三話・少年が得た欲望
彼は最近眠ると、いつも変な夢を見ていた。
それは、この部屋には見当たらないある本を開き、この研究所から出て行くという内容の夢。
本来ならば少年は想像しえないはずの、虚空の作り話。
(これ……現実になりゃあ、いいけどさ)
だが、この研究所から出るということそれは死を意味した。
話がそれるが、そもそも少年にはそこまでの想像力は無いはずだったのだ。
では何故か?——簡単なこと。送られてくる資料本の中に、古い歴史本や、家族の話が出てくる小説が紛れていたからにすぎない。
それから得た最底辺とも言える想像力で彼は思考した。
月面である此処から、一体どこへ向かえと?
彼に、一体どこに帰れと言うのだろう?
部屋に取り付けられた小窓から見える地球は、実際はかなりどころではなく遠い場所にある。
それに、この部屋から出るためには、頑丈なセキュリティと太い鎖の巻き付いたドアを破らなくてはならない。筋力の少ない幼い少年にとってそれは不可能だ。
……そのため、少年には自力でここから出るという発想がまず無かった。
(ああ、今日はどうすっかな)
『仕事』が終わり、退屈で空虚な時間が生まれる、そんなこの瞬間が彼は好きじゃなかった。
誰も彼のことなど、気にもとめていやしない。
そう感じてしまうからだ。
昔なら悲しくなかったろうに。
——だから少年は本を読む。
何度も読んで内容を暗記していたとしても、ここには他に子どもの娯楽は無いのだから。娯楽を求めているのか知識を求めているのか、少年はそんなことは気にせずにいた。
今日も少年は手身近な一冊を手に取ると、さっそく読み始めた。
がっしりした表紙が立派なその本も、もうかなり痛んできている。
「……本、欲しい」
彼に、クリスティアンに誕生日や祝い事で贈り物をもらうという考えは無かった。
知識としては十分に持っているが、彼にとって書物とは『役割』をこなせば食事と共に運ばれてくるもので、年齢は365日程度で刻まれて行くものにすぎなかった。
そのせいか物語の中で何かしらの行事が起きたとしても、あくまでも彼は傍観者であり、それを自分の身に重ねはしなかった。追体験はできなかった。
そう彼には重ねられなかった。だって知らないのだから。
クリスティアンが本から「学ぶ」のは、機械のこと、工学のこと、火薬の使い方のこと、過去の戦争にまつわる文章……逆に言えば、それぐらいだ。
彼がそれらを学ぶは、それが自身の『役割』の一つだからであって……本当に自分がやりたいのか?とまでは考えようともしなかった。
——それはこれから先も、同じはずだった。
「……はっきんぐ」
その本を読んだのは、ただの偶然にすぎない。
積まれた中から無造作に取り出された本。それにはずっと昔の情報戦と、その際に用いられた技術について淡々と書かれていた。
ふと、普段なら騒ぎもしないはずの彼の好奇心が、機械音のような声で言って来たのだ。
【ヤッテミヨウヨ】と。
「……パソコンで、研究所に……」
頭に浮かんだのは、今までの彼ならば考えようともしない行動だった。
ただ彼は、自分の人助けがどんなものなのか、自分は、自分の『役割』はこの世界にどう影響しているのかが、知りたくなってしまった。
外を知りたい。
本当にそれだけ。
「……よし」
クリスティアンはさっそく、普段計算にしか使わない彼専用のパーソナルコンピューターとケーブルを取り出して、その本を床に広げる。
ケーブルをつなげる場所には、二体の医療ロボットが備え付けられているのだが、クリスティアンは彼らを通して研究所にバレているのじゃないかと少し不安に感じた。
しかし何も言って来ないということは、きっと気がついていないのだろう。
彼は、自覚せぬままに始めての満面の笑みを浮かべた。
しばらくの間カチャカチャというキーボードのタイプ音が部屋に響きつづけた。
もう全世界を漁っても、この部屋の中でしか聞こえないその音は、もはや誰が覚えているか怪しいほどそのパーソナルコンピューターが旧式であることを告げている。
しかし突然部屋の灰紫の液晶モニターがぱちりと発光した。
けれど、いつもの白衣の青年は写っておらず、天上付近から見下ろしたような構図で研究所の廊下が写っていた。
「……できた、外!」
当然のこと。
クリスは興奮で顔を紅潮させ、画面に近寄ろうと急いで立ち上がった。
……知らない研究員達、見た事の無い食べ物、そして、
初めて見る楽しそうな雰囲気は、彼が初めて抱いた欲を強く、強く刺激してきた。
【知らない】
【未体験】
【知りたい】
【外】
【ソトヲ】
「僕は……外に………」
クリスティアンはモニターに手を当てて、先ほどまで紅潮させていた顔をくしゃりと歪めぽろぽろと泣き始めてしまう。
「外に……出たい、よぉ……」
頬を伝う物の正体を彼は知らない。どうして目の前が曇っているのか、考えても、考えても、彼の頭では答えは浮かばない。
彼の抑圧されてきた想像力では、分からない。
今、自分がどうしたいのか。
ただひたすらにこの部屋から出たいと思ったが、それが不可能なことだと、誰よりも自分が分かっている。
「ぅぇ……ひっぐ」
クリスティアンは、ひどく後悔した。知ってしまったことも、欲深かったことも自分の考えも。
……自分の存在その全てを。
けれど、運命とは残酷なもので、後悔はこれで終わってはくれなかった。
この程度では、彼の罪は許されなかった。
※この作品はフィクションです。
犯罪行為または犯罪につながる行為を容認及び推奨するものではありません。
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