反転

「…………ない」

東雲風香は鞄を漁る。通学用バッグの中には教科書などがつめられていなかった。代わりにあるのは大量の写真、タオル、水筒、それと『非日常』的なもの。

「あれがないと……私、が」

唯の硝子に頼らなければ自身をも保てない、その情けなさに鞄の中身を握る。手に馴染んだ黒色が外へ少し顔を見せて、陽光を鋭く反射した。

ポケットの携帯が鳴動を始め、バッグから取り出す。制服のポケットには他のものが入っていた。

「私です――――はい、わかりました」

わかるわけがない。あれがなければなにもできないというのに。

拭いきれない不安感が、手の内のものを強く握りしめさせていた。硝子の心は、握り割られたのかもしれない。



「はあ、ついに壊れたかなぁ」

先程の少年は教室の扉を力なく開ける。時刻は九時二十七分、チャイムがなり先生が通り過ぎたあとに教室へたどり着けたのは幸運だった。しかし、先程から息苦しさや吐気、頭痛が抜けず肩を落としている。

視線が少年に集まる。これ自体はごく自然で日常となっているので、気にせず窓際の後ろから二番目の席に腰掛けた。

「どうした浮かない顔して。彼氏にでも振られた?」

いつの間にか机の下にいた生徒に驚き、高い叫び声とともにそれを蹴りあげる。見事に男の象徴へとダメージを与えた少年は、悶絶する生徒へ慌てて声をかけた。

「ごっ、ごめん!でもそん、まさか、いるなんて……っていうか、僕男だしなんでそこにいたの?」

床でのたうち回る生徒を見下ろす。金色に染めた髪をオールバックにする少年、塩塚龍。みてくれは不良に見えるが素行が悪いというわけではなく、逆に周りから人気があるほどのお人好しだ。とりあえず大事には至っていないようなので、謝罪を中断して疑問へ移る。

龍がうめき声を発しながら立ち上がり自分の席である窓際の一番後ろ、つまり少年の後ろの席に戻った。龍の身体には彼を憐れむように光線が差したのだが、八月程の熱光ではなく淡い光が哀愁をさらに引き立てている。

「お前男ならこんなとこ蹴んなよ」

下腹部を押さえながら机に頬擦りする滑稽な様を晒す友人にどう反応すればよいのか困り、元から痛む頭を痛くなるくらいに悩ませた。

「えぇぇっと、それはほんとごめんけど、僕のこと男って認めてくれるの?」

「完敗だ」

「えぇぇ…………」

龍が両手をあげ、頭を横に振る。少年はその返答に若干憤りを感じるが、自分の身体を見て仕方ないとそれを収めた。

柔らかく程よい細さを保つ身体、肌は学校以外あまり外出せず部活動も文芸部と外に出ないためか白に近い。成長も男子高校生の割には遅く、冬服の場合制服の裾を捲らなければ指先しか見えないほどだ。ミルキーブラウンの髪の毛は肩まで伸び、特別変わった手入れをしていないはずなのに触ると心地よい感触が手を包む。この少年、東雲咲人は女にしか見えない容姿と声を持っていた。実際、下半身の一部を隠せば女体となる自身を毎日目撃して咲人の性欲は落ちぶれている。

「で、なんで机の下なんかにいたの?」

龍の机に頬杖をつき、あからさまに不機嫌だと思わせる声のトーンで問いかける。睡眠時間二時間半と若さを精一杯吐き出して、あちこち整備を要する身体に機嫌を悪くしていた。

「美少女が困っていたら優しく声をかけるのが紳士のマナーですから」

「そこはせめて少年っていってよ……ってゆーか、机の下にいる時点で優しくないし。ふわぁ……はぅ」

咲人は大きくあくびをして龍へ向き直った。頭痛と息苦しさを無視し、二重に見える龍の姿に目を擦る。

龍は呆れた顔で咲人に手鏡を渡した。

「お前の顔は……お世辞にも少年なんていえない」

内心でわかってるよと呟きながら自分の顔を見る。いつ、どうやっても変わらない顔。黒く深い瞳に少し平均を上回る長い睫毛。薄桃の絵の具を塗りつけたといっても疑われないだろう小さな口、肌は身体と変わらず白に近い。ふやけるような寝ぼけまなこは寝不足のためだろう。咲人は龍に手鏡を返しまた溜め息をついた。

「そう、それだよそれ。なんかあったのか?」

龍が咲人を指さす。咲人は脱力感を全身で表現するように腕へ顔をうずめた。

「……なんもない」

今朝の光景を思い出すだけで頭が痛くなってくる。血腥さまで思い出してしまい吐気も喉で渦巻いた。息苦しさを感じ呼吸が荒くなる。世界がぐわんぐわんと揺れはじめ、吐き気すら登ってきた。

「おい、大丈夫か?」

龍が咲人の頭に手を乗せ、焦り混じりの声とともに髪を撫でる。身体が火照り敏感になっている神経が脳へ信号を送り、咲人の全身がもがくように大きく跳ねた。突然跳ね起きた意識が視界を取り戻す。心なしか体調も少し正常へと近付いたと感じる咲人は、しかし顔を下へ向け返答した。

「ん、だいじょぶ」

重い頭を起こして龍に笑顔を見せる。言葉の正否を判定する声にもう一度大丈夫と伝えると、龍は巻き戻ったかのように髪を撫で始めた。そうか、これが友達なのだと考えながら、咲人は無意識ににやけ笑いしてしまう。

「もう授業始まるぞ。今日は持ってきてねーのか?」

まだ所々が不調を訴えるが、そう言われて鞄を漁る。ここの学校はかなりの、とまではいかないが、県内ではトップクラスの高校だ。咲人は時間がなくなるのは好きでなく、自分の学力より少し下の高校へ行ったことで余裕が生まれ授業中に隠れて音楽を聞いていた。

「……わ、わすれた?」

「今日ぐらいはちゃんと受けろ、な?」

唐突にまた気分が悪くなってきた。ネットやアニメ、漫画などで覚えた知識をなぜ繰り返し聞かなければならないのかと思うと、都合のいい頭が熱くなる。外見も都合よかったらな、とむくれるが、その仕草さえ女らしくあるとまでは気付かない。

「保健室行ってくるよ……」

「今日ぐらいはちゃんと受けろ、な?」

ホント痛いんだってば、と苦し紛れに言葉を吐き、なんの障害なく立ち上がる。

「――っ!」

目の奥に碧が見えた。脳裏には赤が焼き付いていた。眼球が乾き、空気に傷つけられていくのがわかる。こめかみに血の脈動を感じる。身体の異常か謎の浮遊感を思い、感覚に靄がかった手で脈打つ頭を押さえつけた。

「おい、マジ大丈夫なのか?」

脳が溶けてしまったのか、思考が遅れる。気付けば全身の脈が一定間隔を刻んでいるのがまさに手に取るようにわかっていた。血流が聴力を阻害し、赤に気を取られる。

「……ぁ、うん、だいじょぶだいじょぶ」

「大丈夫なら授業出ろよ」

龍の言葉にはできるだけ従いたかった。咲人の初めてできた友達だから、手放されたくなかった。そしてやはり、今でも彼の裾を手放せずにいる自分がいる。

しかし、目には絳と碧が交錯し、身体には赤が激しく踊り狂っていた。

視界の右肩が落ちる。弱った膝が折れてよろめいた肌に風が当たった。

「あーもう、つかまれ」

左腕が捕らわれる。龍の声がチャイムと重なった。

「せんせー、俺コイツ保健室連れてくんで抜けまーす」

またも視界が自身の意思と関係なく揺れ動く。いつの間にか咲人の隣へ移動していた龍の胸が眼前に大きく置かれた。いつもより龍の匂いが鼻腔に広がり、抱きしめられたと実感した身体が面を茹でられたかのように一色へ染める。

「ほれ、行くぞ」

今まで押さえつけられていた症状が噴き出した。

うずめていた顔を龍へ向ける。その姿は左右に揺れ、歪んでいた。歪んだ手が咲人の額に触れ、冷たく気持ちいい感触がする。

「お……熱……ゃね……か。顔色も……」

目の前の音が拾えなくなり、世界がぼやけてきた。吐き気の限界か口の中が臭くなってくる。

「お、う……ぇ」

舌が酸っぱい液体を感じた。身体が宙に浮かび、自分の力なく動かされる。まるで実際の肉体と精神の体にズレが発生しているような感覚が身体を支配して、臓物の汚物が全て喉に登り詰めた。

軟弱な意識が遠ざかっていく。かろうじて聞き取れていた音にすら布がかけられる。瞬時にして、頬が膨らんだ。吐き気の天井が突き破られた証拠。目眩が命を催促してきたかのように意識を薄く狩っていき、外傷的な要員以外の激痛に死まで錯覚を始める。急いで行っているのか振動で余計に吐き気がしてくるが、必死で口を閉じ、口内の液体を飲み込んだ。目の前に金髪が見えて背負われていることがわかり感覚の薄い腕を龍の身体に巻き付ける。

やはり、あれは見てはいけないものだったのだろう。

今朝の赤と緑が混在する世界は、生きている者が見ていいものではないと直感した。自分はそれを見てしまったから、生きていない者にされる、と。

強烈な眠気が襲ってきて、咲人は屍を実感した。胸の底から冷えていく恐怖に身を震わせながら、重く感じる瞼を閉じる。



――私は壊すだけ。壊す対象がなんであろうと逆らうことはできない。

風香は制服の内ポケットから黒い拳銃を取り出す。口径九ミリ、全長百二十ミリ、装弾数十五プラス一発。Cz75ショートレイルを持つために、今まで引き金に指をかけていたAk-47を地面に置く。出来るだけ、そっと。決して投げないように。

「お願いします。許してくださ……ゆ、る――」

――壊す対象がどれだけ泣き叫んでも、どれだけ抵抗しても変わらない。自分の大切な物を壊されないよう、対象の大切な物を壊し続ける。

拳銃に弾を装填しながら死体を抱える女に近付き、銃口を彼女の脳天へと向けた。女性の目が鉄の穴を見つめ、明らかに怯える。面から不足した赤の代わりに、抱きかかえた者の血が頬を埋めていた。だが、全身血塗れの女性から感じ取った印象は青。

動かない、血でまみれた肉塊を抱きしめて女は目を瞑る。

大きく、図らずも余裕を見せつけるように息を吸い込んだ。あとは引き金を引くだけ。しかし毎度、その最期を躊躇っている。こんなことしたくないと、どこかで訴える自分がいる。咲人に助けを求めようと嘆く、自分がいた。それは女の恐怖心を限界まで引き延ばしてしまう。

「ジオ――」

声を出して初めて気がついた。自分の声が震えていることに。慈悲ではない。甘えているのではない。咲人に、助けを求めようとした、今でも咲人のことを考えてしまう、自分への憤怒。

「……貴女なんか、魔法がなくてもいいのよ」

それは暗に、自身が魔法を要らないと指していることは明白だろう。彼女にとって魔法とは『こんなもの』程度にしか思えないから。本当の魔法に、触れたことがあるから。こんな紛い物に頼るまでもなくいつでもあの時を思い出すことができるから。

乾いた音のあとを、女が倒れる音が追う。反動で痺れる右手から拳銃を落として、風香は崩れ落ちた。血溜まりが身体に跳ねる。

「ごめん、なさい」

血塗れた死体の上で、血塗れた風香は頬を伝う液体に感情を押し付けた。顎から滴るその蜜は、甘く舌を刺激するだろう。



「酸欠ね」

ベッドに横たわる咲人の頭を撫で、龍に報告するのは御神真尋。藍色の長い髪を首の下あたりで結び肩から垂らす保健の先生である。

「それで彼女……彼は治るんですかね?」

龍の発言を聞き真尋は顔をしかめた。胸の下で組まれた腕は豊満な胸部を更に押し出し、龍の視線を誘う。こんなところを見られたら咲人は罵るだろうな、と苦笑いに顔を移す。

「大丈夫、とはいえないわ。とりあえず親族の方に連絡して、病院に搬送よ。まあ応急処置はしたしひとまずは安心して」

龍の肩を押し、だから帰っていいわよといいながら強引に保健室から追い出して電話をかけた。



「案外早く泣き止むんだね」

木の影から小学五年生程度の少女が姿を見せる。立ち上がった風香は少女の方に身体を向けた。顔を俯けたまま。少女はいつもの硝子が無いことに目を細める。

「泣いたって救われないのよ、遊羽」

私が、殺してしまったんだから

そう思い、風香は右拳を握り締めた。守るための犠牲は守らなければよかったと感じるに同義だろう。

「でも貴女は救われるんじゃないの?」

目の前の少女、遊羽から言われた言葉に憤りを感じた。救われるべきなのは、喜劇に巻き込まれた世界の住人。幻想の掌で狂っている者など、壊されてしまうのが正しい道のはず、だ。

「……殺した奴が救われてどうすんのよ!」

そう叫んだあと、胸ポケットの携帯が鳴る。風香は遊羽に背を向けそれを手に取った。無防備な肉肌をこれ以上晒さぬよう、さりげなく横目で周りを確認する。

「この話はおしまいね。じゃ」

そういって電話に出た。電話番号は風香の懸念するものではない。遊羽は魔方陣の書かれた札を取り出し、跡形もなく消えた。



「……酸欠、ですか?」

手を顎に乗せて頭を唸らせる風香は真尋に聞き返す。それに相槌を打つだけの真尋と会話が続かなくなり無言の空気が流れた。病院に搬送というのも咲人を移動させる手段がないため大人に手を借りる他ない。

あれではないのか、と脳内に心当たりが昇った。ならば今迄の行動は虚無へ帰れというのか。それを辿って、死のうとしたのか。どれほどまでに負担をかけていたのだろう。飛躍した思考の打ち止めには、まだそうとは決まっていないという繊細な希望が生み出される。

「……でも」

凝り固まった疑問を払拭すべく、真尋を追い出した。

本人の感じられない心奥では

私はこんなに苦しい

私はこんなに頑張ってる

お兄ちゃんのために、頑張ってる

だからもっと私に優しくして、見て、褒めて

そんな思いが真に凝り固まっていたのかもしれない。

制服の内ポケットから拳銃を取り出す。それを咲人の胸に押しあて、ブツブツとよく聞き取れない言葉を発した後、引き金を引いた。銃音は全く出ないで、引き金のカチッという音だけが静かな室内に響く。

銃口を突きつけた辺りを人差し指と中指で押し、もう片方の手を風香自身の胸に当てた。息を吐き、冷たい声音で『世界を変える言葉』を言う。

「……反転」

その瞬間、二人の姿が消えた。比喩ではなく、一瞬にして、塵一つ残さずに。カーテンが流れ、真尋が光源を持ち姿を見せる。今は午前九時を過ぎない程度の時刻。外で照る太陽に負けじと胸の下を明るくするものは本来必要ではないのだ。

真尋は誰もいなくなったベッドに腰掛けながら呟く。

「東雲さんは忙しくなりそうね」

不気味に笑う彼女の視線の先には淡い緑色の炎を揺らすランプがあった。

「私ももう少しで期限だし、あの空気も恋しいわ」

輝きを放つそれを首あたりの位置まで持ち上げ、側面を何度か擦る。これは炎に触れることに重点が置かれるものだ。この道具は炎が本体なのだから。

「反転」

先程までの伸びた声はなく、冷えきった声が誰もいない室内に響いた。

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