ、俺んちなんですけど。……まあ、どうぞ」
それなりの図々しさで上がり込んだ二人組に辟易しないわけではないが、先ほどの言からすると、千佳の味方になってくれる可能性がありそうだ。よしんば何かあっても、女二人ならば対抗できるだろうと踏んで、多聞は突然の来訪者を居間に上げた。
「私は戸来(へらい)と申します。銘刈さん、昨日はきちんとお話ができず、申し訳ありませんした」
「?……昨日のあれですか?勧誘ではなかったんですか?」
「はい。本当はあの時、この町で活動を活発にしているKIKについて、それから私たし王国の使徒協会がKIKと対立する立場になることをお話しようと思っていたんです」
「そのKIKって、何なんですか?」
「KIKはクー・クラックス・クランに発する白人至上主義団体の生き残りのようなものです。複数ある分派のうちでは小規模ですが、最も過激な集まりで、二十世紀初頭の強硬で過激だった頃の思想を受け継いでいます」
「……それが、この町で天使病の患者を襲っている連中の?」
「そうです。宮下さんは既にご存知だったのですね」
先日男から聞いた『白人至上主義の連中』が『KIK』という名前を得た。
「ならば、知っているかもしれませんが、彼らは天使病の発生を終末の、この世界の終わりを告げる予兆と見なし、羽が生えてきた患者こそが終末のラッパを吹く天使だと信じているのです」
「ラッパ?」
「世の終末を告げる時、天使が吹くと言われています。ラッパが吹かれると、大地や海を破壊し、時間を狂わせます。そして、キリスト教における神が世界を支配したことを知らしめる、と。いわゆる黙示録に記されているのです」
「……めっちゃくちゃだな」
思わず率直な感想を漏らす多聞に、戸来は苦笑いを見せた。キリスト教を信じてはいるが、やはり破天荒な内容だと思う部分はあるらしい。
「問題は神が世界を支配する時、異教徒や認められざる信者たちを滅ぼすとされていることです。銘刈さんは、キリスト教徒ではないですよね?」
「はい」
「あなたと同じように、キリスト教にとって異教徒となる中から天使が出てしまうことを、KIKは危惧しているのです。彼らは『異教徒と有色人種は人間にあらざる』と常に唱えています」
「つまり、異教徒の天使が終末を告げた場合、KIKにとって人間ではない人間が生き残ってしまう?」
「彼らはそう考えています。終末の時、自分たちが神の支配する世界の住民として選ばれないかもしれない……それを恐れた彼らは、異教徒と有色人種から天使が出てこないように天使病の患者らを葬ろうとしているのです」
「……あの、いいですか?」
今まで黙って話を聞いていた千佳が、戸来に問いかけた。
「あの、それをどうしてあなた方が知っているんですか?KIKにとっては、戸来さんたちの集まりが同じキリスト教系だとしても……戸来さんたちは日本人ですよね?」
「私たちは日本人ですが、神の王国の使徒協会は世界中に同志を持つ、KIKよりもよほど大きな新宗派なんですよ。この話も、アメリカにいる同志から聞かされたものです。KIKから、手を組まないか打診があったそうです」
「それで、ここに来たということは……?」
「私どもは全面的にKIKには協力をしないことにしました。確かに、お互い主流派のキリスト教からは異端扱いされることもありますが、だからと言って、彼らのやり方に賛同などできません!主の言葉を信じ行動する者こそが神の王国に相応しいのであって、人種で選ばれるものではありません!彼らのやり方は主への冒涜です!」
よほど怒り心頭だったのか、戸来は語気を荒げながら告げた。
「とは言え、はっきりそう態度に出してしまうと、彼らを刺激しかねません。なので、まだKIKの息のかかった施設に入る前の患者に、密かに注意を促し、できればどこか安全な場所に身を潜めていただこうと思っていたのですが……昨日は、失敗でしたね」
「あれは……ただの勧誘でしたね」
千佳の鋭い一言に、戸来は本当に申し訳なさそうに頭を下げた。
「その点は本当に……今日、逃げるのをお手伝いするため、車一台使ったことで、どうにか勘弁してください」
「車?あの衝突事故の?」
「はい。お二人の乗った自転車をオバリーたちが追跡しているのを見つけ、どうにか邪魔しようとした結果、あれしか思いつかなくて。後処理は別の同志に任せ、私たちは宮下さんの自転車を追って、ここまでたどり着きました」
多聞と千佳は顔を見合わせる。視線が合えば、考えていることは同じだと分かった。
あの幸運な事故は、戸来たちが仕組んだものだったのだ。戸来をどこまで信じていいのか迷っていたが、車一台を犠牲にしてでも千佳を逃がしてくれた事実を知り、少しだけ戸来たちへの信頼が生まれる。
「やっぱり、この町からは出て行った方がいいですか?」
千佳が戸来に具体的な意見を求める。恐らく、彼女も戸来を信じても良さそうだと思っての質問だろう。
「可能であればそうするべきです。少し前、この町で天使病の患者が増え始めているというデータが発表されてから、少しずつKIKのメンバーが増えきているように感じます」
「そうですか……」
「KIKそのものが数千単位の小規模なグループなので、この町に限定して人を集めているとすれば、その分他の地域で活動する人数は減りますから」
「……」
千佳の顔に影が落ちた。引っ越してきたばかりなのに町を出た方がいいと言われてしまっては、やるせないだろう。何より、彼女の父親はこの町にあるリニアコライダーのためにわざわざ越してきたのだ。そうそう簡単に町を離れられるとは思えなかった。
「そうだ、連絡先をお伝えして……」
ピンポーン!
戸来が鞄の中からメモを取り出そうとした時、本日二度目の来客を呼び鈴が告げる。
「……ちょっと、見てきます」
「気をつけて。知らない人なら、無視してください」
言われるまでもない。しかし足音を忍ばせて玄関ドアに張り付いた多聞が見たのは、二人組の警官と、スーツ姿の男の姿だった。何となく見覚えのある顔立ちなのだが、名前も思い出せない。
「宮下さーん、末黒野病院そばであった事故について、お話聞かせていただけませんかー?宮下さんのところにある自転車、接触事故を起こした車のすぐそばにあったっていう証言があるんですよー。宮下さーん」
どうしよう。玄関先で呼びかける警官を、果たして家に上げてもよいものだろうか。見た目は完全に制服警官で、警察手帳もドア越しに提示されている。けれど、それらが全て偽物だったら?もし、オバリーたちの仲間だったら?
「……今、開けます」
しばしの逡巡の後、多聞はドアを開けた。本当に警官だった場合、協力的な態度を見せないと後々面倒なことになると判断したからだ。
「宮下さんですか?ちょっと中で事故についてお話伺っても?」
「はい。まあ、中にどうぞ」
今日は妙な来客が多い日だ。だから仕方がないんだ――自らに言い聞かせながら、千佳たちが集まっている居間へ警官を案内する。彼女らも先の事故には無関係ではないし、都合がいいだろう。
「銘刈、お巡りさんが来た。さっき病院のそばであった事故について知りたいって。えっと、俺以外にここにいる人もさっきの事故見てるんで、参考になると思います」
お巡りさんという単語で、居間にいた女性陣の表情に緊張が走った。一斉に多聞と、彼に連れられてやって来た三人を見る。
「え、どうして、知事が?」
来客の一人、警官ではないスーツの男を見留めて、戸来が目を丸くした。
「知事?……あ、そういえば」
さっき男の顔立ちに覚えた既視感。その正体が分かった。市の広報や、選挙時期にポスターで見た顔なのだ。何故か警官と共に現れた県知事へ、その場に居合わせた皆が好奇心の眼差しを注ぐ。
「すみません、まずは、事故についてお話していただけますか?」
皆の視線を知事から逸らしたのは警官の二人組だった。このまま事故の話題が流れてしまっては困るらしい。それはそうだろう。
「……何があったか、最初からお話してもいいですか?」
最初に応じたのは千佳だった。「最初から」ということは事故の前、一体何があったのか全て話すつもりなのだろう。そうしても良いか確認するように、千佳は一度多聞に視線を投げた。勿論、反対する理由はない。
「事故に関係することならば、全部お聞かせください」
「実はあの時……」
千佳はどうしてあの場に多聞の自転車が通ったのか、ひいては、何故多聞があそこにいたのか全ての理由を話した。実際の事故を起こした車と搭乗者については、戸来が「知り合い」として時々口を挟む。話せば長くなってしまう今朝の出来事を、訪問者三人は静かに聞いていた。
全てを話し終わった千佳は、警官ではなく知事に向かって懇願する。
「お願いします!あの人たちを町から追い出すような……あるいは牽制する手立てを立てていただけませんか?」
深く頭を下げる千佳の手は、膝の上で震えていた。痛ましく握られ、血の気を失ったこぶしを多聞はただ見つめることしかできない。
「……辛かったね」
老いた手が震える千佳の肩に触れる。優しく労わる所作をしながら、しかし知事は首を横に振った。
「……申し訳ないのだけれど、君の希望は叶えてあげられないんです。何一つ……」
よもや、県民を守るはずの知事がそのようなことを言うとは思わず、多聞と千佳はお互いの丸くなった目を見た。戸来も驚きを隠せない。
「どうしてですか!?彼らの思想は異常です!勝手な差別意識や宗教的な理由で、多くの天使病患者が知らない内に危険な目に合わされているんですよ!?」
「そうです!お話したように私も、いえ、事情を知った宮下くんだってどんな目に合わされるか……!患者だけの問題ではありません!!」
言い募る千佳たちに、知事はただただ頭を下げた。
「分かっています。けれど、末黒野のリニアコライダーは国家事業の一つなんです。宇宙の発生、素粒子の解明、物質と反物質……そういうもののために、既に何億もの予算が費やされています。実験を成功させるために、今はどうしても国内外の研究者たちに軋轢を生じさせられないのです。どうか、一段落するまでは……」
「そんなもののために、私たちを見捨てるんですか……?」
「詳しくは話せませんが、どうしても、途中で投げ出すわけにはいかないのです。そして、非常に急がれていることでもあります。これも何人もの人を助けるための国家プロジェクトなんです」
「何万人って、なんだよ!」
黙って聞いていた多聞は、ソファーの肘掛を叩いて立ち上がる。掴みかからんばかりの勢いで知事に迫る多聞を、傍らで控えていた警官が制した。
「知ってるんだぞ!末黒野市に研究職の人間が外から流れ込んできて、一時的に町が潤っていること!確かに、そうすれば死に体だった外食産業の人間は助かるかもしれないけど、大事なのはそこじゃないだろ!?結局、経済効果とか、そういうことしか考えてないんじゃないか!!」
多聞は知っている。リニアコライダーの設置に賛成した住人の中には、産業のない末黒野を『学業都市』『研究都市』として売り出したい層や、外国人の流入による経済効果を期待する層が少なからず含まれていることを。実際にリニアコライダーが出来、希望通りの結果になった彼らは、皆ほくほく顔だ。
確かに、リニアコライダーは町に大きな利益をもたらした。けれど、それと人命とを天秤に掛けて金を選んでしまうなど、愚の骨頂である。
「日本だけではない。リニアコライダーによる宇宙の解明は、世界を……」
「もういいっ!」
何を言っても無駄だ。最早、知事の言葉はこれ以上聞く価値もない。
「……帰ってください。事故のことは、もう話したからいいでしょう?」
「……ああ」
何度も頭を下げる知事と一緒に、警官らも立ち上がる。また必要があれば聞き取りに協力してもらうかもしれない、ということだけ言い残して、彼らは帰っていった。彼らが帰っていくのを見送ってから、何かあったら連絡してほしいと連絡先だけを残し、戸来たちも宮下家を後にした。
ひどく疲れた――玄関のチェーンは壊されるし、とんでもない事態に巻き込まれるし、とんだ土曜日である。けれど、千佳の方がもっと大変だ。自分だけ疲れているわけにはいかないぞ。多聞は両頬を軽く平手打ち、気力を高めようとした。
「銘刈、とりあえず親父さんに電話して、迎えに来てもらえないか?」
「……お父さんは、無理だと思う」
安全な帰宅のための第一案は、ゆるく首を振って却下される。
「土曜も仕事なのか?じゃあ、お袋さんは?」
「お母さんは……一緒に、暮らしてないから……」
「そっか、……ごめん」
父親のいない多聞、母親のいない千佳。不思議な共感は、千佳をより近くに感じさせる。こんな状況なのに共感で胸の内が満たされるなんて――多聞は勝手な自分を責めた。
「無理かもしれないけど、親父さんに電話してみたら?仕事中でも、緊急の場合なんだし」
「……そうだね」
場合が場合だ。それは千佳もわかっているらしく、多聞に促されると少し躊躇う様子を見せながらも、スマートフォンでアドレスを呼び出した。
「……あ、お父さん?私だけど……」
緊張した面持ちで耳にスマートフォンを当てていた千佳は、しばらくの後、大きな溜息と共に通話を終了させる。
「はー……迎えに来てくれるって」
「よかったじゃん!」
「うん」
穏やかな笑顔が千佳を彩る。今日初めて見せる緩んだ表情に、多聞も自然と笑顔になった。よかった。やはり確実に保護してくれる相手がいるということは重要だ。父親への連絡を躊躇っていた千佳のこと、電話に父が応じた上、迎えにまで来てくれるという結果は、彼女にとって意外だったのだろう。
「言ってみるもんだろ?家族だもん」
「うん、うん。そうだね。よかった、嬉しい……」
両手で包んだスマートフォンを宝物のように見ている千佳。その姿が、多聞の胸を痛めた。お互いに唯一の家族であるというのに、千佳は父親をとても遠くに感じていたのだ。
父親を亡くし、仕事に打ち込む母と外国で家庭を築いた姉を持つ多聞だが、離れているのは物理的な距離だけだ。心だけはいつも近くにあると思っている。千佳にも同じように父親の心を少しでも近くに感じてもらえたことを、多聞は素直に嬉しく思った。
間もなく迎えに来た車に乗り込む千佳を送り出しながら、多聞の長い土曜日はようやく終わる。濃い一日を過ごし、僅かに残された気力を振り絞って居間のソファーに転がった。
「お父さん、私、病院の寮には入らないわ」
車に乗って開口一番、千佳は父に宣言する。
「どうしたんだい、急に……」
「この町、変な外国人がいるの。すごい差別主義で、日本人の天使病患者を狙っているのよ。病院で天使病の患者を診ている先生も……」
「千佳」
今日何があったのか、言いかけた千佳の言葉は遮られてしまう。父がこちらを見ないのは、運転をしているからだと思いたかった。
「千佳、そういうことを言うのはやめなさい」
「え……?」
「確かに、この町は色んな国から人が集まっているけれど、それはリニアコライダーという世界に片手で数え切れるほど少ない高度な施設を利用するためだ。分かるかい?皆、それぞれの国を代表するほど教養のある人間なんだ。そういう人たちは、差別的な振る舞いをすることが教養のある人間のすることではないときちんと知っているんだ。勿論、内心でどう思っているかは分からないけれど、表に出したりはしない」
「でもそういう人たちがいるの!今日だって、宮下くんが助けに来てくれなければ私……!」
「……新しい友達ができたのは、よかったね。ともかく、相手がどうあれ、態度に出さず毅然としていなさい。下手に怯えたり、過剰に反応する方が目をつけられてしまう」
「そういうこと言ってるんじゃないわ!!」
キッとタイヤが擦れる音がして、車が停まる。丁度、家に到着したのだ。
「お父さん、聞いてよ!」
「聞いているよ。けれど、今は彼らを下手に刺激できないんだ。お父さんの仕事にも係わる……分かってくれ、とは言わないが、聞き分けてくれ」
さっさと車を降りた父は、千佳に先立って家の中へと入ってしまう。彼は、やはり娘を振り返ることはなかった。
「……どうして?……やっぱり、だから……お母さんだって……」
泣くことも怒ることもできず、部屋にこもって蹲る。父を見放した母を、かつては冷たいとか現実的に考えられない人なのだとか思っていたが、今ならばどうして母が離婚したのか分かる。父の人生において、仕事の比重があまりにも大きいのだ。千佳の中学卒業を待って離婚を告げた母は、どちらについていくか決めるよう告げ、千佳は父を選んだ。単純に、今後の経済的な利点を考えれば父を選ばないなど、かつての千佳には考えられなかった。しかし、今日初めて、自分の選択を後悔していた。
「……お母さん……」
アドレス帳に眠っていた番号を探し出す。すぐに電話に出てくれなくてもいい。けれど、かつての母の気持ちをようやく千佳が理解できたのだと知って欲しかった。プルルルル、呼び出し音が途切れる。
「あ、お母さん、私……」
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。番号をお確かめの上、もう一度おかけ直しください」
電子音が定型文を読み上げた後、通話は切れた。
「番号、変えちゃったんだ……」
きっと、今一番気持ちを分かち合える相手は、もう千佳の手の届かないところにいる。二年越しに知った事実は、千佳をひどく打ちのめした。
だからだろうか、今日の夕方、多聞から意外な誘いを受けた時――スマートフォンに届いた『イタリアにいってみないか』というメッセージを見た時、千佳は抵抗なく是と答えた。
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