H(Sno)

身上七詩

桜幻惑編〜 but I couldn't make it happen 〜

始まってしまった物語

熱い。熱い。熱い。熱い。一度息を吐けば蒸気が視界を覆う程。しかし少年の視界は揺るがない。故に少年の敵は揺るがない。

「歿ぬ準備は出来たか。雪野凍価」

隔てる物は風と砂塵。舞い上がり、振り落ち、雪のように眼を拒む。しかし、見据えぬ眼球を以てしてもその姿を違えることはない。

「そ……もの、疾う……に捨て置……さ」

――そんなことより、埋葬はしておいたか。東雲咲人

彼の唇のみが動く。最期に聞こえたのは突風と右腕に巻く布の靡き。

聴覚は暫く使えないだろう。壊れ始めた時より馴染んだアナログ放送のノイズ。最早能力を全開に稼働させなければ、

「――――っ」

左腕が、落ちてしまう。

灼け付く身体は内側から炭を作り燃え盛る。それは眼前に居る男を殺す為だけの激情……!



空気の停滞する中で、遮る日光がカーテンに薄く切られ携帯に向かう。当てられたそれは顫動音を散らし鼓膜に入れた。

「……う、うぅ」

蒸気は漏れず、睫毛の影が形を変える。黒を重ねていた肌は光度の増した陽に晒され元の白色へ転んだ。細い指は頭薬に似る眼を擦り、球の代わりに光を受ける。布団から出た腕の色は桃色のチェック柄に包まれて未だ日光を欲していた。

その瞳孔に炎を灯す。寝起き特有の乾いた感覚は眠気を連れて離さない。

カーテンは最早出る幕無しか、鬱陶しい山吹色を通し始める。携帯の鳴動を止める為動いた腕の被害に遭い、虹彩が切れるのではないかとの刺激を感じた。身震いする筋肉に釣られ、携帯へと伸びていた腕が強ばり揺れる。

二千二十三年、九月十八日、七時四十二分。

二分もの間唸っていた目覚ましに多少の忌避を抱きつつも、肌を押す機械の動悸を締めた。

「学校……」

 阻むようにかけた布団の中で、休んじゃおっかな、と息を吐く。温く息苦しい褥の下は喉を潰すが、秋を流す首筋が冷気へ進むなと憚った。隙間から入る光は溶けて烟らせ瞼を被せる。睡魔に任せる浮遊感は節々の温度さえ引き上げ、寝息を立てる舌を鍛えた。二度寝防止用に重ねがけしていたことを思い出すには、耳の振動で十分だった。

「……ぅ、あぅ……」

「お、に、い、ちゃ、ん」

 空色の袖が扉を退かす。堂々ながら音を立てぬ少女の歩みを感じて籠る指に力が入った。

「朝ごはんって」

 前進を終えた右足が床を掃く。パジャマの皺が伸ばされ、股を開いた蹠が舞った。

「言ってんでしょーっ!」

 大声によって覚醒した少年の見開く世界で布団を剥ぐと三日月が膨張する。それは紛れもなく彼女の左胸につけられた贋作――

「わぷっ!」

 末魔を粉にした時のような叫声は少女の矮躯に殺された。華奢を絡めとる重力の滝は少年と打って変わって匍匐と返す。潰され行き場のない息は浮いた血を飲んだような熱を帯びていた。安眠を促す球が捉えるは彼女の視線。そしてぐるりと瞼の裏。

「…………ぁ」

 脳から落ちていく。血液が、思考が。血の気が見て取れて沈んでいき、思惟もままならなく自身を変える。普段あまり身体を動かさない少年は当然の如く柔らかい。澄んだ肌も相余って食めば舌で弾み肉汁に浸されるのだと妄想さえ禁じ得ない。そんな身体に運動系の少女が飛び乗れば負担は軛を折り魘される筈なのだ。脳に不足する酸素、転覆する思慮の数々。空いた脳内に焦りと罪悪感が吸い込まれていく。しかしそこまで重くないだろうと言い聞かせ、肉から降りた後苦笑した。自身の腹を触れば薄く柔らかい肉の層とつき始めた筋肉の層。こんなことに気付くなんて、醜く硬い、彼とは似つかぬ我が身に気付くなんて、そんな思いに取り囲まれて、安堵なぞ袈裟懸けられた。

「けほ、か、かっ」

 咳嗽を繋ぐ少年に惚けた頭を叩かれる。

――      ――

 そんな自身の庇護を片手に、平日の急く針を読み彼の肩を揺り動かした。

「……ぅ、あー、うぅー……」

呻き声と咳が褥に隠れる。秒針が耳を擽り、平日の陽光は止まらない。一般の中学生としては早い起床に朝餉の煮炊き、そしてこの起床の手伝い。兄の為にしてきたことを一蹴されたのだ。毎朝のことではあるが、小ぶりな背に倦怠感すら匂わせる。鉄に似た箍の臭い。不満に成分を偏らせたそれを歯で砕いた。空を切り軋むエナメル質。

強引に少年の後ろ襟を引き取り、ベッドから引き摺り下ろす。

「わかっ、わかったってば。起きる、起きるーっ!」

足元で嘔吐く生物の音を針で上書きして、ずるずると食卓まで運んでいく。階段に差し掛かったあたりで一層強まる抵抗も少女に軽々しく持ち去られた。

「ちょ、ホント、やば……ぅげ」

首にボタンの型をつけて、大きく息を吐き捨てる。



「もう少し優しく起こしてくれればよかったのにぃ」

絞められた首を赤い指でなぞる。視線は少女を突き刺すが、当人は箸を進めるばかり。

栗毛色をした長い髪に兎型のヘアピン。凛々しい目つきと陸上部故の引き締まった、それでいて筋肉質とは言い難い肉体は脆弱な兄として畏怖を手元に置く程。幹色の壁掛けハンガーに映える黒いブレザーは兄弟揃って同じサイズということに頬を膨らませた。

東雲風香しののめふうか、中学一年生。これが彼女の肩書きである。

少し冷えたお茶漬けに箸先を沈め、腹の乞うままに喉へ滑らせる。噛み砕く梅の風味が唾液と混じり甘みへと転化し、胃の中へ落ちていく味覚を感じた。

「美味しいね」

「……食べながら話してると咳き込むよ」

そんな紅潮が見える。台所にはラップがけされた皿の数々。『朝食だったもの』、自分の所為で食べる時間のなくなったものが見えて少年は米粒を強く潰した。

風香が席を立つ。ふわりと匂いを撒く髪をうなじに追いやる仕草は瞳孔の調節を誤る程に熱を掲げる。

「七時五十分。お兄ちゃんは部活とかないからわっかんないかもしんないけど、もうとっくに始まってるの」

焦燥を込め脚を急かしながら、彼女はつやの残る食器を流し台に浸けた。食後の挨拶を指摘しようと口を開けた途端に遮る言葉は面倒な声音を梱包し、その機嫌が伺え忸怩を重ねる。

全て喉に落ちた朝餉の風味を味のついた唾液と共に噛みしめた。糸を引くように残るのではなく、皮膚に溶け込むように広がっていく。これが朝食というものなのだ。市販のものではない。それは風香の洗う梅肉をとる為に使用したであろうスプーンと茶碗の中の梅が匂わせる。自身の腕以外を信用しない主婦に向けて定例の言葉を込めた。

「ごちそうさまでした」

「はーい。食器全部持ってきてねー」

手を泡で隠す少女に遅刻するよ、と投げかけ茶碗を渡す。

「おひたし、味噌汁、昨日のポテトサラダか……」

先程見えた食器の中身を目に映した。洗い物は放課後に回すようで、彼女は既に歯刷子を銜えている。余った左手で強引に剥ぎ取られるパジャマは日常を内包していて性的にとることもない。風香の制服に腕が生える頃、少年の泡塗れの舌が外気に触れた。

「寝坊したの?」

「うっさい遅刻して」

膝上十センチまで巻き上げるスカートの下に体操着を穿く見せたいのか見せたくないのかわからないような守備は理解の及ばず。エナメルバッグと通学用鞄を携える少女は、少年が歯刷子を吐き捨てる為背を向けた途端躓く音を撒き散らす。

洗面台の鏡には苦笑を漏らした自身の顔があった。砂のイメージ、先の攻撃で傷を負ったか左腕は脱力感の点滅を始める。まるで蚊に刺されたかのような、皮の張る感覚。意識の熱に融けていく指先。何故、左腕のみが。そんな思考は唇から垂れた泡に埋もれた。

玄関から響く扉の声。家に気配が足りず、ヒトの臭いが薄まる。二人でも広すぎる家と固まった空気が結託して孤独を滲ませ、少年をじわじわと汚染していった。

口腔をミントが占める。歯肉から冷えた肌で身震いを済ませ、背丈に合わない制服に腕を通した。床の端に寄せられた鞄を掴み玄関へ向かう。冬服に移行してしまえば服を着る手間がかかるので夜更かしは程々に抑えようとしても夜には明々と焚書を繰り返す。

「あっつぅ……っ」

痛覚の鳴動する短小趾屈筋。地から突き抜ける雷が蜘蛛の足のように途切れ途切れに少年を這う。主の意思を問わず繁殖する命令は全身を強ばらせ重い瞼をこじ開けた。

途端、嬌声に似た高音が耳を啄く。

床を指す逆向きの矢印を手繰ると粉々に砕けた硝子片が紅く見え、漸く蹠を撫でる液体を見た。融けた金属を感じるのは床と足に挟まれて熱が薄く伸ばされているから。鉄の臭いを感じるのは自身の体温に熔けてしまったから。足を上げて傷口を視認すると、楔としていたものが抜かれ血が流れ始めるのがわかる。薄皮を貫いただけのようで少年の流出は収まりつつあった。床に残る割れ撒いた硝子は落ちた赤点に潰される。

「遅刻しちゃうんだけどなぁ……」

――そんな日常を鼻は受け入れない。

何故、少量の出血程度で、こんなにも、肌で感じる程の異臭を放っているのだ。足元の極彩色に目を向けてしまう。体温がどろりと肌に密着する、夏場の汗のような不快感。臭いは紛れもなく血潮の猛り。霧散した赤の一部が咥内を犯していくのがわかる。喉まで立ち込めたそれは刺激へと変換され嘔吐感を引き出した。

恣意程でも見違わぬ、確かな異常。しかし彼にとって重大にとれたのは出血でも硝子片でもなく、背中にまで及ぶ気体の圧力だ。

「――――――――かっ」

重い身体を無理矢理動かす。視界はただ頭を上げた筈が、精巧な漸近線を描いていたか。そんな可能性すら臭わせた。

同時に、頭蓋の内で糸が切れる。角膜を絵の具に浸されたか、上から下に、それとも滲むように、世界を紅く染めていく。少年には、頭を上げた先に何があったかさえ解らない。



今度は、少年にもはっきりと知覚できた。蠕動する肉片が少年に集まってくる。自分の湧き立つ言葉は。

――幾度も蘇る

左腕が眼前に視認できた。自身の左腕は崩れている。

――何度でも手を伸ばせる

その先に見える無数の肉体。息絶え絶えに救済を乞うそれは最早蛞蝓といっても差し支えあるまい。

――どんな時も足掻ける

しかしこの惨景を前にして、少年は人々に歩み寄れない。

――――身体が、欲しい。

自身も同じ、蛞蝓なのだから。



顔を上げた先には、見慣れた家の板など一枚もなかった。伯仲する赤と緑は互いを懸想しているかに見える。意識が戻ったばかりの眦では上手くピントを合わせられない。頭蓋が鐘にでもなったかと錯覚できる頭痛は掌を重ねても止むことはなく、手首を巻きつけ人差し指で忙しく掻いた。転輪する世界に気分を汚し、咳と嘔吐きを繰り返す。

漸く見えてきた風景。全く見えてこない状況。少年の思考回路は困惑を選択し、矢継ぎ早に断線と混線を行った。凸型のテトリミノしか来ない、そんな偏りの過ぎた情報が流れ込んでくる。

眼一面の森。季節は秋だというのに木々は青々と生い茂り、木の葉から朝露のように滴る液体は地面に赤々と水溜まりをつくり鉄臭くきらめいている。ぬかるんだ地面。嫌悪を当てるに相応しい異臭を攫う風。じわじわと身を焼いていく陽熱。目を細めなければ眼球が焦げてしまうのではないかと危惧さえできる陽光。汗を含み身体に張り付くシャツ。

吹き飛ばされたものが再度眼下から立ち込めてきて、充満する臭いに耐えられず目を瞑り鼻先を押さえしゃがみこむ。意識が朦朧と鮮明を何回も行き来し、ふらついた足取りが足元の液溜まりに踏み入れた。液体の跳ねる音を頼りにして、一瞬でも多く鮮明へと手を伸ばす。

「う、ああっ、ふっ、う、ぅ!」

空気を握ってた両手を再度頭に被せた。強く押さえていなければ割れてしまいそうな頭蓋骨に、漸く脳が異常を察知する。耳に届くのではなく、耳が鼓動を繰り返す心拍音は早まり、高鳴り、見開いた目の瞳孔が大きく形を変えていた。アドレナリンが分泌された信号は少年の頭へ上昇し、脳を包み込む。

貧相な胸板とも呼べないものを叩く臓物で荒んだ息を抜く。そう目を閉じると、その世界は消え失せた。

右足が滑る。日常に溶けて覚えることのなかったフローリングの木目がぐるぐると視界の隅を駆けた。珈琲を飲んだ後の、鉄に似た苦味を残す喉を正常な酸素が冷やす。掻き毟りたい程の悪心が細くなり、行き場を失った左腕を見下ろした。否、鈍痛のあまりくの字に折れていた身体では視線を垂れる唾液と同じくすることしか出来ない。

滑った右足の理由が点滅する。床には足型の絵の具が唾に薄められていた。それを伸ばす筆を追うと自身の肌色が確認できる。それは幻覚と現実の邂逅だった。あの色は、あの臭いは、あの感覚は、全部、全部、全部、全部、自身の過ぎた妄想だ。そう勉めることさえ眩んだ眼に止められる。白が黒に近付いた。赤と青を混ぜてしまえば元の色には戻せない。完成したものに補助線を上書きするように不要で汚い妄想の類。妄想だ、と思うだけで現実だ、と返される。それでも言い聞かせなければ滑らかに吸い込まれていった米粒が逆流してしまうのだ。止められる訳がない。

左腕。蛞蝓の群れ。意識が裏返った瞬間に見た警告。手を伸ばせる力が欲しい。蛞蝓と一緒にはされたくない。

秒針の音は、聞こえなくなっていた。





「で、なんかわかった?」

人型の男女がケースに入った本を見つめている。

「いえ。強いていうなら先程力の呼応があった程度です」

椅子に座る少女は自分の肩に手をかける少年に無機質な声を吐いた。

「そっか。じゃあ身体壊さない程度に頑張ってね」

「当然です。たかが清治のために身体を壊したりしません」

手を口に当てくすくすと笑う少女を見て少年は溜め息をつく。

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