欷歔
第4話
胸より下を軽く圧迫するものに気がつき瞼を持ち上げると、咲人は保健室の寝台にいた。暗闇故になかなか肌を動かせずにいたが、状況の確認のため起き上がって辺りを見回す。保健室に転移したのはあちらに行く前ここに身体があったからなのか、霊沙の発言通り世界を想像せずとも身が覚えた感情を頼りの糸としてその場所へ転移できるだけの力が魔術なのか。どちらにせよ咲人の中では震えが胸を押し上げていた。
ここでただ布団にくるまっている訳にはいかないとの思考に突き動かされ、足先を出そうと試みる。布団によって暖められていた肉は外気に触れた途端急激な温度変化に見舞われ振戦が起こった。足を戻せば震えも止まると寝惚けた考えを染み渡らせるも、一時抗議の硬直の後そのまま足を下に下ろす。床についた際も足の筋を攣るような冷たさに喉を詰めたが、一度慣れたものとして次の足へと動作を移した。
真白な壁に掛けられた時計によると時刻は午後八時四十分。彼方の世界に時のわかるものは無かったが、街灯と月明かりが混ざる外の景色を見て同じ時間帯としてもよいだろうとの結論に終わる。この冷え込み始めた秋の夜道を制服、ましてや夏服で歩くのは先程室内で震えたばかりの肌で歩くのは心許ない。しかし家にいる可能性がある風香と話すためには早めに帰らねばならず、これ以上更けてさらに気温が下がるというのも避けねばなるまい。いつの間にか消えている靴下は足裏についた微量の土であちらに行った時からないと判断でき、日常的な防寒具には頼れないと思考に入れた。夜の冷え込みに耐えられる着物ではないと気付けばもうここで固まる要素はなく、保健室の扉に手をかける。悴んだ手先は咲人が扉を開ける前に動かされたことにより弾かれた。
「おかえりなさい、東雲さん」
誰もいるはずがないとの思考をする間なく前提としていた咲人は他力により開かれた扉へ驚愕の能を示し、宙を握った手を衣囊へ追いやる。
背後に窓があることを横目で確認しながら数歩後ろへと下がり、目の前に現れた者の顔を見た。藍色が谷間へ挟まる程の長い髪、月明かりを浴びることのない柔らかな眼光。養護教諭の御神真尋だと、顔を合わせた瞬間に確信する。
「……すみません。急いでるので」
その言葉を引き金にして、双方が互いを避けるように左右へ身体を揺らした。真尋の靡き留まろうとする髪から香る匂いは鼻の先をふわりと包む甘く透き通ったものだった。それに対して咲人は、誘われた世界の鉄臭さがこびりついた酷い臭い。この世界に帰ってくることができようとも、もうあちらの住人なのだと悲観に涙腺を潤わせる。部屋を出た先の廊下を蹴ろうとしたその時、背後からの声に硬直した。
「どこにでもいますよ。この世界に溶け込んでるモノなんて」
心臓が酸欠の断末魔のようにびくりと跳ねる。振り返った視界に映る真尋の見透かした艶やかで冷徹な眼は外気以外の寒気を引き立たせてきた。この女は何を知って、何をいっているのだろうか。状況と心境の不安定さを利用され彼女に絡め取られたような気がして足が凍りついたかの如く停止する。背を向けてもいいかどうかの判断ができないからだ。
「ほら、もう暗いですよ。大丈夫ですか?」
それを耳に入れた咲人は自分の置かれたものと風香の置かれたものを思い出した。また、風香が危険な目に巻き込まれてしまっている。ならば、己が身の危機など感じていられようか。真尋に一時の躊躇いを見せ先程まで嫌っていた外気の凍る廊下を咲人なりの全力疾走で駆け抜けた。このような思いを抱くことができるのは、拒絶されたことから目を背けたいがためのそれ一心なだけかもしれない。息を荒げ背を揺らす少年を見つめ続ける真尋。その目は緑色に輝いていた。
「最大魔力量三十二、か」
懐から取り出した札をくしゃりと握る。
「あれじゃ、すぐ死ぬのに。全く凍価さんったら……」
一日と空けていないというのに懐かしく感じてしまう我が家の少しばかり重い扉を開き、影に汚された玄関を注意深く見る。そこに風香が愛用していた靴が置かれてあるのを確認すると、乱雑に靴を脱ぎ捨てて妹の部屋に向かった。一般的な一軒家より数畳程度広い家の廊下がより一層長く感じられる。階段を上がるぺたぺたという音が煩わしく感じられる。半螺旋階段とも呼べる緩やかな曲がりを作る階段が薄暗がりで壁に見えてしまって仕方がない。二階の窓はカーテンが閉められておらず、ただなにもない廊下だけを刺し続ける月光が憐れとも共感とも感情を抱けるまで咲人は錯乱していた。
部屋の扉を強く開ける。構造上扉が壁に当たり音を鳴らすことはないが、かぼそい悲鳴にも似たみしみしの啜り泣きと共に咲人の元へ跳ね返ってきた。右手を突き出しまたしても除けられたそれはぎぎぃとの断末魔を響かせて停止する。
中学生の女子が使うには大きなベッドの上に投げ出された肢体。薄いカーテンを通りその一部を照らす月は先の光とは違う希望と目的を見出させた。私服は共有しているためスカートが足の根に見えるということはありえないが、艶やかに滑る足を見る限りうつ伏せになっていることが伺える。
「……来ないで」
明らかな拒絶の言葉。しかし昼のような刺があるわけではなく、涙を食み懲り固めたかのように震えた言葉だった。くぐもった声から枕かなにかに顔を押し当てているのがわかる。
風香が泣いているのを見るのはこれで三度目だ。だが、今回はその二つとはなにもかもが違い過ぎる。女子故の身嗜みと弁えていたが、彼女が咲人より強く石鹸の匂いを放ちはじめたのはいつだったか。彼女が咲人より強くなったのはいつからだったか。
大きく深呼吸をして、話しかけた。
「……風香」
「来ないで!」
声で位置特定を図っているのか、足を動かさずとも怒号の降る。明空の際に見せられた銃の爪痕を思い出し、怖気づいた身体が震えを示した。それでも、振動する口をぎゅうと固め怯えを見せぬよう言葉を紡ぐ。それは、咲人の人生の半分が、風香との『約束』で成り立っているからだろうか。
「風香」
落ち着いて、出来るだけ、平坦に。
「話しかけないで!」
言葉が届くのが先か、風香の手元にある枕が投げつけられたのが先かは咲人の知る所ではないが、威勢のよく少年の胸へ向かってきたそれは楽々と両手に収められた。双の手の肌が確かに受け取った人肌の温もり、それはじわりと冷えた身体を蝕んでいくのだが、一方心では冷寒と塗りたくられた彼女の心でもこのような温かさを放出しうるのかと嫌悪感を禁じ得ない。しかし、その中で一つ取った、少女の心境を映したかの如く外界に撫でられ冷えた物――
「その……ごめん」
――その枕は、濡れていた。
あの時と同じ。謝罪に対して、声は返ってこない。それでも言葉が詰まるようなことはなかった。続けて、以前のことを思い出さぬよう焦りながら口を動かす。
「わ、わかんなかったんだ。風香がまた、巻き込まれてるって。多分、今でもわ、わかって、ない。と、思う」
唐突に昔の癖が出る。五年間を使っても、まだあの出来事に束縛されているというのか。自分は本質的な意味で、何一つ変わってはいなかったのか。
風香はもう、変わり果てたというのに。
「で、でも。わかんないで済ませちゃダメっても、思う」
無音の空間で、もうそこに人がいるかもわからない状況で、独り言葉を呟いていく。無言の重圧が、咲人の喉を潰していく。
「だっ、だから。もし、もし、良かった、ら、これから一緒に、一緒にいって、も……い、いい、かな……」
これまで無反応に浸かっていた風香が少し鉄臭い足を引き摺り、うつ伏せの身体を腰まで立てた。顔を俯かせた背中は僅かに光を受け、つらりと撫で浮かんだ影は肩甲骨の下部からこちらを睨む大きな目にも捉えられる。蛇睨みされた感覚に陥り畏怖を瞳孔に透写した。こんな言葉では風香を引き止められない。こんな状況を打破することはできない。
そしたら、僕は――
焦燥と思惟に湛えられていく。少しずつ溺れていく洋上の旅人にも似た自我の喪失。敵意を向けて留まる背の蛇以外は無機質を装い、硝子細工に仕立てられた彼女の影輪郭は無情にも強固な氷壁と成った。何人とて、何者とて、その目頭を熱く滾らせる氷壁の核へと辿り着けないと、感覚と記憶の複合された心筋は気付いてしまう。そこまでを思考した咲人の表情は、壊れていた。
「……お願い、だよ……」
がりぎぎ、と口の奥で歯が強く噛み合う。無言の返答に否定を、冷たいものを想起した。
「いっ、いやだ、いやだ!もっと一緒にいたい!ずっと二人でいたい。まだまだ風香が見たい、ご飯つくって貰いたい……」
白痴の如く叫び散らした無数の欲濁。これまでの理性は願望の病に苛まれ、早退とまで姿の見当たらなくなる。醜態の投擲、一方的な自己顕示欲の解放。とめどなく零れ落ちる醜き水滴は咲人の頬を浅く滑り服や床に撒かれた。枕の中で、それは混ざり合う。
「お願い、だからぁ……」
胸にある枕を目一杯縛り締め付けた。押し潰されたものは少女の匂いを捻出させ、上部の鼻先を掠める。感情の爆発というのは、これほどまでに汚く拙く滑稽なのか。しかしそれさえも今の少年には眼中になかった。
「……いいたいことはそれだけ?」
今朝までとは違う、蹠の温もりさえない、キョウカイでの声。その声は海溝の黒を抜き取ったかの重い音。口を解いて微量にこちらを向いた顔の断面はこれまた海の青さを貫いていた。
「私は、あなたと組む気にもならない」
重い言葉と拒絶の台詞は最早耳先で滞ることもなく脳の下へ進んでくる。これではいつしかその科白も閊えることなく受け入れてしまいそうで、少年は動揺に乗らざるを得なくなった。風香はその声に変化を加えず、淡々と、兄の様子を窺うことなく震えを紡ぐ。
「貴方、優し過ぎるもの」
見たこともない尻下部丈の黒コートから鉄塊を取り出した。月夜に光るそれは今日の昼頃に突きつけられた物として鮮明に網膜へと至ってしまう。
貫通された茶の幹。
頬を軽く叩いた風。
鼻で滞留する硝煙。
妹からの敵意の目。
思い出し思い出せ思いで思い出して思い出を思い、
思い出した。
妹が、確実に自分を殺そうと見えた眼光の意思を。
宿敵にでも出会ったかの憎悪に鋭く尖った視線を。
「ねえ、もう――」
少女が振り返る。月明かりを遮るように伸ばした右腕は黒鉄の穴を咲人に突きつけた。
「――私の前から消えて」
安全装置は外されない。
『……虫酸が走る』
恐怖と決意が混濁し言葉を失った咲人は暗闇の中で唯一つ冷たい光を灯すモノに気圧され、数歩後ろへと歩を進めてしまった。
もう崩壊は、止められないんだ。
「ダメ、だよね……」
ふらついた足がどたどたと不規則に床を叩く。もう終わりだ。まだ諦めきれない。その葛藤が地団駄に似た足を作り出す。
しかしその踏みとどまりも虚しく時間を割くのみで、ドアノブに手がかけられた。
ごめん
扉の向こうから、咲人の声が聞こえる。
銃を持った手をだらんと布団に押し付け、仰向けに背を倒した。
「もう、壊れちゃった。なにもかも、全部」
自虐の空気が口から漏れる。嘲笑塗れの言葉は布団と共に濡れ、静かに部屋へ吸い込まれていった。
最期の言葉を噛み締めるように。本当に伝えたいことを、伝えるように。忘れてはいけないものを、思い出すように。
「ごめん」
その声は少年に届かない。
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