擬態

目に入ったのは見慣れたキッチン、しかし見慣れない視点。倒れていた身体を感覚のよく掴めないまま起こし、広くなった家を見渡す。脳内では風香の言葉が流れ、血の世界が迫りあがってきていた。

鼻を突くものは自身についた霊沙と清治の原液で、苛付くのは無力な咲人。鉄臭い残り香をより一層放つ紫飾本は平然と咲人の手に収められており、付着した液体によりぬるりと少年の指先を滑り落ちていく。

とてつもなく、眠かった。だから寝る。そして明日もまた風香に起こしてもらって。遅刻ギリギリに教室へ駆け込んで。

本が落ちた音。反応する者は咲人以外に見えず、一軒家に重い音が響いた。本のページが捲れ、異臭が伸びて咲人へ届く。その臭いに反応する者は咲人以外いない。

「うぁ、ぁ、あああ、ああぁ……ぁ……」

人が死んだ。知り合いが死んだ。殺された。妹に殺された。そんなことは疾うに理解を終えている。しかし咲人の自虐の焦点はそこに当たってしまうのだ。何故知り合いを二人も喪っておきながら、犯人のことばかりに思惟を湛えるのだと。何故あの時『もっと遅く来ていたら』などと抜かせたのか。

“なんで、こんな時も頭から離れないの?”

人が殺されたことに畏怖するのではなく、人を殺したことに疑いを持つ。殺した動機を問うより先に、罪を逃す強弁を用意する。血肉に崩れた遺体にでなく、血肉に汚れた彼女を想い涙する――――

「……僕が、僕が悪いんだ」

そう、いつものように言い聞かせた。自分を責めるのみならば罪悪感など浮かばないから。大切な人の穢れることがないから。真実で汚濁した水を飲むより、欺瞞と騙りに満ちた湖に落ちる方が楽だと感じ、暗示する。僕が悪い、僕が悪いと。

東雲咲人の所為で風香は家出した。理由は知らない。

東雲咲人の所為で風香は人を殺した。理由は知らない。

東雲、咲人の、所為……で……。全部、全部。

震慴が始まった。霊沙が清治が周りを回って罵詈雑言を唾混じりに浴びせかける。『お前が悪い』と、『償え』と。それでも風香に傷がつかなければ。

昨日の、言葉。

風香とまた会えたら。

昨日の……言葉。

「――――っ。い、いやだ……やめて……消えないで……だめ……」

自分から呼び起こした声だというのに、咲人はそれが聞こえぬように耳を塞ぐが脱力し頽れてしまう。外界からの音を無くした咲人の脳には一層深く突き刺さった。

思えば、これこそが。ただこの言葉一つのみが、少年の望みだったのだろう。これまでも思い続け、これから増していく想いなのだろう。

硬直し、一切の物音すら滞らせる咲人の鼓膜に、腹の音がか細く届いた。自虐と後悔に旨意を深めることに気を取られ、自身の呼んだ恐怖を拒むことに意識を割いて、窓の外にすら気を傾けることをしなかったが、我が身にかかる光が陽炎となる頃合いだと理解する。暮れた刻限は着実に咲人の活力を啜り、場違いな腹の悲鳴にも咎めることすら叶わない。目の前で者が絶えたというのに、目の前から者が消えたというのに、主と同じく慟哭に暮れる、ということさえ行えないのか。或いは、身体と同じく自身のみを按じて他者の骸に向ける思料など持ち合わすことはないとの肆意が手の届かぬ心底に根を張っているのか。

自身にさえ降りかかる程の酷薄を握り、自失人形の如き面持ちで鉛の入った足を床に刺す。蹲ることを止め冷えた矮小な胸板は、まるで心そのものが外気に込められたかのようだった。

何故、周りが変化する中で、自分の感情すら散り散りとなる中で、身体は鎧に似た凝固を貫くのだろうか。絶えぬ問掛けは姿をるわりと変え続け、苛み揺らし塩を振る。曰く、肉体の平常と魂の乱心の格差に渦流を感じた。

唇が震える。悄然たる姿は変えず、しかし静寂の世を変えた。嗄れた喉を震顫させ、己が身に降らせる言葉を放つ。

「…………ご飯、食べなきゃ」

否定の言葉。彼女への希望を打ち消す、拒絶の言葉。自己の砦を崩壊まで至らしめる言詞を、口にした。

いつにも増して頼りない脚でよれよれと、幽鬼の動きをして、冷蔵庫の前に歩を進める。足取り一つすら軽いものはなく、鉄球と繋がっているのではないかとさえ脳を働かせた。

冷蔵庫の扉を開け、烟る冷気を肌に癒着させる。眼を冷やす箱の中に残されていたのは卵と冷凍された白米、そして、お茶とアイスといったものだけ。それ以外にあった食材は風香が持ち出したのか姿を見せない。ただ一点のみを除いて。

何故、このようなものが。その疑問が彼女を想う合間を縫い錯綜する。カセクシスを向けられたそれが反抗とばかりにピー、と鳴いた。虚脱した眼と連動し、思考さえ眼前に尋むのみと化すのだ。鳴き声が冷気の分娩されすぎたことによる悲鳴とは、当然誰も気付かない。

それを持ち出し、奮う鳥肌を抑える。声は少年の乱暴な一振りによって囀ることを止めた。

腕に包まれるは何処にでもある市販惣菜。しかし、この場にだけは存在し得ないもの。

自分で全て作りたいと、できもしないことに息巻いていた。それこそ、市販惣菜の殻すら許さない程に。

それが佇むということは、風香の眼下から離れてしまったということだ。もう此処には帰ってこないとの、決別の捨て土産ということだ。

惣菜を電子レンジに入れた。橙の光を浴びた物は氷の域より振動を以て湯気を具する。

家事に於いては白痴たる故細かい操作なぞの余地なく起動した機械は、彼女に依存を続けていた己の脳の如何に諧謔かを示していた。

全て押し付けていたのだ。五年前と同じくして。

境遇すら察せずにいたのだ。三年前と同じくして。

彼女より早く、あの世界に気付いていれば――

またも機械音の鳴き真似が咲人の深甚を掻き分ける。長考による自虐すら侵され、思惟にすら浸れず、どう他人を正当化すればよいのか。把手をひいた瞬間から体当たりを始める湯気は、自身の最期を嘆いた震慄の末にできる涙の蒸発。

目を渇かす水に洗われた咲人は頬に少し汗を掻いたような不快感に白米の解凍すら意欲を削がれる。

「……いただきます」

その言葉を編もうとも、口内には熱気が回るのみで把手から零れた腕がだらりと筋を伸ばした。

周囲の時間に氷を被せる。風香の残骸のみがゆらり揺られて厭世に誘い出す。

光も出さず咲人を縛るは岫に似て、風香は逃せど彼を阻み崖を孕んだ。

漸次理解に箔がつき、返すまいと思考に追いつく。好物であるそれを口へ運び、二度と起きぬよう噛み砕いた。

「……冷たい」

咳嗽が、海に突き落とす。



「うぅ…………ぁ」

朝日が赤い目に入ってくる。ただ眠れずか、腫れているか。目に指摘する家族はもう、いない。

風呂を沸かしている間に冷凍ご飯をレンジに入れ、昨日と倍の時間に設定する。ヒーターをつけ冷蔵庫を漁り、卵を取り出す。棚から出した茶碗に卵を割り、よくかき混ぜる。温め終わったご飯を卵をといた茶碗によそって、ヒーターの前に持ってきた椅子に腰掛けた。

「いただきます」

膝の上に置いた茶碗が落ちないように手を添える。卵かけご飯というものを食べるのはこれが初めてだった。口の中にねっとりと絡む卵が気味悪く、吐気を渦巻かせる。まだ半分以上残っているご飯を一気にかきいれ、冷蔵庫の中にあるお茶をコップについで流し込む。

「ごちそうさまでした」

心などこもらない。ただ食事の常識としてしか、少年は手を合わせられなかった。

七時半、眠気に倒されかけていた咲人は時計を見て頬を叩く。

「学校、行かなきゃ」

昨日無断欠席してしまったせいで、なんとなく行きたくなかった。風呂が沸いたことを知らせる音に気付き脱衣所へ向かう。

(…………お墓、立てよう)

学校から逃げているのはわかっていた。

でも、人が死んでいるところを見るほうが辛くて嫌だ。助けてもらった以上、せめて恩返ししなければと恣意を補強する。血が制服につくのは躊躇えたので、汚いがパジャマのままで行こうと脱ぎかけた服を着る。

「反転」

霊沙の家を思い浮かべて見ても赤しかわからなかった。元の家を思い出そうと、血を取り除こうとすればする程記憶が血塗れていく。リビングで発光する紫飾本についた血が、さらにそれを塗り潰した。

風香に殺された清治の生首、霊沙の腹に空いた穴、どろどろと歩行を阻害する血床。それら全てを鮮明に思い出して恐怖に押しつぶされそうになる。

咲人の脳内は、血で埋め尽くされていった。



まるで唾液を嗅いでいるかのような、生暖かく蒸し暑い空気だった。辺りは鬱蒼と闇が茂っており、靡き擦れる音と闇を縫い突き刺した光の緑で森の深奥なのだと認識できる。的確に、確実に、二人の姿を浮かべた筈が、暗澹とした世界へと移転していた。

眼前に差し出された清治の生首も、胸を染めた霊沙の閑けさも、血の温度を浴びて温く纏わりつく空気も、鮮やかな絳色が飛沫を止めて壁に貼り付けられたものも、喉を刺激する血腥さも刻まれているのに、その感情が反映されることはない。昨日より思い悩んだ骸にすら辿れぬ半端な思考能力に項垂れた。そこに虚言を吐かれたとの疑心はなく、自責のみを募らせる。

周囲の把握すら怠り悲観に耽る無防備な少年を、双眸が好機と捉えた。

叢の撓ふ。木々の穴を穿つ光に刹那としてそれが映し出され、緑が艶がかった。

――草じゃ、ない……!

今、咲人が直視したもの。それには植物特有の香りもなにも感じとれず、身の丈の上下し、なにより、照る瞳孔が見えた。

咲人を捕らえたハイライトが揺れる。緊迫し荒れた息に合わせて、草の擬態を解いた獣が咲人を襲った。

艶の入る白い牙、腹の音の咆哮。単子葉の葉先のように粗く鋭い緑の毛並み。その一匹合図と取り、同種の群れ全体躯が、牙と牙に唾液を引かせる。

「――――っ!」

拒絶の言さえ、吐くことは許されなかった。喉より産まれた声は食いしばられた歯に阻まれ、唸り声へと変貌する。激痛の袂を見遣ると、影の牙が足首に刺し込まれていく様が確認できた。

「っ……く、ぃぃ…………!」

悲鳴との絶叫を、恐怖による絶句が抑えつける。逆流する叫喚の熱気は支えられた歯全てを折らんばかりの勢いに訴え、危惧の意を脳へ返す。風の音と寄り添う草のみだった深い森は、静謐を感じさせぬ宴へと姿を変えた。

先程噛み付かれた足首は靴盾とすることで砕かれることは免れたが、口内のそれは足の甲もろとも拉げることを当然と思わせる。

その他にも左肩、脇腹など計四箇所に害獣付きの歯型が繰り返し刻まれるのが影の黒だからこそより醜怪に想像してしまった。

この肩は白い骨のみとなっているのではないか。実際には、罅割れた骨に肉の筋が絡まり外へ歪曲しているのだが。

この脇腹は装甲の剥げ、紅のオイルが垂れているのではないか。実際には、今も獣に犯され鼻頭を濡らすばかりだが。

この右腕は喰いちぎられ、離れた一片一片を反芻されているのではないか。実際には、破れた皮や血管をストロー代わりに体温で焼けたチーズ宛らの滴りを見せる血を啜られているのだが。

「……ぅ……は、ふぅ……っ」

その妄想を廣げる度に、その傷を拡げられる度に、恐怖により暈されていた痛覚が肌に浮上する。

暗闇が、妄想を掻き立てる。

妄想が、激痛を掻き回す。

『痛い』と呟いてしまえば、自我が流れてしまいそうで。考えることをやめ、脳で弾む思考を素のまま垂らしてしまえば、されるがままを肯定してしまいそうで。いや、実質そうなのだろうが、それを認める機械的度量は持ち合わせていなかった。

獣共の咬筋が甘噛みへと移行する。命令一つすら霞む咲人の身体はさもありなんといった体で地を引き摺られていく。

土の上を滑る感覚があった。石が背中を転がる感覚。石が擦過傷に入り込んでいく感覚。

「ぃ。あ、あぁ……!……!……!!!」

よもや鼓膜を顫動させることさえ嗚咽がこみ上げる程の悪心を催す。骨と地がぶつかり震える感触は黒板に爪を立てるそれと同様の不快さを誇っていた。

瞳孔が縮む。仰向けに運ばれる咲人は影から陽光への急激な変化に耐えられず、視界に於いてはハレーションともいえる漂白を果たした。

犬歯に掴まれた肉は砉々と叫んでくる。筋組織が少しずつ剥がれ、意識の点滅を赦し続けた。しかし、何故か少年の思考は途切れない。獣の――いや、日の下へ連れ出された後に視認した、緑の狼。喉元に符の貼られた通常種より一回り大きい草色の肉食動物。その呪符の光る度、風船が弾けたように覚醒している気がする。

それを落とせば、楽になれそうで。咲人は頬を破り口内を貪る一匹の狼にまだ動かせる左腕を伸ばした。

小指の第二関節は押さえつけられたのか逆に垂れ、中指は肉の削られ割れた爪から血の這う、鮮烈の赤が現れている。全身の痛みに傷の認識すら奪われていた咲人にとってはこの肉片が心底まで降りた。

それでも、短く断線を繰り返すより、骨の隅まで唾液に浸されるより、余程頼りとなる希望なのだ。その蜘蛛の糸程細い腕を鯣を焼くような目で見下す狼の喉笛に、神経の許す限り全力で、そうありながら微々たる速度で迫った。淡い湿気を持つその呪いに、今死体の腕が触れる――


――最期に捉えたのは、刀身に映った自身の顔、だった。

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H(Sno) 身上七詩 @67508

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