第7話
本来ならば、もう最前列で撃ち合う必要のない立場なのだ、下士官というものは。
すっかり馴染んだマスケット銃を左肩に預けて、セルゲイは隊列から三歩前に出る。
たとえば、何故か妙に熱のこもった気持ち悪い視線を注いでくる、聖堂百人隊の特務下士官を横目で見れば、それは明らかだ。
部隊の斜め後ろに立って、その手には隊列を整えるための矛が握られている。
そう、矛である。時代遅れと言う無かれ、これぞ下士官を下士官たらしめる武具なのだ。
それは戦列の間隔を測定するための定規であり、後ずさりする兵士にそれを許さぬ檻であり、勝手に戦列を離れようとする脱走兵を殺す処刑道具。
銃兵隊ならば、兵卒が構えた狙い外れのマスケット銃を叩いて、その水平を直す照準器ですらある。
加えて未だに帝国軍には階級章なるものがない。兵卒と同じ格好では誰が偉いのかも分からない。
下士官の軍服に使われる布地は少しばかり良質だが、戦塵にまみれれば違いなどないも同じ。だから階級章のような役割も、この矛にはある。
要するにそろって病に倒れた将校どもが軍の頭脳ならば、下士官は伝達経路の神経で、銃を撃つは仕事の外。
腕を動かせと命じられたならば、我らは指示を伝えて筋肉を制御する。実際の腕にあたるのは兵卒だ。
こうして長槍を構える奴、銃を撃つ奴には小難しいことを考えさせない。決まりきったルーチンを繰り返させて、目指す所はチャップリンのモダン・タイムス。
そんな諸々を、あの古くさい長柄武器は示す。
けれど、どうしてか嚮導隊だけは異なった。
何故か?
セルゲイはひとり隊列正面を横切るや、回れ右して中央に立つ。恥ずかしいほどに気取った動きを見せながら、偉そうにするのも役目のうち。肩幅に足を開いて、連中を見据える。
答は簡単。
やつらがマッドだからだ。
「暇で死にそうでしたよ」
戦列の方々から声が挙がる。部下四十七名はみな下士官。本来の役目を放棄して、未だに殺しにこだわる禄でなし。
そんな連中には矛よりもマスケット銃が相応しい。
誰に言われなくとも戦列は完璧に維持され、装填も射撃も指導する必要は皆無。息をするように引き金を引いて、罪悪感など母親の胎内に置き忘れてきたのだろう。
将校すらも端から不要なのだ。やるべきことは承知しており、後は切っ掛けを与えてくれるのを待つばかり。ある意味、完成された人間なのかもしれないが、こんな完成だけは御免だとセルゲイは、いつもの感想を胸に抱く。
「さて。待ちくたびれた事と思う」
だからセルゲイが口を開けばたちまち沈黙、傾注の構え。
緩める所は緩め、締める所は締める。まったく大したものだ。褒めて遣わすから指揮官将校の役割も誰か代わってくれたまえ。
「シャヒロフ特務曹長、状況報告せよ」
「総員五十名、現在員四十七名。旗持ち見習士官及び隊付き鼓手二名、欠。装具良好。各銃、装填済みであります」
報告するは、大男。
豊かな口ひげに三白眼、頬を縦に走るは刃傷。前の世界ならお近づきに絶対なりたくない、ヤの付く渡世の危ない親爺。そんな連中ばかりが右に倣えとばかりに、担え銃の構えで直立不動。
ほんとに世の中、間違いだらけ。しがない社畜に示される、それは絶対の服従だ。普通の奴ならビビる、躊躇う、何かが漏れる。
けれど慣れというのは恐ろしい。セルゲイは、四の五の言わず思わず頷いた。ぐるり見渡せば鮮やかな緑色の戦列が目に映える。
帝国の色は緑と赤。緑が上衣、短袴が赤い。頭上に戴く三角帽は黒毛氈。三方に上向く鍔は見事な張り具合。粘土が塗られた肩帯と脚絆の白には一つの染みとてない。
軍装は馬鹿馬鹿しいまでに華美であり、不要に長い裾など切り捨ててしまえと、その昔に毒づいたのも宜なるか。
甲斐あってセルゲイは、首を締め付けることで顎を上向かせて姿勢を良くする、効果明瞭にして意味不明な黒く堅い革製の衿飾りを近衛から廃止させていたが、他はどうにもならなかった。
要するに、これがこの世界の文化なのだ。生存のためには、あらゆる非合理を切り捨てねばならぬのに、こいつらときたら粋で派手な装いを決して止めたりはしないのだ。
無論のこと、硝煙立ち込める戦場で、敵味方を識別するに役立つことを認めるのは吝かではないし、心理的効果も理解できる。
それは、路傍に屍を晒す運命から眼をそらさせ、阿呆で純朴な青少年を騙くらかして入隊させる効果。敵を威嚇して己が強さを見せつける効果。自分を一角の存在だと錯覚させる効果。
どれもこれも、最低な詐欺行為だが、理解してやる。理解してやるから、違うところでやって欲しい。識別効果だって、どのみち皆が似たように派手ならば、動きやすさまでを犠牲にしてはならんだろう。
もっとも本来ならば、どんなに気を使っても、こんな舞踏会に赴くような格好は長く維持できないはずだった。戦役行軍の風雨や泥が布地の色味を損ね、帽子は草臥れ萎れてしまうから。
だが今日だけは異なった。
引退に備えて念には念を入れ、しかも戦役行軍を経ていない軍装は、極彩色の合戦絵巻もかくやと言うべきか。褒めるべきか、呆れるべきか。虚仮威しにも程があろうよ、糞ったれ。
もちろん近衛本営から分派されていた楽士たちは離隊済みで、貴族の餓鬼が掴んで放さなかった中隊旗も取り上げられたままなので、戦列は完璧とは言い難い。
鼓笛の音も高らかに、足並み揃えた隊列が、旌旗翩風、翻させて、そは古今無双の勇者たちとはいかぬもの。
特に戦う前に隊旗を奪い去られたのは痛かった。
こればかりは、敵をして妙手であったろう。軍旗とは、単なる象徴ではなかった。兵士と軍とを結ぶ最も太い紐帯を示し、存在そのものが戦う意味となる。
百人隊や民兵が及び腰だったのも、数の差ばかりが故ではない。顔の見えない朧気な何かではなく、兵士は目に見える何かのために戦う。
かつてセルゲイは、祖国も君主も知らないと、明日の生存のためだけに生きると公言して憚らなかった粗暴な男が、この旗を守るために命を投げ出したのを見たことがあった。
以来、華美な軍装に並んで前時代の象徴ですらある無駄に大きい代物を、現代的合理性を信奉する爺は無視できない。
つまるところ、軍旗とは名誉の形なのだ。だから永遠なのだ。そして旗を守ることは、永遠を生きることに他ならぬ。
ましてや、前時代の文化を疑いもしない連中である。その喪失は計り知れない意味を持つ。威圧すれば良いと親衛隊を操る誰かが考えたのも当然だ。
守るべきものもなく、戦う理由もない。どうして、そんな奴らが障害になり得よう?
しかし、ここであの幼女がご登場。とち狂った戦争好きが、卓袱台ひっくり返して、すべてをご破算にした。肩に乗せろと言われた時、あの殿下は、実に自覚的に味方の不備を補った。
まったく言葉もないとはこのことだ。
こうしてセルゲイの進退は定まった。抗うことが難しい大きな流れに対し、そもそも社畜は抗うことを知らないのだから、成し得ることは何もない。
「見ての通りの素敵な成り行きである。しかしやる事は変わらない」
セルゲイは口を開いた。眺めてしまえば何奴も此奴も、何と楽しげな顔だろう。
「これより攻撃前進を行う。目標、敵中央、長槍隊。常歩行進。敵間距離十ヤードで一斉射。諸君、二つ玉を込めたまえ」
即座にシャヒロフの声が響く。「総員、弾丸込めぇ!」
次の瞬間、寸分の狂いなく誰もが同時に動いてみせる。
銃を左に保持して、右手の出番。腰をまさぐり革製弾薬盒から取り出したるは、湿気を防ぎつつ弾丸と火薬を一纏めにした優れもの。薬包と呼ばれるそれは、油脂を塗った紙製薬莢。
迷うことなく口元に運ぶと尾部を前歯で噛み切って、球形鉛弾を頬張ります。
普通の装填ならば、ここで燧石を挟んだ撃発装置を半刻み分だけ引き上げる。それから火蓋を開いて薬包から火皿へ火薬を少量注ぐが、ここでは不要。
何故なら既に初弾装填済みだから。故に銃口から残りの火薬を注ぐことすら必要ない。
端が開いた薬包を逆さにすると粗い黒色火薬を地に落とし、吐き出した弾丸だけを千切った薬包の紙でしっかり巻く。
直径〇.七一インチの球形弾。銃口径は十一番で〇.七六インチ。つまりは〇.〇五インチの隙間を埋めるため。
そうして弾丸を銃口に入れる。二つ玉とはつまるところ、簡単な散弾に他ならない。
銃床から木製の槊杖を三動作で引き抜くと、クルリ回して銃口に差し込み、弾丸を手慣れた力で突き入れる。
重要なのは奥まで押し込み、それでいて突き固めすぎないこと。
もしも火薬と弾丸の間が広すぎれば、火薬は過剰に燃焼。銃腔内圧が高まり、果ては銃身破裂を引き起こす。逆に強く突き固めすぎれば火薬の燃焼空間が失われ、その威力は真っ逆様。
つまりは、弾丸装填一つ取っても、どうしようもないほど扱い難いのが前装式の特徴だ。
しかも既に一発目の弾丸が、腔内奥で薬包紙に押さえられ、火薬とともに突き固められているのだから、二発目装填は更にご用心。
けれどセルゲイは何の心配もしていない。
綺麗に清掃済みの銃腔に、落ち着いた状況での初弾装填。玉薬の量はキッカリ弾丸重量の三分の二。不確実性を可能なまでに削ぎ落とし、最後は匠の技で仕上げてみせる。これぞ戦列歩兵の道である。
だから気軽に槊杖を銃腔から引き抜いて、再び銃床へ納めてしまえば装填完了。すべてが終り、再び左の肩に担え銃。
お薦めなのは、ここで着剣。つまりは筒先に短い剣を取り付ける提案だ。ただし残念ながら帝国軍には銃剣がない。いや、あるにはあるが、銃口にそのまま短剣の柄を差し込む旧式で、当然の事ながら、付けてしまえば射撃ができない。
着装時も射撃ができる類の、銃口脇に取り付ける銃剣を、映画の記憶をたどって作りはしたが所詮は素人の浅知恵。未だ固定に難があり、実戦使用は憚られる。
故に続いてセルゲイは、
「撃ち方用意」と号令を下す。白兵戦は腰に吊した直剣があるがため。
こうして誰もが流れる所作で、銃を両手で保持し垂直に立てる。
位置は身体の正面。捧げ銃に似た構え。けれど右手は胸前、指は用心金にかけられる。全刻み分が引き上げられた撃発装置は丁度、首下あたり。
これぞ、床尾を右肩に当てれば即座に射撃ができる、殺意の構え。
皆さん揃いも揃って時計の如き正確さ。満足しては一人寂しく回れ右。殺し屋どもを背にして前を向く。
肩を並べる友もなく、気分は狼の群に差し出された一頭の羊。
「中隊総員」
声を張り上げ思うのだけど、一人三役、指揮官、先任下士官、単なる兵卒、すべてこなして給与は一役分とは、これ如何に?
そして敵を眺めてご発声。これより乾杯にございます。
「前ぇ進め!」
********
コメンタリー
矛:当時は現代的な階級章がまだ未発達。ただ階級の違いを識別させようという試みはなされていました。下士官や将校が保有した長柄武器もその一環。ハーフ・パイク、ハルバード、スポントゥーン、クルツゲヴェーア、パルチザンなどが知られています。本作では簡略して下士官が保有した種類の長柄を矛、将校級のものを手鑓としてます。
実戦における有用性は限定的でしたが突撃してきた騎兵を矛でたたき落とした豪傑下士官の逸話も残っていて、いつの時代も三国志並みの無双キャラはいるようです。
ちなみに、武具以外の階級識別では軍服の装飾の差や首から下げる喉甲の一種である三日月章などがあるけど、服務規程に詳しくないと絶対に見分けがつかないと思うんだよね。
チャップリンのモダン・タイムス:実際にこれをやらかしたのは、イエナ会戦のプロイセン軍。味方がバカスカやられる中で、機械的に装填と射撃を永遠と繰り返したと馬鹿にされている。クレフェルト曰わく、魂のない機械。しかし、自制の戦闘カルチャーとして高く評価する向きもあるし、要するに使いどころを間違えるなということだろう。
口ひげ:当時の熟練兵や下士官は基本的に皆、髭親爺。
帝国の色は緑と赤:これはロシアの配色を元にしてます。ここでは脚絆を使わせていますがピョートル期は余り脚絆は使われていなかったようで、そのまま長靴下が見えていた。
なお脚絆の白は夏季仕様。冬は黒くなります。脚絆の下には長靴下を穿いていて、これは白色。冬季の脚絆は僅かに長靴下よりも短いので、ほんの少し白い色が見える。
白色をパイプクレイと呼ばれる粘土で白色をより白くしていたのは事実だけど、ロシア軍がやっていたのかは知らない。少なくとも西欧諸国では実施。正しく無意味の極地。まぁこれが粋というものでしょう。なお本物のロシア軍の肩帯は白色ではない。
黒く堅い革製の衿飾り:ストックタイと呼ばれている悪名高いあれです。陸のホーンブロワーことシャープがサウスエセックスの新兵どもを使ってズタズタに撃ち抜いて、費用請求されたけど上手いこと処理してしまったことでも有名?
裾を切り捨てろ:当時の軍服はいわゆる一般で流行している優雅な民生用の正装を模して作られて、任務に適するか否かという事は問題視されなかった。これに一石を投じたのがオーストリアの肝っ玉母ちゃんこと、マリア・テレジア女帝。一七六七年式軍服は機能的軍服の先鞭となった。女性君主ならではの視点における改革で、そこに痺れる、憧れる!
三角帽:「野外で2晩を越せばいつも形が崩れ、最初の戦役が終わった際には、まったく使い物にならなくなってしまう」らしい。なので普段は略帽を被って、大事な時にだけ着用していたそうな。なので三角帽被って、敵地を行軍というのはあんまし現実的な絵柄じゃない。
鼓笛:一般に誤解されてるけど、突撃ラッパは戦列歩兵時代の歩兵には適用されません。起床ラッパもなくて、起床太鼓なんだよね。
軍旗:これはもう男の子の病気ですね。旗取り合戦。古代から連綿と続く馬鹿ばっか。
常歩行進:一分間に七十五歩から八十五歩くらいが、諸国で採用された。十八世紀中の実戦ではよく用いられたけど、ノンビリしすぎているというので、ナポレオン戦争のころには百歩から百二十歩くらいの速歩が使われた。ただ問題視するべきは歩数ではなく、行進速度で、たとえばナポレオン戦争期のロシア軍が実施した歩幅の大きい常歩行進は他に比べて行進速度が早かったりとか。さて、今回はどうして常歩なんでしょうかね。次話にて効果説明したいでありんす。
二つ玉:作中にあるように弾丸二発を一遍にぶっ放します。信長を狙撃したときにも使われたとか。ヨーロッパでも古くから使用例があるけど、有効性については時と場合による。ウルフ将軍は縦隊攻撃に対する横隊は、距離二十ヤードまで待って、よく狙いを付け、二つ玉による射撃をすべしと述べている。
実際にケベックの戦いでは、そうしてフランス軍の攻撃前進を粉砕した。密集隊形に対する有効性は至近距離ならばコンバット・プルーフ済みと言ったところ。
装填動作:ここでは操典通りを説明。実際には射撃速度の向上のために槊杖を使わなかったり、火皿への火薬入れを、銃身への火薬を注ぎ入れた後にして、動きを簡略化したりすることが頻繁に行われた。なお、火皿へ火薬を先に入れるのは、入れ忘れの防止と、その後の動作の中で銃の左側を下にすることで、火薬がしっかりと火皿と銃腔内を繋ぐ火門を満たすようにして不発を防ぐことにある。
口径:当時は番号表記で、十一番というのは重量十一分の一ポンドの鉛玉の直径に等しいということ。直径〇.七一インチの鉛玉は十四番。
槊杖:弾丸込め用の棒。込め矢とも言う。まだ木製ね。もう少ししたら鉄になります。
不発:装填時にありがちなミスに、紙薬莢の紙が火門を塞いでしまい、燃焼が伝わらないというのもある。
銃剣:プラグ式銃剣はありますが、まだリング式およびソケット式は実用化されていません。近世ヨーロッパでも初期のソケット式銃剣は着装が甘くて直ぐとれてしまうという不具合があったようです。まぁ本作でも直ぐに改善される予定。
史実におけるソケット式銃剣の生みの親は、イギリスのマッケイ将軍かフランスのヴォーバン元帥と言われている。そして当然、どっちの国も譲らない。予想を裏切らぬ両国に草はえる。
殺意の構え:リカバー・ポジションと言う奴です。ブラントの教本に載っている前進の構えですが、ブラント自身はおすすめしていません。理由は、撃鉄あげた状態で、引き金に指をかけた姿勢で前進させたら、普通の兵士は直ぐに耐えられなくなって、命令なしに勝手に射撃をしてしまうから。
まぁ中々、射撃をして楽になりたいという誘惑には勝てませんね。ということなので、実際には担え銃の姿勢で前進する場合が多かったようです。ひどい場合は装填させない状態で前進することも。一般指揮官諸君にあたっては、少なくとも撃鉄は上げさせないように。
中隊総員:なおプロイセン軍教本によると、隊形正面に立った指揮官による「大隊総員」の号令はいかなる場合も前進のために使われる予備号令なのだとか。本作ではそこまで厳密にやるつもりはありません。
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