第5話

 セルゲイ。

 不抜のセルゲイ。奴を知らぬとなれば、モグリか騙り。少なくとも帝国兵士のはずがない。近衛聖堂百人隊、先任下士官ボリス・イワノフ特務曹長は、半ば呆れて彼を見る。


 なるほど、それは伝説だ。三十年以上前から始まり、終わることなくまだ続く。

 嘘か誠か、彼の戦列、未だかつて抜かれことはなく、彼の人、戦後においては小銃射撃戦術に革命をもたらした。かつては鼻で笑った出鱈目な逸話の数々が、しかし殆ど真実なのだと、既に知るが故。


 だから、ボリスは己を嗤う。お前がいなけりゃ逃げ出せた。兵の練度に大差なく、敵の数はおよそ倍。

 しかも正面から殴り合うと告げられてしまえば、もちろん負ける。決まってる。なのに、どうしてここにいる? 見渡せば、当初の動揺は収まり、部下一同、隣を見れば皇堂百人隊も民兵どもも同じ様。


 ああ、そうだ。何奴も此奴も物見高いのだ。

 何でもないと笑みすら浮かべる彼奴を視界に捉えていれば、死への恐怖も何のその。新たな伝説を目撃したい、叶うならば加わりたいと、つまりはそう言う訳らしい。


 そうして何時か何処かで自慢げに。

 女、子供を前にして。

『俺はあの日、青の広場にいたんだぞ』

 かく宣いて、酒を飲む。きっとそれは旨かろう。


「分かるか、貴様等」

 それは、無上の栄光。この先に待つもの。

 前進、吶喊、突破。言葉にすれば簡単だ。けれど言うに及ばず、実際それは難しい。倍する敵の一斉射撃。降りしきる弾雨の中を突き進む。だが、奴ならばやってのけると思えてしまう。


 何故なら決して長身とは言えぬのに、未だ人目を引く立ち姿。

 背筋を伸ばして身じろぎもしない。

 むろん、確かに老いている。誰より長い戦陣生活。痩せぎすの身体は、枯れた一本の樹木を思わせる。日差しと風雨に曝されて、鷲鼻の目立つ面差しには、年相応以上の深い皺。

 頬から顔下半分を覆う髭は、見まがう事なき白い色。故にその風貌は七〇を越えると言われても納得がいく代物だ。


 しかしそれでも単純に『老いた』と言うは能わない。痩せぎすと言えど、ひき緊まった筋骨には無駄一つとてない。潜った修羅場を思わせる深い皺と豊かな白い髭は、むしろ、かつて怜悧な刃に思えた風貌を、静謐の域にまで高めたと言うべきか。


 だから、やはりあれについて行けば間違いない。約束された未来が待っている。

 案山子と揶揄され、背が高いからと近衛にされた、我らが手にする初の名誉。武勲赫々たる連中すらも真似できぬ。


 まったく、本当にどうしてくれようか。理性は正しく逃げろと叫ぶ。けれど沸き上がる。

 その意気の声は止められない。兵が続いて鯨波となる。次第に唱和し、五百が上げる鬨の声。

 こうなってしまえば、論理ではないのだ。しかし、まだ足りない。命を賭けるに足る理由。

 

 そのとき奴がこちらを向いた。手を差し伸べて、傍らに立つ子供を担いで上げる。そこにあるのは幼い少女。健気にも粗末な軍服に身を包み、肩口で短く断った金髪は決意を示す。


 皇女リュドミラ。リュドミラ・フョードロヴナ・エル・ヴァランシュカ。十三年戦争で藩塀たるを示して滅びたヴァランスキー家の姫が産んだ一粒種。加えて齢わずか十とは思えぬ落ち着きが、ボリスの胸を打つ。それは戦う意味を向ける先。

 

 幼女はセルゲイの右肩上で器用に立つと、麾下全兵を見渡した。

「見よ。兵士たち。聖ゲオルギーが尖塔の上を白鳩が飛ぶ」

 不思議と通る幼い声だ。

 まるで物語の一場面。見上げてみれば、聖堂が鐘楼に羽を休める神の御使い、白き鳩。聖ゲオルギーは竜を打ち取りし護国の英雄。つまりは近衛の上に神はいる。


「我らが勝利は神意である」

 あざといばかりの演出に、託宣の如き少女の言葉。


 果たして誰が描いた筋書きか。けれど、これですべてが調った。あからさまな作為で構わない。だって健気に胸張る幼子に、どうして神が祝福せぬものか。


 思い出されるのは初年兵当時だった、十三年戦争終末期。帝都城下まで追い詰められて、しかし先の帝がいれば負けるなどとは思いもよらず、若さに任せて戦い抜いた。


 あの帝と少女の顔は似ても似つかない。だけれどセルゲイを従える幼女の姿のその向こう、不思議とその昔、皇帝と伴にあった日々が透けて見えるのだ。


 不意に戦列を監督している同輩と目があった。

 なるほど、百人隊は見てくれだけである。典礼兵として本営にあり、前線に出たりはしなかった。だがそれは、銃火を知らぬを意味しない。

 若い連中や民兵はさておいて、将校去りし今、隊を任されたボリスの如き古参の多くは、近衛創設以前の十三年戦争当時、一般戦列にあったから。


 すべてを理解し頷きあって、目を向ける。

 少女が右手を振り上げた。

「天は我らと共に」


 あの日に叫んだ、その言葉。何故、戦うのか。その答え。自然とボリスの口を衝く。

「皇帝万歳!」


 先程とは異なり意味ある言葉は、明確な意志である。千の敵に勝るとも劣らぬ、その響き。

 良き哉。幼くして兵を知る。女にして陣頭に立つ。前例なくば創るのみ。


「正義は我にあり。叛乱者どもに鉄槌を」

 恐れもなければ気負いもなかった。応える幼女の声には一点の曇りもなかった。


 何故なら信じているのだ。

 勝利を。

 何故なら疑いもしないのだ。

 奴を。


 つまる所、皆が皆、同じなのだ。湧き立つ想いは止まらない。


 セルゲイ。西方国境がチェフ市の生まれ。兵士の息子というが、娼婦の息子と言う方がより正確。そんな下賤な人間を、しかし先の帝は誰よりも信頼して、『兵士の中の兵士』と評した。

 もしも時代が許していたならば、立身出世、思いのままであったろう。


 ボリスは、勝利と栄光を根拠なく確信し、命令を待つ。

 奴がいて、大義がある。なれば、どうして負けようか?


********

コメンタリー

 今回はあまりネタがない。


 小銃射撃戦術:マスケット銃の射撃戦術は近世期において殆ど変わり映えせず、横列が代わる代わるに撃つだけと思われている向きがあるが、実際は異なる。そのあたりは上手く本編中で表現したい。例えば、近世オランダ軍が生み出したとされる反転行進射撃にしても、大きく分けて二つの形式がある。

 一つは射撃を終えた兵士が一人ずつ各縦列の間を後ろへと通り抜ける形式。もう一つは横列隊形を三~六縦列ごとの分団に分け、射撃を終えると右を向き、一列となって、各分団の間を通り抜け、後ろに回る形式である。

 前者の形式ならば、兵士が歩いて抜けるために一縦列ごと間隔を広くとらねばならないが、後者の形式ならば分団ごとで良いため、部隊をより密集させることができる。ただし、横列が入れ替わる時間は、前方を横切る兵士がいるために後者の方が少し長くなる。

 どちらを採用するかは何を重視するか、つまり射撃速度と弾幕密度のどちらを重視するのか、という問題となる。

 なお、最終的には後者の形式が時代が下るにつれて一般的となった。射撃速度が、教練の定着と技術発展によって大幅に短縮されていった結果であろう。ちなみに分団ごとの射撃の場合は二横列が数歩前に進み出て、一列ごと斉射するか二列が同時に斉射する。


 白鳩:近世期は未だに迷信などが色濃く残っていた。七年戦争中においても進軍中のプロイセン軍が道端にあった十字の木の標識の上に鳩が止まっているのを目撃して、勝利は約束されたと士気を高めたと言う逸話が当時の日記に残されている。


 セルゲイの風貌:大好きなミレイ作『老国王衛士』が彼のイメージ。昔、オフィーリアと一緒に渋谷に展示されてて感動しながら見入ったよ。


 演説:当時の指揮官の条件には声が通る事と言うのがある。戦いを前にして短くも威勢のいい演説をする事は士気を鼓舞する最良の手段であった。


 立身出世:近世ヨーロッパにおいて身分の壁は国ごとで異なっていた。特に十八世紀おフランスの四代に渡る貴族証明が将校には必要としたセギュール規則が有名。ある市民階級出身の中尉に対して上官がクビを宣告した手紙は糞である。

「君は裕福で若い、そして君は先祖から連綿と続いてきた生計の類に身を捧げる限りにおいて、職業を失うと言うことはないだろう。(中略)しかし軍に奉仕する望みを持つならば、君は階級の外側にいる。以前の状態に戻りたまえ、君はそこで幸せになるだろう」

 つまり、お前は貴族じゃないからあっち行け。ここまであからさまだと、いっそ清々しいね。

 もっとも、真面目な話をすると、セギュール規則に対しては新しい軍事史の観点から再評価されていて、単純な平民排除の反動政策ではなかったとも。創元社の軍隊と歴史が詳しい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る