第5話 まだ何も知らない
カイゾウの発現から一晩が経った。怒涛の勢いで様々なことに見舞われた昨日よりも、今は幾分か頭の中がすっきりしている。
左頬に触れてみると、口腔内に響くズキズキとした痛みが今でも感じられる。そう言えば、昨日という一日はこの痛みから始まったのだ。
ここ数日、俺をイライラさせてきた右腕の違和感は、今ではすっかり消え失せていた。
しかし、その代りに“カイゾウ”という正体を曝け出し、再び表に出る時を今か今かと待ち構えているような状態だ。
昨晩の病院での診察が終わった後、俺は倉林さんの車で家まで送ってもらった。その車中で、俺はいくつかの注意事項を言い渡された。
一つ、人前でのむやみなカイゾウ発現は極力避けること。
二つ、カイゾウに関する情報をむやみに部外者へ話さないこと。
三つ、二つ目の注意事項の特例として、カイゾウ研究に協力をする場合は、カイゾウのことを包み隠さず家族に話すこと。
一つ目と二つ目に関して言えば、俺は何も心配要らないと考えている。当たり前だ。こんなものを誰かに見せられるわけないじゃないか。俺自身、二度と見たくなどないのだから。
しかし、三つ目は少し曲者だ。
カイゾウ研究には協力したい。研究が進むことで治療法が見つかるのであれば、俺は研究材料になることへ一切の躊躇などない。
だが、そのために家族へ全てを打ち明けなくてはいけないということに、大きな抵抗があった。
俺が未成年であるが故に、研究への協力行為には保護者の同意が必要だという。それは至極全うな理由だと思う。
それでも、俺は家族にカイゾウの存在を知られることが怖かった。
父さんや母さんが俺に対してよそよそしいのは、中学時代に人を傷つけた俺への配慮であり、精一杯の愛情だ。
だけど、同時に“恐れ”でもあるのだ。
あれは事故だった。しかし事故とはいえ、俺は取り返しのつかないことをしたのだ。
あの時の親友は、右大腿の傷が思いのほか深く、結局片足が動かなくなってしまったのだ。
大量出血により危ぶまれた命は、なんとか助かった。しかしそれと引き換えに、彼は全身全霊を注いで打ち込んでいた陸上が二度と出来なくなった。あんなに力強かった親友の走る姿は、もう二度と見ることが出来ない。
俺は、親友に謝りたい気持ちで連日彼の家に訪れたが、彼の両親にいつも門前払いをされ続けた。俺の両親も幾度となく謝罪の為に通ってくれたし、手紙も治療費も出し続けた。
しかしある日、親友の家族から言われた。
――――謝罪も治療費も要らないから、もう関わらないでほしい――――
俺達家族は諦め、親友と過ごした町を離れて、この九木戸市にやってきたのだ。
俺の罪が、家族の運命を丸々変えてしまった。
両親は、そんな俺を励まそうと努力をしてくれた。
しかしその結果が、よそよそしくてぎこちなく、そして本心では恐怖に縛られた相葉家の日常となった。
だから俺は、これ以上両親に負担を掛けたくない。これ以上両親に怖がられたくない。
結局、昨晩はカイゾウのことを両親に打ち明けられないまま。顔の傷についてだけ、喧嘩をしてしまったと話して誤魔化した。
そして今に至る。今朝は矢田部達の勧誘も無いようだ。
校舎の正面玄関を潜ると、俺はポケットからケータイを取り出して、時刻を確認した。時刻は予鈴が鳴る十分前だった。
このケータイ、倉林さんから連絡先を教えてもらったので、持ち歩くことにした。
「おはよっ!」
いきなり肩を叩かれた。叩いたのは、眼鏡を直しながら朗らかな笑顔を向けるクラスメイトだった。
「おはよう、時任さん」
「えー、カナデって呼んでくれないんだー」
「え? いや、いきなりちょっとそれは」
わざとらしく頬を膨らませた彼女は、下駄箱から上履きを取り出しつつ言った。
「じゃあいつになったら? いつ気軽に呼んでくれるの?」
「…………慣れたら」
「いつ?」
「あーんー…………じ、じゃあ、カナデ、さん」
「んまあ、よし!」
未だ靴を履き替えていない俺に、カナデさんは「急げぇー!」と文句をこぼした。
教室までの距離を、多くの生徒とすれ違いながら歩いていく。今までも毎朝こうしていたけれど、たいがいは隣にツバキがいた。
俺と一緒に歩く人なんて、突き放しても付いてきたツバキしかいなかった。
しかし、今はツバキ以外の人と歩いている。
不思議な感じがした。
人との関わりを拒み続けて、いつしかそれは生活習慣と呼べるぐらいまで身についてきたことだったのに。昨日の今日で、こんなにもあっさりと他人を受け入れることが出来るなんて。
それはやっぱり、心の奥底で望んできたことだからなのだろう。
変われるだろうか。少しだけ、心を開いても許されるだろうか。カナデさんの言っていたように、罪を償うためにも新しい世界へ身を投じてもいいだろうか。
昨晩のカイゾウ発現だって、俺を救ってくれた人との出会いがあったから、今、こうしていられる。
ここには、誓いを立てるなどということなんかせずに、ただネクタイを締めて家を出てきただけの俺がいる。
昼休みのチャイムが鳴ると、俺は教室を出て隣のC組を覗き込んだ。
しかしそこで、友人達と弁当を広げようとしていたツバキに見つかってしまった。
「ハヤト! 珍しいね、どうしたの!?」
ツバキは俺の顔を覗き込むように、ぐいぐいと近づいてくる。
「あ、ああ。いや、別に」
彼女の頭を飛び越えて、教室の中に視線をやった。C組の生徒の視線がいくつもこちらに向けられていることに気づき、もう俺とツバキの関係について誤解を解くのは難しいんじゃないかと思った。
「ふーん…………それより、今朝はごめんね、一緒に登校できなくて。やっぱり朝練出ろって言われちゃって」
「いや、いいよ。そうするべきだよ、本当に」
それよりも、俺がC組にやって来た理由は氷室さんだ。やはり、どうしても彼女に一言謝りたい。
昨晩の病院の帰り。倉林さんに家まで送ってもらう最中に、氷室さんに謝ろうとしたのだが、氷室さんから「話しかけないで」というオーラが発せられていた。車内の空気が妙に重たかったのを憶えている。
倉林さんのフォローも期待していたのだが、彼も氷室さんから発せられる雰囲気に少々気圧されている様子で、そこだけはどうにも頼りなかった。
だから何としても今日は謝りたい。そう思ってきた。
ツバキの顔を見ると、今日もリボンをつけていないツバキの首元が目に入った。第一ボタンが外れたワイシャツの隙間から、鎖骨を覗かせている。
際どい角度に気付いた俺は、とっさに顔を背けてしまった。こんな反応を示したら、やらしい気持ちで覗き見ていたことを証明しているみたいじゃないか。
「あ、あのさ!」
「何?」
「氷室さんって、今日学校に来てるの?」
俺は教室内をキョロキョロとする動作で、気まずい視線を誤魔化した。
しかし、俺が氷室さんの名前を口にした途端、ツバキの表情がやけに不機嫌そうになる。
「なんで不機嫌そうにしてるんだよ?」
「“不機嫌そう”じゃなくって、不機嫌なの!」
ツバキはそう言い残して、弁当を開きかけている自分の席に戻っていった。もしかして、怒らせてしまったのか?
諦めてD組に戻ると、他の女子と一緒に教室を出ていくカナデさんとすれ違った。
「おお、ハヤト君」
なんだろう? 急に呼び止めた彼女が、なにやら怪しい笑いを浮かべているのだが。
「君、二股は良くないからね」
そう言い残してカナデさんは去っていき、彼女と行動を共にしていたクラスメイトの女子も、去り際に「相葉君ってモテるんだねー」と笑っていた。
不可解に思いながらも自席に戻ると、その理由が一枚のメモ書きとして机に置かれていた。
『屋上にきてください 氷室』
すぐにそのメモを丸めて捨てたが、他にも見た人はいるのだろうか。
どういうわけだか入れ違いになったらしい。それとも、俺に直接言うのが嫌でわざとこうしたのか。
なんにせよ、やり方に問題がある。先々のことは考えてほしいものだ。
とにかく居場所が分かったので、俺は屋上へ上がって行った。
九木戸高校の屋上は、昼休みに限って一般生徒に開放されている。常時閉鎖としている学校が多い中、珍しくもこの学校では、花壇やベンチなどを設置して交流の場としているのだ
しかし、屋上へ上がってきたが、見渡す限りでは氷室さんの姿がどこにも見当たらない。おかしい。待ちきれずにどこかへ行ってしまったのだろうか。
すると、後ろから肩を叩かれた。
「こっち」
氷室さんがいた。いつも通りのきちんとした制服の着こなし。そして、首にはレモン色に白い水玉模様があしらわれたロングマフラーを巻いていた。
そうか。いつもの白いやつは俺がダメにしちゃったから。
手招きする彼女は、俺が出てきた屋上階段室の後方に入り込んでいった。
そこは日の光も当たらず、貯水タンクや角ばった空調設備などがずらりと並んでいて、足元も大小様々な配管が走っている。お世辞にも昼食を食べるのに適した、綺麗な環境とは言えない。
「な、何でこんなところに?」
「あたし、お昼ご飯はいつも屋上で食べてるから」
俺の質問の真意はそういうことではないんだけど。
俺は周りの生徒達がこちらに気付く前に、氷室さんの後に続いていった。
彼女が入り込んだのは、クリーム色に塗装された外装を持つ大きな設備機器に囲まれた、三畳くらいの空間だった。四角く囲まれたこの場所は、完全な死角となっている。スペース内の四辺には頑丈な太いパイプが走っていることから、ベンチのように腰かける場所もある。
氷室さんはいつも、こんなところでお昼を食べているのか。表の花壇とベンチがある空間とは打って変わって、さながら小学生の見つけた秘密基地といった感じだ。
「呼び出した用事って、人には聞かれちゃまずい話?」
そう尋ねると、氷室亜美はちょっと考え込むようにしながら頬を膨らませた。
「別に。周りはそれほど他人を気にしないわよ」
「じゃあなんでこんな場所?」
「私が好きな場所だから!」
こんなところが? 確かに、“誰にも干渉されずに一人でいたい”ということならば、うってつけなのかもしれないけれど…………。
「氷室さんって、一人でいるのが好きなの?」
「あなただって友達いないでしょ?」
ずいぶんとストレートな物言いをするんだなと、半ば呆れてしまった。
「言っとくけど、わざと作らない努力をしてただけ」
「それが目立つの。普段誰とも話さないから、刈谷さんと一緒に話してるだけで付き合ってるとか噂されちゃうのよ」
氷室さんが勝ち誇ったように言う。
しかし俺から言わせてもらえば、季節外れのマフラーなんかを首に巻いて、しかもそれを常時外すことなく過ごしている彼女の方こそ目立つと思うけれど。
「何か言いたそうね?」
「…………マフラー、目立ってるけど」
「あたしは気にしない性質(たち)だからいいの!」
なんだか不機嫌そうな顔を作りながら、氷室さんは仕方が無いといった様子でその場に座り込み、弁当を広げ始めた。手ぶらの俺も仕方が無く、向かい合うように座る。
すると彼女は、今度は怪訝な表情を浮かべて俺を見た。
「おなか空いてないの?」
「俺、いつも学食か購買に行くんだけど、今日はメモを見てそのまま上がってきちゃったから」
「あたしのせい?」
そういうつもりで言ったわけではないのだけれど、彼女に言われて初めて、俺は氷室さんのせいで昼飯が無いんだなと思った。
「ちょっとなんか買ってくるよ」
「いいわよ。これあげるから」
彼女は、裏返した弁当の蓋の上に、自分の弁当をご飯からおかずまで半分ずつ載せ始めた。
「話す時間がなくなっちゃうでしょ?」
いきなり女子生徒に呼び出されて、屋上の片隅で二人っきり。しかも一つの弁当を分け合って食べるなんて。
俺には似合わない展開だ。頭が痛くなりそう。
「箸はいいから。俺、手で食うよ」
「バッカじゃないの!? 当たり前でしょ!」
そうですか…………。
彼女が恵んでくれた弁当をつまみながら、俺は彼女が話を切り出すのを待った。
すると、卵焼きに箸を伸ばした瞬間から、彼女が言った。
「えーと、とりあえず一つ目…………決断できた? カイゾウ研究の協力の話」
「いや、それはまだ」
「そっか。やっぱり抵抗あるよね。“所持者”になるのって」
「“所持者”?」
「カイゾウを持つ者のことを、私達はそう呼んでいるの。研究対象となることを了承した所持者には、カイゾウの治療に関する一切の費用負担が無くなるし、それ以上の謝礼も支払われることになっているんだけれど、やっぱり悩む問題よね」
「昨日も聞いたけど、研究協力を受けると待遇が良いんだね」
「まあ、そういうのが認められてしまうくらいに、カイゾウってものには研究価値があるんじゃない?」
こんなものに?
俺は自分の右腕に視線を落とした。世界っていうのは時々、狂っているとしか思えないような回り方をすることがあるみたいだ。
自分の右腕から視線を外すことなく、ぽつりと呟いた。
「ただ、こういうのって両親はどう思うかな?」
やはり俺が気になるポイントはそこだ。今の両親に、俺のこんな姿を見せても大丈夫なのだろうか。
しかし、氷室さんの口からはこんな言葉が飛び出した。
「…………親離れ出来てないんだ」
氷室さんの言葉に、妙な恥ずかしさと静かな憤りが湧き上がる。
「そんなこと言ったって、俺達はまだ高校生だ。未成年なんだし、親には世話になってる。だから家族としてそういう大事なことは」
「もういいわ!」
怒っているのは俺のほうなのに、何故だか彼女のほうが激しく憤っているように感じられた。
「話進めるわよ」
明らかに機嫌を損ねていることが分かる、投げやりな物言い。そんな態度がなんだか腹ただしい。
「じゃあ次、二つ目ね…………その、昨日はごめんね」
「えっ?」
腹が立ったかと思えば今度は拍子抜けする一言。
彼女の言動があまりにも予想外で、それでいて彼女の謝罪に思い当たる節がなくて、俺は思わず固まった。
「何が?」
「だから、廃屋の中でいろいろと挑発的な言い方をしたこと」
なんだか、先を越されてしまった気がした。
昨晩の会話の内容はよく覚えていないが、俺は俺で結構強く言い返していた気もするし、彼女を酷く怯えさせてしまった件もある。謝りたいのは俺だって同じなのだ。
「…………いや、俺の方こそごめん。マフラーも…………その、首も…………」
氷室さんは、口をもごもごと動かしながら頷いた。
「うん。私があんなに強く言ったのは、その、いくつか理由はあって」
「でも、俺がその…………自殺をしようとしたから、でしょ?」
彼女は少し考えるように押し黙り、構えていた箸を下げた。
「氷室さん達には正直感謝してるんだ。あそこで止めてくれなかったら、俺、たぶん本当に…………」
「私がね、あんなに強く言ったのは、言葉の通り。あなたが自分のカイゾウに悲観するあまり、何もしないまま命を絶とうとしたから」
「“何もしないまま”って言うのは……逆に、俺に何をしろって意味なの?」
「…………償い」
俺は彼女の言っていることが少し分からなくなってきた。
それはつまり、俺が見つめている問題点と、彼女が見ている問題点に違いがあるからじゃないだろうか。
そう。たぶん、俺はまだ“何かを知らない”んだと思う。
「あのさ、これを見てくれる?」
彼女が弁当と一緒に持ってきた手提げバッグの中には、薄い冊子が一部入っていた。
氷室さんはそれを取り出して俺に渡すと、彼女はそそくさと弁当の残りを頬張り始めた。
冊子は九木戸市が発行している広報誌。月に一度、家のポストにも入れられているアレだ。
そして彼女の持ってきた広報誌は、あるページに付箋が貼られていた。
そこを開くと、最近九木戸市内で起こっている問題事件について記事が書かれていた。
「市内でいたずら被害?」
それは、九木戸市内で様々なものが切断されてしまうという事件を紹介した記事だった。
「これの犯人、私は捕まえたいと思ってるの。そしたら、あなたがカイゾウを出現させていた」
「え? それってまさか」
「ちょっと早とちりしちゃって…………てっきり、あなたが本当は病院に来る前からカイゾウを発現させていて、このいたずらをしているんじゃないかと思ったのよ」
「えー、ちょっとぉ」
それはあまりにも酷い話だ。
俺はつまり、冤罪であそこまでボロボロに言われたということか。
「ちょっと酷い。早とちりにも程があるというか」
「でも! だって! あれよ? ほら、記事読んで。車とか自転車を切断って、これどんな風に切れてたか分かる?」
彼女が慌てたように言う。
「記事にも手の込んだ作業を要するいたずらって書いてあるでしょう? すごいのよ、まるで豆腐を切るみたいに車や自転車がスパスパと切られていたんだから。そんなことが出来るのなんて、カイゾウを疑いたくもなるわよ」
「どういうこと?」
「あなたの右腕もおそらくそうだと思うんだけど、どれぐらいの切れ味があると思う?」
切れ味って。
思い浮かべる光景は、氷室さんのマフラーを切り裂いた時のこと。そう言えば、カイゾウの刃がマフラーに触れた瞬間から、白いマフラーはまるで大空の雲が一瞬にして霧散するみたいに、手応えもないまま切れていったっけ。
本物のナイフだったら、いくらなんでもあそこまでは切れない。
「たぶん、ものすごく鋭いと思うのよね。そのナイフ」
「な、なんでさ!?」
「カイゾウってね、所持者のイメージがものすごく反映されるの。あなたがナイフに対して抱いているイメージってやつが、そのままカイゾウとなって形を成すんだもの。当然かもね」
俺がナイフに抱くイメージ? そんなの…………そんなの、想像したくもない。
簡単に親友の体に沈んでいった。人間の体っていうのは案外硬いものなのだと、昔テレビで見たことがあって、まさか自分の手にしたナイフがあんなに深く突き刺さるなんて思いもしなかった。
信じられなかった。俺は、刃物があんなに怖いものだとは思わなかった。
「俺の…………イメージ?」
氷室さんは静かに頷いた。
だからって、俺はやっていない。間違いなく俺は犯人ではない。絶対に違う。
「俺はやってない」
「だから! さっき謝ったじゃない!」
疑いが晴れたからと言って、そんな簡単に呑み込めるものか。
この記事にあるいたずらが、彼女の言う通り現実的ではない芸当であるとするならば、本当にカイゾウが?
そう思っていると、氷室さんが言葉を続けた。
「私、この事件の犯人を捕まえないといけないと思う」
「え、なんで? 探偵のつもり?」
「そんなんじゃない! そんなんじゃないけど…………でも」
氷室さんの言葉は、徐々に小さくなっていった。
「あ、あの……氷室さん?」
「そうすることで、もしかしたら許されるかも知れないじゃない」
「え?」
「前からずっと考えてたの。どうしたらあたしは許されるのかなって…………でも、過ぎちゃった時間ってのは取り戻せないでしょ? やってしまったことを過去に戻ってやり直すなんて、誰にも出来ないでしょ? だから、取り返すんだったらこれからの時間を使うしかないの! 償うんだったら、今しかないの!」
彼女がそう言った。
俺には、彼女の素性なんてまだ何も分かっていない。
でも、心のどこかで感じている、彼女との近しい部分を垣間見た気がした。
「許されるって、それに償うとかって?」
氷室さんは真剣な眼差しをしたまま、どこか深いところを見つめるように俯いた。
次にどんなことを言うのかとしばらく待ったが、そこには気まずい沈黙が流れるだけ。
その沈黙の理由が、俺にはさっぱり分からない。それに彼女は、事件の犯人を見つけることに一体どんな意味を見出しているのだろうか。
時間にすると二分くらい。飽きるほど固まっていた氷室さんが、突然、静かにため息を吐いた。
「…………正義って、自分から動かないと守られないじゃない」
正義? 前にバスの中で話した時の彼女が、再び顔を見せたみたいだった。
「正義とかって、そういう気持ちをバカにするつもりはないけどさ。なんで氷室さん自身に課せられていると思うの? 正直、そこまで強く想うことが出来るのかな?」
「え?」
「いや、別に悪くは無いと思うよ! バカにもしない! だけど、なんつーかさぁ…………突拍子が無くて、その」
言葉を探り探り、慎重に選びながら発していく俺。
今言ったとおり、彼女のような考えも素晴らしいとは思うけれど、先ほどの“償い”とか“やり直す”という部分にどうも繋がらない。
そんな風に思っている俺を他所に、彼女はより一層、表情に深刻な色を浮かべて呟いた。
「カイゾウをそんな風に使うなんて…………許せないよ」
俺への疑惑は晴れたはずだ。だけど、彼女はそう言ったのだ。
その言葉の意味は、ある一つの結論となって俺の中に現れた。
「ね、ねえ。もしかしてだけど、カイゾウ所持者って他にも」
「何を驚いてるの? 誰も、所持者があなた一人だなんて言ってないから」
いるのか。こんな禍々しい臓器にとり憑かれた人が、他にも。
そう思った時だった。ふと、氷室さんの首に巻かれたマフラーが目についた。
こんな考えが過ぎってしまったんだ。
そんなものを常に首に巻いている理由は、もしかしたら。
彼女が倉林さんと知り合いである理由は、もしかしたら。
事件の犯人が所持者であると疑う理由は、もしかしたら。
間違っていたら怒るかも知れない。だけど、それでも訊きたいと思ってしまう。
自分の過去に責められ続けながら、一人で生きていくことを誓った俺だった。でも、そこに更にカイゾウなんていうものが圧し掛かってくると、問題が一気に重くなって辛いと思っていた。
だけど、俺にも、もしかしたら同じ気持ちを分かち合える仲間がいるんじゃないのか。そう思うと、いてもたっても居られなかった。
「ね、ねえ、氷室さん」
彼女は無言のまま、俺を見た。
「あのさ、もしかして――――」
結局、人間は一人では生きていけないんだ。
時任さんの言うとおりだ。
「――――間違ってたら謝るけど――――」
俺って、最低な奴だ。
「――――君って所持者なの?」
彼女の表情は変わらなかった。
いや、本当に変わらなかったのか? わずかに反応するのを見た気がした。
「や、やっぱりそうなの?」
それでも、彼女は何も言わなかった。
そんな、何か言ってほしい。もし本当に彼女も所持者だと言うのなら、この痛みを分かち合いたい。
俺達は仲間だ。気を許し合える、数少ない仲間なんだ。
「そのマフラー、カイゾウを隠すため?」
「言わないで」
「俺、こんな気味悪い病気になったのは一人だけだと思ってた。すごい不安だったんだ」
「だから言わないで」
「でも、本当に! 本当に安心したんだ。良かった。本当に良かったよ!」
「何が良かったってのよ!」
彼女が怒鳴った。
何故彼女が声を荒げるのか、理解できなかった。
しかし、俺の思いも止まらなかった。
「本当にそう思うんだ! 俺、今まで友達を作らないようにって頑張ってきたけど、やっぱりどこかで寂しいと思ってた。それなのにこんな、カイゾウなんて病気を持っちゃって、さすがにこれ以上は辛すぎると思ってたんだ。そりゃあ、氷室さんだってカイゾウなんて早く治したいと思ってるかも知れないけどさ。一人じゃないって分かれば、ちょっと元気が出て来ない? ねえ、出るでしょ!?」
「うるさいな! そんなこと言わないでって言ってるでしょ!」
「なんでさ!? 助け合っていこうよ! 俺だってこんな右腕嫌なんだ! それに、なんでよりによってナイフなんだよ! そんなの嫌だ、今すぐ引き離したい!」
「…………あんた、何も知らないでそんな」
「ねえ、氷室さんのカイゾウってどんなの? 俺は右腕だけど、やっぱり氷室さんもナイフが? あ、でも首を隠してるんだから、首からナイフが出るってこと? ねえ、そういうのもちょっとずつ分か」
その瞬間、俺の視線が大きく横に逸れた。視界からいきなり氷室さんがいなくなり、頬が熱くなっていく。
そして、じわじわと刺すような痛みが広がってきた。
今のって、平手打ち? まさか、殴られたのか?
俺は左頬を押さえながら、視線を氷室さんのほうに戻した。
痛みは矢田部達にやられた時のダメージと重なって、俺を黙らせるには十分すぎるくらい、頬を刺激する。
「あ、あの」
「何も知らないくせに…………あんたなんて、何も知らないくせに!」
彼女が叫んだ。
何が起こっているんだろう。何で怒らせてしまったんだろう。
ただ呆然としていると、彼女の目が徐々に潤んできているのが分かった。
そんな、まさか、また泣かせてしまったのか。
「あ、えっと……ごめ」
「話しかけないで。もう、口もききたくない」
そう言うと、彼女は足元に弁当箱を残したまま立ち上がり、その場から去っていった。
追いかけようとしたら、少し離れたところに何人かの生徒が見えた。
思わず足を止めてしまったけれど、その間も氷室さんの泣き顔が俺の心をぎゅっと締め付けてくる。
しばらく放心状態だった俺の意識は、急に吹きつけてきた強風によって引き戻された。彼女の残した弁当箱を片付けると、俺は屋上を下りて教室へと向かう。
しくじった。俺が無神経過ぎたんだ。
俺は自分のカイゾウに対してどんな気持ちを抱いている? それを考えてみれば、氷室さんが怒った理由なんて分かりそうなものじゃないか。
カイゾウなんて気味の悪い醜悪なものを、他人に軽い気持ちで話せる人なんているわけがない。それなのに俺は、無神経にもそんなことを彼女に言ってしまったのだ。
目の前から怒って去ってゆく氷室さんの表情を振り返ってみる。あれは相当に激怒している様子だった。
いや、本当に鬼のような顔だったか? もっと深いところで、違う顔があったじゃないか。
それは、カイゾウというものに気安く触れられてしまう、それ自体に対する恐れと悲しみだった。
やっぱりそうなんだ。
俺はまだ“知らなさすぎる”んだ。
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