第3話 時任カナデ

「なあ、相葉ぁ」

「え?」

 急に呼び止められた。その声にはあまり馴染みがなく、誰に呼ばれたのかは分からなかった。

 次の瞬間、顔の横にとてつもない衝撃が来たかと思うと、一瞬にして目の前の景色が大地震を起こしたみたいに激しく揺れた。

 何が起こったんだ? 訳が分からないうちに、自分の体が壁に叩きつけられる。いや、壁じゃない、地面だ。俺、転んでるんだ。

 なんで転んでいるのかを確かめようとして顔を上げると、そこには見覚えのある顔が映った。さっきの声の正体だって今なら分かる。

「矢田部?」

 そいつの名前を口にした時、左頬の内側に何か綿を詰め込んだような、妙な感じに気が付いた。なんだか発音がしづらい。

「鈍いなぁ、相葉。お前、まだ状況分かってないの?」

 頬の違和感と、熱いぐらいの体温の上昇。そして遅れてきた痛み。

 ああ、殴られたんだ。

 額に汗がじわじわと滲んできた。

 矢田部の隣には、背が高くて手足も細い、同じ学校の制服を来た男子生徒が二人いた。一人は細い目でじっと俺を睨み付け、もう一人はうっすらと黄色い前歯を覗かせながらニタニタと笑っている。

 二人とも髪は脱色していて、制服の着崩し方も随分と慣れているようだ。その様子から、入学したての一年生には見えない。

 ニタニタした方は血気盛んなのか、しきりに自分の右拳を擦っていた。

「相葉ぁ、お前さ…………先輩の頼みごと断ってんじゃねーよ」

 矢田部も笑っている。

 今更ながら事情が呑み込めてきた。要するに、こないだの食堂での勧誘を続けようってわけだ。

「こちら、陸上部の先輩方。俺が誘ってもお前はうどん食うのに一生懸命だったから、先輩が直接勧誘してくれるってさ」

 俺は立ち上がりながら周囲を確認した。もちろん狙ったのだろうが、今はちょうど人通りが無い。

 ここは、俺が家から学校に向かう途中の通学路。まさかこんな朝っぱらから面倒事に巻き込まれるなんて思わなかった。今日はたまたまツバキと一緒じゃないのは運が良かった。あいつ、今朝は珍しく「朝練に行く」と言っていたから。

 後方、つまり家に戻るルートだったら振り返って逃げられるかも。現役の陸上部員より帰宅部の俺の方が速ければ、だけど。

 自分の膝が少しだけ震えていることに気が付いた。情けないな、汗が更に噴き出てくる。

「本当はもっと早く勧誘に来てやりたかったんだけどさ、お前いっつも刈谷と一緒だもんな。しかも昨日は病院行くからって早退。ははっ、こんなにもお前を追いかけちゃう俺たちってかわいそうだろ?」

「…………うるせぇ」

 今度は右腕ごと蹴り飛ばされて、俺はよろけた。その衝撃が原因なのかは分からないが、右腕の違和感が少し増したような気がする。

「ええ!? 今なんつった? 小さくてよく聞こえなかったぁー。大きな声で言ってみろよ」

 俺を蹴飛ばしたのは、細目の方だ。一見ひょろっとして見えるけれど、なんだかんだで運動部員だ。蹴りの威力もそんなに軟弱ではない。

「今日は刈谷いないもんなぁー。あいつ、いつも朝練さぼってるから、昨日きちんと叱っておいたんだ。お前には悪いことしちゃったなぁ」

 ニタニタ顔は、さっきよりも歯を大きく見せて笑った。

 やけに腹立つ笑い方だ。俺は、真っ直ぐ立ち直すと、ニタニタ顔を睨み付けた。

「ん? なんだよ?」

 人と関わることを避けてはいるが、こういう時ぐらいは思いっきり関わってやる。そうだ、このままなんて悔しくて我慢できるか。

 お前らみたいなのに好き勝手されて黙っていられるほど、世の中に関心がないわけでもないんだよ!

「なんか文句ありそうじゃん。声出せよ」

 胸倉を掴まれて、ニタニタ顔がぐっと目の前まで近づいてきた。

 口臭と黄色い歯。こいつ、分かりやすい野郎だ。

「…………くせえ」

「はぁ?」

「陸上やってるくせに、タバコなんか吸ってんじゃねえよ」

 俺の言葉を聞いて、一瞬だけ固まった三人は、顔を見合わせた後に大きな声で笑い出した。

「やっべえー! 俺お説教されちゃったー!」

「あははははっ! すっげー怖えーっ!」

 いつまでも胸倉を放さないニタニタ顔を突き放そうと、俺はこいつの胸倉を逆につかみ返した。

 その時だった。

「痛っ!」

 今まで、僅かな違和感を覚えていただけの右腕に電気のような痛みが走った。

「痛っ! じゃねーよオイ! てめえ、何で先輩様の胸倉掴んでんの?」

 ニタニタ顔が俺を掴んだまま、激しく前後に揺さぶる。

 それを止めさせようと、俺も掴みにかかるのだが…………さっきから右腕が激しく動く度に、腕の中の筋肉繊維を一本一本ペンチでつまむかのような激痛が響く。

「は、放せよっ!」

「放せよだって! こいつ怒ってるよー!」

 もう頭に来た。

 俺は右拳を強く握って、なおも揺さぶりを止めないニタニタ顔の横っ面めがけて大きく腕を振った。

 そして俺の拳が奴の顔に当たった瞬間、今までにない強烈な痛みが腕の中を駆け巡った。

「うああっあっ…………!」

 思わずうめき声を漏らす。

 対してニタニタ顔はと言うと、さほどダメージもない様子だ。しかし、俺に反撃されたことが相当気に食わなかったのだろう、笑いを一瞬で消して何度も何度も俺のことを殴り続けた。

「あはははっ! こいつ悲鳴あげてやがんの」

「こいつっ! こいつ! 死ねこらッ! 誰にケンカ売ってんだぁっ!」

 顔の痛みと右腕の痛みで、思わず屈んでしまう。なおもひたすらに蹴り続けられていく。時間にしたら一分くらいだろうか。散々蹴り続けられる中で、俺はいつの間にかカブトムシの幼虫みたいに身を丸めていた。

 ニタニタ顔の息切れが聞こえる。

「さって、今日の勧誘はこんぐらいにしとく?」

「だな。遅刻しそう」

「また誘いにくるからー」

 去り際にもう一発蹴りが飛んできた。

 その時、俺は体を更に丸くして、自分の右腕を必死に隠した。だけど、自分の腹で圧迫するだけでも痛みが走る。

 しばらく目を閉じたままじっとしていたが、やがて周囲には誰の声も、気配もなくなった。

「くっ……うあああぁぁ…………ちくしょぅ、痛えぇ」

 ようやく立ち上がれる。だが、その時も右腕を支えにするわけにはいかなかった。

 まさか折れているのだろうか。いや、でも動く。肘も曲がるし、指も一本ずつ動かせる。

「訳分かんねーよ」

 足跡まみれの制服をはたきながら、転がっているカバンを拾った。

 試しに右腕で掴んでみたが、荷重を掛けるよりも早く左手に持ち変えてしまう始末だ。

 どうしようか。家に戻れば母さんに見つかるし、そうなれば絶対に、この姿について訊かれるだろうな。かと言って、自分の顔も確認しないまま教室にでも入ったら、ひどく騒がれそうだ。

 …………騒がれるかな。俺、あのクラスの中ではずっと気にかけられないように過ごしてきたのに。

 ふと、昨日の朝まではいつも一緒に登校していたツバキの騒がしさを思い出す。

 あいつだったら、今の俺を見たらすごく騒いでくれるんだろうな。

 とにかくここにいたって仕方がない。俺は学校へ向かうことにした。頭も足取りも重たくは感じたが、幸か不幸か右腕の激痛のせいでさほど気にならない。

「くそっ。昨日診てもらった時は異常なかったのに」

 結局朝のHRには間に合わず、俺は一時限目の途中で学校に着いた。なので、そのまま教室には行かずに保健室に立ち寄った。

 保健の先生に怪しまれながら、怪我の様子を診てもらう。先生の向かいに座って手当をしてもらっている間は、ひたすらに質問攻めとお説教だ。

 不思議なことに、あれほど痛かった右腕も今ではわずかに違和感を残すだけで、ほとんど痛くはない。

 氷袋を一つ借りて教室に戻ったころには、既に一時限目は終わっていて休み時間になっていた。

 教室に入る前から、廊下ですれ違う同級生たちの視線が突き刺さる。入学時から守り続けてきた静かな学校生活は、少しずつ壊れてきている。

 自分の席に着くと、隣の時任さんがものすごい顔をしていた。

「何それ!? どうしたのっ!?」

「騒がないで。何でもないから」

 二時限目の用意をしながら矢田部の席を見ると、彼は無表情のまま座席の上で俺をじっと睨んでいた。

 お前らにやられたぐらいで休んでやるか、バーカ。

「何でもないわけないじゃん! 転んだとか言わないでよね」

「転んだ」

 呆れた様子の時任さんから視線を外すと、ツバキが教室に入ってくるのが見えた。立て続けに見られるのは嫌だったのだが、悪いことってのは重なるものだ。

「…………ハ、ハヤト?」

 ツバキは、昨日貸した辞書を片手に持っている。

 俺はなるべく左頬を見られないような角度で構えたが、ツバキはたやすく俺のダメージを見抜いた。

「ちょっと……ちょっとぉ! どうしたのよそれ!?」

「ころ」

「転んだ傷じゃないよそれ! …………ほっぺた、色が変だよぉ」

 ツバキの目が涙ぐんでいる。

 もはや隠すものがなくなったので、俺は堂々と氷袋を左頬に当てた。

 今日は厄日だ。そう思ったが、俺にとっては毎日が厄日みたいに陰鬱な日々なのだから、この程度でいちいち沈んではいられない。

 時任さんにどれだけ呆れられようとも、ツバキにどれだけ泣かれようとも、俺は今日も通常通りに過ごすだけだ。

 もう一度矢田部を見ると、奴も俺から視線を外していなかった。

 むしょうに腹が立つ。

 その後は二時限目の授業が始まり、教室に入ってきた担当の先生が俺を見るなり声を上げた。既にツバキ達とやりつくした応対を、更にもう一度するはめになった。

 怪我についてはクラスの何人かが話しかけてきたが、適当に答えてはぐらかした。しかし、隣の時任さんとツバキだけは毎休み時間ごとに事情を訊いてきて、もはや昼休みからは無視に近い形で流していた。

 そんな対応をしていたせいだろうか。最後の授業が終わった途端、時任さんがとんでもないことを言い出したのだ。

「よし、相葉君! 一緒に帰るよ」

「はあ? 何勝手なことを」

 そこまで言いかけた時、帰り支度万全のツバキが、教室に飛び込んできた。

「帰るよ! ハヤト!」

 それは、半ば拉致と言ってもいいような強引さだった。

 クラス中のみんなが視線を向ける中で、俺はツバキと時任さんに手を引かれ、背中を押され、教室からつまみ出されそうになる。

 教室の出口に近づくと、そのすぐ近くに座っている矢田部が声をかけてきた。

「おい刈谷。お前、また部活さぼるのか?」

 俺にではなく、ツバキに声を掛けている。だけど、その視線は間違いなく俺を捉えていた。

「ごめん! 今日はどうしても無理!」

「ダメだ。部長がこれ以上怠けるなら辞めさせるって言ってたぞ」

 ツバキが押し黙る。

 押し黙る必要なんてないはずだ。ツバキは部活に行けばいい。俺を放っておけとか、付きまとうなとか、そういうことを言いたいわけでもない。

 だが、ツバキは陸上を真面目に続けた方がいい。中学の時からずっと才能もあったし、努力もしてきたのだから。

「なあ、相葉君」

 矢田部が今度は俺に話しかけてきた。

「刈谷と仲良いんだろ? 部活にはきちんと出てくれって、君からも言ってくれよ」

 こいつの言いなりになるのは嫌だった。

 けれど、今朝みたいなことにツバキを巻き込んでしまうかもしれないと思うと、やはり俺と一緒にいるのはまずい。

 分かってくれ、ツバキ。

「なあツバキ。部活はちゃんと出たほうがいいよ。俺、大丈夫だから」

「でも、ハヤト…………」

「お前に陸上続けてほしいよ」

「…………こんなあたしを、ハヤトはきちんと叱ってくれるんだね」

「叱るだなんて…………」

 ごめん。本当は、お前を叱ることなんて出来ないよな。

 部活をさぼったって、それでもお前はちゃんと生きているんだから。死んでいるみたいな生活を送る俺よりもマシだ。

 それでも、ツバキにとって一番良いことは何かを考えたからこんなことを言うのだと、分かってほしい。

「でもツバキ、本当に部活は出てくれ。俺、お前にはちゃんと陸上を続けてほしい」

「でも…………ううん、ごめんね。ハヤトがそう言うなら」

 その言葉に俺は何も言えなかった。

 ただ、心の中で謝ることしか出来ないのだ。




 それから時任さんと二人で学校を出た。本当に情けなく思うけれど、今朝のことがあった後だと、やはり誰かが一緒というのは少し心強く感じる。

 だが、矢田部はまた俺に何かをするつもりみたいだ。となれば、やっぱり俺は一人でいるほうがいいのかもしれない。ツバキはもちろんだが、時任さんとこうして帰っている間も、自然と周囲を警戒してしまう。

 そんなことを考えていると、時任さんが唐突に言った。

「ねえ、相葉君」

「何?」

「その怪我」

 やっぱりそう来るか。一緒に帰ろうと言ったのも、この怪我の理由を追及するためだということは簡単に想像できた。

 だけど、俺は答える気なんてない。教室でもそうだったように、怪我の話題に関しては一切無視を決め込むつもりだ。

「喧嘩? だってそんなになるなんて、絶対喧嘩でしょ?」

 俺は何も言わないまま進行方向だけを見ていた。

 時任さんは深いため息を漏らしながら「やっぱ言ってくれないんだぁ」と呟く。しかし、その後で今度はとんでもないことを言い出した。

「ねえ相葉君。ウチ寄ってかない?」

「はあ? なんでそうなるの?」

「ウチにすごいよく効く塗り薬あるから、貸してあげるよ」

「別にいいよ」

「でも、痕になったら困るでしょう? だって顔だよ?」

「じゃあ明日持ってきてくれればいいよ」

「あのさー」

 彼女が再びついたため息は、先ほどよりも更に深かった。

「人がこんなにまでして言ってるんだからさ、ちょっと察しない?」

 時任さんは少し怖い顔をして、俺の顔を覗き込んできた。

 なんか、俺って今、怒られているのかな。

「ちょっとゆっくり話したいってことなんだけど!」

「いや、べ、別にそういうの…………関係ないし」

「問答無用!」

 時任さんが俺のことを引っ張る。彼女が掴んだのは、俺の右腕だった。

 今朝のことを思い出してしまい、思わず力んでしまう。しかし、想像していた痛みは訪れなかった。

 不思議に思っているうちに、俺は時任さんにどんどん引っ張られていく。

 時任さんの家は、学校からそれほど離れていない高台の上にあり、彼女の家の周辺にはまだほとんど家が建っていなかった。九木戸市が住宅地開発に着手し始めたばかりの土地らしく、一番近い近所の家でも二百メートルは離れている。

 二階建ての庭付き一戸建てで、綺麗に芝生が生えそろった庭からは、学校と駅の両方が一望できた。

「去年建てたばかりなの」

 そう言いながら彼女は玄関を開けると、「ただいまー」と声を掛けて靴を脱いだ。

「お、お邪魔します」

 誰かの家にあがるなんて、何年ぶりだろう。小学生の頃はよく友達の家で遊ばせてもらっていたが、中学に入ってからはめっきりと少なくなった。ましてや、今の俺がクラスメイトの家にあがるなんて。

 普通、家に招待されるっていうのは親しくないと起こり得ない。俺は、親しい人間を持たないように心掛けてきたのだ。だから今の状況は非常に不本意だし、どうにも落ち着かなかった。

「カナデお帰り。あら、お友達?」

 玄関に続く廊下の奥から、彼女の母親らしき人が出てきた。

「そう。クラスメイトの相葉ハヤト君」

「はじめまして。お邪魔します」

 俺が挨拶をすると、時任のさんの母親は笑顔で出迎えてくれた。しかし、一瞬で困惑した表情となる。

 理由は分かっている。

「あ、あの、怪我してるの?」

「お母さん、ほらあれ、いつもの黄色い塗り薬持ってきて」

 時任さんの母親は短く返事をすると、廊下の奥の方に戻っていった。

 その間に、時任さんは俺を手招きして階段を上がっていく。どうやら彼女の部屋に通されるみたいだ。

「い、居間じゃダメ?」

「なに照れてんのよ! ゆっくり話したいんだから、私の部屋!」

 有無を言わさない圧力に、俺は黙って従うことにした。

 考えてみたら、女子の部屋ってツバキの部屋以外入ったことがない。それも最後は小学生のころだ。緊張しないなんてことの方がよっぽど難しい。

 俺の部屋と違っていろいろと小物が多い、いわゆる女の子らしい部屋だった。写真がびっしりと貼りつけられたコルクボードが、勉強机の前やクローゼットの扉にいくつもかけられているし、ベッドの上には大量のぬいぐるみが並んでいて、寝る時に邪魔ではないかと思ってしまった。

 化粧台の上にはマンガが数冊積み上げられていて、時任さんは「キョロキョロしないで!」と言いながらそれを片付けた。

 しばらくして、時任さんの母親が塗り薬と一緒に紅茶とお菓子を運んできてくれた。薬を塗ってくれようとしたので、それはさすがに断ったけれど。

 こたつテーブルを挟んで、彼女の向かいに座った俺は、とりあえず紅茶とお菓子を交互に口に運んだ。それ以外にはすることもなく、そしてするつもりもないからだ。

 痺れを切らしたのか、時任さんは単刀直入に言った。

「ねえ、相葉君。その傷、もしかして矢田部タイキでしょ?」

「ええっ!?」

 まさにドンピシャの答えを言い当てられて、俺は思わずむせてしまった。俺のリアクションは、彼女に正解を伝えているのも同然だった。

 うるさくする俺を横目に見ながら、「やっぱりね」と彼女は呟いた。

 彼女なりに怪我の理由をあれこれ考えてはいたのだろうけれど、ずばり矢田部の名前まで出してくるということは、何かしらの理由があるとしか思えない。

「まさかとは思っていたんだけど、あいつ、そんなに沸点の低い奴だったなんて」

「俺が食堂で陸上部の勧誘を断ったのがまずかったみたいなんだけど、それもお見通しだった?」

「まあね。食堂の件は、あいつがクラスのみんなに言い回ってたから」

「でも、なんで俺の怪我が矢田部だって分かったの? 食堂での一件とどうやって結びつけたんだ?」

 時任さんは少し考えるように間を置いてから、壁に掛かっているコルクボードを見つめた。

 そこには、おそらく中学時代である時任さんとその友達が写っている写真が、何枚も重なり合いながら並んでいる。

「あたし瀬名中学校だったんだけどさ、矢田部も三年間ずっと同じクラスだったのよ。んで、あいつの本性も知ってるから、食堂の一件を聞いた時にいつかやるかもとは思ってたんだ」

「本性?」

「矢田部ってさ、人当りが良いというか、明るくて誰とでも仲良くなれるタイプなのよ」

「まあ、それは入学してからのあいつを見てれば分かるよ」

「だけど、自分が気に入らない相手に対してはほんと最低なの。中学の時の修学旅行で、あいつが行きたがっていたお店が班行動のルートから外されたのよ。で、その原因を作った班長が、修学旅行先で地元の高校生たちにボコボコにされちゃって怪我させられたの。高校生がどこの誰ってところまでは調べようがなかったんだけど、どうも高校生をけしかけたのは矢田部らしいんだよね」

「らしいって?」

「タバコを餌にして高校生に話しかけてるのを見たって生徒がいたんだもん。その情報を聞いた先生も、証拠は何もないし、あいつは知らないの一点張りだったからさ…………でも、その情報を出した生徒も、修学旅行から戻ってきた途端に家族もろとも遠くに引っ越して転校しちゃったから、詳しいことは聞けないまま」

「まさかそれも矢田部がやったって?」

「…………たぶんだけどね。噂によると、その子のお父さんが電車で痴漢をしたってことで、会社にいられなくなったから引っ越したみたいなんだけど。その痴漢被害の女性って、矢田部といつも仲良くしてるグループの子だったから。もしかしたらって話」

「ちょっとごめん。さっきから話に“たぶん”とか“らしい”とかが多くてさ。俺の怪我は確かに矢田部だよ。でも、そんな曖昧な話を根拠にしてあいつと俺への暴力を紐付けるのって…………」

 時任さんの顔が盛大に呆れていくのが見えた。

「相葉君ってどこまでお人好しなの?」

「そ、そうかな?」

「まあ、私の話の一つ一つには確証がないから仕方がないんだけどね。矢田部の一番タチ悪い理由ってのがそこなのよ。あいつ、人当りが良いから交友関係がすごく広くてさ。当然悪い方の知り合いも多いわけ。矢田部自身が何もしなくたって、簡単に他人を貶めることが出来るから怖いのよ。私みたいに昔の矢田部の話を知ってる子はみんな、あいつと深く付き合わないし、かと言って怒りを買うようなこともしない」

 そういう立ち回りが上手い奴なんだと言うのは、今朝のことを思い出してもなんとなく分かる。上級生の二人が俺に暴力を振るっている中で、あいつはずっとポケットに手を入れたまま笑っているだけだった。

 俺に対して一番不満を抱えているのは矢田部本人のはずなのに、あいつは俺に対して何もするつもりがないかのように、先輩二人のやり取りを見て楽しんでいた。

「相葉君さ、教室で刈谷さんを部活に行かせたじゃん。矢田部に言われてだけど」

「まあ、ね」

「あの判断、正解だと思う。変に反発すると、ハヤト君の周りも危ないからね」

 時任さんはそこまでお見通し、というわけか。

 当事者の俺と違って、現場を見たわけでもなく、証拠も何もない中で言う彼女の言葉は全て憶測でしかないのだが、一人の人間にここまで警戒心を抱かせるようならば、それもまた一つの根拠となるかもしれない。

 その後もいくつか、矢田部にまつわるエピソードが出てきたので、俺は半分根負けしたかのような気持ちで言った。

「分かったよ。悔しいには悔しいけど、俺もあいつとは距離を置きつつ刺激しないように気を付ける。話をありがとう」

 すると、時任さんは紅茶のカップを口につける直前で止め、一言呟いた。

「そうは言うけどさ。相葉君っていつでもそうじゃない? 誰に対しても距離を置きつつ、刺激しないようにって」

 そうか。そりゃあ、そうだよな。

 今までも同じようにしてきたはずだったのに、どこで間違えてこんな怪我をするハメになったのだろう。誰にも関わらないように。毎朝ネクタイを締める時の誓いは、結局なんだったのだろうか。

 なぜか笑ってしまいそうになり、俺はその表情を誤魔化すために紅茶を一口啜った。

「相葉君って、昔からそうなの?」

 どうにも答えようがない質問だった。

「昔からあまり人付き合いしなかったのかなって…………でも、刈谷さんとは仲良しみたいだし、矢田部が陸上部に誘ったってことは、前は部活もやってたわけでしょ? 相葉君って、人との会話に慣れてない風でもないんだけどなぁ」

「時任さんって、洞察力が達者なんだね」

「まあね! こう見えても私、将来はジャーナリスト志望だしね…………って、やっぱり答えは無し?」

「…………俺があまり人と関わりたくない理由って、ちょっと言いにくくてさ。本当は、俺だって皆と仲良くしたい気持ちはあるんだ。でも、それが怖くて出来ないんだよ」

 それは、俺が人との関わりを絶つと決めた時に、傍で話を聞いてくれていたツバキにも伝えたことのある言葉だった。

 どんなに強がっても、やはり願望は心のどこかに存在してしまうものだ。

 毎朝の誓いなんて、そういう風にルール立てして習慣を作らないと、簡単に屈してしまいそうだから決めているだけ。

 部活も、笑いあうことも、以前のように思いっきりしたいという願望は間違いなくある。

 誰にも関わることなく、独りで生きていく強さを手に入れるため、そして親しい人間を作らないた、そんな風に生活を続けてきた。

 だけど、それでも。

 今日、時任さんが一緒に帰ろうと言ってくれた。それに、クラスメイトの家に上がるなんて本当に久しぶりだった。彼女の母親も快く迎えてくれたし、こうして俺のことを心配してくれている。

 本当は、時任さんの強引な誘いは迷惑だ。そう、迷惑だと思うべきなんだ。

 それなのに、今が少しだけ楽しく感じている。げらげらと笑いあえるような会話ではないけれど、久しぶりにまともな会話をした気がする。

 このままでは、俺の願望が今よりももっと強くなってしまう。

 それでは困る。困るんだよ…………“あんな酷いこと”をした俺が、もう一度親しい人間関係を作るなんて、そんなことしてはいけないんだ。

 だって俺が楽しい想いをしてしまったら、俺はまた罪を重ねるかもしれないじゃないか。

 自責の念が湧き上がってくる。

 俺自身の、どっちつかずで中途半端な気持ちがすごく憎たらしい。本当に最低だ。はっきりと決められなくて、だらしがない。

「ごめん…………」

 時任さんに言った。だけど、彼女だけではない人たちにも向けて、俺は謝った。

「相葉君に何があったとかって、よく分からないよ。だけど、親しくなるのが怖いって気持ちは私も、私たちも一緒なんだと思う」

「どうして?」

「誰かと親しくなって、その後どんな未来が待っているかなんて分からないじゃん。喧嘩をしちゃうかもしれない。どっちかがいなくなったら悲しむのは目に見えている。あの人が困っている時に自分が何も出来なかったらどうしよう…………人間関係で起こり得る可能性なんていっぱいあるでしょう。でも逆に、誰かがいるからこそ解決出来ることだってたくさんあると思わない?」

「あるのかな…………そういう風に考えたことがないから」

「あるよ! たっくさんあると思う! 相葉君の恐怖って、誰かが関わって生まれたものでしょう? だけど同じように、それを解決するのも誰かとの関わりなの。人生って、出産も結婚も勉強もチャンスもピンチも嬉しいことも嫌なことも悲しいことも腹立つことも、どっかの誰かがいないと起こらないんだから。だから人って、一人じゃ生きていけないんだよ」

 俺が一人を選んだのは、人には言いたくない理由があるからだ。時任さんが矢田部のことをとことん責め立てたように、俺にも誰かに軽蔑されてしまうような過去があるからなんだ。

 だけど、今なら。

 明日になればきっと、俺はまたネクタイを締めて、誓ってしまうのだと思う。

 だけど、今この瞬間だけなら、俺は自分を変えられそうな気がする。

 仲良くしても大丈夫だろうか。もうあんなことは起こさないだろうか。

 今なら、彼女の言葉に頷けるかもしれない。

 そうしてもいいと思う、いや、そうしたいと思う。何故ならそれが、俺の願望だから。

「うん、そうかな」

 しばしの沈黙が流れた後、ようやく出した返事はそんな一言だ。

 ふと、お菓子の入れ物がいつの間にか空っぽになったことに気付き、俺はその場を立った。

「俺、そろそろ行くよ」

「え? う、うん」

 時任さんも立ち上がる。

 一階に降りていき、彼女の母親に再度お礼をすると、俺は玄関で靴を履いた。

 その時に、背後から時任さんが行った。

「相葉君、連絡先とか教えてよ」

「え?」

 彼女が片手にケータイを構えていて笑っていた。

「今後もさ、いろいろと話聞かせてよ。もちろん話したくないことなんかはいいからさ、ちょっとずつでも怖い気持ちが無くなればいいね。協力したいな」

「ごめん――――」

「え? ダメ?」

「――――俺、自分の番号分からないから、時任さんのを教えて。俺から連絡する」

 昨日までの俺だったら、絶対に断っていたはずなのに。

 俺を変えたものは何だろうか。

 親しい関係を拒み続けてきたはずなのに、また誰かと親しくなろうとしている。

 中途半端な気持ちがすごく憎たらしく、最低で、はっきりと決められなくて、だらしがない。

 だけど、それでも良いと思った。

 時任さんが嬉しそうに頷き、玄関の下駄箱の上にあったメモ用紙をちぎった。

「でも、自分の番号覚えてないの? ケータイに自局番号出せるでしょ?」

「俺、ケータイ持ち歩いてないんだ」

「ええっ!? ハヤト君、ケータイって言葉の意味知ってる!?」

「…………え、あの、ハヤト君って」

「別にいいじゃん。私のこともカナデって呼んでいいよ」




 自分の家に着いたのは、すっかり日が暮れてしまった午後七時過ぎだった。

 母さんが心配しているかもしれない。こういう時にケータイを持ち歩いていないことは確かに不便だなと思う。

 それはともかく、なんだか今日は、昨日までの俺とは心持ちが違っていることに驚いた。今でも少しだけドキドキしている。

 カナデさんと出会えて良かった。そう思っている自分に驚き、また嬉しい。

「なんか、嬉しいな…………」

 俺の心のどこかにずっとあった願望から出た、本音の一言。

 いつもと違う気持ちで家に着き、玄関のドアノブに手を掛けた。

 その時だった。

「うああぁっ!」

 今朝の、右腕を襲った激しい激痛が再びやって来た。なんだ、この痛み。

 呻き声を漏らしながら俺は、その場に膝をついた。右腕の痛みは、朝よりも酷い。

「なんだ! なんだこれっ!」

 声を出さずにはいられなかった。

 そして次の瞬間、信じられない光景を見てしまった。

 右腕の、肘から先が徐々に色を変えていき、皮膚の質感がどんどん変化していった。

 前腕、手首、手のひらは境が分からないぐらいまで同化して、形は薄く、平たく。

 五指はいつの間にか水掻きができたみたいに一体化していき、先端は細く、鋭く。

 毛穴も指紋も何もかもが消え失せて、光沢すら感じさせるまでに肌は鈍く、硬く。

 この形。そう、これはいつか見た夢の中で、俺が悲鳴を上げた形。

「こ、これ…………こんなの」

 ナイフだった。今でもはっきりと覚えている、あの時の形そのままの。

「ハヤト? 帰ってきてるの?」

 母さんの声がした。

 そんな、こんな腕は見せられない。

「うあああああっ!」

 俺は家の門を飛び出し、夜闇に染まる住宅街の中に飛び込んでいった。

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