四話・矢車菊と愉快犯
俺の背後で両開きの黒い扉が閉じていく。
ほんの少しだけ後ろを振り返ったらクリスさんがこちらに手をふっていたので、俺もふりかえしておいた。彼に見えてたかは分からないけど。
やがて扉が閉まると同時に、俺達三人はまた先ほどとは別の道を歩き始める。
俺が違和感を感じて、先ほどまでクリスさんに握られていた手を広げると、ちんまりとした手のひらサイズの本が乗っていた。
(本のミニチュア? でも本物みてぇ……)
「おや、豆本か。クリス殿が作っているものだな」
「こういうのって作れるもんなの!?」
俺は思わず驚嘆しながら、その小さなページをぱらぱらめくってみる。
しかし、字が小さくてそもそも見えないので、何が書かれているかはさっぱり分からない。くそぅ。
とても残念だけれどもここに虫眼鏡はない。仕方がないので、何枚かある切り絵風の挿絵のみ、歩きながら見ることにしようか。
それらは基本白黒で表現されているが、所々に朱色や淡い水色が使われている。
その絵の中で最初に俺が目を留めたのは、一匹の狼が和服の男性に頭を垂れている場面が描かれたやつだった。
どうやらその絵はこの本の最終章の表紙のようだ。
その後にはもう挿絵が出て来ない。
(なんだか——ヘルみたいだ)
勿論、彼女と絵の狼は全然似ていないのだけれど。狼繋がりで連想してしまっただけだ。絵の狼は何とも雄々しく見える。
……これもクリスさんが描いたのかね。
文字が読めない所為で一体全体どういう物語か想像もつかない。俺が少しもやもやしながら題名をなぞっていると、後ろに立っていたリタさんが覗き込んで来た。
「『 The obedient wolfs』ああ、ユーシ殿限定のお守りだね」
(俺限定ってどゆこと……)
クリスさんが何のためにこれを渡して来たのかはさっぱり分からないが、お守りというのならばきっといつか役に立つはず。あの人ならその時を想定してそうだし。
俺はもう一度だけ、あの絵を見た後にその豆本を学ランの内ポケットに入れた。
さて、と。俺は特に行きたい場所があるわけでもない。そもそもこの城の地理を知らない。
(地図ぐらい貰ってくれば良かったなぁ)
今この現状では俺自身の理由と言われても——何かやけに凝り固まったモノがあるのは分かるんだけでそれを上手く言葉にできない。
ドロドロしているような、重苦しいような、引っ付いてはがれないような……そんな不安とは違う何かがある。
まあ、ここはおとなしく頂いたヒントをありがたく活用させてもらおうじゃあないか。
で。棺ってどこにあるのー。
「城の中に棺ってあるか?」
「「あ——! それ、おはかのことだよ!!」」
俺がてっきりリタさんが答えてくると思っていたところへ、つい数秒前までアメをガリガリ噛んでいた双子が突入して来た。えーと、個人的にはアメは舐めた方が美味しいと思うぞ。
俺は教えてくれるならいいけれど……双子の背後に立つリタさんの渋い顔が気になる。
「「おしろのちかにある『おはかたち』のとこにねー?
「おそらく、その方に会え、と言いたかったのでは?」
なるほど、やけに多い階段を上がった次は、ひたすらに下がれということですね。
ねえ、鬼畜なの?
俺は先ほどから歩き通しでいい加減足がくたびれてる。その上、どうやらお茶を飲んでしまったのがまずかったらしい。自分が結構お腹がすいていることに気づかされた。
まずい、このままだと腹が鳴る。
あー……夕飯食べないで飛び出したからか。むしろそれしか無いな。
しかしちょっとハラハラしている俺よりも先に、二人同時で可愛らしい音が空腹を主張してきた。
「「リター、アンはらぺこ——、はらへり——」」
(こう言った現象をシンクロっていうのかね……)
確かにこの際何でも良いから、適当なものを口に入れておきたい。何だかまだこれからも歩き通しになりそうだし。
「空腹か…そうか、もう日も暮れるんだな。地下は明日にしてはどうだろう?」
ほぉ。
やっぱりここにも時間の概念があるんだな、なんて俺が当たり前のことに驚いている時だ。
———一頭の蝶が俺の目の前を舞った。
そいつの羽は魔法使いの目の色と同じ青で、絵の具でコバルトブルーとか呼ばれているものだ。多分。
色合いは羽の淵にかけてグラデーションになっていて、正規を感じ無い。
その蝶は薄いガラス板のような羽を数回羽ばたかせると、やおらリタさんの人差し指に止まった。
「「ママだー!」」
同時に双子は目を瞬かせて、その蝶に向かって話しかけ始めてたが、俺にはこれが一体魔法使いの何を現しているのか分からないままに、ただただ首を傾げた。
すると、蝶が羽を動かすたびに、何か音が聞こえることに気づく。
『もしもーし、聞こえてますかー?』
「……魔法使いの声?」
「これは主が作った自立型通信機で、先ほどユーシ殿も居たテラスから主が話しかけているんだよ」
通信機と言うその名の通り、流れてくる音声には機械の冷たい感じがある。だけれども、普段町中でこいつを見かけたとしても、一瞥した上で生きた蝶だと疑わないだろうな。
俺なら今時町中で蝶なんて珍しいな〜、としか思わないかもしれない。
……というよりも、「魔法使い」なのに連絡に魔法使わないのかよ。
そんな俺の心の呟きは当然届かず、リタさんが魔法使いから業務報告のようなものを聞いているだけだった。
『ユーシさんの寝室の用意が出来ましたので、リタもそろそろ戻って来て下さいな〜。一人は
「了解いたしました。主」
簡潔なリタさんの返事を聞くと、通信機はふわりと浮くとあっさり窓から出て行ってしまった。彼女が魔法使いの元へ戻るとなると、俺を部屋まで連れて行ってくれるのは必然的に双子だな。……大丈夫かね。
俺の予想通り、俺は二人に背中を押されて今まで進んでいた道を更に直進することとなる。
部屋で休む前にリタさんへお礼を言いたくて、俺は一度振り返ってみた。
だが、そこにはもう彼女は居なかった。
そのすぐ後に俺が押し込まれたのは、シンプルな内装の洋式の部屋だった。
俺の部屋に比べて物が少ないので、一人部屋にしては広く感じる。
いや、俺が物多いだけだったわ。しょうがないじゃんハードカバー本とかゲームソフトが捨てられないんだよ。そういう人は俺だけじゃないはず。
ぐるりと見渡してみたが、そこに置いてあるのはシングルベットに小棚付きの机、それにがっしりしたクローゼットのみだった。
せっかくなのでその大きなクローゼットを開けると、ハンガーがいくつもかけられている。
その内の一つに、真新しい白のシャツと男物のタンクトップ等が掛けてある。下着も。……揃えてくれたのはありがたいけれど、ちょっとモヤモヤするな。
魔法使いが言っていた用意とはこの事もあったのだろうか。
しかし洋服は一枚ずつしかない。明日の分ということか。
はたして、俺が残り一日で理由を見つけられるかは全く分からないけど。
兎にも角にも、俺は学ランを脱ぎハンガーに掛けておいた。多分この気温なら薄着でも風邪は引かないだろう。若干濡れていた髪も、もうさすがに乾いてきたし。
双子はすぐに来ると言っていたので、大人しく待つしか無いのだが……すっかり手持ち
俺は暇つぶしにでも、机の小棚を順に開けてみることにした。宝探しみたいでわくわくしてきたぞ。
三つある内の一番下に手をかけると、思った以上にあっさりと開いたが、その中身は一本の万年筆がぽつんとあるだけだった。
試しに持ってみると、普段学校で使っているシャープペンよりも少し重くて、乳白色の外見は俺が持っていた万年筆は黒という考えを砕いてくる。
俺はそれを一旦机の上に置くことにして、二段目も引くがそこには正方形の
それじゃあ最後に一番上を……って鍵付きかよ。厳重だな。
(次の暇つぶしを見つけるか)
まぁ、せっかく色紙を見つけたし、折り紙でもして双子を待つとしよう。
俺がそう思って、出しっぱなしにしていたあの万年筆を戻そうとした時、その引き出しの中には先ほどは無かったはずの丸められた紙くずが落ちていた。
「こんなのあったっけ?」
多少警戒しながら、俺はそれをおそるおそる拾い上げ、試しに広げてみる。
すると、くしゃくしゃのそこに紺色のインクで何か文章が綴られていた。
<———ヒントが欲しい?>
俺は、思いつきで、右手に持ったままの万年筆のキャップを外し、その文のすぐ下に走り書きで返事を書いた。
<くれるなら>
……これで何が起こるか、何が変わるか、なんてことは一切考えていない、やれることをかたっぱしからやっていくだけだ。こういうのを……暗中模索、とか言うんだっけ。知らないけど。
とりあえず俺はそれを元通りに丸めて、棚に入れようと宙に放ったが、しかし、その紙くずは棚の中には落ちず、空中で灰色がかった霧へと変わって綺麗に消えてしまった。
何と言うか……ここの人といい物といい、突然消えるのが趣味なの?
そんな風に俺が一瞬思考を停止させたのと同時に、部屋のドアがいきなり乱暴に開いた。
「「ごはんもってきたーっ」」
頑丈そうだったドアを蹴飛ばした勢いそのままで、部屋に飛び込んで来た双子は、後ろに一人の男性を連れてきているようだ。
彼は白いコックコートに
目元に刻まれた
俺が彼と目を逸らすに逸らせず、無言でお互い固まっていると、双子の
「「ジャン!ごはんー、ごはんー」」
ジャンさんは、ぴょこぴょこ跳ねてる二人を身振りで宥めながら、バスケットを開く。
その中身は、俺が想像していた食材とはかなり違っていた。いや、ここが「魔界」というからには普通では無い料理なんだろうなあ~、なんてことはもちろん覚悟していたはずなんだ。
けど、ここまで見覚えのある食材が詰まっているとは思わなかったんだ。
口下手な俺には、全ての料理を上手く説明しきる自信は無いので……ひとまず、今双子に渡されたサンドイッチについてのみ話そうと思う。
コンビニとかで必ず売られている卵サンドと同じ、はずなんだけど。
綺麗に耳が切り落とされほどよく焼き目が付いた三角形のパン、わざと粗く潰されたであろうゆで卵に、パリッと
一生縁のないもんだとばかり思っていたな。まさか異世界に来てわざわざお目にかかる日が来るとは。
色々と考えて
「「ユーシたべないのー?」」
俺は意を決し、サンドイッチにかぶりつく。それと同時に食べ慣れた完全栄養食品の味が口内に広がった。いや、家とかで出るのも全く違って触感が凄い上品なんだけどさ。
それでも見知った味であることに変わりないし。そのはずなんだけど……。
(……おいしい、なぁ)
うん。何か、今ものすっごい気い抜けたような気がする。安心したんかね。
あー、でもやっぱり何かを毒味してる感が強い。主に後味が。ハーブでも混ぜてあんのかも。
でも一個食べてしまったことで、空腹を我慢すると言う選択肢が吹き飛んだらしく、俺はジャンさんから渡された……というより押し当てられたスープを大人しく受け取った。
木のお椀に入っているスープの緑色は、ほうれん草を思い浮かべれば、まぁ……納得出来なくもない。なお、具材は
覚悟を決めて一口啜るとあっという間に体がぽかぽかしてきた。改めて、自分が大分冷えてたんだなと気づかされた。
何で薄着でも行けるって思っちゃったの俺。バカなの。
ちなみにその味はクリームシチューに近くて余計にどこかほっとさせられた。
それを皮切りに俺に食べる気があると分かったらしく、ジャンさんはお皿にどんどん料理を盛りつけている。だがしかし。
(……俺の胃に全部入るかな)
そんな心配をしたのは杞憂だったようで、家を飛び出したのが夕食を食べる前だったせいか、やっぱりお腹はすいているものだ。
次々にトマトソース(?)のパスタやら焼きたての熱いパンやら野菜スティックやらを手渡され、俺はそれらを一心不乱にほおばった。
食べている間に、ちょっと涙腺が緩んで泣きそうだったのだけれど、ジャンさんがこっそりハンカチを貸してくれたおかげで、双子には気がつかれなかった。
これが……イケメンか……。
「ごちそーさまです。凄いうまかったです」
すっかり満腹になった俺がジャンさんにお礼を口にすると、彼は何故か手のひらをこっちに向けて左右に振った。
彼の口元には優しげな笑みが浮かんでいる。
(ちがう? なにが?)
俺がどうリアクションをしたものか悩んでいるのを察したらしく、双子は鳥肉の甘辛揚げを頬張っていた手を一旦止め、口の中の物をごくりと飲み込んだ。
「「どういたしまして、っていってるー」」
双子のフォローを受けて、俺はようやく
ジャンさんは、声が出せないのか。
だからさっきから一言も話さなかったんだ……。
(むしろ何故気がつかなったんだ俺)
けれど、双子と顔を合わせてなくても対話出来てるということは、耳は聞こえてるんだよな。それなら筆談とかは用意しなくても平気か?
その後もしばらく、双子にジャンさんの手話を通訳してもらって、俺達四人は会話を楽しんでいた。
しかし突如としてジャンさんは突然体を強張らせる。そしてすっと小指を立てて、空中でしきりに動かし始めた。
「……どうしたんですか?」
ほんの少し険しい表情になっているから、何か緊急のことかも知れない。
俺は双子の通訳を期待してそちらを向くと、二人はベットの上で腹這いにありぽけ〜っとリラックスしきっていた。おいちょっと。
「「えっとねえ。ひとによばれたから、いかなきゃーって」」
ジャンさんは双子にもう二、三個伝えた後、空になったバスケットを持って、急いで部屋から出て行ってしまうし。
同性が居なくなって少し肩身が狭い俺は、小棚から色紙を取り出している双子に、ふと気にかかっていることを聞いた。
「なんで手話知ってるんだ?」
こう言っちゃ悪いが、この双子はそこまで頭がいいとは思えない……あくまでも、知識という意味での頭のことだけど。
俺としてはここで長く一緒に暮らしていて、分かるようになったのだろう、とか考えたんだがどうやら答えは違っていたらしい。
「「あんねー、おにいちゃんがおしえてくれたんだよー?」」
俺は突然聞こえた「兄」という単語に無様にも過敏に反応してしまった。
別人のことなのに。
俺の兄のことじゃないというのに。
(……アン達にも兄貴がいるのか)
俺が考えていることなど知らないで、双子は無邪気に色紙を大量に持って近づいて来た。
そして高らかに両手を掲げ告げる。
「「だから、やぐるまぎくなの!」」
「お兄さんの、好きな花なのか?」
「「うん!!」」
そう言って今まで見て来た中では一番、普通の女の子らしい花のような愛らしい笑顔で双子は笑う。
俺は、なぜか、それを妬ましく感じてしまった。
(俺は、俺だって。出来たら、また昔見たいに戻りたいのに)
これはひどく自分勝手な感情だ。
ただの、自分の今の状況を悲劇ぶっているだけだ。分かってる。なのに。
「飯、お兄さんとじゃなくてよかったのか」
口が閉じれない。
俺は今、汚い感情だけで、この言葉を吐いた。自分でも分かっている、人として最低なことをしているんだと。
(どうしよう……謝らなきゃ)
なのに双子はそんな悪意をものともせずに、色紙を仕分けていた手を止めて、きょとんとした純粋な顔で俺にしっかりと教えてくれた。
それは、俺が自分を殴りたくなるようなこと。謝っても謝っても、許されないのだと刺された釘だった。
ようやく思い知らされた。吐き出した言葉は、もう無かったことには出来ない。
誰かが受け止めて飲み込んでくれるまで、ずぅっとこの世に存在し続けるんだって。
「「だっておにいちゃんは、もういないからー。いっしょにはいれないよー」」
純真無垢な笑顔のままで、いたって平常な声で、双子は鈍器のような台詞を言った。
でも、彼女達の指の先だけが微かに震えていてそれを何とか止めようとしている。そのことが余計にこれが真実なのだと告げてきた。
「え……それって。どうゆう……」
「「しんだひとにはー、にどとあえないんだよ——?」」
俺が思わず触れていた色紙を握りつぶすと、双子は「知らないのー?」とでも言いたげに、至極真っ直ぐに見つめてくる。それが公園で遊んでいる近所の子供たちと何にも変わらなくて、余計に胸が詰まりそうになった。
そんな中、双子はもう色紙を仕分け終わったらしく、表情をぱっと明るくして、別々の色のを三枚掲げる。
「「ユーシ!これでおるー」」
「……緑と黄色と赤か?」
「「そう!」」
俺は、二人への見本を作るために、頭の中で矢車菊の折り方を思い出しながら、自分の指を動かして行った。
俺は、何回後悔したら気が済むんだろう……人の言葉は刃物だと、
——俺もよくわかっているだろうに。
『関係無い』
その言葉が返って来るのが怖くて、俺は何も双子に言えなくなった。
俺は、自分の家族が好きだ。
これ以上は無いと、自分も将来こんな家族を得たいと、漠然と考えるぐらいに。
けれど、そんな家族は今、全員が別方向を向いている。
その切っ掛けは、俺の憧れでもある兄の
彼が大学に入学して間もなく、未成年者としてはよろしくないどころか、人としても良いとは言えない連中——いわゆる悪友と連むようになった。
理由は分からない。
もしかしたらそんなもの無いのかも知れないけれど。
……もうすぐで入学から一年経つけれど、兄が家に帰ってきたのは一回だけだ。
そのときは父が珍しく声を荒げるのを母が必死になだめ、俺はすっかり変わってしまった兄に動揺して、まともに声もかけられなかったんだ。
いや、何か焦って叫んだかも知れない。覚えていない。
今日は……今日と言って良いのか微妙だが、俺が家を飛び出す少し前に父と母が連絡をまともに受けない兄について話していた。
俺は学校から帰ってきた後、それをリビングの扉の前で聞きながら、何か出来ないかと
結局、何も無かったけど。いや、確かそんな中で。
「———そういえば、友志もね——」
母が急に俺の名前を出したことに本当に驚いたんだ。
俺はそこで会話の続きを聞きながら、ようやく気がついた。
すっかり前と態度が変わって、無口で無表情になった俺も、両親から見たら心配の種なのだと。
兄に憧れていた俺がショックで兄の後を追うのではないかそう危惧されているのだと。
俺は両親に兄以外のことで悩ませたくなくて、意を決してリビングに入り、口を開こうとした。
「俺は平気だよ」って。
でも、返ってきた言葉は、
俺はたびたび双子に、パーツを組み合わせる時に慎重にやるように言いながら、作業を進めさせると、外が完全に暗くなる頃にようやく、二輪の矢車菊が咲いた。
「「でっきたー、でっきたー」」
嬉しそうにベッドの上で跳ね回る二人を見ながら、俺は約束を果たせたことに安堵のため息を零す。
ぼんやりと、自分の手の中にある見本用の真っ白な矢車菊を見ていたら、急に世界史の教師が言っていたことを思い出した。
『ドイツ連邦共和国の国花のコーンフラワーは古くから和名で矢車菊と言います。この花を国花とする国には他にエストニア共和国などがあり、またその理由は———』
俺が真面目に授業を聞いていない証拠になってしまうが、教師が言ってたことの後半はちっとも覚えていない。
異世界人の双子の兄はこの花をどこで知ったんだろう。やっぱり図鑑か?
今のところ見て来て思ったことだが、魔界にはやはり俺にとって常識はずれな物ばかりが溢れている(食事以外)。そんな中に矢車菊があるようには思えない。
それも、お茶会で話すとでも言うのだろうか。
それとも、先ほどの紙切れが本当にヒントをくれるとでも言うのか。
その後で双子から「「ねとけ——。ユーシおやすみー」」と言い残されたものの、慣れないベッドと枕で逆に目が覚めてしまった。
いや、寝心地は良いと思う。凄いふっかふかだし。
ただ、単純な慣れの問題。この空気が落ち着かない。
あと言うなれば、俺、制服のズボンじゃ寝れないんだよな。
仕方なしに窓から外を眺めてみると、空には俺が知るのよりもはるかに大きな月が二つぽっかりと浮かんでいるのが見えた。
(何で二つ……)
小さい方が大きい月の周りをくるくる回っている。
親に褒められて喜ぶ子供みたいに。
——眠りについてから、昔の今となっては懐かしい日々の、そんな夢を見た。
俺が小学校に入ってすぐの頃で、兄に宿題を手伝ってもらっていた時の光景。
兄の髪の色は俺や周りの人とは違って母さん譲りの薄い茶色だった。
あの頃の俺にはそのことが、特別な人間の証に写ったのかよく羨ましがっていたものだ。
そんな俺は、二人の色に自分が似てないことを嫌がって、それで父さんに文句を言っては父さんを苦笑させているのを、よく兄と母さんは笑いながら見ていたっけ。
(今思えば、父さんには悪いことをしたんだよな……謝りたい)
もう無理かも知れないけれど。
……目が覚めてしまったが、とくに大きな変化が訪れそうな予感も無く、この夜が過ぎるだろうと思いため息を吐いた。
しかし、またしても俺の考えは完膚なきまでに外された。
俺が窓を開けて部屋の中に涼しい夜風を招き入れていると、目の前に突然濃い
「ぶっは、けむ……いや霧?」
俺は思わず後ずさる。自分の世界に居たときの出来事を思い出したからだ。
部屋の中にすんなり入って来たその霧はしゅるしゅるしゅると竜巻のような形へと変化していく。
【あは、ふふ、ウフフフフ】
突然聞こえて来たその女性の声は、魔法使いのものに酷く酷使していた。そのことにまず驚かされたが、よくよく聞けば完全に雰囲気や高さが別物だ。
別人と
俺が見つめる間に、やがて声だけでなくその霧自体が女性の姿へと変貌する。
「え、ちょ、なにごと?」
俺は漏れ出た自分の間抜けな声を隠せなかった。
その意志を持った霧がとった姿は……まさしく白そのものだった。
白い髪、白い肌、白い
それ自身が「白」という概念なのではないかと思うほど。その印象は鮮明だった。
そんな中で唯一見事な銀色の鋭い瞳で、俺のことを楽しそうに見つめてくる。
俺の足が生まれたての子鹿状態なのを見て、どうやらその霧は笑いを堪えているようだ。
【そんなに怖がらないでよ、食べたりしないから☆】
そんなことを言いながら、彼女は顔に
(いや怖いって!!)
先月に暇つぶしで見たホラー映画のゾンビよりも圧倒的に怖い。
あ、例えが余り怖くなかった……。
俺は何とかすぐに逃げられる位置に移動しようとしたが、どうやらその程度の考えはお見通しだったようで、すぐに白い鎖が俺の両手首に巻き付いて来た。
それはぐんっと俺の片手を引いて、俺のことをベッドの上に乱雑に投げ出す。
いきなりだったので肩が痛い。さすがに脱臼はしていないだろうけど。生まれて始めて肩がくきって言った。
【こらこら少年、逃げないの〜】
「……あんた何がしたいんだ」
俺なりに低い声で
【だって、少年が来てからみんな楽しそうなんだもの。ワタシも混ぜて欲しいじゃない? せっかく、ワタシが少年をつれてきたのに】
ひゅっと喉から音がした、気がする。
こいつが……あの霧が、俺を魔界につれてきた?
ああ、確かに俺はあの紙くずに、
<くれるなら>ヒントが欲しいとそう言ったけれどこれはヒントなんかじゃない。
彼女は言った「楽しそう」だって。
つまり、この人には……俺を元居た世界に返す気はさらさらない。
先ほどから、態度でもそう言っている。
だからこれはヒントじゃない。これは、俺の選択肢が一つ潰されただけだ。
俺自身の意志じゃなく他人の意志で。
ひどく純粋で無邪気なだけ、そうとしか言えない。
【そんな露骨にがっかりしないでよ少年。ワタシは変化が欲しかっただけよ? ワタシ達はずぅぅぅっとこの檻にいなくちゃいけないのよ〜。たいくつぅ~。
だから、自分の欲望を優先したの……それのどこが悪いの?
ただの———よくある正義じゃない】
一瞬で表情を無くしたその声は心底冷たいものだった。
俺が恐怖で息を飲んだことに気がついているようだが、彼女は気にせずにんまり笑って話を続ける。
【それに今回は、ワタシは少年の命の恩人なのよ? 今回は】
「……恩人?」
その言葉を聞いた途端、突然俺の頭に鈍い痛みが走っていった。
脳裏に一つの知らない光景が浮かんでくる。
そこでは、
見慣れた交差点のアスファルトに赤い色が広がっていた。その上に俺が腹這いで倒れている。
誰か名前も知らない人達が悲鳴まじりに「誰か!救急車!」とか叫んでいる。
そして、これまた知らない誰かが交差点にある自動車の運転席から出てきたが、その赤い色を見て混乱したのか、その場からあたふたと走り去って行く。
直後に周囲から「ひき逃げ」という単語が飛び交い始めた。
……これは、何だ?
【ふぅ……これで分かった? 少年、君は事故にあったの】
俺の反応がお気に召さなかったらしく、霧は空中で体育座りをしてふてくされている真っ最中だ。
だけれども、そんなことに突っ込む気力は無い。
今俺はケガは一切していない……ここに来た時に直された?いやそれでもこの事は覚えてそうだけど。
「じゃあ、尚更なんで」
退屈ならば、遊び相手に出来る元気な奴を連れてくるだろう。
事故にあって倒れている俺なんかじゃなくて。
【あぁ、安心して体は病院にあるわ。あの子の、魔女の課題をクリアすれば、無事帰れるのよ? 運が良いねぇ☆
ま。魂だけの存在って体の習慣が染み付いてるからめんどう〜。生理現象なんて死んだら無くて良いのにさー。うぅん? まだ少年死んでないなー。ちぇ〜】
(話が通じねえ!!)
嬉しそうにウキウキしている彼女とは正反対で、俺はこのままベッドの上で気絶しそうになっている。
だがそういうわけにはいかない。一つはヒントがもらえたのだから、これからなんだ。ここで引くわけにはいかない。
しっかし、こいつが言う魔女とはおそらく魔法使いのことだろうけど、それを言う時だけ皮肉めいた笑みを浮かべていた。この人達仲が悪いんだろうか。
「……俺は交通事故が原因で魔界に来たと?」
俺なりに精一杯の解釈をぼそりと呟くが、彼女はおしいと言わんばかりに、人差し指を一定のリズムで振った。
【ちょっとちがーう。ワタシに依頼して来た子が居たの、「彼を助けて」って】
……俺には悲しいほどに心当たりが無い。今まであって来た人達は全員始めて会った人だったはずだけど。けれど、その人が俺を事故から助けるために、俺の魂だか……精神? みたいなのだけを、一回魔界に連れて来たということで間違い無いかな。
けど、なんで魔法使いじゃなくて、こいつに依頼したんだ?
「……なんで」
【う~ん? なぜワタシかって? それはワタシだからだよ】
「なんで聞こえてんだよ。そして答えになってねぇし」
【なってるよー。
ここ魔界は、魔女が作った罪人のための檻だ。管理人であるあの魔女は一般人を長く滞在させるわけにはいかない。代償を取らなきゃいけなくなるからね。
だから、ワタシ。罪人の刑期を受ける気がないワタシなら、
連れて来た人間をワタシの玩具として無理矢理滞在させられる】
彼女は誇らしげに言葉を連ねているが、俺は残念なことに理解力が足りず、脳がショートしかかっているところだ。
そして、どうやらそのことは伝わってしまったらしく、彼女はにたにたと憎たらしい笑みで俺にすっと近寄ってくる。
【つ・ま・り——、少年はワタシの玩具にされる前に帰らないと、魔女の力でも元いた世界に返せなくなっちゃうの。料理長のジャンみたくね☆
ワタシに依頼した子はそれを知った上でそうした。今は少年を陰で支えているよ】
何個も、何個も聞きたいことが溢れてくる。
でも、この霧が、愉快犯が真面目に全てを教えてくれるとは思わない。俺は深く深呼吸をして、一つだけ、聞き逃せなかったことを聞くことにした。
「……その人はなんで俺のことを助けてくれたんだ」
(知らない、世界の人のはずなのに)
俺が銀の目から逸らさずにまっすぐに向かい合うと、彼女は
【ありら、さっき自分が言葉足らずだーとか落ち込んでたのに、も——う立ち直っちゃったの?】
「双子には、また今日みたいに折り紙を教える。それで、友人になってもらう」
今決めたことだけど……。何もしないで時間の解決を待ったとしても、それは上手く言った試しがなかったのだから、腹をくくるしかあるまい。うん。
俺が小さく自分への確認に頷いていると、いつのまにか霧は俺の顔を覗き込んでいた。
【……それで自分勝手に仲直りってわけ。ま、アンはきっと気にしてないけどね罪人だし。
ほんと、アンタのその目、つまらないわ】
両手首に巻き付いていた鎖が急に強く締まり出す、俺が慣れない圧迫感に黙っていると、彼女はため息を吐き窓枠に腰掛ける。
(どうしよう、これ取れない!!)
俺があたふたしている中、急に城全体が地震の時のようにがくんと一度揺れた。
「え、地震? あんのここでも」
その疑問に答えてくれる人物はここにはおらず。
ただ霧が窓枠から浮き上がって外に出ただけだった。
その中途半端に浮いた体勢のままで彼女は俺の方を一瞥し、ぽつりと【じーさん今度覚えといてよ】などと洩らした。
……じーさんって、誰?
【少年は楽しめそうだったのにな。ま、いっか。
答えはねぇ、忘れんぼな少年には教えたげなーい。ばっばーい☆】
「ちょ、おいっ待て!」
俺が彼女の服を掴もうとすると、一斉に目の前から姿が霧散してしまった。
窓を閉めようにも、もう全部外に出て行たのだから一部分すらも残るはずが無い。
俺は、ベッドで胡座をかき、自分の手首に付いた鎖の後を見つめながら、ずいぶんと久しぶりに舌打ちをした。
もうやらない、そう兄と昔約束したのに。
「……何を忘れてるってんだよ」
※この作品はフィクションです。
犯罪行為または犯罪につながる行為を容認及び推奨するものではありません。
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