ROUND2 あの男につながる道
2-1 諜報員とやくざ
忙しい。とにかく忙しい。
それがこの数日の、照子の生活であった。
予想していたとはいえ、やはり大学の年度初めは仕事が山積みだ。
三月の後半は、卒業していった学生達との別れの感傷が残る中、新入生を迎える準備が始まっていた。
四月に入って実際に新入生を迎えてから、授業が開講して落ち着くまでの二週間近くが事務員達がもっとも泣かされる時期。
通常の業務に加えて、学生課のカウンターに押し寄せる学生達の対応に追われる。
勝手の判らない新入生はまだしも、手続き書類に不備のある在学生にも煩わされる。もう大人の仲間入りをしているはずの者達が、再三の呼び出しにもなしのつぶてとは何事か、といつものことながら憤慨するのだ。
今日も、きっと百人は超える学生の相手をして、おまけに残業までした照子はへとへとになって大学構内を出た。
「さようならー」
照子を職員と知っている学生、数人が声をかけてくる。この時間までいるのは、二十時まで開いている図書館を利用していたか、クラブ活動に精を出していた者達だろう。
照子は疲れた表情をあわてて引っ込めて「さようなら、気をつけて帰ってね」と返した。
彼女が大学に勤めるきっかけとなったのは、卒業年次である四回生――関西では四年生と呼ばずこう呼ぶ――の冬に、教授に声をかけられたことだった。
中学教諭を目指していた照子は、就職浪人を覚悟の上で教員の採用試験に臨もうとしていた。
教授は照子に、職員の欠員がでて次の春から勤めてくれる学生を探しているのだと伝え、もしも事務職に就くことに抵抗がないなら、採用試験を受けてみるように勧めてくれた。
中学教諭にも未練はあったが、周りの勧めもあって照子は大学の採用試験を受けた。他三名の受験者を退け、無事に採用となったのだった。
照子は学生と接することが好きだ。手を焼かされることも多いが、彼らの笑顔が疲れを癒してくれる。事務職だが、教育関係に変わりないと、大学の採用試験を受けてよかったと思っている。
彼女の優しさと、時には叱咤する真剣さに、学生もまた応えてくれることが多いようだ。同僚が手を焼く問題児――もう二十歳前後なので、問題児と呼ぶのも問題だが――も、照子には従順だということもある。
同僚にそれを指摘され、照子は、それはわたしが極めし者だからじゃないのかな、などと思ったりもしたのだが。
照子が、職場の近くのまいかた公園でチャンピオンであることは、学生の間でも結構有名のようだ。大会の観客席に、時々大学で顔を合わせる学生が混じっていることもある。
まぁ理由はどうあれ、そのおかげで事務が円滑に処理できるなら言うことはないと照子は前向きに考えることにしている。
照子は家に帰って、自室の電話をチェックした。
インターネット用に設置した電話だが、ごく親しい人達にはこの電話番号も伝えてあるので、かかってくることもある。
今日も留守番電話にはメッセージはない。
照子はちょっぴりがっかりした。彼氏の結が連絡を寄越してこないかと、ほんの少しだけ期待していたのだ。もっとも、結ならばこちらの電話よりも携帯電話にかけてくる可能性が高いのだが。
母親と他愛のない話をしながらのんびり夕食を食べ、部屋に戻って電話をチェックすると、固定電話の方に一件のメッセージが入っていた。
きっと結だと喜んで再生すると、期待通りの声が聞こえてきた。
『こっちかなと思ったけど、食事中かな? 特に用事はないけど、今日は早く仕事が終わったからかけてみた。……それじゃ』
なんとも簡潔なメッセージだが、それでも照子は嬉しかった。ただ、結の声が疲れているように聞こえたのは録音のせいだけではないだろう。
メッセージを受けた時間は二十一時を回っている。これで早く仕事が終わったというなら、最近の結は連日それ以上に働いていることになるのだ。疲れていて当然だ。
声が聞きたいな、と照子は思い、同時に受話器を上げていた。
結の携帯にかけてみた。相手が応答するまで、なぜだかドキドキする。
付き合い始めてもうすぐ二年になるというのに、まだこんな心地よい緊張を覚えるとは、わたしもまだまだ乙女な面があるよね、と照子は愉快に思った。
そして今年で二十八になる自称乙女のドキドキが最高潮に達した時、相手が電話を取った。
『もしもし』
「もしもし、結?」
『あぁ、照子。折り返してくれたのか。わざわざごめん』
結の第一声は、やはり疲れていたが、照子の名を呼ぶ声は少し明るいトーンになった。もしも自分がかけたからだとすると嬉しい、と照子も笑みを浮かべる。
「前に聞いていた通り、忙しいみたいだね。大丈夫?」
『ん。大丈夫。そっちこそどうなんだ? 新学期はいつも大変だって言ってただろ』
「結に比べりゃどうってことないよ。ストレスも、週末に格闘大会に出て発散できるし」
『ストレスの発散ができるのはいいよな。おまえが元気そうで俺も嬉しいよ』
こんなやりとりがすごくあったかい。照子は幸せに浸った。
しかしその後に続いた結の一言で、別の意味で照子の心臓が跳ね上がる。
『そう言えば、先週の土曜日に大会に出た時に、乱入者がいた、ってサイトの日記に書いてたけど。何があったんだ?』
ぎくっと照子は硬直。
あぁそうだサイトにちょっとだけ書いたんだった、とため息をついた。
「桐生会」の男達が、あやめを連れ帰ろうとしていたことは、公園で照子と信司の勝負を見ていた人が目撃しているので、言及しない方が不自然かもしれないと書いたのだ。
しかし心配性なところのある結には、日曜日に夕食デートをした時にも、詳しいことは話していない。
暴力団と関わったとあっては、きっと結は眉根を寄せて「そんな危ないことにまで首をつっこむなよ」と言いそうだ。
いや、今言ったとしても電話だから彼の眉根が寄ったかどうかなんて判らないのだけれど。
「あー、大体サイトの日記に書いたとおりだよ。極めし者の男の子と勝負してる時に、ストーカーだって女の子が悲鳴をあげて、追っ払ったの」
『そうか。ストーカーだなんて物騒だな。おまえも気をつけろよ』
ほら来た、と照子は笑った。極めし者にストーカーするなんてどんな酔狂なヤツだ、と言うと結も、『まぁ、それもそうだな』と笑った。
「結は心配性なのよ。大丈夫だって」
『そりゃ自分の彼女の近くで事件めいたことがあったんだったら心配もするよ』
そこで結は一呼吸おいて、念を押してくる。
『本当に、それだけ、なんだよな?』
うわうわっ、つっこまないで、と照子は大焦り。
「もう、だーいじょーぶだってば」
それだけだった、と言えば嘘になるので、照子は返事を濁した。
『ん。判った』
結の声は、なぜかため息交じりだった。きっとおてんば――とはもう言えない歳だが――な彼女にあきれたのだろう。
そう言えば、あやめちゃんが結に会いたがっていたっけな、と照子は思い出した。
照子としては、会ってもらうのは別にかまわないが、あの時のことは話題には出さないでもらいたい。事前にあやめに言っておく必要がありそうだなと照子は考えていた。
☆ ☆ ☆ ☆
携帯を机において、結は思わずため息をついた。照子に聞きたいことを聞けなかった自嘲の吐息だ。
結は照子が、まいかた公園で桐生あやめという少女を助けたことも、その後に「川口組」という暴力団と関わったことも知っている。
今日電話をしたのは、その辺りの事情を、できるなら聞き出したかったから。
彼女を心配してというのももちろんそうだが、仕事として必要な情報だった。
彼女から聞き出せなかった以上、また変装をし、鈴木という偽名を名乗って、「桐生会」に行かねばならない。あやめから直接事情を聞くために。
翌日、結は会社に出勤して、上司の西村に経過を報告する。
「では、やはり桐生あやめから詳しいことを聞いて来てくれ」
予想通りの西村の命令に結はうなずいた。
「……やりにくいか? 自分の恋人が絡んでいる事件の担当は?」
西村が、少々からかうかのような口調で訪ねてきた。
「それは……」
結は思わず素直にうなずきそうになった。
はっ、ここではいと答えてどうするんだ、と結は苦笑をもらしてかぶりを振る。
「そんなことはありません。与えられた任務を遂行するのみです」
「それならいいのだがね」
にやっと笑う西村は、やはり結をからかっているようだ。
直属の上司がこのような茶目っ気のある人だとは思わなかった、と結は笑みを返して一礼してから、いつも極秘の仕事を言い付かる小会議室を後にした。
彼が勤める「IMワークス」は、日本最大手のSE派遣会社だ。しかしその一部では諜報活動が行われている。主に企業犯罪の摘発に暗躍するのだが、暴力団などの組織犯罪を極秘裏に捜査するよう警察から要請されることがある。
結は、諜報部に所属するエージェントだ。
夕方になって、結は準備をして桐生家に向かう。
できれば照子に直結する人物にも直接会いたくなかったのだが、と結はひそかにため息をついた。だが仕事に選り好みは許されない。
もしかするとこれからも照子に接する可能性のあるあやめには、正体を知られるわけにはいかない。
表情を引き締めて、青井結という個性を捨て、彼は桐生家の門をくぐった。
通された和室はとても広く、建てられてから経った時間を伝える古い柱や壁と比較的新しい家具の微妙なアンバランスさが、内心緊張する結の心を更に浮き立たせる。
落ち着け。いつものように冷静に、と結は何度も心の中でつぶやいた。
やがて、重い足音が近づいてきて、「桐生会」組長、総一郎が姿を見せる。後ろには若い衆が二人控えていた。
総一郎は机をはさんで結の真正面にどっかと腰を下ろし、軽く頭を下げる。
「鈴木さん、いつもご足労かけてすまんね。それで今日は、あやめに話を聞きたいと?」
総一郎はまだ四十にも達していないが貫禄がある。娘のあやめが「川口組」に狙われていると伝えた時にはさすがに焦燥していたが、事件が極秘裏に解決した今は余裕がうかがえる。少ししゃがれたバリトンの声が彼の印象を実年齢よりさらに引きあげている。
「はい。お嬢様に当日の詳しい状況をお聞かせいただければと、お伺いいたしました」
かつらと軽いメイク、つけぼくろで変装をし、「鈴木」として結は地声よりもややトーンを上げて話す。
「ああ、『川口組』をきっちりと抑えていただけるんなら協力は惜しみませんよ」
総一郎は若い衆に、あやめを連れて来るように言いつけた。
ややあって、高校生ほどに見える少女が連れられて来る。
確かこの子はまだ中学二年生になったばかりだな、と結はあやめを見ながら立ち上がった。
不安げに怯えているようにも見えるが、なかなかに気の強そうなところもありそうだ、というのが、あやめを初めて間近で見た結が抱く第一印象だった。
総一郎も立ち上がって、あやめと結、それぞれを紹介した。
「これが私の娘のあやめだ。あやめ、こちらは鈴木さんと言って、今回のおまえの誘拐事件を片付けてくださった人だよ」
頭一つ分ほど下に視線を向け、あやめと目を合わせて結は目礼した。
怯えの裏返しなのか、まるで睨みつけるかのように見上げてくるあやめの視線を受け止めて、結は、なんとなくこれからこの子には苦労させられるかもしれないと、不吉な予感を抱いたのだった。
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