二話・月の館に住む少年



 月面に作られた複数の研究施設の一つ。




 その先端部に位置する小部屋の中で、一人の少年がうつろな目をしながら彼の正面にある液晶画面、いや本来なら壁であるはずの場所を見つめていた。


 その灰紫色の暗い壁は、しばし点滅てんめつした後に白衣姿の男性を写す。


『——昨日の計算は終わったかい?』


「……はい」


 画面越しに写る男に向けてまだ幼い少年は気の抜けた返事を返す。


 彼は、おのれの意志を何もかも放棄ほうきした上で存在しているような少年だった。


 少年が居る小部屋の中には何冊もの分厚い書物、大量の紙に筆記用具、そして小型タブレットや非常食のような固形物の詰まった箱ぐらいしか見当たらない。

 否、強いて言うなればいざと言う時のために用意されている医療用ロボットだけは、何の感情も無いレンズ越しに彼を見つめていた。


 当の少年は十歳になるかならないかという体躯だが、やけに体つきが細い。

 異様なほどに大人しく従順な態度で、無関心な顔のままに男の声を聞いていた。


『じゃあ、今日の分だが……この補給船なんだがね、設計図に起こしてくれ。それと、地図を送るからその地形で有効な兵の動かし方を考えて欲しい』


「わかった」


 彼が形式通りの返し方をすると、液晶画面の下部にある五ミリメートルの隙間から、数枚の紙が絞り出されてくる。

 少年はそれを素直に受け取った。とっくのとうに慣れた作業だ。


『よろしく頼むよ、この補給船で、戦場にいるたくさんの人の命が助かるのだから』


 男の張り付いたような笑顔にもまともに反応せず、彼はただ小さく頷くだけだ。


「はい」


『よろしい。ではまた夕方の通信で。

——琥珀への揺るがぬ忠誠を』


「……琥珀への揺るがぬ忠誠を」


(言いたくもねえ)


 あまりのくだらなさにため息を吐きながらも、少年が決まり文句を正しく呟いたのを確認すると、男が写っていたモニターは一瞬で元の灰紫に染まった。


 ……部屋の外と通信が切れたのだ。

 何かと連絡を取り少年の所在を確かめて機嫌をとるくせして、外の人間が接してくるのは本当に一瞬。


「……チッ」


 少年は小さな反抗心を零すが、渡されたデータを資料の山にいつものように積み重ねる。

 それ以外にすることを少年は想像出来なかった。


 想像することを、教わらなかった。


「……おれは……何で」




(———ここに、いるんだろうか)






 少年は知識としてでしか知らないが、かつて彼はフィンランド人だったらしい。

 正しく言えば、フィンランド人になるが。




 この広い世界から国という概念が消えさり、「琥珀こはく」と「翡翠ひすい」の二派閥に分けられた大規模戦争の開戦によって、まだ赤ん坊だったはずの彼はなぜか親元から引き取られ琥珀直属の研究施設に収容されていた。


 彼が一歳にも満たない頃に始まったその戦争はいまだに続いているそうな。


 しかしその親元から引き離された理由は、未だに少年本人だけが知らぬところとなっていた。


「……仕事しよ」






 ———人助けのための機械の設計図と戦術を、今日も少年は2Bの鉛筆で描いていく。


 それが、少しずつおのれの首を絞めていると気がつく事も無い。


 なぜなら、それが少年のだから。








※この作品はフィクションです。

犯罪行為または犯罪につながる行為を容認及び推奨するものではありません。

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