2-5 まさかのチン展開

 左手で真田の右腕を掴む。


 右脚をとられている状況で起死回生を狙うには、これしかない!

 照子は一旦、軽く身をかがめると、すぐさま左足が地を蹴った。

 軽くジャンプしながら蹴りを放つ。


 真田のひざ辺りを蹴ることができれば右脚を放されるだろう、という算段だ。

 しかし思ったよりも当たりが柔らかい。


 ん? と思った瞬間。


「……っ! ぐ、ぐぅおおぉぉぉっ」

 地の底から響くような不気味なうなり声が響いた。

 ぽいっと放りだされたかと思ったら浮遊感が照子を包む。


 え? と声をあげた照子は、刹那の後に後頭部に強い衝撃を覚えた。

 一瞬目の前がぱっと明るくなったかと思ったら急速に暗転してゆく。


(あれ? なんで? なにがあったの?)

 おぼろげな意識の中で照子はそんな問いかけを何度か繰り返していた。


 遠くでざわめきが聞こえる。これは観客の声か。

 その中で規則正しくカウントアップされる声も。


(なに数えてんだろ……)

 ぼんやりとそんなことを考えているうちに、男の声が一瞬はっきりと聞こえた。

「両者試合続行不可能により……」

 しかしその先は、意識とともにフェードアウトしていった。




「てりこねぇさまぁー。大丈夫ですかぁ?」

 女の子の甘ったるい、しかし心配そうな声に、照子の意識がはっきりとしてきた。


 ふと気がつけば、格闘大会の本部席近くに横たわっている。

 傍ではあやめが心配そうな顔をして自分を見下ろしていた。


「あやめちゃん。あ、あれ? ……試合は?」

 がばっと起き上がり、辺りを見回す。

 もうバトルフィールドは撤収されていて、そろそろ本部席も片付けようかという雰囲気になっている。


「WKOだよ」

 声をかけてきたのは真田だった。

「え? ダブル・ノックアウト?」

「あんたが綺麗に金的に入れてくれたもんだから、さすがにアレはきつかった。まさかそこを狙ってくるとは思わなかったよ」

「き、きんてきっ?」


 思わず照子は声高に叫び、わざわざ周りの注目を集めてしまった。スタッフから、くすくす笑いが起こる。

 照子は一気に真っ赤になって首を大きく左右に振った。


「狙ってなんかいませんっ!」

「まぁ、そりゃそうだ。ルール無用のデスマッチならともかく、普通の試合で金的攻撃は反則技だしな。今回は偶発的なものってことで判断されたみたいだからWKOになったに過ぎないし」


 そう言えばひざを狙うには少々高く跳んだかもしれない。

 しかしよりによって本当に急所蹴りを食らわせてしまったとは。


 たとえ男の急所に攻撃を加えても倒れなさそうな巨漢でも、やはりそこは本当の急所なのだという変な確信が頭をよぎったが、それは口にせず、代わりにわびを入れる。


「ご、ごめんなさい! かなり痛かったでしょう」

「あぁ、かなーりね。これからはいつでも安全に飛び入り参加できるように、ファウルカップを持ち歩くことにしよう」

 真田は冗談めかして笑ったが、照子はますます恐縮した。


「ちょっとぉ。てりこねぇさまをいじめないでよ。わざとじゃないんだし。第一、そんなところを蹴っちゃったなんて、ねぇさまの方が被害者よ。花も恥らう乙女が金的だなんて」

 あやめが腰に両手をあててふんぞりかえる。


 擁護してくれるのは嬉しいが、もうそれ以上急所蹴りをしてしまったことを改めて言わないでほしい。照子は苦笑した。


「花も恥らう、ね。勇ましいお姉さんでもやっぱり恥ずかしいものか」

「あったりまえじゃない! ねぇさまにはちゃんと彼氏さんもいるのに。他の男のきん――」

「あ、あやめちゃんっ。もういいよー」

 照子が止めなければ延々とその話題をひっぱられそうだ。手を振り回して話に割って入った。


「ま、試合はWKOになったし、勝敗はまだ決していないってことで、またやろうな、チャンプさん」

 真田はさわやかに笑って手を振ると、その場を離れかけた。

「あ、ちょっと待って!」

 照子が慌てて引き止めるのに真田は驚いた顔をして振り向く。


「真田さんって、野試合とかもするんですよね?」

「ああ、するけど」

「わたし、ある男を捜しているんです。ご存じだったらと思って」


 照子は、ずっと捜し求めている男、「あの男」の身体的特徴を真田に聞かせた。真田が知っているとすれば、早々に会えるかもしれない。そう思うと期待を込めて真田を見上げる。

 しかし真田はうーんと首をひねった後、申し訳なさそうにかぶりを振った。


「すまないが、そういうった男は見たことがないな」

「そうですか」


 照子はがっかりした。

 野試合の経験の多い真田でも知らないとなると、あの男はこの一帯にはいない可能性が高い。

 そう思うと、ずっとかかげてきた目標をかなえる可能性すら否定されたようで悲しくもある。


「そんなに強いのか? その男」

 照子の心境を知ってか知らずか、真田が興味深そうに尋ねてくる。

「はい。ただわたしが極めし者になったばかりの四年前の話なので、今はどうなってるか判りませんが」

「そうだなぁ。相手のあることだしな」


 照子のこの四年間の伸びが、あの男を越えている場合もあるし、逆にあの男の方が更に強くなっているかもしれない。それは会って、闘ってみないことには判らない。


「だからこそもう一度闘ってみたいの」

 照子が、ぐっと拳を握って熱弁すると、真田はふーんと感心したような声を漏らした。

「どんなヤツか興味があるな。よし、おれの方でもその男を捜すように手配してやるよ」

「えっ、いいんですか?」

「おう、任せておけ」

 真田はにぃっと笑って自分の胸をドンと叩いた。


 彼は雑誌の取材なども受けたことがあるので、記者などとも知り合いだ。きっとそのコネを利用して探してくれるに違いない。

 照子は満面の笑みを浮かべて「お願いします」と真田に頭を下げた。

 互いの携帯電話の番号を交換すると、真田は手を振って去っていく。


「よかったですね、てりこねぇさま」

「うん。これで何か手がかりがつかめればいいのに」


 真田に勝利を収めることはできなかったが、決定的な敗退でもなかったこと。そしてあの男の行方に関する情報が入るかもしれないという期待に、照子は胸を躍らせた。




 真田と対戦してから三日後の火曜日。

 仕事が終わり、帰り支度を済ませた照子の携帯電話が鳴った。

 着信音からして結ではないなと思いつつ、電話を取り出すと、ディスプレイには「真田さん」の文字が。


 もしかして、もうあの男に関する情報が手に入ったのだろうか。しかしあれからまだ三日だ。いくらなんでも早いだろうと首をひねりつつ照子は通話ボタンを押した。


「もしもし」

『チャンプさん? 真田だ』

「はい、他戸です。先日はありがとうございました」

『いやいやこちらこそ。それでだな、本題だが。例の件で渡したいものがあるんだよ。それほど時間は取らせないから、今から大丈夫か?』

「今からですか? ちょうど仕事場から帰るところなので大丈夫です」


 大学の構内の、できるだけ人のいないところへと移動しつつ、照子は胸が高まるのを覚える。

 例の件というのは、あの男に関することなのだろう。それがもうすぐ手に入るとなると当然だ。


 それにしても早い。

 探偵に頼んだって結果が出るまで最低でも一週間ぐらいかかるし、名前も居所もまったく判らない相手を必ずしも捜し当てられるわけではない。

 まさかガセではなかろうか、とちらりと心配もしたが、とにかくその渡したいものとやらを受け取ってみないことには判らない。


 職場に近い、まいかた公園の駐車場で待ち合わせることにして、電話を終えた照子は、飛ぶような勢いで駐輪場に向かった。

 ヘルメットをすっぽりとかぶり、エンジンをかける動作ももどかしいといわんばかりに鍵を取り出して鍵穴につっこむ。

 パネルか何かに触れるだけでエンジンがかかるシステムでもあればいいのに。いやそれよりも、有名な漫画の未来の道具よろしく、開けるとすぐに目的地に到着するドアがあればいいとさえ思うくらいに、照子の心はまいかた公園へ一直線だった。


 大学を出てから十分ほどで、まいかた公園の駐車場に到着する。

 真田さんはどこ? と照子は辺りを見回すが姿は見えない。


 日がすっかり落ち、所々にある外灯だけでは人を探すのに不向きだが、あの独特の気配がないので彼がいないことは確信できる。


「なによ。呼び出しておいてまだ?」

 思わずそんな理不尽なつぶやきがもれる。

 真田は照子に気を遣って、照子の職場の近くを指定してくれたのかもしれない、などという相手に好意的な思考は、今の照子には一切なかった。


 うろうろそわそわと腕を組んで歩き回る。


 ややあって、車のヘッドライトが近づいてくる。あれが真田さんの車? と照子は目を凝らした。

 少し離れたところに停まった黒い車から、ばかでかい男がにゅっと出てくる。間違いない、真田だ。今日はタンクトップの上に黒いジャケットを羽織っている。


「よぉ、チャンプさ――」

「遅い!」

 思わず照子が鋭い声で一喝したので真田はぎょっと驚いて立ち止まった。

「ひどいなぁ。これでも急いで来たんだぞ。遅くなったからって急所攻撃はしないでくれよ」

 またゆっくりと歩き出しながら真田が笑う。


 独身女性に対していささかデリカシーの欠けるジョークに、照子は恥ずかしさで真っ赤になった。しかしこの場合、真田の軽口が照子の怒りを鎮めるのには役立った。


「しっ、しませんよ、そんなことっ。……ごめんなさい。わたしの用事で来てくださったのに、つい」

 照子がわびると真田は豪快に笑って、ひらひらと手を振った。

「いい、いい。それだけ心待ちにしてたってことだろう」

 言いながら、振っていた手をジャケットの懐につっこむ。手を引き抜いた時には、茶封筒が握られていた。


「あんたの探す男のことを方々に調べてもらったんだけど、返ってきたのはこれだった。どうするかは、任せるよ」

 真田が封筒を差し出してくる。


 どうするか? と首をかしげながらも照子は封筒を受け取った。


 この中にあの男の情報があるのか。しかしそれを「どうするか」というはどういう意味だろう。

 様々な疑問が脳裏に去来する中、照子は封を切った。

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