第4話 イジン質はでたらめ


 イジン質の匂いのする部屋の扉を開こうとして戸を叩くべきか悩んだ。向こうにいるものが危険なものなら気配を悟らせるのはよくない。一方で友好的な存在だったなら機嫌を損ねるわけにもいかない。

 危険なものとはと考えて数瞬、黒い四肢の獣を思い出す。獣の牙を手にとって武器とする。何もないよりはましだろう。

 足音にも気を配りつつ、扉をそっと開ける。

 覗きこんだ部屋の様子は均質だった。白い壁に白い床。白い机は部屋を格子柄に区切っていた。

 ひとまず変わった存在は無いとわかり、部屋を一筆書きするように見まわる。一見して死角は多いが、机の間を見通すしながら外周を回ればそれはなくなった。

 イジン質の正体、源については見まわってもわからなかった。

 息飲む一瞬、視界の端に黒が飛ぶ。この真白の部屋において黒は目立つ。だが見間違えや、明度の変化から目がくらんでいる可能性もあった。

 たしかにこの部屋をすべて見て回った気になっていたが、それは同時ではない。見回り始めと見回り終わりでは大きな時間の隔絶がある。

 やろうと思えば目を盗んで隠れ潜むこともできる。もちろん、それが動くものなら。

 机と思っていたものに上り、できるだけ広く見渡す。これですべては見通せなくとも死角はぐっと減る。

 黒に隠れる意思があるなら見つけられないが、単純に移動しているものならどこかで姿を現すはずだ。

 物音ひとつない空間に緊張が走る。

『いえ、ここには何もいないわ』

 またあの声だ。集中が霧散する。

「確かなことはないんだろう。だったら警戒して損はないはずだ」

 あくまでも主張する。それなのにどこか言い訳じみた声色を作ってしまう。

 言いながら部屋の中央に躍り出て手に握っていた牙を構えようと目の前にかざす。

 白の背景に浮いてみえる黒が牙につながっていた。それをたどると部屋の外へ向かっていた。

『もう出て行ったわよ』

「なぜそれを早く言わない?」

『何が重要かなんてわからないわ』

 それもそうだが、俺が今なにを探していたかぐらいは察せられるのだから。

「言っていてもしょうがない。これを追っていこうと思うが、その前に。

 このイジン質の正体に心当たりはないか?」

 また聞かれなかったから言わなかったなどと言われてはかなわない。

『そこはイジン室よ。イジン質でできてるの。匂いがするのは当然ね。早く行きましょう』

 やはりだったか。深い溜息を吐きながらとぼとぼ歩みをすすめる。



 牙と爪から伸びる黒帯を巻き取るようにしてたどる。この先にはなにが待ち受けているのだろうか。

 そもそもが軽率だったのだろうか。放置しておくべきだったのだろうか。

 いや、金色の水銀のように危険な存在を確認している以上、護身用に持っておくのはそれほどおかしくない。むしろ、その瞬間だけの判断としては正しかったようにさえ思える。

 だが、今はどうだろうか。

 これを置き去って無かったことにするのも一考だろう。それでも知を望む立場として、放置や放棄や無視などしてはならないはずだ。

 より一層獣を追う足を早める。

『あれを追うのかい? やめておいたほうがいいよ』

 覚悟を決めた途端に渾身の制止を呼びかける。ヒトガタが目の前に立ちふさがって両手で制すのだ。当然歩みを強引に止めることができるわけではないが、意図ぐらいは読み取ってやる必要があるだろう。

『あれは猛獣だ。僕は知っている』

「俺も知っている。けれど、せっかくつかんだ手がかりなんだ。捨て置けない」

『あれがどれだけ危険か知らないんだ。気に入られたら最後、死ぬまで玩具にされる。この世界の住人がどれだけ暇か、考えるだけでも恐ろしい』

「危険を知らせてくれているのか?」

『君にできないことをするっていうのはこういうことじゃないのかい。だったらもうこんな慣れないことしないけど』

 ありがたい。だが。

「生きてたらまた頼むよ。俺だって無抵抗ではない」

『死ぬほどがんばって』

 そう微笑んだように見えた。



 一本の木を中心に回りながら吠え続ける黒い四足の獣がいた。木の枝は葉をつけず、鋭利に尖っていた。

 黒の糸は木の幹を二周ほどしてから獣につながっていた。

 獣は俺に気がつくと首につながった糸を通してぐんと引っ張ってきた。数瞬ふんばろうと姿勢を低くするが、小柄な娘の体は粉雪よりも軽く引きずり出された。

 獣があたりを回ってできた地面の溝を飛び越え、木を中心とした死闘の舞台に立たされたのだ。

「悪かった。許してはもらえないか」

 無意味は承知で語りかけてみる。一見言葉が通じない相手でもやってみる価値はある。見た目がすべてではないで、それがこの世界だ。

 しかし語りかけを無視して襲いかかるはその牙だった。

 弾丸のように撃ちだされたその身はまっすぐこちらへ向かってくる。重量感を感じさせない身のこなし。ただでさえ細身の体がより洗練されていく。

 反応もできないままみぞおちあたりを貫かれる。人は危機に瀕したとき、時間を無限に分割して回避しようと思考を巡らせるらしい。だがそれも黒い獣の速度には追いつかなかった。

 走馬灯を見る間もなく通過していったそれを追って振り向こうとするが、その前に体は木の方向へと引っ張られる。

 そうか、これのせいだったか。と手にとった牙を見るに気づく。

 その気づきさえも遅かった。癒着した牙は俺の体を引きずり回し、鋭利な木の枝めがけて飛んで行く。

 黒い獣はあざ笑うように遠ざかっていく。

 あと一歩届かなかった。

 串刺しになる自らの幻影を打ち消しながらも、現状打破の別解を求める。

「刺し貫かれるならば一度も二度も同じだ。受け入れるしかない」

 本当にそうだろうか。そんな目にあっても同じことが言えるだろうか。

「恐怖で麻痺しているだけだ。いまさらもう遅い」

 なにか見落としがあるはずだ。

「時間がきた。もう遅い」

 時間の交錯が始まった。



 肩に疼痛を感じて見やると、見覚えのある牙が突き刺さっていた。

 それをより奥へとねじ込もうと全力を注ぐものがいた。

 攻撃性を全面に押し出したその外見に氣圧されて目をそむける。かわりに、注射でもうたれている時のことを思い出す。すると徐々に痛みが緩和されていく。

 印象が変わったからか、感じ方さえも変わってくる。

 空を見上げれば先ほどまで漂っていた暗雲は消え去り、肩に噛みつかれた時と同じように感じられた。

 同じ状況の繰り返しに心当たりがあった。時間時間と小うるさい声がいた。

 気がついたら牙と爪だけだったのだからそれを再現すればよいのだろうか。

 それにしてもこの肩に噛み付いたままの獣をどうにかしつつ、今この瞬間負ったであろう傷をどうごまかせばよいというのだろうか。

 さらに木の枝と衝突ないし刺し貫かれた自分はどうなったのか。もし再現に成功したとしてもそこから再開されたのでは取り越し苦労ではないか。

 あるとすればいまこの状況でなんらかの布石をうちつつ、暗黙のルールに従うことだ。

 だがそんなことが本当に可能なのだろうか。いましばらく予想し考える。

 巻き戻る時間の中に閉じ込められた自らの境遇とはつまり、ヒトガタが言っていた死ぬまで玩具にされるということだろう。

 なんらかの手段をもった存在が俺に攻撃をしかけている。そう考えるのが妥当であるように思えた。

 次に、どうすれば元に戻った時、枝に貫かれずにすむかだ。

 ここで何もできなかったとしても考える時間ができたのはありがたいことだった。

 迫り来る槍のように尖った枝とそれを支える木の幹。

 接触前に破壊することや避けることは不可能だろう。必要な運動能力もなければ反応できる神経も持ち合わせていない。

 脳裏に響く声がいうところの超感覚などないのだ。一般的人間にできることがかろうじてできる程度の身体能力者になにを望むのか。

 この世界の住人は必ず異質な力を持つが、それは異能というよりはその身に宿る性質だ。ヒトガタのように見た目から予想でき、使い方もその体の持ち主の性格に依存する。

 つまりはデタラメなのだ。

 一人の力ではどうにもならない。だが、頼りになる仲間もいない。



 そこへ、突風が吹き込んだ。霧は洗い流される。

 無塵の木の下には黒い外套を身に纏う男がいた。それが男だとわかったのは見上げるほどの高い身長に、頬のこけた細い輪郭からだ。目深に被り瞳までは見えない。

『やはりここだ。君、殺しを見なかったか?』

 暗い声が正気を取り戻させる。

 やはり繰り返しなのだろうか。前にも似たようなことを言っていた気がする。

 そのときを再現するべきかどうか悩みながら答弁する。

「見ていない。俺が殺されそうだったが、怪我ですんだ。犯人はどこかへ行った」

『そうか。どちらへ行ったかもわからない?』

 消え去った霧がそうであると言いたいが、それがどこへ行ったか、どう表現すべきかわからない。

 首を振って応える。

『また見かけたら教えてほしい』

「教えるって、どう伝えればいい?」

『いつも、近くにいる』

 それだけ言い残して黒い男は消えてしまった。あの霧のように。

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