第6話 倉林という男

 屋上で氷室さんを怒らせてしまった日から、三日が経った。

 氷室さんに謝りたい俺は、彼女が登校してくるのを待った。鞄には、彼女が置き去りにした弁当箱を綺麗に洗って忍ばせてある。

 ツバキに話を聞くと、氷室さんは体調不良でしばらく休むことを担任の先生に連絡しているらしい。しかし、それ以上の何かを聞こうとすると、ツバキは目尻を吊り上げて不機嫌になってしまうのでなかなか聞き出せない。

 かと言って、C組にはツバキ以外に話しかけられそうな同級生なんていないし、氷室さん自身もクラスの中では誰とも親しくしている様子はなかったので、そもそも聞くアテがないのだ。

 この際顔を合わせてじゃなくても、連絡を取ってしまえば。しかし、当然ながら連絡先なんて知らない。

 氷室さんの姿を見つけられなかった俺は、教室の自席に戻ってくると、今日も渡せなかった弁当箱を机の脇に引っ掛ける。途中で買ってきたパックジュースのストローを口に銜えながら、一抹の空しさを感じていた。

 氷室さんには、どことなく自分と近しいものを感じている。ましてや屋上でのやり取りを思い起こせば、彼女もまたカイゾウ所持者であることは明白だ。似ていないとは思えなかった。

 このままではいけない。同じ者同士であるならば、何とかしてもう一度話がしたい。

「追いかけ、探し求めるって辛いのねー」

 突然の声に、俺は小さく声をあげて驚いた。

「カ、カナデさん! おどかさないでよ!」

「そのカナデさんって、やっぱ硬くなーい?」

 少し芝居がかったような手振りを交えながら、カナデさんは顔を顰めた。

 彼女の表情は実に柔らかくて、変幻自在だ。今度はあっという間に満面の笑みを浮かべながら、俺の顔を見てこう言ってきた。

「ハヤト君、また悩み事? 話聞ーたげよっか!」

「そんな悩みってほどでもないから、大丈夫だよ」

 広める話でもないからと、俺はジュースの残りを吸い上げようとした。

「…………氷室さんと仲直りしたいんだよねー」

 パックジュースが行儀の悪い音を立てて泡立つ。

 彼女の顔を見ると、満面の笑みは昇華して慈愛に満ち溢れたかのような眩しさを放っていた。

 だが、俺にはその慈愛の光が、実は彼女の張り巡らせた情報網が高速で信号伝達を行う際のスパークなんじゃないかと思えて恐ろしい。

「カナデさんって、やっぱりジャーナリスト向いてそう」

「ありがと! でも、昼休みの屋上で痴話喧嘩なんて、隠してたつもり? 目立って仕方がないわよ?」」

 確かにその通りだ。実際に何人かの生徒には見られていたみたいだし。

 俺は観念して、彼女の助言を求めることにした。

「謝りたいんだけど、ここんところ学校休んでるみたいでさ。連絡先を知らないから、どうしようも出来なくて」

「はっはーん…………ハヤト君と付き合う女の子って苦労しそうね」

「え?」

「鈍いんだねー、君」

 カナデさんって、時々同い年というのは年齢詐称じゃないかと思うことがある。

 彼女は俺の手からパックジュースを奪うと、「手数料です」と言って笑った。

「なんで氷室さんは学校に来ないんだと思う?」

「え、それは体調不良らしいんだけど」

「ちがーう! どんだけ鈍いのよー!」

「じゃあ…………怒って嫌われたってことかな?」

「人間、そんな簡単に他人のことを嫌いになんてならないよ! …………彼女が学校に来ないのは、恥ずかしいからだよ」

 カナデさんはパックジュースのストローを銜えたまま、まるでドラマの中の探偵がそうするみたいに、目を閉じて片手を自分の顎に当てた。さながらパイプを燻らせるシャーロックホームズだ。

「頭にきて喧嘩しちゃったけれど、その後どんな顔をして会えばいいか分からないってこと。ハヤト君、そんな氷室さんが学校に来たとしても、皆がいるような場所で謝ったらダメだよ。氷室さんが更に恥ずかしくなっちゃうだけだから」

「じゃあ、どうすればいいかな?」

「なんとか連絡取れないの? こういうのは、二人だけで会ってきちんと謝るべきだよ」

 二人だけで、か。なかなかハードルの高いアドバイスだ。

 連絡を取れと言われても、俺のケータイなんて鳴ることも発信することもないというのに。それに、例え連絡先を知っていたとしても、氷室さんとメールや電話のやり取りをする自分の姿がまるで思い浮かばない。

 分かっていながらもケータイの連絡先メモリを開いてみると、登録されている番号はたったの五件だけ。自宅、父さん、母さん、ツバキ…………。

「あ、倉林さんかぁ」

 少しだけ望みが見えたかもしれない。

「連絡つくかも。カナデさん、ありが……と?」

 お礼を言おうとしたら、彼女は自分のケータイを片手に持ってこっちを睨んでいた。

「え、なに?」

「ハヤト君さ、私に連絡くれるって言ったよね」

「何? どういうこと?」

「ひどーい! 忘れてるー!」

 年齢詐称疑惑のあるカナデさんが、今度は子供っぽく両手を振り回してくる姿に困惑することしか出来ない俺。

 そんな時だった。

「まったく見せつけてくれるよな、相葉君も時任も」

 俺とカナデさんの視線が、声の主を捉えた。

「…………矢田部」

「お邪魔しちゃってごめんな」

 矢田部はいつもクラスでそうしているように、笑顔を浮かべながら近づいてきた。

 そして、彼の後ろにもう一人。矢田部の背中に隠れるようにしている人物がいた。

「それよりも相葉君、顔の傷がだいぶ治ってきたね。よかったじゃん」

 カナデさんの、矢田部を見る目はやけに鋭かった。理由はおそらく、俺と矢田部の件を知っているからだろう。

 いちいちこいつの挑発に乗ってやるのも馬鹿馬鹿しいし、目をつけられたら困るとカナデさんは言っていたはずなのに、彼女の表情は決して穏やかではなかった。

 何とかしなくちゃいけない。

 意を決した俺は、この学校では決して見せたことがない笑顔を作った。

「は?」

 矢田部の目が点になる。

「心配してくれてありがとう、矢田部君」

 俺の笑みを見て、逆に矢田部は口を真一文字に結んだ。カナデさんにつっかかるよりも早く、こいつの意識を俺に引き付けることは出来ただろうか。

 矢田部はカナデさんの方に視線を向けることなく、呆れたようなため息をついて背後にいるツバキを見た。

「刈谷が、相葉君に用があるって来てたんだけど、二人が仲良さそうにじゃれてたからさ。俺が連れてきてやったんだ」

 肩を小さくしていたツバキが、更に縮こまるようにして一歩下がった。

「どうした、ツバキ?」

「あ、あの…………辞書…………貸してほしくて」

「また忘れたの? いいよ」

 俺が鞄から辞書を出そうとすると、突然矢田部が短く息を吐いて「仕方ねーな」と漏らした。

 その声色から、矢田部がまた笑っていることに気が付いた。

 なんだ、こいつ?

「刈谷、俺が貸してやるよ」

「え、いいよ…………ハヤトに借りる」

「遠慮すんな。使えよ」

 俺はそのやり取りに視線を向けることなく、辞書を手に取って顔を上げた。

 そしてツバキに渡そうとした時、そこにはツバキの姿がなかった。辺りを見渡してもいない。D組から出て行ったのか。

 何しにきたんだろう?

 胸中の問いかけに、ちょうどいいタイミングで矢田部が答えを投じてきた。

「刈谷なら、俺の辞書を持って行っちまったよ」

 なんだ、矢田部の辞書を借りたのか。

 矢田部の顔を見ると、彼は笑みを浮かべたまま鼻で笑ったような声を残して自席に戻っていった。

 その笑みに、何か別の事実が隠されているように感じたのは気のせいだろうか。




 放課後、俺が正門を出ると、近くで路上駐車をしている乗用車があった。ハザードランプが点滅を繰り返す車のリヤガラスには、真っ黒なスモークが貼ってあって中の様子は確認できない。

 俺は車の助手席に近づいて運転席を見ると、間違いなく彼の車であることを確かめる。そして助手席の窓ガラスを叩いた。

「よう、ハヤト!」

「倉林さん」

 少し遠慮がちに助手席のドアを開けると、倉林さんが笑いながら「お疲れさまー」と言った。

 俺が助手席に乗ろうとすると、校門のほうから教師二人が何やら不審がってこちらを見ていることに気が付いた。下校する生徒の見送りをしている先生達が、見慣れない車に乗り込む俺を心配しているようだった。

 シートに座り、ドアを閉めながら倉林さんに教える。

「倉林さん、怪しまれてませんか?」

「迎えに来てやったってのに? 失礼なセンコーだな」

 倉林さんの車は、勢い良く発進した。

 カナデさんからアドバイスをもらった俺は、あの後さっそく倉林さんに電話をした。

 簡単に事情は話したが、細かいことを話すよりも早く「直接謝らせてやるよ」というので、彼の指示に従って、放課後の校門で待ち合わせたのだ。

 どうやって直接謝らせるのかは分からないが、車で迎えに来てくれたということは、どこかへ連れて行ってくれるのだろう。

 単なる俺のわがままなのに、嫌な顔や面倒くさそうな態度も見せずに動いてくれる。その優しさが、やっぱりかっこよくて頼もしいと感じさせる。

 しばらくの間走り続けて、俺の知らない道で車はウィンカーを出しながら右折ラインに車体を滑り込ませた。

「アミに謝るって? さっそく仲良しだな、お前ら」

「いや、そういうんじゃないですけど」

 すると、倉林さんは意地の悪い笑顔を浮かべる。

「友達を作らねーとか言いながら、女には手が早いんだなぁ」

「弁当箱を返すだけですから!」

「本当にそんだけかなぁ」

 ニヤニヤしながらそう言う倉林さんに、少しだけムッとした。

 でも、用件がそれだけじゃないのは間違っていないのだ。

 氷室さんに謝らなくてはいけない。彼女のカイゾウについて気安く触れようとしてしまったこと。自分だって苦しみを知っているはずなのに、彼女の苦しみを容易く分かち合えると思ったこと。それをきちんと謝りたい。

 返事をしない俺の顔を見て、倉林さんは意地悪な表情を消した。

「なんかあったのか?」

「うん…………たぶん、俺が悪いことを言ったから。謝らなくちゃいけなくて」

「悪いこと? 何言ったんだ?」

「氷室さんのカイゾウのこと」

 そう答えた瞬間、倉林さんは小さく「ああ」と言って頷いた。

「俺が何か悪いことを言っちゃったみたいなんです。氷室さんも所持者だとか、俺一人だけだと思って不安だったけど、氷室さんも一緒で心強いとか」

「氷室さんのカイゾウってどんなの? 辛い気持ちもお互い分かちあえたらいいね、とか? そんなこと言ったんだろ」

 大体あっていた。最後のやつは言いかけて終わったけれど。

「そりゃあ、アミに言っちゃダメな言葉だよ」

 倉林さんはジャケットの胸ポケットから煙草を取り出して、運転席の窓を開けてから煙草に火を点けた。煙草を吸う人だったんだ。

「俺、氷室さんに何も分かってないくせにって怒鳴られちゃって。確かに何も知らないから…………カイゾウなんていう気味悪いものがあることを、無神経に指摘しちゃったことで怒らせたんだと思うんです」

 倉林さんは、窓の外に向けて煙を吐き出しながら、今度は車を左折させた。

 この辺りは住宅地から少し離れたところで、あまり人の姿を見かけないところだった。カナデさんの家とは違う場所だが、ここも土地開発計画があるらしく、仮設フェンスに囲われた土地が広がっている。竣工を迎えて入居者を募っているマンションや、既に人が入り住んでいる大きなマンションも何棟かあった。

 倉林さんは俺に行き先を教えてくれないけれど、何となく目的地は分かった気がする。緊張が高まる。

 もうすぐで氷室さんに会える。そう思った瞬間、俺は最初に何て話しかけたらいいのかを考えていないことに気が付いた。

 謝ろうとしても避けられてしまったらどうしよう。いや、逆に愚痴や文句を思いっきり浴びせられる可能性だってある。でも、必ずしも言葉をぶつけてくるのかというと、そうとは言い切れない。再び殴られるかも知れないと思うと、ちょっと怖かった。

 とあるマンションの共用駐車場に車が入った。その中の、駐車位置番号が書かれたスペースの一角に車が止まる。

「一つ、教えておかなくちゃいけないことがある」

 倉林さんの顔は、なんだかとても真剣なものだった。俺に何か重要なことを伝えようとしているのは確かだ。

 彼の表情が、先に待ち構えている重苦しい何かを予感させたからだ。

「これは、カイゾウを所持する者なら決して逃げてはいけない、受け止めなくちゃいけない話だから。ぜひ聞いてほしいんだ」

「う、うん」

「さっき俺は、お前がアミに対して言ったことは、言っちゃいけないことだったと教えたな」

 俺は頷いた。

 これから倉林さんの話そうとしていることは、俺がどうして氷室さんを怒らせてしまったのかという謎を解くことにもなるのだろう。

 氷室さんが俺に言い放った“何も知らない奴”から、俺は少しだけ脱却するのだということを覚悟した。

「どうしてアミに言っちゃいけないんだと思う?」

「それは、カイゾウなんてものが体にあるっていうことは、なるべく隠しておきたい、世間に知れ渡ってほしくないって思うから。それを俺が、無神経な興味本位で知ろうとしちゃったせいだと思います」

 倉林さんは腕を組んで、小さく頷きながら唸った。

「まあ、他人に知られたくないものってところと、お前が迂闊にアミのカイゾウを知ろうとしたのが怒らせた直接の原因だというのは間違ってないと思う。言っちゃいけない理由としてはそんな感じだ」

「はい。反省してます」

「お前自身は今、自分の右腕をどう思っているんだ?」

 俺自身? この右腕を?

 もちろんと言うか、当たり前のように嫌悪感を強く抱いている。ただでさえ俺は刃物恐怖症だって言うのに、右腕そのものが刃物になってしまうなんて、考えただけでも心臓が高鳴るし、また出現したら気が狂いそうだ。

 だけど、倉林さんは言った。カイゾウは俺の臓器、体の一部なのだと。

 そんな言葉を受けて、俺が感じたのは激しい絶望感だ。

 身から出た刃は、俺自身を深く傷つけるための凶器だった。

 どうしようもなく自分が嫌悪するもの。自分にトラウマを植え付けた元凶。そんなものに俺自身がなってしまうという事態など、苦痛以外の何ものでもない。

「こんなもの、俺の体から早く消してしまいたい。そう思います」

 正直な気持ちを告げた。

 すると、倉林さんが煙草を灰皿に押し付けながら言った。

「実は、そういう考えが、今のアミを怒らせているんだよ」

「…………どういうことですか?」

 意味が分からなかった。氷室さんは、カイゾウを受け入れているってことなのだろうか。

「ハヤトのカイゾウって、ナイフだったよな?」

「はい」

「何でナイフになっちまうんだ?」

「そ、それって一体どういう意味の質問ですか?」

「なんでお前のカイゾウは、ナイフの形を選んだんだ?」

「そんなの――――」

 分かるわけがなかった。

 だけど、こうして倉林さんが話しているということは。

「――――意味が、あるんですか?」

 倉林さんは二本目の煙草に火を点けた。そして煙を撒き散らしながら、頷く。

「カイゾウは、世の中の人間全てが発症してしまう可能性があるんだよ」

「どういうことなんですか?」

「お前とナイフがどういう繋がりであるのかを、俺は知らない。だけど、お前の過去にそのナイフが深く関わっている、それこそお前に何かトラウマを植えつけるほどの深い傷を負わせたことがあるというのは分かる」

 俺は、倉林さんや氷室さんに、中学時代のあの出来事をまだ話してはいない。

 それどころか、あの出来事を知っているのはツバキと俺の家族ぐらいなものだ。事件を起こしてしまった後、俺は中学校に行くことが怖くなって登校拒否をした。そして渋々行くことになった高校も、知り合いが一人もいない学校を選んだんだ。だからツバキも、俺と同じ高校への進学を選んだ時点で、学生寮に入る必要があった。

 だからこの近辺には、高校に入学するよりも以前の俺を知っている人物はいないはずだ。だけど倉林さんの言葉は、明らかに俺の過去を指摘するようものだ。

 倉林さんの言葉では、あの事の詳細は知らないと言っている。でも、俺とナイフの関係性に何かしらの確信は得ているようだった。

 一体どういうことなんだ?

 導き出される答えは、一つ。

「カイゾウの形って、人によって違うっていうか、その人に関係するもの?」

「もちろんだ」

 倉林さんの視線は、俺ではなくフロントガラスの先を、ただ真っ直ぐに見据えたままだった。

「…………カイゾウってのは、その人の罪悪感が具現化したものであるという認識をされている」

「…………罪悪感?」

 そんなオカルトめいた話があるのか? 俺は自分の右腕を見つめながら自問した。

 でも、もし本当にこの右腕が、俺の罪悪感そのものだとしたら?

 罪悪感の具現化。それは、目で見ることのできる罪の証。罪人としての刻印。

 俺の右腕がナイフの形をしているのは、俺の抱く罪悪感をそのまま形に表しているから。それはとても信じがたい話ではあるが、そういう風に考えてみると、まさに相応しい形を取っているのだろう。

 氷室さんがどんなカイゾウを持っているのかは分からない。けれど、何故他人にカイゾウを知られることが怒りへと繋がるのかは、今ならさっきよりもずっと分かりやすい。

 単純に、自分の体の異常を隠したいということだけではなかった。

 カイゾウが所持者の罪悪感そのものであるとするならば、カイゾウを見られたり知られたりするということは、自分の罪を周囲に知らしめることに他ならない。

 誰だって後ろめたいことはある。知られたくない秘密もある。取り返しのつかない後悔だってある。

 自分の胸の内に、出来る事ならばいつまでも秘めておきたいことがある。

 そう、倉林さんがさっき言った「カイゾウは誰もが持っている可能性がある」というのは、このことだったのだ。所持者とそうでない者の違いは、そんな閉じ込めておきたい過去が表に出ているか否かの違い。

 他人のカイゾウを知るということは、そういった部分を知るということだ。

 だから氷室さんは、彼女自身の過去に軽々しく踏み込もうとした俺に対して、激しく怒ったんだ。

「自分がどんなことを言ったのか、なんとなく分かったか?」

 倉林さんが訊いてきた。

 俺はゆっくりと首を縦に振り、自分の足元に視線を落とす。

「分かってくれたのなら、そいつぁ良かったよ」

「俺、氷室さんにすごく酷いことを言ったんだ…………自分だって苦しみは知っているはずなのに、彼女の過去に土足で踏み込むような真似をしてた」

 倉林さんは煙草を灰皿に押し付けると、三本目に手を伸ばしながら話を続けた。

「カイゾウ所持者はさ、自分のカイゾウに責め立てられていると思っちまうんだ。お前は罪人なんだぞってな」

「うん」

 “思ってしまう”というよりも、まさにそれこそがカイゾウの真意じゃないのか。

「人間ってのは、誰もが罪悪感を持っているもんだよ。大なり小なり、何かしらの罪の呵責というやつは感じるものさ。それは、例えば悪い奴でも一緒なんだ」

「悪い人でも?」

 倉林さんは頷きながら続けた。

「俺の個人的な意見としては、罪悪感ってやつはある種の危険予知でもあると思っている。その行為が一般的には悪いことであると認識できないと、証拠の隠滅や逃亡の際に必ずボロが出るからだ。悪いことを当たり前のようにやってしまうと、その当たり前が世間では普通じゃないことを忘れてしまう。そして、そういった普通じゃない事実を手掛かりにして、事件は解決されていくものだ」

 倉林さんの語り口調は、なんだかその道のプロのようだった。

 この人は、本当にカイゾウ研究の関係者なのだろうか。

 倉林さんは話を続けた。

「ちょっと話が逸れたな…………俺が言いたいことはな、悪いことをしたら、その事実は残るものだ。そんなつもりは無かったという言い訳や、やむを得ない事情があったとしても、犯してしまった罪は様々な形で結果を残してしまう。その結果は本人の中に、あるいは周囲の人々の中に痕跡を残す…………でもな、ハヤト。人間ってやつは、それが無いと生きていけないんだと思うよ」

「罪悪感は、生きる上で必要だってこと?」

 倉林さんは、優しく微笑みながら頷いた。

「そうだよ。罪悪感ってのは、悪いことをした、罪を犯してしまったという自己認識だろ? そういうのを感じるってことは、自分を否定することだ。誰だって自分を認めてほしい。自分が正しいと信じていたい。そんな中で自分を否定するってことは、偏った見方よりももっと広い視野を手に入れることになる。そうじゃなきゃ、人間なんて反省することも出来ないまま、とっくに滅んでるだろうよ」

「なんだか、ちょっと難しい」

「誰もが持っていて当たり前。だから臓器…………要するに、カイゾウを所持しているお前はとても人間らしいってことさ。所持者ばかりがカイゾウに責められているなんて思うな。お前は周りの奴らと、何も変わらねえんだよ。」

 俺が、人間らしい?

 ここは人間のいる世界だ。人のいる町で、人のためのルールがあり、多くの人が暮らしている。

 そんな中で生きる俺のような奴は、存在してはいけないのだとさえも思った。

 でも、俺はここに居ていいと言う。あの診療所跡地で、自分のいるべき世界を見失いかけた俺だけれど、やっぱり俺のいるべき世界はここだった。

 倉林さんの言葉は、今の俺にとってすごく心強い言葉となった。

「カイゾウは、所持者の意思で自由に発現させることが出来ると話したな? ただ、突然出る時もあるんだ」

「え? どういう時に?」

「口の中がすっぱいもので満たされると想像しただけで唾が溢れたり、寒くなると鳥肌が立ったりするだろう? それと同じように、罪の意識を強く感じたりすると急に発現することがある」

 俺は、数日前まで続いていた腕の違和感を思い出した。

 まさか、日ごろからずっと罪の意識に苛まれて暗く生きてきたことが、カイゾウを発現させたのかもしれない。

 いや、でもそんな人なんて、この地球上にはたくさんいるだろう? じゃあ何故

、俺が?

「アミは以前、昔の自分を夢の中で見て、寝ている間にカイゾウが発現しちまったことがあるんだよ。それ以来、無意識にカイゾウが出てきても困らないようにって、首をずっと隠すようになったんだ」

 だからマフラーをつけているのか。マフラーそのものには特別な深い思い入れがあるわけではなく、彼女は自分のカイゾウを、自分の犯した罪を周囲の目から隠すためにマフラーを巻いていたのだ。

 俺がカイゾウを初めて発現させたあの日、氷室さんのマフラーを切り裂いてしまった。その後彼女は、露出した首をしきりに擦っていたけれど、あれは首が繋がっていることを安心していたわけではなく、晒されてしまった首からカイゾウが発現しないかとずっと気にしていたんだ。

 全てに合点がいった。氷室さんが俺に向かって言っていた言葉の意味も、今なら全部分かる。

「カイゾウ研究のために、アミにはどうしても自発的にカイゾウを発現してもらうことがある。でも、カイゾウを発現させる度に、あいつはすごく辛そうな顔をするんだよ。こないだ、お前が自分のカイゾウを見て浮かべていたような顔を」

 話を終えた倉林さんは、三本目の煙草を灰皿に押し付けながら、しばらく黙ったままでいた。

 俺はそっと助手席のドアを開いて車を降りると、倉林さんに視線を向けた。

 今なら、俺は何も知らないわけではない。

 氷室さんの過去に何があったのかは分からないけれど、彼女と同じように過去の罪で苦しんでいることは確かだ。

 俺はやっぱり、彼女と話がしたい。

「倉林さん……俺」

「二○○五」

「え?」

「アミの部屋だよ。話がしたいって言ってたろ?」

「…………ありがとう」

 一言だけ礼を告げてから、俺はマンションの共用玄関へと向かった。

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