第4話 断罪の右腕

 どこをどう走ってきたのかは覚えていない。人目を避けることだけを考えて、必死だったのは確かだ。

 そうやってたどり着いたのがここだった。

 辺りには山積みにされた大量の瓦礫。コンクリートの躯体が剥き出しになった状態で長いこと放置されている、この小さな二階建ての建物は、長いこと仮設フェンスに囲われたままのようだ。

 中に入ってみると、以前は小さな診療所だったということが分かった。積み重ねられた瓦礫の中に、『診察室』と書かれた札や幼児向けの絵本、それに診療所の名前が印刷された白紙のカルテも混じっている。

 今俺は、その瓦礫の隣に座り込んで、立てた膝に顔を埋めていた。

 異形の右腕は、その不気味な刀身を横たえるようにして俺の右肩からぶら下がっている。

 金属のような質感でありながらも、その右腕はちっとも重たくなかった。そうでなくちゃ、ここまで走ってこられなかっただろう。

 この廃屋に飛び込んでからしばらくは、ひたすらに泣いた。震えた。声に出して自分の右腕を恨んだ。罵倒して呪った。殴りたかった。

 だけど、怖くて触れなかった。

「もうやだ……たすけて…………」

 そして求めた。

 何度も、何度も同じ言葉を呟いた。

 俺が悪かった。だから、もう消えてくれ。

 どうしようもないくらい近くにあるそのナイフを、俺は心底忌み嫌った。

 俺の体は一体どうしたって言うんだ? “あの時のこと”を彷彿とさせる“刃物”はダメだ。

 これはナイフじゃないか。“あの頃と同じナイフ”じゃないか。

 一体どうしたらいい? こんな腕を抱えて街中を歩くなんて出来るわけが無い。それに、家に着いたところで父さんや母さんに見せられるはずもない。

 ここからどこにも動けない自分は、完全に居場所を失ってしまったみたいだ。もうこの世の中には、俺がいていい場所なんてないのかもしれない。

 学校では誰とも親しくなることなく、いつ辞めたっていいような状況を作り続けてきた。青春を謳歌する周りの皆から離れ、それに近づくことを拒み続けてきた。

 誰も俺のことなど見なくていい。関わらないでほしい。近づけば、俺はまた取り返しの付かないことをしてしまう。

 だから一人で生きていこう。そうすれば誰も傷つけることなく、穏やかに暮らしていけるはずだ。

 父さんや母さんには申し訳ないけれど、俺が一人で生きていけるようになるまで、迷惑を掛けてしまうことになる。

 ずっと我慢して俺の面倒を見てくれているのだから、いつか、何かしらの形で恩返しはしたい。そう、自分一人で生きていけるようになったら、父さんと母さんに何かお礼がしたい。

 ずっとそう思ってきた。本当だ、俺は本心からそう思っていた。

 だけど、この右腕を見たら? まだまだ弱い俺の面倒なんて見てくれるのかな?

 そんなわけないじゃないか。

 本当に、俺は居場所を失くしたんだ。

 じゃあ、突然現れたこの右腕の意味は? 一体俺に何を求めてこんな姿になった?

 この世の中に居場所が無い。そんな時に見えてくる、一つの選択肢がある。

 ああ、そうか。その選択肢こそが、この右腕の意味だというのか。

 自身の罪深さは承知の上だ。俺は罰を受けるべき人間だ。

 俺の罪は、忘れもしない中学三年生の頃。

 陸上部だった俺には、同じ部活内にツバキともう一人、仲の良い親友がいた。

 俺とツバキは部活の引退が間もなく訪れる時期だったが、その親友は県大会を勝ち抜いて関東大会へと進出することが決まった。

 その日も親友は部活の通常練習メニューをこなし、自主練も済ませ、俺と一緒に下校していた。

 そいつとは何でも話し合えた。勉強のことも、部活のことも、進学のことも。

 それに恋愛のことも。そいつは、ツバキに惚れていることも打ち明けてくれた。俺はそんな親友を応援していた。

 帰り道。いつもの見知った土手に差し掛かった時だ。

 俺は“それ”を見つけてしまった。

 拾い上げたそれは、刃渡り十五センチ以上もあるような大きなナイフ。

 誰かが投げ捨てていったのか、落としていったのか。どちらにせよ、そんなものがそうそうあちこちに落ちているわけなどない。こういう危険なものは、拾ったらすぐにでも警察に届けるべきだったんだ。

 しかし、ちょうど前日にハリウッドのアクション映画を見ていた俺は、戦場でかっこよく戦う傭兵の真似事を冗談で始めた。

 親友も笑っていた。「似てなくて面白い」と、腹を抱えていた。

 親友があまりにも楽しそうに笑うものだから、俺は調子に乗っていた。手にしたナイフを振り回し、架空の敵兵を倒してのけ、ナイフのリアルな重量に酔いしれていた。

 そんな時、足元の空き缶が俺の体勢を崩した。傍らの土手は急な斜面になっていて、転がったら下に着くまで止まりそうもない。

 そんな俺が倒れる瞬間に、親友が慌てて動いた。倒れ込む俺にすぐさま手を差し伸べ、勢い余って彼も一緒に転げ落ちたのだ。

 生い茂る雑草と、茜色の空が交互に見えた。世界は何度も反転を繰り返す。

 そして勢いが止まった時、俺は転がり落ちてきたことをかっこ悪いと思って頬を赤らめていた。

 だが、事態はそれどころではなかった。

 上半身を起こしてみると、俺から少し離れた場所に親友が蹲っていた。なんだ、お前も恥ずかしいのかと、少しだけ笑顔を浮かべた俺。

 だけど、様子がおかしかった。

 親友は肩を震わせたまま起き上がらず、声を掛けても答えない。

 代わりに、呻き声が聞こえた。

 夕焼けが眩しくて気付くのが遅れたが、彼の傍には血だまりが出来ていた。

 それは、何の血だ? そう言えば、ナイフはどこにいった? どこに落としてきた?

 状況がいまいち飲み込めず、俺は這いながら親友に近寄った。

 そして見た光景が俺の…………いや違う。親友の真っ暗な未来を物語っていた。

 右腿に深く突き刺さったナイフ。抜こうとしたのか、柄に手を掛けている親友。

 あんなに血が。人の体から、あんなに血が。

 ダメだ。ダメだ。ダメだ。

 ダメだダメだダメだダメだダメだダメだ!

 怖くなった。早く医者に見せないと。

 叫んだ。大声で助けを求めた。心臓が破けそうなくらいに高鳴りしていたし、膝も大きく震えていた。

 突然、頬に何かが撥ねてきた。手で触れると、それはぬるりとした温かい液体。

 血だった。

 親友は腿からナイフを引き抜いていた。どこまで深く刺さっているのかは分からないが、傷口からは夥しいほどの血が噴き出していた。

 それは本当に、信じがたい光景だったんだ。

 もしかしたら、もしかしたら大したことないんじゃないか? 無事なんじゃないか? 俺の思い違いじゃないのか?

 俺のせいなのか? 違うだろう?

 俺が悪いのか? ただふざけていただけだ。それなのに。

 本当は“刺さって”いないんじゃないか? 血だって、ちょっとしたかすり傷かもしれない。

 そうだ。まさか。そう、冗談だよな。

 俺は。

 俺は信じられない。

 信じたくない。

 泣きたくなった。いや、泣いていた。傷口を必死に押さえつけた。激痛を訴える彼の言葉も無視して、俺は助けを求めて叫びながら、血を止めようと躍起になった。

 親友が何度も俺の名前を呼んでいた。

 ごめん。俺が悪かった。俺を恨んでいるのか。憎んでいるのか。その声は俺に向けた呪詛か。

 頼む。無事でいてくれ。そんな傷、本当は大したことないのだと笑ってくれ。

 その声が、耳から離れない。

 ――ハヤトォッ! 痛えよぉ! 助けてくれぇっ!―― 

 助けたい。助けてほしい。助かってほしいんだよ。

 やがて俺の声はジョギング中の通行人に届き、すぐさま救急車が呼ばれた。

 救急車に運び込まれていく親友をただ見つめることしか出来ず、少し遅れてやって来た警察官に話しかけられても、俺は泣いて謝ることしか出来なかった。

 あの一件から、俺の胸の中にはずっと罪悪感が残っている。

 大切な人を傷つけ、そいつの未来を奪った。そんな俺が一体どうして笑って暮らせるというんだ。

 俺は幸せになってはいけない。親しい人間を作っても、また傷つけてしまうかもしれない。

 友達を求めずに、一人で暮らしたいと願うのは必然なんだ。

 人と親交を深め、誰かと共に過ごすというのは不徳なんだ。

 いっそこの腕で、潔くこの世界から消えるのは。

「…………償いなんだ」

 何もかも、俺が招いたことなんだ。

 俺がいつまでもこの世にいたって、一体何になる。きっといつかまた、誰かを傷つける。取り返しのつかないことをしてしまう。

 一人で生きることが償いになるのだと勝手に思い、今までは本当の償いから逃げてきただけだ。

 本当はこうしなくちゃいけなかった。でも、それが怖かったから誤魔化してきただけだ。

 この右腕は、そんな俺の甘えを断ち切るために現れた。

 だから…………。

 嗚咽が漏れた。顔中から出るもの全てが流れて出ていた。 

 それを拭うこともしないまま、俺は右腕をそっと持ち上げた。

 何故、ナイフの形なのか。

 その意味は、きっと一つ。

 死にたくない。生きていたい。助けてほしい。許されたい。

 この世界に居場所がなくなってしまっても、俺はまだ呼吸をしている。悲しい気持ちに満たされている。苦しんでいる。

 それってつまり、生きている。

 右腕によって突きつけられた、どうしようもない現実。

 分かっている。俺だって償いたいと思っている。

 だけど、それでも。

「し、死にたくない…………死にたく、ないよぉ」

 ゆっくりと右腕の刃を喉に近づけた。

 あと数センチ。皮膚に触れて、少しだけ食い込ませて、そしたら一気に引くだけ。

 その数センチが俺の人生という名の道。距離。

 少しずつ、少しずつ動脈に近づいていく。

 短いようで、とても長く感じた。

 ツバキ、冷たくしてごめん。

 父さん、母さん。今までありがとう。

 そして親友にも、心の中で精一杯お詫びをした。

 刃がとうとう首の皮に触れた時。

「やめろっ!」

 大きな声が聞こえて、思わず動きを止めてしまった。一度止めてしまっては、もう自ら刃を引くことは出来そうにも無い。

 短くて深い呼吸をしながら周囲を見渡すと、誰かが俺のほうに走ってくるのが見えた。

 懐中電灯の明かりが俺の顔を照らしている。右腕はとっさに暗闇へと隠した。

「何してんだ!?」

 誰だ? 野太い、男らしい声がする。眩しくて何も見えない。

「アミ! ちょっと離れてろ!」

 アミ? その名前はどこかで聞いた気がする。

 そんなことを思っていると、懐中電灯の明かりが突然消えて、次の瞬間には俺の右腕ががっちりと押さえ込まれてしまった。

「うわあっ! やめろぉー!」

「落ち着け! 落ち着けって!」

 刃物になっていることも忘れて、俺は腕を必死に振りほどこうともがいた。しかし、俺を取り押さえる体格の良いこの男は、迷いの無い手つきで見事なまでに俺から自由を奪った。

 ついには顔を地面にこすり付けるような体勢を取らされ、完全にホールドされている。

「倉林さん! そのまま押さえててね!」

「おう!」

 もう一人の声は若い少女の声だった。

 冷たい地面に頬を擦り付けながら、声のした方に向けて眼球を動かす。

 すると、そこには見知った顔の少女が俺を見下しながら、仁王立ちしていたのだ。

 まだ新しいローファーと紺色のソックスに包まれた細い足。チェックのスカートとブレザーは、俺もよく知っている制服。

 そして何よりも目に付いたのは、彼女の首に巻かれた白いロングマフラー。

 そうだ。確か黒髪の彼女の名前は、氷室アミ。

「見つけたわよ、相葉ハヤト」

「な、なんだよ!? なんなんだよ!?」

「静かにしなさいっ!」

 彼女の一喝で、情けないことに俺は口を閉ざしてしまった。

 どうしてこの子は俺のことを探していたんだ?

「倉林さん、どう?」

 俺から視線を外さないまま、氷室アミはそう尋ねた。俺を取り押さえる男の名は、倉林というのか。

「…………間違いなく“カイゾウ”だろうな」

 カイゾウ? 一体なんだ、それは?

 それに、今の言葉は俺の右腕を見て言ったのか? 何か知っているのか?

「あんた達一体なんなんだよ!?」

「とりあえず落ち着けって! 俺達は別に悪さをするつもりはねえよ!」

 だが、声を張る彼の緊迫した様子がどうにも威圧的に聞こえて、なかなか落ち着けない。

 しばらくの間、どうにか動こうと必死に抵抗してみた。

 すると、氷室アミが再び言った。

「相葉ハヤト、おとなしくしなさい」

「放せ! 放してくれないと落ち着けないよ!」

「…………倉林さん」

 少しだけ考えたような間の後で氷室アミが一声掛けると、倉林という男はゆっくりと力を抜いていき、俺の体を解放していく。

 動ける。今なら動ける。このまま走り出していけるだろうか。しかし、先ほどの倉林が見せた逮捕術のようなものを思い出すと、そう簡単に逃げられるとも思えなかった。

 すぐ隣で倉林がまだ身構えているので、俺はしばらく抵抗するのを止めることにした。

「あんた達、一体何なんだよ?」

 氷室アミが俺を鋭く、恐ろしく、冷たい視線で睨みつけながら言った。

「…………ねえ」

「な、なんだよ?」

「この腕、ナイフよね? それもこんなに大きい」

 やっぱり、他人にもこの右腕はナイフに見えているのか。もしかしたら恐怖心に揺さぶられた自分の心が見せる幻かもしれないと、少し期待していたのに。

 だってそうだろう? 普通に考えれば、人間の腕が刃物になるなんてことあるはずがない。

 彼女が言っているのは、とても馬鹿げたことであるのは間違いないのに。そのはずなのに。

「そんな……バカなこと」

「現実に起こってしまっているでしょう?」

 馬鹿げたことを。

「あ、ありえない」

「だから、現実に起こってしまっているでしょう?」

 彼女の目がひどく恐ろしい光を放っているようだった。

 そしてその光に晒されて、自分の奥深くにある暗闇が暴かれようとしている。そんな気がした。

 彼女は一体何を知っているんだ? 知っているのなら、教えてほしいと思った。

 しかし。

「倉林さん、いつまでもここにいちゃ不味くない?」

「ああ、そうだな。移動しよう」

「え、あの、どこに? 俺を連れてくの?」

「…………病院よ。勝手に死なれちゃ困るもの」

 病院? ダメだ、こんなものを他の人に見られるわけにはいかない。

「ダメだ」

 あんた達に見られたことだって酷くショックなんだ。こんなもの、これ以上他人に見られるわけにはいかないんだ。

 それに病院に行ったら、父さんや母さんにも連絡が行ってしまう。そうなったら、俺は本当にあの家に戻れなくなってしまう。

 だったら、やっぱりいっそのこと。

「知られるくらいなら、俺はここで死んだほうがいいんだ!」

「バカ言わないで! 死なせないわよ!」

「だってそれしかないじゃないか! 俺なんか、俺なんか生きてちゃいけない人間だってのに…………こんな…………」

「絶対に死なせない! あんた、死んで逃げようったってそうはいかないんだから!」

 逃げる? 俺が逃げる?

 ああ、そうだ。生きていける場所のないところになんて、存在していても苦痛しかないんだから。

 俺は自分の居場所を見つけたいだけなんだ。

「この根性無し! 死ぬなんて簡単に言わないでよ!」

「何が…………何が根性無しだ! お前なんかに何が分かるんだよ! 何も知らないくせに! 自分を殺すのだってすごく怖いんだ! 簡単な気持ちで言ってるわけないだろっ! ふざけるなっ! 根性無しなんて言葉使うな!」

「自殺を勇敢な行動とかでも言うつもり!? バッカじゃないの! あんたは生き続けて一生苦しむのよ! そうするべきなの!」

「なっ!」

 この女! 何言ってやがる!

「やめろ! おい! アミもやめるんだ!」

 お前だけは許さない。

「あんたのような奴は辛い目にあって当然なんだから! 簡単に死ぬなバカ!」

「うるさいっ! 俺がお前に何したんだよっ! そこまで言われる筋合いなんてない!」

「あんたなんか何もしてないわよ! 何もしてないくせに死んで逃げようって魂胆が根性無しだっつーのよっ!」

「うるさいって言ってんだろっ!」

 俺は勢いよく体を前に突進させた。そして彼女の胸倉を掴もうとするかのように腕を伸ばす。

 一瞬だけ見える、氷室アミの表情。

 それは、確かにほんの一瞬だったけれど。

 それでも分かるほどに、青ざめた顔をしていた。

 そして。

「はっ!」

 彼女の呼吸が、ほんの僅かな瞬間に荒々しくなっていた。

 俺も青ざめていた。

 氷室アミの襟首を掴もうとして伸ばした右腕は、今、ナイフになっていたじゃないか。

 俺の狙った場所から若干ずれて、ナイフと化した腕は彼女の首の脇を抜けていった。頬までは数センチ。首筋までは僅か一センチ以内という、おそろしく絶妙な距離。

 彼女の命を奪ってしまうまで、本当に紙一重だった。狙いから逸れた俺の右腕は、白いマフラーの摩擦さえも寄せ付けず、触れた瞬間から繊維を裂いていた。マフラーが氷室アミの首からだらしなくぶら下がる。

 違う。俺は、そんなつもりはなかった。

 忘れていただけなんだ。だってこのナイフは、夕方までは普通の右腕だったんだ。手首があって、手の平があって、指があったんだ。

 いつの間にか俺と氷室アミの顔は、互いの吐息が互いの唇を湿らせるほどに近づいていた。

 それでも、ショックのあまり動けなかった。

 目が離せなかった。さきほどまで強気で俺のことを責め立てていた彼女の瞳が、きらりと光るように見えたからだ。そして時間が経つにつれ、徐々に潤んできた。

 その勢いは、あっという間に彼女の眼球を覆い尽くして、次第に震え出す体の振動と相まって、ついに零れ落ちる。

「あ、あの」

 目の前で、それもこんな近くで女の子に泣かれるなんて。昔から知っているツバキだってこんな顔を見せたことはない。

 更に追い打ちをかけるような現実。自分の腕がナイフになってしまうなどという異常事態。それも、あれだけ誓っておきながら、また取り返しのつかない事になりそうだった。

 ただ、目の前の彼女にひたすら申し訳ないという思いが、むせ返るくらいに溢れ出す。

「俺…………」 

 倉林という男が、慎重に彼女の腕を引いて、俺から遠ざける。

 その時、氷室アミの首からマフラーがずり落ちた。彼女の首はツバキが言っていたように、確かに傷痕などがあるわけでもなく、隠す理由が分からないくらいに細くて綺麗だった。

 そんな首に、俺はナイフを向けていたのだ。

 恐怖に震える氷室さんを少しだけ宥めるように、倉林という男は彼女の肩に手を乗せた。

 そしてすぐに、今度は俺の右腕を見つめながらゆっくりと近づいてきた。

「大丈夫、もう大丈夫だよ」

 でも、今度は捕まえようとする威圧感や緊張感もない。

 ただ、優しさという感情だけでそっと近づいてきた。

 まるで右腕に話しかけているような。

 腕を伸ばした男は、俺の肩にそっと触れた。

「あ、あの…………俺、今」

「いい。今はとにかく落ち着こう」

 何でだろう。彼の視線はずっと俺の右腕を見ているのに、なんだか俺の胸のずっと深く、心に話しかけてくれているような。

 それでいて、すごく気持ちが楽になるような気がする。

「俺達がいきなり押しかけてきて、挑発するようなことを言ったから悪かったんだ。君は悪くない」

 俺は悪くない? 本当に? 

 一歩間違えていたら、人を一人殺してしまっていたのだ。そう思うと、とても自分は悪くないなんて思えない。そんな風には考えられなかった。

 それでも、彼の声はなおも優しく呟いた。

「悪くないんだ、君は…………大丈夫、君はいい子だ」

 彼の言葉を聞いた瞬間から、俺の中にある罪悪感が和らいでいく気がした。

 するとどうだろう。右腕が、ナイフと化していた俺の右腕が。

「戻って……いく」

 普通の腕と比べると一・五倍ほどの長さになっていた右腕は、刃の部分が変形することによって徐々に通常の長さへと近づいていった。

 鋭く尖っていた先端は少しずつ丸みを帯びてきて、そのうちに四本の溝を作り、溝は広がって離れ離れとなり、指となった。

 そうして少しずつ、本来の腕の形へと戻っていく。

 腕が完全に元の姿に戻ると、俺は恐る恐る自分の腕を動かしてみた。

 大丈夫、元通りだ。

 これが、俺の右腕だ。

「よし、それでいい」

 倉林……さんが、俺の頭に手の平をぽんと乗せた。

 その言葉と動作がものすごく温かくて、なんだか安心してしまって、俺までも涙を流していた。




「倉林さん、説明して」

「あいよ」

 倉林さんの運転する車で、俺達三人は移動を始めた。

 その途中、助手席に座る氷室アミは俺のことを一度も見ようとしなかった。そして丸裸になった自分の首を、しきりに擦っている。

 そうしたい気持ちも分かる。俺が言うのもなんだけれど、彼女の頭と体が今でもしっかりと繋がっているのは、本当に奇跡としか言いようの無い紙一重の誤差が繋いだ命なのだから。

 倉林さんがハンドルを切りながら、ゆっくりと話し始めた。

「さっきも言ったが、俺達は別に悪いことをしようってつもりはなかったんだ。分かってくれるか?」

「でも、俺のことを捕まえようとして押さえつけた」

 彼は少しだけ笑った。その顔は、最初に見せていた威圧的な態度とは打って変わって、柔らかいものだった。

 歳は三十を超えているだろうが、張りのある声と筋肉質な体躯がもっとエネルギッシュな若さを感じさせる。ハンドルを握る手も、豪快に歯を見せて微笑む頬も、ごつごつとしていて男らしい。だけど、やっぱり目は優しかった。

「元気あるじゃねえか。その調子で、分からないことは質問してくれていいよ。ちなみにお前を押さえつけたのは、お前が自殺なんてしようとしたからだ」

 改めてそう言われると、俺は自分がとても恐ろしいことをしていたのだと気が付いた。

 殺す相手がたとえ自分自身だとしても、それはものすごく悪いことだと分かったのだ。結局後になっていろんな人に迷惑をかけてしまうし、自分も心身ともに疲弊してしまう。そんなの、全然楽な終わらせ方じゃない。

 死ぬための準備。自らの命を絶つ覚悟。そして意外にも“罪悪感”との葛藤がすさまじかった。自分で命を絶つって、こんなにも…………。

 倉林さんが言った。

「死ぬ勇気なんて、そんなものはない」

「え?」

「あんな行為は償いにはならない。死んじゃだめだ」

 本当に、この人は俺の心を読んでいるのだろうか。なぜ償いだと分かったのだろうか。完全に見透かされている。

 そして、なんて優しい人なんだろうか。

 そう、倉林さんが優しく声を掛けてくれた時、なんだかすごく安心できて。そうしたら腕が、いつの間にか戻っていたんだ。

 そのことに気付いた瞬間から、俺はこの人を信頼出来ると思い始めていた。いきなりやって来て、俺のことを取り押さえて。でも、俺の右腕を元に戻してくれて。

 安直かもしれないし、単純思考だと思われるかも知れないが、俺にとって彼の掛けてくれた言葉や思いやりは、ものすごく大きかった。

 あのまま右腕がナイフであり続けていたら、たぶん俺は同じように自分を殺そうとしたかもしれない。

「あの、俺の右腕のこと、何か知ってるんですか?」

 今一番聞きたいことだった。彼は俺の右腕を見て、『カイゾウ』と言ったのだから。

 倉林さんは表情を少し固くしながら、「うん、そうだな」と一人頷く。

「君の腕に関してだが、それ…………そういう“症状”を総称して、我々は『カイゾウ』と呼んでいる」

 カイゾウ? いや、それよりも俺が気になったのはもう一つ。

「症状ってどういうことですか? 病気なんですか?」

 倉林さんは咳払いをした。

「病気と思ってもらってもいい。『カイゾウ』っていうのは“奇怪な臓器”という意味で『怪臓』と呼んでいるんだが、我々が定めた正式な名称としては、『後天性特異奇形器官発現障害』というんだ」

「名付けたって…………倉林さんはお医者さんなんですか?」

 そう尋ねると、彼は小さく笑いながら手の平を顔の前で振った。

「いやいや、俺はそういう頭のいい連中とは対極にいるような男だよ。カイゾウを研究している専門家はちゃんといる」

「じゃあ倉林さんって?」

「君のようなカイゾウの発現者を保護、そしてケアするのが俺の仕事だ。カイゾウを発症している人や、発症する可能性のある人を探し出して保護する。それと出来ればカイゾウ所持者には、今後のカイゾウ研究に協力してもらいたいっていう事情もあるんだ。ちゃんと協力に見合うだけの謝礼は用意出来るし、治療法が発見されたならば助けてあげることも出来る」

 カイゾウの治療法? その言葉に、俺は密かに希望を見出した気がした。

 しかし、俺の抱いた希望は、やはり目の前に座っている人に向けたものこそが大きかった。

 なんて心強い人なのだろう。

「えーっと、相葉ハヤト君?」

「は、はい。あの、呼び捨てとかでも構わないですけど」

「ははは、そうか? じゃあハヤトな。とりあえず今夜は一度病院に立ち寄らせてくれ」

 ふと、俺は前方から視線を感じ取った。

 氷室アミだった。助手席のシートに座ったままの姿勢で首を捻り、片目で俺のことをじっと見ていたのだ。

 俺がその視線に気付くと、彼女はすぐに姿勢を戻してしまった。

「さあ、着いたぞ」

 たどり着いたのは、先日氷室アミと一緒にバスに乗ってやって来た病院だった。

「もっと研究所みたいなところに連れていかれるんだと思った」

「そういう施設もあるにはあるが、いきなりお前を遠くに連れ出すことも出来ないだろう。それにここでは、もうお前さんを迎え入れる用意はできてるんだぜ」

「そうなんですか?」

「お前、アミと一緒にこの病院来たろ?」

 なぜそれが関係あるのだろうかと、俺は頷きながらも目を点にしていた。

「その時、右腕に違和感があるって言って診察を受けたな」

「はい」

「その時の検査で、既にカイゾウ発症の兆候が出ていたんだよ。だから、秘密裏に動向を追わせてもらっていた」

 そういうことか。だから廃屋に隠れた俺のことも、すぐに見つけられたんだ。

「そんな!? じゃあなんでその時に教えてくれなかったんですか!?」

 倉林さんは素早く運転席から降りて、俺の座る後部座席のドアを開けてくれた。

 そして悪戯っぽく笑いながら、「まあまあ怒るなって」と宥めてきた。

「カイゾウは現在、その発症例の少なさから不明なことばかりなんだ。診察だけでカイゾウの可能性を告知できるほど研究も進んでいない。難しいんだよ」

 倉林さんは俺に車から降りるよう手招きした。

「あ、あの! ちょっと待ってください」

 本当は、今のうちに一つだけ済ませたいことがある。俺は車から降りることなく、助手席に座ったままの氷室アミの後頭部を見た。

 彼女に、一言でもいいから謝りたい。

「ひ、氷室さ」

「早く降りなさいよ」

 冷たい声が返ってきた。

「そうだぜハヤト。お前を早く家にも帰さなきゃいけねえんだからよ」

 氷室さんに謝ろうとする暇さえ与えずに、倉林さんは俺の腕を引いて車から引っ張り出した。

「今夜は簡単な診察を受けてくれないか」

「ひ、必要なんですか? だってもう腕は元に戻ってるのに」

「それは治ってなんかないんだぞ」

「え?」

 すっかり元通りになった自分の右腕を見て、俺は不思議に感じた。

 そういえば、あの廃屋の中で俺の腕が元に戻ったときから、右腕の違和感がすっかり消え失せている。

 これが治ったのではないとすると、どういうことなのだろうか。

「カイゾウってのは、一度発現して落ち着いちまうと、本人の意思一つで自由に出現させることができるんだ」

「自由にって…………」

「勇気があったら、今度こっそり試してみろ」

 二度と出すもんか。俺はそれを約束するかのように、拳をぎゅっと握りしめた。

「それにな、本人の意思とは関係なく突然発現してしまう場合もある。中でも多いのが、寝ている間に出現というパターンだ」

「そんな、それじゃあ防ぎようがない」

「だから、そういった時の対処法とかも今日説明してくれるはずだ。諸々の諸注意を伝えたら、今夜は家に帰る。オーケー?」

「お、おーけー」

 彼の言う通りだ。気持ちが落ち着いた途端、急に疲労がどっと押し寄せてきた。今夜はゆっくり眠りたい。

 今日はやたらと長い一日だった。いろんなことが起こりすぎて疲れた。

「アミー。お前も来いよ」

「私、車で待ってる」

 車の助手席に座ったまま、氷室アミはケータイを取り出して何やら文字を打ち出していた。

 どうしても謝りたいのだけれど、今はそっとしておいたほうがいいのだろうか。

 仕方がない。帰りの車でもチャンスはあるだろうから、今は何も言わないでおこう。

 病院の正面玄関をくぐりながら、隣を歩く倉林さんに尋ねた。

「あの、氷室さんは何で、廃屋であんなことを言ったんですか?」

 俺は氷室アミに言われた言葉の数々を思い出していた。

 彼女の言葉はどれも、自殺を止めようとする説得の言葉というよりも、俺を厳しく責め立てる断罪の叫びだったように思う。

「そりゃあ、お前を助けたかったんだろうよ」

「そうかな。なんかちょっと言い過ぎな気もしたけど」

 すると、彼は少しだけ間を置いてから言った。

「…………それは、お前がカイゾウを理解すればきっと分かってくるよ」

 そうなのだろうか。

 カイゾウを理解ということにピンと来なかった。

 俺が忌み嫌う物になってしまったこの右腕を理解するというのは、一体どういうことなのだろう。

 それでもやはり認めざるを得ないのは、彼女や倉林さんが来てくれなかったら、俺は間違いなく今、生きていなかったということだ。

 やっぱりお礼がしたい。そしてきちんと謝りたい。

 氷室アミへの謝罪の言葉を考えながら、俺は病院の奥深くへと進んでいった。

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