薄桃

「……久しぶり、かな」

風香が見上げるのは一軒のログハウス。高い床へ続く道は階段一つしか残されておらず、家の下には池が置かれてある。それを囲むようにして咲く色とりどりの花は空気中に霧散した魔力の変化物を吸い上げ鮮やかに毒々しく伸びていた。見覚えのある風景、薄暗がりでよく窺うことはできないが、表札には柊と書いてあるのがわかる。

この姿で来たということは『そういう事』だと気付かれるのだろうが、二人が不必要に反応するのは避けたかった。小さい頃から世話になった、言わば恩師に似た者達なのだ。恐がらせる必要もないし、


痛みを与える必要もない。


鼻腔が焼け付くような熱、花から放出された魔力の原液が空気に触れ周りに散らばっている。異能への耐性が低い風香は階段を上ることさえ嫌悪感が走った。

扉をそっと、三度拳で軽く叩く。月を得た湖のような光景を彷彿させる薄蒼の長髪。爽やかに揺れる草木の如く青々しい碧眼。

「お久しぶりです。霊沙さん」

柊霊沙その者が対応の言を口にしながら扉を開けた。呼びかけられた対応においての一般的な間延びはなく、氷に囲まれた感覚にも似た冷淡な声が旧懐の念を懐かせる。しかし風香を見て数歩引き身構える彼女はその幻想を無残にも散らした。

仕方のないことなのだ。風香の来ている黒いコートは、先主を忌み駆逐する『軍』の制服だから。

アサルトライフル、StG44から弾倉を抜き、敵意は無いと無言で突きつける。

「清治さんはどこですか?」

弾倉を持ち直すと共にマガジンリリースボタンに添えていた指をトリガーガードへ貼り付けた。その動作を見て彼女なりの結論がでたのか風香の右腕を蹴り飛ばす。銃が特撮ヒーローのおもちゃを投げた時のような音を撒き落ちるのがわかった。

「それは……お教えすることが、できません」

“貴女にもあるように。私にも、守りたいものがありますので”

その言葉が何故か心に響いてくる。今更『私が殺した人にも守りたいものがあったのかな』などという間抜けな感情が湧き上がるとは思えないのだが、不覚にも一瞬の考察を加えてしまった。

「いいよ霊沙ちゃん。風香ちゃんが軍に入った時からもうわかってたし」

背後から聞こえた男の声に霊沙が振り返る。その隙を好機と取り床の銃を拾い上げ弾倉を込めた。弾を揃えるために銃身を弾倉で叩いたことで二人の意識をこちらへ誘導してしまう。

清治の細く締まった体躯が霊沙を覆い隠した。やはり軍の人間というのは先主にとって畏怖の対象としてしか存在しないらしい。そこに『もし』などという戯言を抱くのは愚鈍以外の何者でもない。

「今日来たよ。咲人くん、だろ?」

その言葉は短間の希望を催す魅惑を放っていたが、『敵に耳を使うな』との警告が風香を制止する。服の内から予備の銃が取り出せることを確認してStG44の銃口を向けた。霊沙に挙動が見られるが、清治が襟を掴み後ろへ放る。

「俺の魔法は危険だからね。軍の暗部にはいつか殺されると思ってた」

実際、風香はこの者の魔法を見た事がない。しかし指令書によればこの男の魔法は多大な危殆を孕むのだ。霊沙は置いておくとして、清治だけは確実に殺さなければならない。

「……風香ちゃん。自分を守るんだ。他人の事なんて考えなくていい」

まるでその言葉を愛で続けてきたかのように微笑を漏らす。

「ただ、霊沙は――殺さないで」

顔を俯かせ、歯を食いしばる様が風香の眼光に焼けつけられた。理解した意思を酌みアサルトライフルを捨て、予め開けておいたコートのファスナー部から胸元の銃と弾倉を掴む。弾丸を一つ弾き清治の足元へと転がし、弾倉を愛銃Cz75ショートレイルに込めた。

再び銃口を男に合わせる。それを見せつけられてなお動きを見せないその姿は何故か脆弱で頼りなく思えた。引き金を引き、両手で構えられた拳銃から弾が微量な弧を描き飛んでいく。その弾の名は、R.I.P。着弾した瞬間に破裂し、弾が貫通することがない、つまり霊沙にこの弾が当たることはない。

慣れた血の臭いを感じて顔を俯かせた。頬についた肉片がだらりと滑るのがわかる。この弾の欠点は相手体内で割れ、破裂するため、人体が大きく抉れ飛び散ること。そして、高確率で――

肉片を払う指があった。それは白魂清治がとった最期の動作。しかし哀しきは、血に濡れた指ではなにも拭えないということか。

――即死できない。被弾者は苦しみ踠き一生を終えるのだ。

死体が、紅い床へ落ちる。最早人と呼べる物は二人のみとなってしまった。残された二人さえも、死体のように動かずなにも考えない。

また、奪ってしまった。自分勝手に、唯一人のためだけに。何度殺せばいいのだろうか。たった一人助けるだけなのに。

思いふける、これの原因を。東雲咲人がいなければ、あの者の性格が違えば、あの者に才能がなければ、あの者の魔法があれでなければ、このようなことにはならなかった。


ならば悪いのは?


いつの間にか、もう一人の腕が喉元にまで迫っていた。彼女の当然の行動に抵抗などは使えず、極めて容易に吊るしあげられる。見下げ確認できた霊沙の顔からは、元よりないと思えた表情が抜けた。

「なぜ、殺したのですか。貴女も清治に、助けていただいたはずでしょう」

力が強まり、本格的に呼吸ができなくなる。


殺されないように助けたのに、なんで殺してるんだろう。


沈黙を続ける風香を両手でさらに絞めつけていく霊沙。爪が首の皮を裂き霊沙の腕に少しずつ血が下りていった。この状況では抵抗など無意味だと知りつつも絞首故の足掻きは虚しく空気を乱す。


奪われたくないのに、なんで奪ってるんだろう。


風香が視線を落とすと、自らの血を飲み呑まれた汚肉が見えた。今死ねば、確実に咲人は身罷る。それはこれまでの行公を平然と投げ捨てる事となる。これまで奪ってきた他人の暁光を内の胸から逃がす事となる。これから得るやも知れぬ僥倖を知らぬとばかりに踏み潰す事となる。それらは全てを冒涜する行為であり、なにより、風香自体を辱め裁害する行為であった。その戀情に引き摺られ、落としてしまいそうな程力の抜けた手にある愛銃を霊沙に向ける。

幸い、霊沙は怨嗟の眼光を風香の顔に向け、首より下を見てはいない。潔癖症を患う彼女が自身へ這う物に反応しないはずがないことから推測できた。

幸い、清治はうつ伏せに寝かしつけられていて、床以外を見てはいない。約束事を交わした彼には死しても敬意を払い約束を決して破ってはならないという念が囈語の体現だと判りつつも確認を急がせた。

“   ”

銃が弾かれ落ちる。あんな撃ち方もなにもない状態で碌に撃てるはずもなく、右腕は肩にかけて熱く痛んだ。しかしなによりこのやり方では、心が悼む。

加えられていた力がなくなり、足が血床につく。跳ねた血は蹠ばかりでなく返り血と混ざり風香に飛びついた。咳と呼吸を繰り返し、濁音に汚れた声で呟く。

「任務一、白魂清治の殺害。任務二、紫飾本の回収」

知人を見ても、何も言わなかった。次にできなくなってしまいそうで、いえなかった。

奥の部屋へと進み、二つ目の任務へと移行した。



眠れない。そう懐き離れぬ感情は重圧を呼び寄せたかの如く咲人の身体を地べたへ縫い付けていた。ここにあるのは朝まだきを示す指針の動く機械仕掛けが抜けきることのない音のみ。

風香との対立は珍しいことではないが、今回に限り仲違いの筋から外れていたのだ。いつもの慌ただしく家事を消化する音すら聞こえてはこない。まさかと思い布団から出ようとしない身体を叩いて風香の部屋前まで歩を進める。耳を澄ませようと水流の噴音や料理する際生じるまな板の悲鳴とフライパンの油躍りさえ入ることはない。扉を叩こうが、声をかけようが、足音を立てようがなにをしようが、独りと変わらぬ朝がきた。己が部屋を叩かれ、声をかけられ、跫然を聞きつけても反応することのない少女に不審と思う。それによる不安が頂に足を乗せ、眼前に建つその扉を礼儀を欠く最低の行為と弁えながら退かした。

広い部屋が現れる。本当に、広い部屋が。

「あは、は、はは…………やっぱり、泣いてばっかじゃんか」

風香の愛用していた本、使用していた机、衣服の収納が用途とならない謎のクロゼット。それらが全て風に崩されたかの如く消失していた。そして、風香自身さえも。

誤魔化すように笑う、他の物が口を埋めぬよう笑う、思慮の足りぬ此の身を精一杯馬鹿にするように笑う。脳内にはこれまでの五年間で築いた思い出。眼球にはそれらを流そうとする液体。目が浸され、世界が薄れ、輪郭が混じろうが、見慣れた部屋へと変化するには程遠い。

「とまれ、とまれ、とまれ……とまって、とまってよぉ」

溢れ出るものを何度も拭い、床に這い蹲うように崩れ落ちた。一度目を伏せればこの偽りは解けるだろうか。この涙を拭き取れば解けるのだろうか。そんな逃避を表面で念じ、奥底で否定する。

「泣いてちゃ、いけないんだ。甘くちゃダメなんだ!」

暗示をかけるが如くその言葉を繰り返し、床を叩いた。震動で目から涙が零れ落ちる。

「甘くちゃ……いけないんだ、ついていけないんだ。風香……に、ついて……」

自身に言い聞かせるものにすら虚偽を、期待を、願望を込めていると気付き、そして同時に、もうこれ以上嘘を塗り固めることは叶わないと気付き、現実の陵虐を思い出した。

もう、

もう……

妄想が、止まらない。自虐の渦が。嗤いが。嘲りが。欺瞞の消化が。

「止ま、ない……どうすれば、いいの――――れ、い……せ…………さ」

叫ぶ。思う。心の内で糾弾する。そして、残された寄る辺へと虫のように這い寄る。

炎が身を紫と染めるまで、咲人の拳は床を叩き続けた。



顔を俯かせ、蹌踉めきながら森の中を進んでいく。無言と閉じた唇に光の映らない眼。陽の元が真上に辿り着こうとしても、目的の物は見つからない。

「ふ、か、ぁ、ぁぁ、ぁ」

先程まで頬さえ浸していた涙は爪痕を残し乾きを体感した。景色は変わらず葉と幹ばかりで、広大な大地の中に埋もれる一軒など探せるものかと投げやりとも言える感情を足へぶつける。そして気付いた。

昨日も、同じではないか、と。

風香から逃げて森の中を駆け回った。皮肉にも現在の構図とは逆だが、今も森を彷徨っている。

ならば、もう一度それをすれば超常の光景を見られるか、その程度の思考ができぬほど、咲人の心は打ち砕けていた。あの時感情に任せず説き伏せていれば。あの後なにか行動していれば。あともう少し、手を伸ばせば――

またも穢れていく。自嘲の増幅で。欺瞞の放棄で。自虐の頂で。その輪にまたも足を沈ませていると考え、超常へと至る脳考を今実行する。

鉄臭い。明らかに空気が変わった。超常であり、異常だ。昨日はこのような臭いを放つことなどなかったというのに。朽ちた骸骨の手の上で延々と踊らされているように思える。然すれば血溜まりは骨の隙間から流砂の如く落ちていき、残るは踊り身に跳ねた赤をつける少年のみだ。

振り返ることで現れたログハウス。これ以上なにを振り返れと申すか、異様な雰囲気を鼻で感じる。

それでも進まねばなるまい。風香を見失った今、蜘蛛の糸の繋がりはこの世界にしかないのだから。そこの居場所が知れた者共を訪ねることが、退屈な学業より余程大切だ。一歩踏みしめる毎にきつくなる臭いに顔を歪ませ鼻と口を押さえながらも躊躇はない。目に光は射さずとも、陽が背中を焦がそうとも、悔いの念に満ち満ちた咲人には無縁のものだった。

ドアノブに手をかけ、開け放つ。この鉄が外壁のみの汚臭で、内部は変わらず通常の味を吸わせるのだと暗示をかけて。ノックする余裕すら見せずに。

より一層深く胃を刺す赤鉄。嘔吐を催した咲人だが、辛うじてそれを押し留める。これまで嗅覚までを犯してきたものが、視覚に進行を開始した。

――届くような気がして

そんな思いは枝を折るより簡単に拉げ、無造作に棄てられる。

床は赤く染まり、肉片が飛び散っていた。恩人の死体は刃物に何度も刺された傷を見せつける。人の、知り合いの、死体。これだけで少年を崩壊させるには充分すぎた。先程まで拒絶していたのは知り合いのもの。もう少し早く来ていれば、このような惨劇は避けられたのか。この状況に身体の不調を訴え足元が覚束なくなる。もう少し早く来ていれば、という言葉を感じるのは二度目だ。あの時の事を思い出す。また守れないのか。まだあの時に縛られるのか。何故これを想起させるのか。

心が、刻まれていく。眼前の死体と同じように。知り合いと同じように。死体と同じように。

色付けされた床に、膝が落ちた。床の色が跳ねどろりと衣服に付着する。冷たく、流動性のあまりない液体。肌にもついたそれの感覚はジェルでも触ったかのようで気味の悪い。D20A13、その視界が咲人をさらに狂わせた。

「なに……これ」

自然と出てきた言葉が、これだった。もう自分は彼女等を人とすら認識していない。自身の異常の程が知れる。言葉に反応するが如く打ち出された物音の先には、僅かに人影が見えた。

見覚えがあった。見覚えはない。

確認した。確認してしまいたくない。

探していた者の、血塗れた姿が。確認してなどいない。

「誰か、いるの?」

部屋の奥に伸びる廊下から、足音が響く。長い髪は赤く、顔色は暗い。髪留めをいつもの場所につけた、見知らぬ少女。

少女は咲人を一瞥し、清治の身体へと足を向かわせた。動かぬ者の黒髪を掴み、首筋にナイフの刃を立てる。

「なんで…………ふ」

名前など出せるはずがなかった。知らない、知らない人だから。本当に、何も、何も知らなかった。人殺しをしているなんて。いや、知らない。知らないこんなことあるはずがないするわけがないなにかの間違いなにも見ていない。

「ぅ、かぁ、ぁ、あ」

確認した、冷たい眼差しを。この世界での、誰かの目。

彼女は玄関から出ようとしていた。玄関の前で崩れている咲人に近付いてきていた。無言で、咲人を通り過ぎる。なにもいえなかったのは、なにも考えられなかったから。それ程に風香のことを考えてしまっていたから。

「私は、こういう女なのよ」

殺されそうな低い声で、少年の淡い希望は赤黒く塗り潰される。

ばたん、と。扉の閉まる音。風香への門が閉じられた音。追ってくるなという、拒絶の音。

弱々しく、辿々しく、咆哮した。誰もいないログハウスが音一つだけを反響させる。

“僕が、強かったら”

そう思う中で、遅く来て良かったと、いっそのこともっと遅れていたらと感じる者がいた。醜い肉を責めたてるように頭になにかが落ちる。床に触れ咲人に血をかけるものは、紫色のカバーに角金や鍵穴など装丁の施された本。花布から伸びたベルトは咲人の頭にかかり着血を免れた。冷静になれと、冷静になるためだと、改めて周りを見回す選択肢を提示される。赤、紅、朱、全て、全部、万遍なく、アカ。……………………それに紛れる、薄桃色。

「ぁ、反転、反転っ反転反転反転反転反転反転反転反転反転!」

これ以上、これ以上、なにも見たくない。



「なに……これ」

声を聞いた時の感想は、『逃げ出したい』だった。別段珍しい感情ではないが、その念が一層強まったのは我が為か彼が為か。声を殺し、動揺した心を鎮めていく。心を、沈めて。しかし気付かれていないと、近付かれていないと祈り続けること自体が内の心情を曝け出しているも同然だと思った時には引き出しが音を立てていた。紫飾本は未だ見つからず、家中隈無く、それこそ二人の体内まで調べようとも見つかりはしない。だが、作業の中断はやむを得ないだろう。

「誰か……いるの?」

もう隠し通せない、そんな思考が脳を駆けた。奥のこの部屋には換気扇と窓一つしか設置されておらず、窓の外側には柵があり逃げ出すには音と時間がかかり過ぎる。廊下は一本道であり、少年の居る玄関兼リビングから丸見えなので他の部屋に移動することも叶わない。ならば、もう袂を分かつことは必須なのではないか。昨日に壊れた関係だ、そう自暴自棄への引き金を引く。

血のかかり沈黙した兄の姿を一瞥すると未練が口をこじ開けようとした。虚ろな目を此方へ向けるのみの咲人を無視するフリをして、清治の首を切り離す。軍に献上して仕留めたことを示すためでもあり、脳から魔法の開発痕を分析し『研究所』への対抗を図るためでもある。

膝をついた少年の横を通り過ぎる。

「私は、こういう女なのよ」

――こんな姿じゃないと、お兄ちゃんを助けられない

助ける、なんて言葉、口に出せなかった。人を殺す醜い殺人鬼にならないとできないから。心と同時に、扉を閉める。


もう、戻れない

もう、会えない

でも、守れる

紫飾本の回収は出来なかった。私の心も、置いてきたままだ。


心の内に一つ残った想い、


こんな見にくく醜い私だけれど、貴方は私を見てくれますか

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