第8話 体育倉庫

 梅雨に入ってから何度目かの本格的な雨。無数に降り注ぐ雨粒が、グラウンドの表面をぼやけさせていた。

 当然のことながら、屋外に出ている生徒は一人もいない。ボールを蹴る音もなく、檄を飛ばす先生の声もなく、ただただ雨音がうるさく鳴るだけだ。

 ここは、校庭の片隅に設置された体育倉庫。この雨の中、こんな場所にやって来る生徒や先生なんているはずがない。

 だから、ここは都合が良かったのだろう。

 明かりはついていない。窓から光が漏れれば、中に人がいると勘付かれるからだ。

 サッカーボールが積み込まれたワゴンや、埃っぽい臭いを放つマット。ラインマーカーと並んで置かれた石灰の袋は、中途半端に口が開いている。

 体育倉庫のこういった雰囲気っていうのは、どこの学校でも変わらないものだろう。出入口が閉められていると、どうにも空気が良くない。

 なぜ俺が体育倉庫にいるのか。その理由は、突然のことだった。

 今日の最後の授業が終わって帰ろうとした時に、矢田部から声をかけられたからだ。こいつに呼び出される用件なんて、また例の“勧誘”というやつ以外に思いつかない。

 しかし、こいつに反発をすると、それこそ俺の周囲に何か手出しをされる恐れがある。だから俺は、呼び出しに応じることにした。

 そうしてやって来た体育倉庫だったが、ここにいるのは俺と矢田部の二人だけ。

 一体どういうつもりなんだ? もしかしたら今日は、矢田部本人が直接殴りに来るんじゃないかと思って身構えた。

 俺の思いをよそに、矢田部は落ち着いた様子で六段重ねの跳び箱の上に座り、足を組んだ。

「矢田部、話ってなんだよ?」

「なあ相葉、こないだは痛かっただろ?」

 無言のまま、矢田部の視線に自分の視線を重ねていると、矢田部は「なんか言えよ」と鼻で笑った。

「お前、最近時任と仲良しみたいじゃん? 時任から俺について、何か言われてるの?」

「は、はぁ? お前のことなんか何も聞いてないよ」

 そう答えると、矢田部は少し満足そうに口角を吊り上げた。

 大丈夫か? 今の俺の受け答えで、カナデさんが狙われるような要素は何もなかっただろうか?

「だよなー。実はさ、瀬名中出身のやつが一組にもいて、俺の悪口を言っていたみたいなんだけどさ…………そいつがこないだ、“突然学校を辞めちゃった”もんだから」

 その言葉を聞いて、俺はカナデさんから聞いていた矢田部に関する話を思い出した。

「心配なわけよ、同じ中学出身の俺としては。まだ入学して間もないのに、時任まで学校に来られなくなるなんて、悲しいじゃん?」

 それだけは同感だ。こんなやつに目を付けられてカナデさんが何かしらの被害を受けるなんてこと、あってはいけない。

 憂さ晴らしのように俺を殴るでもなく、カナデさんとの間柄を話題にする理由とは。

 たぶんこいつは、俺と矢田部との立ち位置というものを明確にしようとしているんじゃないだろうか。

 優位なポジションにいるのは自分であるということを認識させ、俺に今後の身の振る舞いを改めて見直させようとしているのかもしれない。そんな気がしたのだ。

 だったら、今この場においての態度で、俺の周りにいる人達を守れるかもしれない。

 俺にできることは、予防線を張っておくことだ。

「矢田部、俺はお前に刃向うのが怖いよ」

「ふーん、なんで?」

「お前が何するか分からないからだ。俺が気に食わないって理由で、カナデさんに何かするんじゃないかと考えると怖いんだよ…………なあ、教えてくれ。俺の何が気に入らないんだ? 反省する、直せるもんなら直す。やっぱり食堂で入部を断ったからか? あれは確かに俺が悪かったんだ。だからきちんと謝りたい」

「おい、随分と情けないこと言うじゃないか」

「あの時は別のことで気が立ってたんだ。許してくれないか、悪かったよ」

「ふーん…………じゃあ、俺が学校辞めろって言ったら辞めちゃうの?」

「…………ああ、辞める」

 矢田部の顔は意外にも無表情だった。もっと優越感に満ちた笑いを浮かべるものだと思っていたのに、俺の予想は大きく外れた。

「ふざけんなよ。お前が辞めたら刈谷も辞めちゃうだろうが。あいつ、部活でも結構有望視されてるからさ、抜けられると困るんだよ」

「は? 辞めないだろ。辞める理由がないよ」

「どんだけバカなんだ、お前。お前を追いかけて辞めるだろ。」

「…………じゃ、じゃあ俺が説得するよ」

「刈谷かわいそうだな…………お前は時任への手出しを心配してないで、自分の彼女をもっと見てやらないといけないんじゃないか?」

「…………ツバキは彼女じゃないよ、関係ないんだ。第一、あいつには彼氏がいるって聞いたぞ」

 そう言うと、矢田部が驚いたように目を見開いた。これもまた意外なリアクションだった。

「…………誰から聞いた?」

 なんで驚いているんだ、こいつ。矢田部の不可解なリアクションには、一体どういう意味があるんだ? ツバキが彼氏を作ると、こいつにとって不都合だとでもいうのだろうか。

 ツバキが誰かと付き合っているらしい話は、確か氷室さんに聞いたことだった。ツバキが校舎裏で男子生徒と抱き合っていたと、病院に行くバスの中で聞かされたんだ。

 だが、素直にそんなことを教えても大丈夫か? 矢田部にこれ以上、俺の身の回りを知られるというのは、その情報量の分だけどんどん弱みを握られるも同然のような気がする。

 これは俺と矢田部との問題なんだ。ツバキやカナデさんはもちろん、氷室さんまでも巻き込むわけにはいかない。

「た、たまたま聞こえてきた噂話だよ」

「…………時任だろ?」

「はあ? 違うよ」

「あいつ、結構いろんな噂話を知ってるからな。中学ん時だって校内新聞とかで余計なことまで記事にするやつだったし、一組のやつ同様に俺のことをあれこれ言っていないわけがない。昔からうっとうしいんだよ」

「いや、俺が聞いたのは本当にたまたま立ち聞きしただけだし、それにカナデさんはお前のことなんて何も言ってない! 本当だ!」

 しかし、矢田部は未だに半信半疑の様子で、しばらく考えるように眉をひそめた。

 それから短く息を吐き出すと、「ま、いっか」と言って言葉を続けた。

「それにしても、お前ってずいぶんと時任にご執心なんだな。カナデさんとか、名前で呼び合う仲かよ」

「違うって」

「じゃあなんだよ、その庇いようは。ずいぶんと必死じゃねーか」

 そんなんじゃない。俺がカナデさんを守りたいと思うのは、矢田部が思っているような理由じゃない。

「カナデさんは――――」

 そう、カナデさんは、俺に勇気をくれた人だから。

 彼女は言っていた。人生におけるチャンス、ピンチ、良いこと、悪いこと、それ等は他人がいてこそ自分の身に起こることだって。

 彼女は俺にとって、そういうきっかけをくれる“他人”だったんだ。

 俺には長いこと怖がってきたこと、逃げてきたこと、無関心を貫いてきたことがあった。

 だけど彼女は、怖がっても大丈夫、逃げることなく、向かいあうことが大切だと言った。

 本当は助けてほしいくせに、声をかけてほしいくせに、そうされることを待っているくせに、自分の過去を理由にしてあえて全てを拒絶していたのが俺だった。

 ツバキや両親がどんなに声をかけてくれても、俺の過去を知る人達の言葉は、結局俺自身の言い訳と同じに聞こえてしまったんだ。

 だからこそカナデさんは。

 俺の過去なんて何も知らない、関係ない他人であるカナデさんは。

 守らなきゃいけない、友人だ。

「――――関係のない、他人だよ」

 俺の言葉をどう捉えたのかは分からないが、矢田部は仕切り直すように、跳び箱から降りて言った。

「分かった」

 矢田部は出入口の引き戸に手をかけて、顔だけを振り向かせた。

「お前が何を考えているのか、聞けて良かったよ」

「その話がしたくて呼び出したのか?」

 矢田部の表情が、嫌な笑みを浮かべた。

。あとの連中は違う」

 あとの連中?

「先輩が、またお前のこと勧誘したいんだってさ」

 そう言い終わるのと同時に、俺の背中を冷たい汗が走った。

 やられた。やっぱりこいつが呼び出す理由なんて、それしかないじゃないか。

 俺はすぐに駆け出して矢田部の肩を掴んだ。

 揺れる矢田部の体。自分の肩に置かれた手を見て、とても不愉快そうにする矢田部の表情。

 笑えよ、矢田部。俺が、今からお前の喜びそうなことをしてやるから。

「相葉、なんだよ、この手」

「おい、矢田部」

 俺は、手を離してその場に正座した。そして、両腕を膝の前で突っ張った。

「頼む。俺はいくら殴られても、蹴られてもいいから。カナデさんには手を出すな」

「はあ?」

「俺がさっき言っただろう!? お前の行動が怖いんだよ! 頼む、絶対に俺だけにしてくれ!」

 なんでこんな奴に、俺は頭を下げているんだ。

 気が付いたら、俺の額は床の上数センチのところまで接近していた。

 かっこ悪い。こんな屈辱的な真似、今まで一度だってしたことがない。生まれて初めて土下座をした。

 ものすごく惨めな気分だ。ドラマや漫画でしか見たことがない姿勢だけれど、確かにこんなことをされたら人は、許してしまったり願いを聞き届けたりしてしまうかもしれない。

 だって、こんなにも涙が出そうだ。

 地に伏した俺の頭上から、矢田部の言葉が降ってきた。

「分かったよ…………俺は時任に何もしねーよ」

「お前だけじゃない!」

「分かってるよ! 先輩達も一緒だっつーの! 揚げ足取るんじゃねーよ!」

 地面を舐めるぐらいまで伏せていた俺の顔。歯を食いしばり、涙をこらえ、汗を垂らした。

 届いたのかな。

 油断は出来ない。

 でも、何故だか矢田部に一矢報いたような気がして、少しだけ安堵がこみ上げた。

 そして顔を上げると、そこには矢田部の他にもう二人、この間の先輩達が俺を見下ろしていた。

 三人とも笑っていた。

 そうだ、笑え。喜ばせてやったんだから、もっと笑え。

 俺も、少しだけ笑みを浮かべながら立ち上がった。




 本当に、誰もやって来ない体育倉庫っていうのは都合が良いものだ。

 明かりはつけていない。窓から光が漏れれば、中に俺がいることに気付かれるからだ。

 サッカーボールをまき散らして倒れたワゴンや、少しだけ赤い斑点がついたマット。ラインマーカーと並んで置かれた石灰の袋は、俺が倒れこんだ時に穴が開いてしまった。

 体育倉庫っていうのは、どこの学校でも変わらない。出入口が閉められていると、世界から隔離されてしまった孤島みたいだ。

 雨はまだ降り続いていた。倉庫の片隅には、俺の鞄と拉げた傘が一本。

 不思議と、悔しさはこの間よりも薄かった。

 何故だろうか。

 たぶん。

「ハヤト君っ!」

 体育倉庫の入り口が突然開いたのと同時に、誰かが俺の名前を呼んでいた。

 体を起こしながら視線を声のほうに向けようとすると、あちこちの関節に電気が走ったみたいで、思わず呻いてしまう。

 俺が声の主を確かめないうちに、その人は俺の体を力強く抱きしめた。

「ハヤト君! しっかりして! お願いだから大丈夫って言ってよっ!」

「…………い、痛い」

 俺の体を心配する言葉。俺の体を軋ませる抱擁。こんな矛盾が少しだけ嬉しい。

「カナデさん、痛いんだけど」

 俺のその言葉が彼女の心をどれだけ圧迫したのかは分からないが、「大丈夫」と言わない俺の体を彼女は更にきつく締め上げて泣いた。スポンジを握り潰したみたいに、圧迫された彼女の心から涙があふれているようだ。

「なんで!? なんでこんな目に遭うのよ!? ハヤト君なんにも悪くないじゃん!」

 なかなか放してくれない彼女の胸の中で、俺は疑問を口にした。

「な、なんでここが分かったの?」

「今日、委員会の仕事でたまたま残ってたの。そしたら帰り際に矢田部達とすれ違って、あいつが体育倉庫に行ってみろって言うから! それで!」

「分かった、分かったよ…………ありがとう」

 矢田部がカナデさんをここに? 何のために?

 やがて、カナデさんが俺のことをゆっくりと解放した。改めて彼女の顔を確認すると、ちょっと笑ってしまった。

「な、何笑ってるのよぉ…………」

「いや、ごめん。こんなに一生懸命心配してくれてるから、嬉しくって…………」

 本当のことを言うと、こんなにも心配してくれている彼女の顔がひどくグシャグシャだったからなんだけれど。余計なことは言わないでおいた。

「ハヤト君、なんで…………なんでちゃんと言ってくれないのよぉ…………や、矢田部に呼び出されたなら、私に一言声かけてくれればいいじゃん」

 そうは言われても、次呼び出されることがあったら、俺はまた彼女には教えたりしないだろう。

 だけど、そう言ってくれたことは素直に嬉しかった。今後、また今日のような災難が降りかかるであろう俺の未来に、勇気を与えてくれる言葉だ。

「またこんな傷だらけに…………」

「でも、なんか、ちょっとこの間とは違うんだ」

 そう、前回やられた時とは、ちょっと違う気持ちだった。

 それは、誰かを守るために自分が動いたからだと思う。

 カナデさんが俺の顔を両手で挟んだかと思うと、そのままじっと俺の目を見てきた。

 二人の顔は同じ高さで、同じように向かい合う。恥ずかしくなってきて、俺は眼球を挙動不審に動かしていた。

「違くないよ。せっかく、こないだの傷だって治ってきてたのに」

「…………で、でも、口の中をちょっと切ったくらいで、あとは痛いだけだよ。骨が折れたりとか、体が動かせなかったりっていうのは無いみたい」

「ハヤト君、こないだの薬をまた貸してあげる。それにちゃんと手当しないといけないから、またうちに寄って行って」

「あ、ああ…………ありがとう」

 カナデさんの肩を借りながら立ち上がった俺は、体のあちこちについた埃や石灰を払い落とした。

「ねえ、ハヤト君」

「ん、何?」

 手が届かない背中をカナデさんが払ってくれる。そして彼女は言った。

「矢田部と、何の話をしたの?」

 彼女の声は、どことなく遠慮がちに聞こえた。

 矢田部との話の内容は、たぶんカナデさんに知られないほうがいいのだろう。彼女に余計な気を遣わせてしまう気がした。

「話なんてそんな…………見ての通りだよ。また、俺を痛めつけるために呼んだんだ」

「…………じゃあ、なんで矢田部は私に体育倉庫へ行くように言ったの?」

「そ、それは」

 彼女に指摘されて気が付いた。

 確かに、矢田部はどうしてカナデさんをここに来るよう声をかけたのだろう。何か意図があってのことなのだろうか。

 しかし、そんなことは俺に分かるはずもない。

 答えに困って沈黙していると、カナデさんの表情は少しだけ微笑んだように見えた。

「カナデ、さん?」

 だけど、微笑みと同時にひどく悲しんでいることも伝わってきて、彼女がどんな顔をすればいいのか困っているのだと知る。

「カナデさん、もしかして本当は、矢田部に何かされたんじゃないの?」

 心配になってそう尋ねると、彼女は首を横に振りながら俯いて、その表情を隠した。

「矢田部にね、ここに来るように言われたのともう一つ、違うことも言われた」

「え?」

「俺について余計なことをベラベラと喋るんじゃねえって、そう言われた」

「ま、まさか! それで今度はカナデさんを標的に!?」

 一瞬、土下座までして頼んだことは結局あいつに通じなかったのかと、本気で愕然とした。同時に矢田部への怒りも沸き起こった。

 しかし、カナデさんの次の言葉を聞いて、そうではないことを知る。

「これ以上余計なことを言わないなら、相葉の望み通り、俺はお前に手を出さないって…………そ、そんなことも言ってた」

 カナデさんの頬が赤かった。

「ハヤト君、なかなか男前なことしてくれたじゃん」

「い、いや! あの! カナデさんには恩もあるし、友達を守りたいって思ったから…………だから、その」

 うまく言葉が出てこない。だけど、彼女に感謝されていることが素直に嬉しいと思った。それは何故なのか。

 俺が、俺と関わる人達に求めているからだ。俺と親しくなる人は誰一人として、傷つかないでいてくれと思っているからだ。

 矢田部が彼女に言った言葉から、俺は自分の求めるものが一つ達成されたのだと確信した。

「ありがとう、ハヤト君」

 俺にも守れるものがあった。俺と関わった人を傷つけずに済むことができた。

 彼女を守れたことは、先日に氷室さんと話し合った俺たちの償いとなり得ることだろう。これで俺は、どれほど許されるのだろうか。

 それを計り知ることはできないけれども、一つだけ言えることは、今の自分を少しだけ許してあげたいと思えていることだ。




 俺が自分の家に帰り着いた時、時刻は夜の七時に差し掛かっていた。

 こんな時間になってしまったのは、一旦カナデさんの家に立ち寄って、そこで手当を受けて帰ってきたからだ。

 カナデさんには「ゆっくりお茶でもしていきなよ」と誘われたのだが、今日はそれを断った。雨が止む気配もなかったし、気温も低かったので、早く家に帰り着きたかった。

 その代わりというわけではないが、今度の休日に駅前の喫茶店でケーキを食べに行く約束をさせられた。カナデさん曰く、治療費と薬のレンタル代らしい。

 その話を持ち掛けられた時は呆れたような顔を作ってみせたけれど、正直に言って俺は、少し嬉しかった。

 考えてみたら、友人と休日の予定を立てるなんてことを長いことしていない。

 本当に楽しみだ。

 柄にもなくニヤついている顔が落ち着くのを待ってから、俺は玄関のドアを開けようとしてドアノブに手を伸ばした。

 その時。

「ハヤト!」

 振り返ると、塀の影からツバキが顔を覗かせていた。

「ツバキ? もしかして今帰りか?」

「うん。今日はグラウンド使えなかったからさ、トレーニング室で雨宿り兼筋トレ」

「雨宿りって言っても、結局止まなかったな」

「そうだね」

 俺は降り続ける雨をちらりと見上げた。

「最近、あんまり一緒に帰ったりしてないね」

 少し寂しそうなツバキの声が聞こえて、俺は空から再びツバキのほうに視線を戻した。

 確かに、彼女はここのところ部活の朝練と放課後の練習で忙しそうにしていて、俺と一緒に通学することがない。入学から間もない頃は、しつこく俺の家まで迎えに来ていたのだから、俺自身も少なからずツバキのいない時間が増えたことに違和感を覚えていた。

「ちょっと上がっていくか?」

「え、いいの!?」

「母さんも喜ぶよ。しばらく顔見てないって言ってたから」

 俺は玄関の脇に置いてある傘立てに、自分の拉げた傘とカナデさんから借りた傘の二本を立て掛けた。

「うーん…………ごめん、今日ちょっと宿題多いから、やっぱり帰る」

「え、そうか?」

 玄関まで続く門を越えることなく、ツバキは傘を片手に笑顔を浮かべた。

「ねえ、ハヤト…………なんか、柔らかくなったね」

「柔らかく?」

「うん。なんか、ハヤトってこないだまでは、近づくものみーんな突き離すような空気ばっかり出してて怖かったけど、今のハヤトはちょっとだけ近くに感じるんだ」

 それは間違いなく、カナデさんのおかげなのだろう。

 つくづく彼女に感謝しなくちゃいけない。

「ツバキ、俺、今までお前にもいろいろと冷たくしてきちゃったけどさ、なんか変われそうな気がするんだ」

「ハヤト、良かったね」

「ごめんな、今まで」

「ううん、いいの」

 そして、しばらく沈黙が続いた。雨粒がツバキの傘を叩く。その音だけがやたらと大きく聞こえる中、俺は笑っているツバキを見つめていた。

 やがて、肩が震えたのを合図にして、俺はもう一度空を見上げた。

「寒いな…………帰り大丈夫か?」

「いいよ。風邪引いちゃうから、早く家に入って」

 そう言ってツバキが手を振ったので、俺は改めて玄関のドアノブに手を掛けながら、ツバキに向けて片手を上げた。

「じゃあ明日ね!」

「うん、気を付けろよ」

 ツバキを見送った後、俺はすぐに自分の部屋まで上がっていった。

 今日作ってきた傷を父さんと母さんに見られる前に、言い訳は用意しておかないといけない。とは言え、また喧嘩をしたとしか言いようがないのは、なんとも困ったものだった。

 ただ、それでもやはり、カナデさんを守れた充実感が大きい。俺は今、こんなにも笑顔が作れる。そしてツバキにも謝ることができる。

 この気持ちは、氷室さんや倉林さんにも伝えなくちゃいけないと思った。

 罪を償おうと決めたことで、そして自分に関わる人を助けられたことで、こんなにも心が満たされるなんて。

 自分の右腕に潜む罪の証も、きっといつか許されるかもしれない。

 そう思えることが嬉しかった。

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