第9話

 喜悦を隠せぬ、幼さな声。

 完爾と嗤うはリュドミラ・フョードロヴナ。

「実に愉快だ、セルゲイ君」


 歓呼の声を聞きながら、進んでくるは幼女様。

 広場には、未だ硝煙の匂いが立ち込める。物言わぬ死体と血みどろの負傷者。手当てに走るは戦友たち。苦痛に呻く大合唱。それは戦の宴の成れの果て。

 戦場清掃の悲惨を眺めつつ、リュドミラは喜色満面と言った有り様だ。


 まったく、地獄から休暇を貰って遊びに来たのか、お前さん。

 呆れ果てるにも馴れがくる。

 初陣も初陣。戦場を見るどころか、外に出るのすら、この姫君様は初めてのはずなのだ。だというのに、相も変わらずその精神は、爺さんの理解を超えている。


 帝国創建二百年。皇帝の娘たちが宮城は『奥の院』で一生を終えるのは、つと有名な伝統だ。

 もとより女性の社会進出など気狂い沙汰なこの時代。おまけにこの国では、皇女となれば結婚すらも難しい。

 皇帝の奴隷たる臣下に嫁ぐことは、権威上から御法度とされ、然りとて異端の教えを奉じる外国に嫁ぐことも許されず、神への祈りと刺繍仕事を伴侶とする隠遁生活が関の山。


 目の前の小柄な幼女も、ご多分に漏れず、そんな生涯を送るはずだったし、送ってきたと聞いている。

 それがどうして、こんな化け物を生み出したのやら。

 爺なら絶対、そんな天国から頼まれたって出て行きはしないのに。


「損耗は如何ほどか?」

「嚮導隊は死者一名、負傷三名であります」

 死んだのは、ケレンスキー伍長だった。頭を砕かれ即死。これでまた、隊の平均年齢が上がってしまう。若い奴を今の内に大量採用しないと、本当に技能伝承できずに終わってしまうぞ、この組織。いや、既に皆、退職通知を受け取っているのだから、終わりでよいのか。


「運のない奴だな。これから楽しくなってくると云うに」

 

 いやはや、まったくその通りって、一寸待て。


「これから、ですか。殿下?」

 セルゲイは思わず尋ね返した。社畜らしくなかったと直ぐさま後悔したが、それだけ狼狽えたのだから仕方がない。


 何故ならば、これから軍人不要の、政治の季節が始まるのだ。


 親衛隊の叛乱が、皇位継承権を巡る諍いの一局面に過ぎないことは、帝都下町の浮浪児にだって分かる。

 簡単に言ってしまえば、この目の前の幼女様には異母兄が二人いる。子供のすべての母が異なるのだから、万事が事なかれのフョードル帝らしくもなく、罪なことをする。

 あるいは、どの派閥とも事を構えたくなかったからこその、振る舞いだったのかもしれない。しかし、だとするならば、それは見当違いの気遣いであったと言うべきか。


 皇子二人の名はイヴァンとピョートル。

 共に十二歳だがイヴァンが兄。これだけでも争いの種だと言うのに、しかも母親は属する派閥が異なった。

 

 そもそも帝国には厳然とした階級があった。

 すなわち、帝国成立以前からの歴史と伝統を誇り、地方に割拠する世襲領貴族。

 起源は同じなれど皇帝の側近くに仕えて、その報償として世襲領に加えて知行地を与えられている宮廷貴族。

 知行地のみに頼るは士族と呼ばれ、帝国官吏として元老院に入る資格を持つ宮廷士族と、それ以外の侍従士族、従軍義務を主に担う中央と地方の士族や小士族がいる。

 今では事実上世襲化してしまったが、親衛隊士の如き特権兵士は、血統に根ざさぬ仕官者身分と称され、各々が属する組織と上位者に従う。


 皇帝専制を目指した先帝の下では宮廷貴族と宮廷士族が権力を振るい、今上陛下の御代にあっては、帝国中枢で官職争いを繰り返して分裂した彼らを後目に、世襲領貴族の門閥諸派が絶賛巻き返し中。


 そんな中で、イヴァンは宮廷貴族の末席シャヒロフ家の后から生まれ、ピョートルは世襲領貴族ゴドノフ家の副妃から生まれたのだから、諍いが起きることは自然な成り行きだった。

 とはいえ、下馬評ではピョートル優位。シャヒロフ家は宮廷貴族といっても末席であり、成り上がりとして嫌われている一方で、ピョートルは世襲領貴族筆頭ゴドノフ公爵家の後押しを受けている。

 唯一、イヴァンが勝っている点といえば、父からの寵愛と嫡子たる立場のみ。


 かくて、世襲領貴族の中央における丁稚に身をやつした親衛隊が、民意を示すために立ち上がり、ピョートル即位へ直走ると相成った。


 だから本来、そこに幼く、しかも女のリュドミラが入る余地はなかった。

 元より生母の家柄たる宮廷貴族ヴァランスキー家は、十三年戦争で総領家の相続人が悉く戦死してしまい、かつての権勢見る影もない。つまるところ、リュドミラは元より宮中にあっては、この世に存在しないも同じ。


 けれど、目の前の幼い少女は、何もかもをひっくり返した。見事である。見事であるが、ここが限度だ。限界だ。基盤もなく、独自派閥を立ち上げるなど、無謀を通り越して自殺である。

 しかも簡単な答が目の前にある。イヴァンをさっさと皇帝に仕立てて、叛乱の根拠をなくしてやればいい。ゴドノフ家と言えども、長々と内戦をするだけの気概はないだろう。


 例えその気概があったとしても、そもそも、ゴドノフ家が力を持ちすぎることもまた、貴族どもが厭うところである。世襲領貴族に限ったとしても、勝利が見えているからこそ、逆に今度は追い落としの絶好機。

 おまけに、むしろイヴァンが無能であるならば、逆に皇帝に相応しいと思う連中も沢山いる。


 極めつけは、叛乱を阻止したのが、後ろ盾がまったくいない皇女ということ。皆が得する甘い汁を感じ取り、喜び勇んで集結する阿呆は溢れんばかりにいるはずだ。


 なのに幼女は自信満々に言い放つ。


「そうだ。セルゲイ君。舞台の幕は上がったばかり。これにて終わりとは実に斬新な演出だ。まさか、日和った貴族どもの仲裁を仰いで、連中に身を委ねるつもりか? 冗談ではない」


 単なる政変で終わらせてなるものかと、その目が語る。

 政治の季節よ帰ってこい。


「そうは申せど、殿下。陛下はご不予と聞いております。どのみち両兄君のどちらか、あるいは両方を即位させねばなりません」


 どうして下っ端がこんな雲の上の出来事に?

 尽きぬ疑問がグルグル回る。それでも隠居のためならエンヤコラ。目上に逆らう恐ろしさがこみ上げて、なお言葉を紡いだ儂はえらい。

「恩は高く売るべきですが、売り時を間違えてはと」

 社畜にしては頑張った。誰か褒めてくれ。


「父上は死なぬ。奥の院で静養中だ」

 けれど幼女は悪魔も裸足で逃げ出す顔をした。

 それはあたかも謳うよう。「分かるであろ? 決して死なぬのだ」


 神聖にして皇帝に許可されたものしか立ち入れない奥の院。なるほど、道理でこの幼女が近衛の指揮を任されるわけである。正気じゃない。正気を疑ってきていたが、まさか本当に正気じゃないとは思わなかった。


「だから父上の名代として、逆賊どもを討ち滅ぼさねばならん」

 残念なことだと、まったく残念ではない朗らかな顔でリュドミラは宣った。


「しかし、女官に裏切られることも」

 狂気にあてられ喘ぐように言うのが精一杯。


「心配無用。父上はもう看護する必要がないお身体だ」


 死人に口なし。この頭のおかしい幼女が生きていると言えば、生きているのだ。少なくとも彼女がそれを失うまでは。

 

 まさしく力である。誠に力である。

 世界の真実、信奉するべき唯一の戒律。其は力。


 手にしたのは一生を宮城の中で過ごすはずだった皇帝の娘。取るに足らぬと等閑にされた。陰謀家どもの視界にすら入らない。しかし今まさに、中心に立つ。


「どうなさるおつもりで?」

「どうもこうもない。だが知りたいとは嬉しいね、貴様は軍を辞めたいのだろ?」

 そうですと言い掛けて、途方もない罠にはまったような気がした。

「何のことでしょうか、殿下」

 辛うじて素知らぬ顔を作れたのは上出来だった。もっとも、まるで無意味であったが。


「知らんだろうから教えてやる。奥の院からはな、近衛の練兵場が良く見えるのだ」

 してやったりと幼女様は得意顔。世を忍び、人を偽る。平穏な生活は何処にあるや?

 

「選べ、セルゲイ・アレクセーエヴィチ。私はいっこうに構わんぞ。連中の恨みは深そうだしな。きっと、銃殺隊の前に立つくらいには愉快なことになるだろう」


 もはや同じ蓮の上。進むも退くも、儘ならぬ。

 集められていく死体を眺めて、リュドミラは楽しげだった。


「なぁセルゲイ君。まったく素晴らしい。素晴らしい光景じゃないか。いずれは帝国全土、大陸すべて、全世界に、この景色を広げてやろうぞ」


 洒落にならない。


********

コメンタリー


 手当て:最初は軍楽隊にしていましたが、止めました。明確な資料を持っていませんが、戦列歩兵時代の軍楽隊員は、途中までは契約している民間人であり、負傷者の介抱というもう一つの任務を担うようになったのは、19世紀も半ば以降のはず。

 ナポレオン戦争小説シャープ・シリーズでは楽隊員が担架兵の役割を果たしているけど、ナポレオン戦争の記録などを見ると、数時間、下手すると朝が来るまで負傷者が戦場に放置されて呻き声が響き続けるという悲惨なことが起きており、たいていの場合、自分で這っていくか、戦友に助けてもらうかの二択。軍楽隊員が活躍した記録は、ナポレオン戦争期では見たことがない。

 ナポレオンの軍医長ラレイが戦場救急車を導入したことが有名ですが、数が少なすぎて全く足りなかったとも。


 奥の院:モデルは18世紀以前のロシアはグレムリンにあったテレム宮殿の最上階。モスクワのツァーリの姉妹や娘はここに部屋が与えられて、嫁ぐことも許されずに外の世界と触れることなく、事実上の隠遁の中で生涯を過ごしました。

 暇で暇で仕方がなかったのでしょう。ピョートル大帝の姉ソフィアは、トロワイヤが描く所によると、太っていて醜く、二十七歳なのに四十歳に見えるくらい老けていたと。酷い書きようだ。もっとも単なる悪意のプロパガンダとも言われてます。


 頭を砕かれ:マスケット銃の威力については誤解があるようで、現代の小銃と比べるとダメダメというもの。実際は鉛のムク弾は無茶苦茶こわいし弾丸重量も半端ない。近距離なら間違いなく死ねる。

 当時の表現に従えば、突進してくる野牛も一撃で倒れるストッピング・パワー。


 政治の季節:皇位継承争いのモデルは、ピョートル大帝の即位を巡る一六八二年のナルイシキン家とミロスラフスキー家の争い。前述のソフィアがこれにより台頭して事実上、ロマノフ王朝最初の女性君主になった。

 このソフィアという人物がリュドミラの精神的モデルなんだけど、イリヤ・レーピンが一九世紀に描いた「ノヴォデヴィチ女子修道院のソフィア」という肖像画が悪意に満ち満ちていてスゴい。窓の外見てみるとゾッとするようなホラーです。何かが垂れ下がってます。

 実際のソフィアは、当時の肖像画をみる限り理知的で可愛らしい感じなので、男を押し退けて摂政に就いて進歩的な統治を行った彼女が、よほど男どもの感に障ったのでしょう。

 勝てば官軍、負ければ賊軍、古今東西、変わることなし。


 皇子二人:史実の一六八二年の政争では、異例の二人のツァーリ体制が敷かれました。ソフィアが失脚してもなお続き、最終的にピョートルの兄イヴァンが死亡して、ようやく、異例の体制に終止符が打たれ、大帝の時代が始まりました。


 銃殺:堂々たる銃殺と言えばネイ元帥が有名だけど、その陰でナポリ王ミュラも堂々たる態度で銃殺されているのだけど、どうしても陰が薄いよね。そう言えばアンギャン公事件なんかは冤罪で可哀想だけど、やっぱりあんまし有名じゃないね。

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