断片
「あ、う……ふ、うかぁ」
朦朧とした意識の中でぼやけた世界に確認できた者の名を呼ぶ。覚束ない視界には見知った顔の他にもう一人、少女の顔が見えた。
咲人は上半身を起こし正常になりつつある身体を動かして風香と向き合う。風香の隣に座る小学五年生程度の少女は薄く橙がかった金髪を持っていて、髪の左方をさくらんぼの髪飾りでサイドアップにしていた。服装は中央に大きなリボンのついた白いワンピースを着ている。リボンの結び目にはエメラルドのブローチが付いていた。
「品路遊羽っていいます。二人でお話ってできますか?」
小学五年生程度の身長の幼女の問いによくわからないまま頷く。それを見た風香が立ち上がり森の中に消えていった。
(生きてる……のかな。どこだろ、ここ)
咲人は自分の胸に手を当て心臓が動いていることがわかり安心する。しかし次は今朝見た景色から赤を抜いたようなこの場所に疑問と悪寒を覚えた。
遊羽が人差し指を咲人の身体に当てながらいう。
「前置きはなしでききます。なぜ魔術を使えるのですか?入れ替わったのなら今すぐ身元とほんとの咲人さんの居場所を吐いて魔力の滞留をやめてください」
まだ気だるさの抜けない咲人はその突拍子もない言葉についていけず、日本語ともとれない言葉を出し困惑を無意識に表現した。何度嘘だと、妄想だと思い込んでも真摯な彼女の瞳を見て可能性を拭い捨てていく。その視線の鋭さに未知の恐怖を感じてしまう。
「わ、わっかんないよ。知んない、知んない!」
当てられた指を払いのけ聞き返す。遊羽は溜め息を吐くと風香を呼び、半歩後ろへ下がった。
「なによ。調べたい事はもういいの?」
冷静な声を放ち、風香が木陰から歩いてくる。鋭く凛々しい風香の目を見て偽物なのではないかと咲人は疑問を抱いた。この声はもう、出さないはずだから。小学生のときに終わったのだから。
だから、ありえない。
「どうもハズレみたい。嘘ついてないのはコレで証明済みだし」
遊羽が右手の人差し指をクルクルと回しながら落胆した声を出す。当然咲人に向けられたものではない。到底理解できるものでもない。東雲咲人は知らないのだから。しかしそれに戸惑うことなく佇む風香は、咲人の知らない者のようで、咲人に目を向けていないようで、怖かった。もう独り、また独り、まだ独り。理解者だと感じていたのに、五年前からずっと、そうしてきたのに、逆戻りしたような、裏切られたような、悲情が沸き上がってくる。
また、彼女は咲人の知らない現実を言葉にした。優しい風香と過ごした千八百二十一日が、風に溶かされていく。今迄融けていた二人を分かつ壁が、水色に凍っていく。
「ってことは、自殺……」
冷たい視線が咲人に突き刺さる。その言葉を聞いて咲人は動揺を隠せなかった。おかしくなった風香、おかしくなってしまったのではないかと思えてくる自分、今朝の異常な体験。それを脳内で肥大化させ、焦燥に駆られる。
「自殺って、なに。朝はへんなの見るし気持ち悪いし、起きたら知んないとこだし!」
風香に縋る咲人の目には混乱の色が映されていた。風香はなされるがまま、状況の飲み込めない咲人に肩を揺らされている。少しも抵抗をしない彼女に、思わず肩を掴む手が緩んだ。
「ああ、もう!」
年下の少女へ縋りつく少年の姿に遊羽が割って入る。無理矢理二人を引き剥がすと、脳内を熱くしている咲人をこらっ、と短く怒鳴り付けた。
「いつまでもウジウジしてたらこっちもなにもいえないでしょ。説明ならちゃんとするから」
風香を見るとその少女は目を細める。妹の口は空気を震わせようとして、踏みとどまることを繰り返していた。これを話してしまえば、もう兄妹でなくなるから。善悪の押し付け合いになってしまうから。
「……ごめん。お兄ちゃんを巻き込んじゃって。説明は、今するから」
木に背中を預け、顔を背けながら説明を始める。咲人はその場から動かず、風香に目を向けていた。
「ここはキョウカイ。私達が住んでいる世界じゃな――」
「ちょ、ちょっとまってよ。おかしい、おかしい!」
いきなり風香の声が遮られる。代わりに咲人の声が森の木々をざわつかせた。
突然の大声に気圧され、二人の少女は目を白黒させている。そんな中、咲人は言葉を紡ぎ続けた。
「いきなり魔術とかキョウカイとか、信じられるわけないじゃん。そういうのはアニメとかゲームの話ってことじゃないの?」
咲人は立ち上がり、風香に近寄る。今までの咲人なら喜んで説明を聞いていただろう。しかし、先程のことが魔術によるもので、あんなことが日常茶飯事のように起こっているのではないかと思えてきて、とても怖くなった。風香を変えたのも、自分を変えたのも、世界を変えたのも、全てが理屈のない魔術というものによってねじ曲げられたのだと。魔術というものにとって取るに足らないものであるのだと。
「嘘でしょ、嘘なんだよね?」
妹を言葉で叩き、反応を待つ。彼女は顔を俯かせ肩を震わせていた。
「……ふうか、ふうか!」
いつまでもこない返事に不安を覚えて少年は彼女の名前を呼ぶ。すると風香は制服の内ポケットに手を伸ばした。そこから取り出されたのは十二センチ程の黒光りする銃。
その銃口が咲人のすぐ横にある木に向けられる。
『ウォルト』
一瞬、糸のようなものが銃口から飛び出すのが見えた。その後、爆風が突き抜け咲人は目を閉じる。おそるおそる目を開くと、風香の銃口から少量の水が垂れていた。隣の木に目をやり、驚愕する。
太い木の幹に直径僅か九センチ程の穴が開いていた。
風香は銃口を咲人に向ける。
「これで、わかった?」
咲人に銃を構え続ける風香の眼光は恐ろしく鋭かった。今朝までの優しい面影など、存在しない。一方咲人は銃が突きつけられているとわかり情けない声を漏らす。
この風香は違う。
偽物だ。
幻覚だ。
いつも僕を理解してくれた。
いつも僕に優しくしてくれた。
なんで、なのに、なにが、どれが、誰が――
「……まだわっかんないの?」
その言葉が聞こえると同時に少年は振り返り走り出した。精神より先に身体が風香ではないと錯覚して。力のない足跡が大地へ刻まれていく。
少女は咲人の足音を聞くと銃の引き金を引いた。カシュンという音と彼女から発される呪文が辺りに響き渡る。だが、鉛玉は入っていない。
銃口から水の弾丸が飛び出した時、紫色に光った。放たれたそれではない。咲人の足跡が、だ。ガコン、という重い音と共に光の壁が飛び出す。最初から威力のない弾丸は壁に弾かれて水へと戻った。
「ごめん、ごめん……!」
紫色に光る壁を見つめながら少女は目を擦り、ただただ立ち尽くした。
「……う、あ。ああ、あ……」
薄暗い部屋の中で手足に杭を打ち込まれ、十字架に磔にされる少女。身体の感覚などとうになく、動かす意思すらもない。口を動かす意思は、ある大切な者の残像。
「うぅ、あ……ゆう、まぁ……」
頬を伝うものも、少女には感じることができなかった。
「はぁっ、はぁっ……んっ、ぷ、ふぁ、は、はぁっ」
東雲咲人は少女とは逆の方向へ脚を回していた。肺へ配られる空気など関係ないと駆ける身体は、外気に触れ冷たく固まっている。しかし継ぐ足跡は歪な揺れを表記していた。
草木の茂る中で、できるだけ早く足を動かす。緑の息吹を感じさせるのは足元からの雑音と頬を斬りつける鋭い枝葉、それと巨木を支える根の堅さのみで、視覚は赤黒く汚染されていた。朝の風景が水晶体に浮かんでくるのだ。血を垂らす浅い切り傷は不思議と存在を許されない。
「っく。はあ、はあ……」
手を木にかけ、自分の走ってきた方を向く。そして、改めて『この世界』を認識した。キョウカイなのだと。魔術なのだと。
「んっ、ふぅ、はぁ。ぅ、え…………」
その異常な光景を見て咲人はその場にへたり込む。これまでの現実を不可解な魔法に破壊されたような、不可解な魔法のせいにしてしまいたい感覚に陥ってしまうくらいの、不可解だった。知識欲に任せてパソコンで調べ尽くしていた全ての現象から、逸脱している。
木造の家。これまで咲人が足跡を歪に残し、走ってきた場所にそれが建っていた。ありえない事象に頭を抱える。朝のようなことが何度も起こる気がして、朝以上のことが何度も起こるような気がして、叫び声をあげた。家の住人に見つかってしまうことなど考えもせず、立て続けに起こる『わかんない』に恐怖し、連呼し続ける。とっさに意見を求められるもの、予想外のものに、この少年は弱い。豊富な知識にかまけていたのだから。
家の扉から開閉音が聞こえ、反射的に短く悲鳴を上げてしまう。青みがかった銀髪を持つ少女が出てきて、咲人に駆け寄った。
「えー……と、ここは初めてなのですか?」
少女、といっても咲人と頭二つほど身長の高い少女が咲人の背中をさすり、冷静な面付きで聞いてくる。冷たい表情から発された声はどこか温かくて、咲人は不思議と落ち着くことができた。
「清治、どうすればいいのでしたっけ?」
へたり込んだ少年の対処法がわからず辺りを見回すが、それに答える者はここにいない。目の前の少年が嗚咽を漏らし始めさらに混乱したが、それを表情に出すこともない。
「……とりあえず中へ入りましょう」
少女が咲人の手を軽く引くが、咲人は泣くばかりで立ち上がろうとしなかった。よほどのことにあってきたのだろう。あちらの女子は情けないと、少女の溜息が咲人の重圧に加わる。
「どうしたのですか」
眼を何度も擦り、必死に声を押し殺そうとしている咲人に若干嫌悪感を抱きつつ問うた。相手側に寄り添う。『清治』の言っていた大切なこと、だ。
「あのっ……腰、抜けて……」
所々嗚咽を漏らしながら少年は続ける。聞き取りにくい日本語に僅かだが眉に力が入った。
「もう……僕、な、にが、なん、だか……わっかんなくて……」
顔をぐしゃぐしゃにしながらも言葉は出てくる。
「ふ、かはなんかぁ、ちが、くて……優しくっ、れ、たの……初めて、で」
「はぁ……?安心して下さい。もう大丈夫です」
気がつくと咲人は彼女の胸に包まれていた。背中をさすられ嗚咽がさらにこみあげる。
「とりあえず、ここは危ないので中へ運びますね」
そのまま抱き上げられ、赤子のような体勢で運ばれた。羞恥心もあるがもう涙は止まらない。
それから数十分、彼の泣き声は止まなかった。
「さて、落ち着きましたでしょうか」
丸いテーブルを挟み、少年少女は椅子に腰かける。見方によれば親子ともとれる身長差の二人として咲人は、良好とも険悪ともとれぬ空気に潰されまいと腕を震わせていた。この家に掛時計は見当たらないはずが、心の内では秒針が鳴り響いている。
「はい。あ、あの……さっきまでありがとう、ございます」
頬に残る確かな感触にやや緊張しながらも咲人は彼女を見上げた。大きさに見蕩れているのではなく、罪悪感に抉られているのだ。大きな胸というのは、女性を感じさせるものは、苦痛としかとることを良しとしない。
「そこまで緊張なさらずともよろしいですよ?では、説明を始める前にお互い自己紹介といきましょう」
コーンポタージュを少し飲んだ後、少女は微笑みを見せながらいった。濡れ煌めいた唇の赤がうねる。
「私の名前は柊霊沙と申します。呼び方はお任せしますが、霊沙ちゃんなどはやめて下さい」
薄蒼の髪、鋭い碧眼、襟と裾が白いシャツを押し上げる少し大きい胸。柊霊沙が魅せるその整った一礼に一瞬見惚れ呆然とする。咲人は一つ咳払いして口を開くが、声を出そうとする前に霊沙が席を立ってしまいタイミングを逃した。脚の質感が映るデニムが視界に存在を放つ。明らかにラフといった格好、それでいて無意識として妖艶に誘いをかける彼女が遠のき、なにか裏があるのではないかと初めて疑った。
不安の元は足音が遠のく程肥大化するが、近付いても増していく。小さくなる影、見えない場所での物音や話し声、少しずつ近付いてくる音。全てが不安と恐怖を振り回した。
「ほら、早く来て下さい。グズグズグズグズと情けない」
見知らぬ顔が、霊沙の胸と腕に巻かれている。童顔の青年、咲人と同じくひ弱な印象を強く受けることができた。
「胸押しつけてくるなんて霊沙ちゃんのアタックは激しイッ!」
腋に挟み引きずっていた頭を床に叩きつけ、思い切り連れてきた少年の背を踏みしめる。床板の振動から彼の身体を凝視すると、はっきりと筋肉というものが確認できた。
「ほら、自己紹介です」
その言が自分に向けられたものだと瞬間的に震えあがり、下敷きの青年に少女の視線が傾いていることで思い違いを訂正する。しかし肩甲骨に乗った脚が発音を、呼吸までも阻害しているのではないかと眉をひそめた。
「自己紹介も出来ないのですか、やはりバカなのですね」
「まず、足っ、どけよう、ぜ霊沙ちゃん!」
目に映った霊沙は、心なしか楽しそうに見えた。笑顔とは程遠い表情でどうすれば楽しそうに見えるのだろうかと咲人は首を傾げる。
「まあ茶番はこの辺までにしておきます。清治、本当に自己紹介出来ないわけではないでしょう?」
霊沙が足をどけると『清治』が立ち上がった。普段と同じような目で見ると細いと感じざるを得ない彼の凝縮された肉体を足一つで制圧する目の前の少女に悪寒が刺したが、不思議と踊っていた懐疑心は払拭されている。
「はあ……白魂清治だ、よろしく。君は?」
先ほどまで二人の世界にいた清治から話題をふられ、うろたえてしまう。しらたまという名字に疑問が浮かび、問おうか問うまいか脳を痛める隙ができるが、この場では関係のないことだと振り落とした。
「あっ……しっ東雲咲人です。よろしくお願いします」
少年は大袈裟に席を立ち、一礼して再度椅子に座り直す。二人の身体は予想外に硬直した。
「驚きました……」
彼女は言葉とは相反して無表情を維持している。当然、名前と容姿を確認した者が容認するために吐く言葉。
「貴方、男の方だったのですね。……あ、失礼致しました」
その言葉を発する彼女は何時も無表情、というのが妥当であろう表情を少し緩めていた。同じ言葉を清治からも聞いて、咲人が苦笑する。何回も言われていることに対してより安堵の割合の方が高かった。
「まあいいや。とりあえず此処について説明するな。じゃ、霊沙ちゃん任せたっ!」
清治が霊沙の肩を軽く叩く。全て自分に押し付けられているのに、霊沙は諦めたように溜め息を吐き説明を始める。
「はぁ……分かりました。まず、此処はキョウカイというあなた方から見たら俗に言う異世界です」
この説明はやはり、風香と同じだった。異世界というフレーズを一蹴してしまったことに悔やみ拳を握る。
「この世界ですが、大変危険です。貴方のように此処に来た人間はキョウカイの空気によって魔法が使える身体に強制的に改造されてしまうのですが、これは防ぎようがありません」
吐かれた言葉に咲人は唖然としてしまう。
強制的に改造される。朝の異常の原因がこれによるものだと感じ、昨日の自分でないことに衝撃を覚えた。魔法などという憧れのものを手に入れたことより、それを使い傷つけ、傷つくのがとてつもなく怖い。霊沙はそんな咲人を追い詰めるかのように淡々と説明を続けて行く。
「しかもキョウカイの空気を吸わなければ十日以内に死にます。まぁ、先使や先主に殺される可能性もあるんですけどね。その、先使と言うのは食人生物です。基本殺してもらって構いません。先主という者もいますが、人型で通常の食べ物でも生活出来ます。しかし人間のほうが美味しく感じますし魔力回復もできますので人間を襲う先主の比率が高いですね。分かりましたでしょうか?」
咲人は霊沙の説明をあまり聞くことはできなかった。殺してもらって構わない、という言葉を脳が拒んでいる。
「いやいや霊沙ちゃん。初めての人にそんな説明しても分からないでしょ」
「それは貴方でしょう?」
そう、目の前で笑いあっている二人が恐ろしく感じた。この二人も殺されかけて、『殺している』のかとばかり考えてしまう。
「東雲さん、聞いていますか……?」
突然声をかけられ困惑し、とりあえず返事を返そうとする。人付き合いの薄い咲人はとっさのことに反応することが難しい。
「……ぁ、はい」
学校の問題ならば、あらかじめ用意されたものならば簡単なのにと、上手く出なかった声を叩いた。
「聞いていませんね……清治、こう言う時の対策が思いつきません」
「ハハハ!霊沙ちゃんも同じ――ごめんって!謝るからイタイタイイタイ!」
霊沙が無言で清治の指を掴み関節を逆に曲げようとする顔は場面と似合わずやはり無表情で、やはりどこか楽しそうだった。
「はぁ。東雲さん、落ち着いてください。混乱する気持ちは分かりますが、その状態では確実に死にますよ?」
霊沙の、死という言葉が、昨日までは実感できなかった言葉が、咲人に重くのしかかる。しかし、実際にはどうにかなると安心感に埋め尽くされていた。この二人に助けてもらえるとどこかで思っていた。風香が助けにきてくれると勝手に思い込んでいた。
「だから対策を講じるのです。魔法、人間にある魔力を消費して使う力なのですが、魔力は個人差がありますし、使うことの出来る魔法も人によって様々です。自分のものは頭の中で考えるだけで分かりますので、ゆっくりと、落ち着いて考えてみて下さい。基本スペル、魔力上限、と浮かび上がってくるはずです」
声が止み、二人に見つめられていることに気付いた咲人はなんとかいわれたことをこなそうと目を閉じた。
(おっ、落ち着こう。落ち着こう落ち着こう落ち着こう――)
「分かりましたか?では使い方を説明しましょう。何回も説明するのは御免なのでしっかりと聞いてくださいね。魔法は基本詠唱、スペルを唱える事に――」
「あ、あの……」
まだ何もわかってない、まだ何もやってない。そう伝えようとして、何回も説明するのは御免、というフレーズを思い出した。
「なにか質問でもありましたか?」
彼女の無表情が恐く感じる。彼女の一定な音が不気味に背筋を這う。
「……いえ、なんでもないです。すみません」
目を下に逸らして霊沙へ返す咲人に清治だけが疑いを持った。
「そうですか、では説明を続けます。魔法は基本詠唱、スペルを唱える事によって発動します。スペルは大きく分けて基本型、階級型、選択型に分けられますが、初めは基本型しか使えません。これは威力は弱いですが簡単で、頭の中で考えるだけでスペルは分かったでしょう?階級型、選択型スペルは遺跡という場所の壁画に記されていますが、まぁ関係無いと思います。大量の先使が住み着いていますし、絶対に一人で行かないで下さい」
咲人はより一層なにがなんだかわからなくなった。早々と口を動かす霊沙の声が理解しようとする思考を邪魔する。
「――力というのは簡単にいうと精神、つまり思いで、魔力上限はその時によって上下します。その平均値を魔力上限として脳内に浮かび上がらせることができる、ということです。魔力消費の計算方法は簡単で、基本スペルの魔力消費量×階級スペルの段階×選択型スペルの数で求めることができます。階級スペルの段階というのは、中級なら×二、上級なら×三、などのことで、階級があがるごとに増えていきます。先程脳内で浮かんだと思いますが、Psiというのは魔力の単位です。遺跡には霊具という特殊な道具もありますが、取りに行くと餌食になるので同様に行かないで下さい」
一気に専門用語を湯水のように放出した霊沙だが、咲人は結局あまり理解出来なかった。いや、仕組み自体は理解出来ているのだが、心が受け付けないのだ。魔法が、不可解な現象を強引に引き出すものが、そんな単純な計算式で成り立っているのかと。そんな簡単に、なにかを傷付けられるのかと。しかし咲人の意識は霊沙の次の言葉に釘付けになる。
「恐らく貴方が一番気にしているであろう帰る方法ですが、帰る場所をしっかりとイメージして、『反転』というだけですぐに帰れますし、逆も同じです。しかし魔壁という結界を張られた安全圏内でしか反転は使用できませんのでご注意してっつ!」
思考を整理しようとコーンポタージュを飲む。簡単すぎる回答が脳内に余裕を詰めたからだ。まだポタージュが熱く思わず落としてしまい、目の前にいた霊沙にかかった。
「あっ……ご、ごめんなさいっ!」
「……清治、タオルを取ってきてください」
不機嫌そうな声音と無視された謝罪に若干心を沈ませた。それをよそにあっけらかんと巫山戯ている清治の声を聞いてさらに心を沈めていく。
「うーん濡れてる霊沙ちゃんも中な痛い痛いって!ごめんすぐ取り行くから、だから蹴るのを止めて!」
熱さに少し涙目になり服を濡らしている霊沙は色気の増してみえたが、咲人はそんなことを考えていられるほど強い人間では無かった。わざわざ自分の為に丁寧に説明をしてくれていた人に失礼な事をしてしまった重圧が霊沙の視線とともにのしかかる。
「大丈夫です、少し熱かっただけですから。それよりも分かりましたか?清治にはよくわからないと言われるのですが」
濡れて肌に吸い付いた服を気持ち悪そうに摘む霊沙に罪悪感を渦巻かせる。これ以上迷惑をかけないよう言葉を選ぶ。
「わ、分かったと思います……」
「分かりましたか?」
霊沙が机を叩き声を強調して問い詰めた。まだ自身の魔法さえ掴めていない咲人は、嘘をつき続けることは無理だと感じ目を背ける。
「す、すみません。あまり……」
「はぁ、どうして私は毎回大変な目に……。まぁ良いでしょう。あ、ありがとうございます」
タオルを渡した清治が台拭きで机をふきながら呟く。
「霊沙ちゃん先に着替えてきて。俺が先に教えとく」
「任せましたよ?しっかりと『教えて下さい』ね?」
部屋の奥に消えていった霊沙を確認して、清治が言葉を紡ぐ。消えた霊沙の方角に全身を傾けて。咲人と視線はおろか顔面さえ交わさずに。
「…………東雲くん、もう帰ったほうがいい」
突然吐かれた毒に耳を疑う。もう時刻は外界の明度を目測すれば七、八時あたりだろう。帰る方法も教えてもらった。こちらでの常識は知る由もないが、咲人としてはありえない時間なのは確かだった。しかし、まだ教えてもらいたいものもある、次回ここに来られる保証もない。今後のために、立ち去りたくはなかった。清治が振り向いて、帰宅を催促されたように映る。
「なんでこっちの世界に家がある、なんでこっちの世界に住んでる、なんで『あなた方』から見たらっていった……いい加減、気付いたほうがいいよ」
鋭い眼光が咲人を刺した。やっと状況が飲み込めた咲人は席を立ち逃げていく。今後すらなくなってしまうのであれば、『もう帰ったほうがいい』。ドアノブに吹き出た汗を塗りたくり、逃走を阻害する壁を開けた。
清治は、霊沙の場所へ爪先を向ける。
「……はあ、慣れないな、ぜんっぜん。凍価さんに報告しないと」
少年の出ていった扉を尻目で見つめ、静かに呟いた。
扉を開けるともうそこは暗闇だった。鬱蒼とした森林の影が背後の家とともに恐怖を引き立てている。葉々の擦れる風音が自身を冷やかす噂声に錯覚できた。背には化物、目には暗夜、耳には障り声。その全てが咲人の心に刃物をちらつかせる。
「は、はん、てん……」
押しつぶされる前に帰りたかった。食べられる前に帰りたかった。しかし世界が変わる気配はなく、不気味な風が咲人の身体をなぞっていくだけ。やはり化物故に人を化かすのか。元の世界に帰る術などなく、ここで生き死を刻まれるのか。火種を入れた懐疑の念がふつふつと沸き上がる。ここに来て疑いばかりだと器の小さい自分を責め、すくんだ足を叩いた。風香にも霊沙にも根拠のない疑問をかけて、その後に後悔する。こうも容易く疑念をかけられるのだ、自分を守るためなら他者を傷つけようとするだろう、最低の人間。
そこまで思考を飛躍させ、ある言葉がひっかかった。ならば風香はなぜあちらにいたのだろう、と。
片手を額に押し付けて、もう一度脳内の情報を整理していく。反転という言葉、それはどのような場合使えるのか、使えないのか。今現在も無防備で肉を晒している自分が、なぜ襲われないのか。風香は確かにこの世界を行き来していた。ならば、先程の二人は嘘をついてなどいない。
『帰る方法ですが、帰る場所をしっかりとイメージして、『反転』というだけですぐに帰れますし、逆も同じです』
今回の不具合の原因が雪解けて、額に接している掌根を切り離す。
世界をイメージする。後悔や劣情、恐怖や疑心が駆け巡った思考は混乱し、帰る場所を浮かべるだけの余裕などなかった。
だが、それに気付いた所でこれまでの錯乱がすぐに払拭されるということはない。自分の家すら掴めなくなった咲人が頼ったのは、意識を失う直前の恐怖だった。鮮明に思い出せる気持ち悪さを言葉にする。
『……反転』
予想できない『世界の移動』に畏怖を感じて目を瞑る。数秒経ち、感覚の変わらないことに疑問を思い目を開けると、先程と変わらぬ光景が映し出されていた。しかし一点、自身の足元を除いて。
驚きの声を漏らさずにはいられなかった。燃えている。通常では有り得ない、紫色の炎に包まれて。
熱くもなく、灰も出ない。火は膝あたりまで届いているのだが、足首あたりは完全に消滅している。それは見えないだけなのか、転移しているのか、少なくとも消滅した部位の神経は繋がっているようで、変わりない足先が感じられた。支えのない身体は重力に従わずそのままの位置で固定された。不可解な現象が直接自分にふりかかるのはやはり恐怖の対象にしかならず、家の前だったこともあり胸が締め付けられるような感覚に囚われた。
いや、正確には木の影や周りの暗闇だけが怖かった。家にいるのは親切な『人』のみだったから。
火の粉が顔にかかり始める。魔法、というフレーズを呼び起こすとともに昼の言葉が自然と蘇ってきた。
「魔術って、なんだろ」
こちらでは『魔法』しか受け入れられず、風香と共にいた少女の口からは魔法など語られていない。複数の略称を持つものなのか。あるいは――
思考するまえに、咲人の意識は手放される。
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