第7話 カイゾウ
表札を見ると、そこには黒色マジックで手書きされた『氷室』という文字があった。ここが氷室さんの部屋で間違いなさそうだ。
でも。
「本当に、こんなところに住んでるのかな?」
俺はマンションの共用通路で、二○○五号室の入り口前に佇んだまま、周囲を見渡した。
出来たばかりの二十階建て新築マンションは、塗装で仕上げられた天井や壁はもちろん、ドアノブやエレベーターのボタン、階段の手摺だって、目立った汚れや使用感などがほとんどなかった。暖色系の光を放つLED式のダウンライトが共用通路の天井に並んでいて、その温かな光にマッチした内装の雰囲気が高級感を高めている。けっこう良いところに住んでいるんだな。
ただ、そんな中で不可思議に思った点が一つある。
隣の部屋の表札を見ても、その反対側の隣部屋を見ても、更に連なる部屋のどこを見渡してみても、表札に名前が書かれていなかった。
それに誰かが部屋から出入りしている気配や痕跡を感じない。
たまたまだろうか。いや、そんなことは無い。だって俺は気が付いてしまったんだ。
マンションの共用玄関を抜けてきた時、壁付けされた各部屋の郵便ポストを見た。
一階から十五階までにある部屋のポストには、それぞれの入居者の名前がちゃんと入っていた。抜けているところの方が少なかったぐらいだ。
しかしそれよりも上層階、つまり十五階から二十階に該当する部屋のポストで、個人名が入れられていたのは一箇所だけ。
二○○五号室。つまり、氷室さんの住む部屋だけだった。
やっぱり、彼女の部屋以外、この近辺には入居者がいないということか。
何故だろう。氷室さんも彼女の家族も、そんな生活環境をおかしいと思わないのだろうか。それとも近所付き合いを嫌っている? だけど、この周辺の部屋全ての入室制限を出来るものなのか?
日常的な風景の中にある非日常を体感しているようだ。なんだか不思議な空間に迷い込んでしまったみたいで、俺は少しだけ怖くなってきた。
いや、怯えてちゃダメだ。日常的な風景の中にある非日常なんて、自分の右腕にあるカイゾウもそうじゃないか。
一度深呼吸をして、俺は二○○五号室のインターホンを鳴らそうと腕を持ち上げた。
その瞬間だった。
突然、どこからともなく激しい“何か”が響いてきて、俺の鼓膜を震えさせた。
たぶん“音”なんだと思う。しかし、それが何の音なのかを考える間もなく、音は耳を通過して脳を直接痺れさせた。頭が痛い。いや、痛いなんてものじゃない。
それに、この音を聞いているととても恐ろしくなってくる。何に怯えているのかと訊かれたって分からないが、確かに感じる。
生きていることが嫌になるくらいの、絶望感にも似た恐怖が自分の中で無限大に広がっていく。
「つっ…………! うああああっ…………!」
悲鳴が漏れた。頭を抱えたまま、俺はその場で膝を折り、蹲ってしまった。
時間にすればわずか十秒程度。だが、それでも本気で身の危険を感じた。額を地面に擦り付けながら、成す術もなく苦しむことしか出来ない。
すると、音は徐々に聞こえなくなっていった。頭の痺れはまだ残っているけれど、それも少しずつ収まりつつある。
ぎゅっと閉じていた目をようやく開けられるぐらいまで回復した時、俺はさっきの音について考えることが出来るようになっていた。
なんだ、あれ?
汗が噴き出る額を地面から離し、膝立ちの状態で上半身を起こす。まだ痛みが若干残っている。
訳が分からないままその場で放心していると、目の前のドアがゆっくりと開き始めた。
僅かに開いたドアの隙間からでは、部屋の中の様子は窺えなかった。カーテンも閉めきられているみたいに真っ暗だったからだ。
しかし、その隙間から誰かが顔を覗かせたのは分かった。そして苦しそうな声で言った。
「倉……林さん…………ごめんなさい。来てると思わなくて…………あたし、またやっちゃ…………た」
その声の主と俺の目が合うと、僅かな間を置いた後で扉が急に閉じられた。
「ま、待ってくれ!」
「やだ! うそ! どっか行ってよ!」
暗かったけれど、顔を覗かせた人物は間違いなく氷室さんだった。首にはやはり何かを巻きつけていたみたいだし、声も彼女のものだったからだ。
そして、顔を覗かせた彼女の目には、確かに涙が光っていた。
いや、考えるのは後だ。
彼女の言葉から察すると、あの音は氷室さんが発していたものなのか。だけど、一体何をすればあんな音が出るというんだ。
「氷室さん! 俺だよ! 相葉ハヤトだよ!」
「帰って! なんでここが分かったのよ!? あたしは倉林さんが来るって言うから待ってたのに!」
「謝りたくてきたんだ! ちょっとでいいから!」
「ふざけるな! 帰れ!」
だが、俺は食い下がった。
「頼むよ! 話がしたいんだ!」
「話すことなんて無い! 早くどっか行け!」
「倉林さんに聞いたんだ! カイゾウの形のことも、俺がどうして君を怒らせたのかも! 自分がどれだけ無神経だったのかも分かったんだ! 何も知らない自分じゃいけないと思ってる! そして今は違う! だから謝らせてほしいんだよ!」
「そんなの鬱陶しい!」
「今なら、今度こそきちんと言える! そうだ、今だからこそあえて言うんだ! …………氷室さん、俺達分かち合っていけないかな? 一人じゃやっぱり怖いんだ。でも、助け合っていける人とか、支えあっていける人がいれば、もっと頑張れる気がするんだ!」
それは、俺が長い間ずっと押さえつけてきた感情だった。
自分は他人を不幸にしてしまうから、一人で生きていこうと決めていた。
誰にも迷惑をかけてはいけないから、一人で生きていこうと決めていた。
罪悪感に苛まれることが償いだから、一人で生きていこうと決めていた。
そうやって、頑張ってきたつもりだった。
でも、やっぱり辛い。一人はとても辛い。
そういう辛さは、罰だと思っていた。罪深い俺が受けるべき罰なんだと、そう納得してきた。
そんな時に氷室さんが現れて、彼女がカイゾウ所持者だと知った。自分と近しい者であることを知った。
同じように苦しむのだったなら、分かち合えないだろうか。償う者同士で、励ましあって背負った罪に報いることは出来ないだろうか。
それは人に言わせれば、傷の舐めあいでしかないのかも知れない。弱い俺達が集まり、群れて、少しでも自分達を守ろうとしているだけなのだろう。実際にそれは間違いではないと思う。
だけど、それでも。
「俺も、自分の罪を償いたい。許されたいんだ。だけど、一人じゃ重過ぎる…………重過ぎるんだよ…………」
泣き言だった。
だけど、それでも。
「あたし…………あたしだって、許されたい」
同じ。俺達はやっぱり同じなんだ。
だから。それならば。
「話がしたいんだ」
「…………うん」
堅く閉ざされていた扉が、開かれた。
少し緊張しながら、俺は玄関を潜って中へと入る。
氷室さんの服装は、いつもきちんと着こなしている制服姿とは違って、ラフな部屋着姿だった。生地の薄いTシャツにストレッチパンツという格好で、なんだか妙に生活感が漂っている。けっこうメリハリのあるボディーラインに、思わず頬が赤らむようだった。
しかし、玄関に出てくるからと着けたのか、首にはしっかりとマフラーが巻かれていた。
氷室さんが窓に近づき、カーテンを開く。暗かった室内は一変して、思わず目を細めてしまうくらいに明るくなった。
「あ、あの、これ。弁当箱…………洗っておいたから」
「…………ありがとう」
弁当箱を受け取った後、「座ってて」と言って、彼女は台所に向かった。
テレビと向かい合うようにして置かれたローソファー。座ろうとして回り込むと、思わず着席を躊躇ってしまった。
ソファーの上に、彼女の制服が脱ぎ捨てられていたからだ。ブレザーもスカートも、ブラウスもリボンも。
「座らないの?」
「…………お邪魔します」
お茶を用意しているらしい彼女は不思議そうな顔で、ソファーの脇に正座する俺を見た。
やがて氷室さんがこちらにやって来ると、ソファーの上にある物に気付いて小さく声を漏らした。
「す、座りづらくてさ」
「…………ごめん」
彼女はそっと制服をかき集め、奥の部屋へとしまいに行く。そして恥ずかしそうにしながら戻ってくると、ソファーに腰を下ろして膝を抱えた。
制服姿じゃないだけでも随分と印象が変わると思っていたが、印象が違うもう一つの理由に今更気がついた。
ポニーテールを解いていたのだ。
雰囲気がちょっと違うだけで、なんだか緊張してしまう。俺って何を考えているんだ。
どぎまぎした感情を悟られないうちに、話を切り出して誤魔化してしまおうと思った。
「ごめん。いきなり押しかけたりして」
「まあ、そうね。女の子の家に押しかけるなんて、そうそう出来ることじゃないわよね」
墓穴を掘ったかな。刺々しい返事だった。
それでも構わず続けた。
「そうだよね。氷室さんのご両親が留守じゃなかったら、怒鳴られちゃってたかも」
軽い冗談のつもりでそう言った。ヘラヘラした笑いを浮かべて、頭を掻きながら。
しかし。
「それはないわ。あたし、両親とは一緒に住んでないから」
「え?」
「あたし、去年からここで一人暮らししてるの。ここに移り住んでから、両親には一度も会ってないし」
去年って、まだ中学生じゃないか。なんで彼女の両親はそんなことを許したんだ?
しかし、そこで気が付いたのだ。
氷室さん以外に入居者のいない上層階。自分の仕業だと言っていた先ほどの破壊的な音。そして彼女はカイゾウ所持者。
「この部屋って、もしかして氷室さんが借りてるんじゃなくて」
彼女が頷いた。
「カイゾウの研究機関が借りてくれている部屋。本当は研究施設のほうに宿舎があるんだけど、あたしの通学を考慮してこの部屋を借りてくれたの」
俺は部屋の中をゆっくりと見渡した。広い。3LDKといったぐらいだろうか。
一人暮らしのためにそんな広い部屋を?
違う。たぶん、この部屋は彼女が家族と暮らす場合のことを想定しての部屋なんだ。
でも、彼女は一人で暮らしている。
「どうして、家族とは暮らさないの?」
俺は自分の質問がとても怖かった。
その質問の答えだって、容易に想像がつくじゃないか。それなのに俺は。
胸が痛かった。
俺は、何もかも彼女と似ている。
「さっき、玄関の外で聞いたでしょ? あたしのカイゾウの声」
「カイゾウの……声?」
「あたしのカイゾウってね、去年の夏に発現したんだけど、その…………イジメが原因なの」
「イジメって、おかしいよ。カイゾウは罪悪感の具現化だって倉林さんが言ってた。それなのになんで」
「そう。罪悪感があるの、すごく…………私はイジメをしていた側ってこと。私が中心になって、クラスの女の子をずっといじめてたの」
返す言葉が見つからなかった。その先を聞くのも怖かった。
氷室さんが罪悪感を抱くきっかけとなった出来事は、よほど恐ろしいものだったのだろう。
そうでなければ、カイゾウの声と言うやつの破壊力もあんなには出ないはずだ。氷室さんの住む部屋の周辺に入居者がいないのも、カイゾウの被害を受けないようするための配慮なのだ。
「ある日ね、その子が自殺しようとして、学校の屋上から身を乗り出したの。クラスの皆で屋上に上がって、合唱祭の練習をしている時だったな。いつもどおりにあたしと何人かのグループで彼女をからかっていたら、突然彼女が屋上のフェンスを越えて、泣きながら――――」
次第に、氷室さんの目には涙が浮かんできていた。
「――――泣きながら、“死んでやる”って、大声で叫んであたしを睨みつけた。それを見た瞬間、あたし、すごく怖くなっちゃって。自分が今までしてきたことが、一人の人間をじわじわと殺していることに気が付いたの…………あの子から目を逸らしたかった。でも、彼女のものすごい形相から逃げることができなくて、彼女の声が…………ずっと、あたしの全身を突き刺してきて」
いつの間にか、氷室さんはマフラーを手繰り寄せて首に押し当てていた。いや、首を絞めているようにさえ見えた。
そう言えば、車の中で倉林さんが言っていた。カイゾウは、罪悪感に強く苛まれると突発的に発現してしまうことがあるって。
「じゃあ、さっき俺が玄関で聞いた時の声が」
「そう、あたしのカイゾウの声。そして、あの時の彼女の泣き声。さっきまで寝てたんだけど、夢の中であの時のことを見ちゃったから、いきなり発現しちゃって」
今も、彼女はカイゾウが発現することを恐れて、一生懸命食い止めようとしている。
カイゾウの声というやつを直接知ってしまった俺は、とっさに彼女の気持ちを落ち着けないと駄目だと思った。
「氷室さん、とりあえず今は思い出すのを止めよう」
氷室さんは、俺のほうをそっと見た。
「でも、忘れようとしたって忘れられないよ。カイゾウがある限り、あたし達罪人は自分の罪に責められ続けるんだよ」
「そう、だと思う。むしろカイゾウって、そのために存在しているのかも。“罪を忘れるな”って、そういうことを訴えるために現れているのかも知れない」
俺がそう言うと、氷室さんが少しだけ身を乗り出して、俺の話に耳を傾けた。
「でも、俺達がやってしまったことはもう取り返しがつかないけれど、何とかして償えないかな。自分のやってしまったことを反省して、一生懸命償うことは出来ると思うんだ」
彼女が頷いた。
「あたしもそう思うよ」
「本当に? よかった」
「うん。あたしも自分のカイゾウが現れてからいろいろ考えたんだ。そして今思っていることは、あたし達の罪は、償うことが出来るんじゃないかってこと…………そのためにも」
「そのためにも?」
「こないだ見せた広報誌の事件。あれを解決したいって思ったの」
氷室さんがお茶を口に含んで、その薄い唇を湿らせた。
「どういうこと?」
「カイゾウ…………治したいと思わない?」
「そ、そりゃあ出来ることなら」
そんなの、答えは一つしかない。
この右腕が俺の罪の証なのだとしたら。無かったことにしたい過去なのだとしたら。やり直したい後悔の刻印なのだとしたら。
「今言ったじゃない。罪は償えるものだと思うって」
「うん」
「カイゾウが罪の証なら、きっと償うことでこれは治せるんじゃないかなって」
「あ」
そういうことか。確かに一理ある話だと思った。
俺の右腕も、氷室さんのカイゾウも、過去の罪が具現化したものであり、罪を忘れるなと訴えて責め立てる存在なのだとしたら。その罪を償うことこそがカイゾウの治療にも繋がるというのは、決して無理やりな考えではない。
そう、カイゾウは自分達の行動一つで消せるのかも知れない。
問題となるのは唯一つ。
その償いというのは、どういうものなのかということだ。
「もしかして氷室さんって、事件を解決して自分の罪滅ぼしをしようとしてるの?」
「うん」
少しだけ恥ずかしそうにしながらも、彼女の顔は真剣そのものだった。
本当に彼女は、自分の罪を償おうとしたのだろう。
「別にあたしは、ヒーローになろうとか正義を振りかざそうとしたいわけじゃない…………ただ、自分が許されたいだけ。困ってる人を助けて、辛い目に遭う人を減らして。そういうことをして自分を少しずつ許してあげたい。そんなワガママな考えを持ってるだけなの」
でも、その気持ちはすごくよく分かる。
「カイゾウが現れた原因も、ビクビクしながら首を隠している生活も、一人ぼっちで暮らしていかなくちゃいけない寂しさも、全部自分が悪いのに。そんな自分の人生が、なんだか辛いの」
俺も、その気もちはすごくよく分かる。
「毎日が重たい。マフラーなんて暑くて嫌。一人ぼっちは寂しい」
ああ、その気持ちは。
「いつも笑っていたい! 友達とだって遊びたい! 家族と暮らしたい!」
「…………すごく、よく分かるよ」
「カイゾウを消したい! 罪を償いたい! 過去をやり直したい!」
「うん。俺もだよ」
「…………もう、許されたい」
膝に顔を埋めて、最後の一言は弱りきった様子で吐き出した。
俺達の考えは、きっとすごく自分勝手なんだと思う。
自分達が悪いことをしたのは明らかで、間違い無い。自覚もしているし、それをものすごく後悔している。
それなのに、まだ許されたい。助かりたいと思っている。図々しいとも言う。
でも、責められ続けて、自分を責め続けて、深く思い知る。
許してほしい。許してほしいんだ。
たった一言だけど、大きく叫んで伝えたいんだ。
ありきたりだけど、大切な思いを届けたいんだ。
これしかないけど、大事なことだから言うんだ。
「ごめん……なさい」
氷室さんが声にしたその言葉を、俺も心の中で、何度も何度も呟いた。
俺に関わってきた人々へ。大切な両親に向かって。そして、俺が傷つけてしまったあいつへ。
ごめんなさい。
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