第3話 直感的指針

 時間がないから補充したいのか。

『いいえ。私をたすけられるのはあなただけよ』

 人をどうにかする力が俺にあるのだろうか。

『実際にあなたはそうしてきた』

 そうしてきた記憶はない。

 共有してこなかった時間にため息をつく。そうだ、俺には娘どころか恋人もいない。しいて言えば友人に誘われるだけだ。

 期待の重責に押しつぶされそうになる。

『気負う必要はないわ。自分の感覚を信じて。直感的にこうすればいいっていうなにかがない?』

 と、言われてもこちらにあるのは呆然とここへ来た意味も時間も場所もわからない。直感などわきようもない。

『はあ、そんなはずはないのにっ……』

 息をのんだ。声だけだからそのように聴こえた。

 視界の端から端を結ぶように川が流れていた。

 この世界に初めて潤いに瞬間、身を震わせた。

 気づいたらその水を飲んでいた。それこそが俺の直感だったからだ。

 時間がすぎるに、その冷静な視界に心奪われた。その水面に映ったのは自分とは違う女顔だった。

『当然でしょう? あなたの依代はないのだから』

 見れば水を掬う手のひらでさえも小さくなってしまっていた。細く伸びた指先は細かな傷が入っていた。

 意図してか否か、すべてを話さず信用のできない声。なにが起こるか予測のつかないこの世界。いずれを考えても答えはでない。

 最低に見積もって幻覚か夢であると考える。ならば暴れまわるような暴力的な手段でもって動いたとすれば、正気に戻ったとき荒れ果てた光景が目に映ることだろう。

 背に持たれる木は移動して行ってしまう。そのせいでつんのめった体を起こそうとも思えない。

 例えばこの木が錯乱した俺を支える誰かだったとするなら、追いかけてどうにかするわけにはいかない。

 すべては幻覚か。

 ならば振り回されず、耐えることが俺の仕事であるように思われる。

『私を助けるの。確かなものを私に示して』

 そうのたまう声も無視はできない。

 無視はせず、かといって暴力的な手段を用いないならば、この世界と対等に戦えるかもしれない。

 世界を相手取るとして、その正体を掴ませない無軌道な振る舞いをどう捕らえるべきか。裏切り続ける世界の真意はなんなのか。

 だから知ることこそが最大の攻撃だ。針の先よりも小さな知見の光を突き刺す。

 声が聞こえなくなってしばらく。次の方針でも相談しようとしたとき。

 さらさらと砂のこすれる音が周囲を包む。連動して息苦しさを感じる。

 川は干上がるように水面を下げ、かわりに黒の冷たい石質がせりあがってくる。気づけば砂嵐に包まれて視界が閉ざされる。砂粒がぶつかることもなく、俺を中心とした嵐だ。

 次第に光も閉ざされてしまった。

 静寂と宵闇の中を手探りで行くも何物にも触れられない。地面は材質どころか温度さえ感じ取れない。

 前に進む足はすくみ、一歩が重い。声を出して距離を測ろうとしてもその声は一切の反響もなく遠ざかって行った。

 俺にとっての一歩は重く大きいが、この空間にとっての一歩は無に等しい価値なのかもしれない。

 自分は今立っている。いや、倒れているのかもしれない。

 足を進めて止めない。

 時間の喪失に、急流が訪れた。

 言いようのない気配を感じて振り返ると、黒とグレーの混合色が呆然と立っていた。暗闇のなかで蛍光色のように際立つ。

 それを見て、ようやく俺は立っていると自覚できる。

 そっと触れようと手を伸ばすが、やはり届かない。肩で息をするヒトガタが目の前にいるのに。

 それが俺のまわりを円を描くように練り歩く。影は投影物であり、光の終点である。立体的に見たならばかならず始点が特定できるはずだと思った。

 手をかざし、ヒトガタの左右をなでるように手を振る。上下、正面にも。どう俺が動こうが、影が陰ることはなかった。

「おまえはだれだ」

 かろうじて出した声も、暗闇に解けて混ざる。

 今までの住人たちのように応えることすらしない。あるのは無言のやりとり。

『行きも帰りも道はない。前に進むだけになんの意味があるか』

「恣意的に意味を見出すのは勝手だろう」

『しかしして、しかしして』

「なにがいいたいんだ」

『行き先混ざって目標失う。成り果てるのはなにか?』

「なにかに成り代わることはできないだろう。変化とはあくまで成長のいち形態にすぎないんじゃないか」

『経年劣化する物になりたかった』

 光はぶつかれば吸収されて消える。それは高速の新陳代謝であるように思えた。

「そのかわり、どこへでもいける。どこにでもいられる。それはいいことなのではないか」

『必要としてくれる人がいるならね』

「今、俺を導くことができるのは君だけなんだ。どうにかならないか」

『導く? どこへ行こうというんだい』

「どこでもいい。ここではないところへ連れだしてくれ」

 それは、無感地獄に差し込んだ一筋の光だった。本人はそれに気づかないのだからどうしようもない。

『どこでも知ってる。だからこそ言おう。どこへ行っても同じだ。と』

「一度知ったらそれで終わりなのか? 俺はそうは思わない。物は変化しない、成長しているんだ。そうやって一度知った気になって止まっているのは君の望むところではないはずだろう」

 知を渇望する。目の前のヒトガタをなんとしてもやる気にさせなければならない。そうでなければ俺は――

「わかった。俺が道を示そう。意味が無いとのたまうなら俺が意味を教えてやる」

『僕が形あるものに歩幅を合わせて? 距離を保って? できることをやらないなんてばからしいじゃないか』

「できることをやらないのは君だ。そばに居るだけでいい」

 何者かわからない異形を、だが、それでも知った気になって立ち止まっている者を放ってはおけなかった。異形である以前に、言葉が通じない以前に、知性があるのだから。

「そして、俺にできないことを君がやってくれ」

『僕にできることを奪ったうえで、僕にできないことを要求するのか。傲慢だなあ』

「だからこそ意味や価値が生じ得るんだよ」

 俺が歩き始めると、ヒトガタは黙ってついてきた。すくなくともヒトガタがいれば上下感を失うことはない。それだけで十分だった。

 手を伸ばし、体の中に直角を作る。少ない感覚からの脳内地図は平面しか映し出さない。だから直角を自分の中に持つことで立体感をかろうじて保つ。そして目に見えない何かかがその手の先に触れることに期待する。

 何が正しいかではない。世界を理解することだけに全神経を費やす。

 そのとき。

 目を閉じていただけだったのではないかと錯覚してしまう。

 一気に晴れた視界に立ちくらむ。

 広がったのは花々に満ちた草原と、その丘先には太陽があった。

 その眩しい光を見て気がつく。ヒトガタはどこへ行ったのか。振り返り一望して自らの影を覗くもそれらしい者はなかった。

 いるのかもしれないが、いるかもしれない。いずれにせよ、宣言してしまったことを反故にすることはできない。ヒトガタが飽きてしまった世界の正しい見方を提示してみせよう。

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