第15話

 嗚呼、ハッピーエンディング。紆余曲折がありまして、ようやく隠居の秋が来ましたよ。


 覚えていますか、あの日のことを。

 痛む胸をかきむしり、霞む意識のその向こう。払い込んだ年金返せと恨んだことを。

 

 そうですとも。忘れるはずはありません。

 二度目の人生、君の恨みを晴らすため、この日のために生き抜いた。今こそ帳尻合わせて支出超過を是正しよう。


 と、そんな期待を抱いた頃もありました。感慨深げに振り返り、戻ってきました諸悪の根源、始まりの地。残るは心的外傷ばかりの、近衛隊長執務室。

 随分昔に感じるけれど、あれから未だ一週少しと言うのだから、げに不思議。ここ暫くの激動は、精神年齢八十越えの爺さんにはちとキツい。


「さて、手筈の案配は如何?」


 執務机を後ろ手に、既視感を覚える仕草で見上げてくるは、あくどい御尊顔。

 って、これ既視感じゃないよね。確実に繰り返してるよね。


「着々と。しかし宜しいのですか?」

「宜しいとも。セルゲイ君。それとも何か懸念事でもあるのかい?」


 幼女は無問題だろとニコニコ笑う。これが本気なのだから空恐ろしい。

 爺さんとしては、大有りですともさと主張する。だって、わたくし行きずり兵士の種を孕んだ安淫売の息子です。

 つまりは軍務卿が指摘の通りに育ちが悪いと言うことで、さよならだけが人生です、と洒落込んでもよいと思うわけ。


 戦は取りやめ、誇れる血統もないとなれば、これにてお役御免の、こんにちわ隠居生活が希望です。

 原則イエスマンですけど、大事なことだし聞かねばならぬ。今再びこの場所で。だから婉曲に表現してみよう。


「顧問会議でのお約束を違えては、と」

「何も違えはせぬよ。ただ一つ、勝敗は兵家の常なれば、必ず勝つとは確言できぬが、死んだ後のことなど悩むだけ無駄であろ」


 それは見事に愛らしい顔で御座います。

 そうですか。そうじゃないかなと、薄々分かってはいましたよ。ある意味壊れっぱなしの我が君は、思った通りにまったく壊れておらず、いつもの如くの定常運転。

 悩むところが根本から異なって、恐らく同じ地平にすら立っていないのだ。


 言うべき言葉を失い途方に暮れるセルゲイを、じっくり眺める幼女様。誠、大変満足されたご様子で、さても頃合かと、喜色もそのまま、控えの間に向け呼びかける。曰わく、種明かしをしてやろう、セルゲイ君。

「入ってこい、セミョーノフスキー伯爵」


 聞くも見るも何とも懐かしい名前と顔でした。いや、一週間前までは始終会っていたんですけどね。気分的にはもう鬼籍に入れていたのです。


 それは先の近衛隊長、伯爵ウラジーミル・ミハイロヴィチ・セミョーノフスキー大佐殿のご来着。

 久方ぶりに見る年若い元上官殿は、相も変わらず嫌みなくらいな美丈夫だ。お腹が痛いと言い出して、沈む船から巧みに逃げたとは、とてもじゃないが思えない。


 貴公子然とした、金髪碧眼の整った顔立ちに、どこぞで手に入れたのか自信満々を貼り付けて、そりゃあまぁ、この期に及んで何時までも寝込んではいられぬだろう。

 過去の振る舞いを、微塵たりとも感じさせない堂々たる足取りで、若き伯爵はかつての自室に現れた。


 セルゲイは、止ん事なき公達の若様をしげしげ眺め、瞬きを繰り返す。この時代の美的センスは、何時になっても慣れぬもの。

 縁故と官職購入で地位を手にした絵に描いたような大貴族のご子弟で、同じく高貴と言っても、幼女殿下とは真反対の分かりやすいこの御仁。動きも意図も、時代が定めた殻の中。実に安心この上ない。しかしそれ故、分かり合えぬこともある。

 つまり、華麗と言うより目に毒なほどに派手なのだ。


 鮮やかな緑色の上衣には、縁取り含め、ありとあらゆる縫い目に金刺繍があしらわれる。前身頃に並ぶ真鍮釦は光を放ち、一点のくすみもない。腰には帝国を示す三色。白青赤に染まった絹の飾り帯。捻って巻かれ、端には溢れんばかりの金房が垂れ下がる。

 垣間見える内衣と上衣の裏地には、燃え立つような紅緋色。


 皇帝顧問会議の重鎮たちの服装も大概だったが、方向性は真逆。

 老人連中が古式ゆかりの獣皮と貴石を過度に尊ぶ伝統を色濃く残す一方で、若い組織の軍隊は、先行く諸国を追いかけて、気付けばモードにおいても彼等に習う。


 それは薄くて軽い平織りの梳毛地に色鮮やかな染色技法。繊細さはないが目立つことに特化した、輝き光る金銀糸。

 つまりは当世流行りの中原風と相成る訳で、見れば見るほど、セルゲイからすれば、未だ宝の塚に紛れ込んだ気分にさせられる。


 だが意味するところはまるで異なる。方向性がどちらであろうと、過度に贅を凝らした装いは、この時代にあって道化を意味はしないから。それは、むしろ力と立場の象徴だ。


 有り体に言ってしまえば、セミョーノフスキーは近衛隊将校略装を正しく身に纏う。

 けれど長い兵隊生活、セルゲイは一目で見て取った。

 唯一足りないものがある。

 それは、かつて彼の肩を飾った肩章だ。アレクセイ帝の命により、近衛だけに取り入れられた、階級を示す正肩章。正規軍の中将格たる近衛大佐を示すそれ。


 だから理解する。


 故に、かつて見捨てた少女を前に、紅白の羽毛飾りも見事な黒い三稜帽を小脇に抱え、一分の隙もなく踵を揃えて最敬礼するのだと。否、せざるを得ないのだ。


「大儀。面を上げよ」

 聞こえてきたのは、幼女が発する余所行きの澄まし声。


 リュドミラの許しをもらい顔を上げ、背筋を正したセミョーノフスキーの首元で、茜色の織り紐に吊された、金に輝く喉甲が微かに揺れる。以前の浮き彫りは、王冠と神の十字架。だが今のそれは、記念硬貨と同じく『戴冠せる少女』。


 果たして信用できるのか。セルゲイには分からない。ただ、いつもの如く、とどのつまりは行き着くところにしか、行き着かないと知る。あちらも、こちらも、世界とは。

 ああ神様でも誰でもいい。早くバグを直せ、直すのだ。

 直らぬならば、流れに身を任せる他に術はなし。


「殿下におかれましては、益々の……」

 口を開くと恭しくも使い慣れた宮廷儀礼の様式美。主君を言祝ぐことから始めて、まずはマウントを取ろうとしたセミョーノフスキーはのっけから間違った。


 確かに受ける幼女の容は、外面だけなら天使と見紛うばかり。煽て褒めそやせば、少なくとも悪手でないと思わせる。しかし、断じて、かくの如き為人とは違う。


 結構、息災とは残念至極。片手を上げて長広舌を未然に制し、少女はまこと愛らしく嗤うのだ。

「我の祖父殿ご存命であればと思う。戦鎚で叩き潰されたであろう卿の頭蓋を案じたかった」


 まぁ仕方があるまいと締めくくられて、苦労知らずの若者が、チグハグさに戸惑うのは語るまでもなかろうか。


「我が求め、果たせたと聞いた。見せよ」

 傲岸不遜に上から目線。行儀も悪く、執務机に腰を下ろすや脚を組み、そこにあるのは、紛う事なき主従の形。予想の通りに役者が違う。


「で、殿下、わたくしは」

「二度云わん。是や否や」言わずと知れて、眼だけが違う。荒んだ砂漠。昏い暗渠の底の底。


 若者の、どこぞで借りた付け焼き刃の薄っぺらい自信が見る間に剥がれ落ちる様は、自分を見るかのようで直視できない。煌びやかな服装も、こうなっては哀れを誘う。幼女の一兵卒と変わらぬ装いは、目に見える器の違いとなって心をえぐる。


 まさしく、電光石火の早業だ。セルゲイは心の奥底、気取られぬように嘆息した。


 あの日、あの時、彼処にいたのが、この爺で御座いました。


********

コメンタリー


 セミョーノフスキー:チラ見せと思いきや主要人物になります。ロシアの近衛といったらセミョーフスキーでしょ、という思いこみから命名。言わずと知れた西欧化の鬼ピョートル大帝創設の遊戯聯隊直系。プレオブラジェンスキーもその内に登場させたい。


 緑色の上衣:以下の軍服描写はピョートル期のロシア軍服を参考にしてます。ロシアというと緑が有名だけど、ピョートル期のセミョノフスキー近衛聯隊は桔梗色=矢車青だったりします。

 他にも灰色なども。聯隊ごとに定色が決まっていたので、色合いを見るとどこの聯隊か分かるようにはなっていました。もっとも、緑にしろ青にしろ、当時のロシアの調達力は下の下なので、使えるものを使うというチグハグさでした。

 ちなみに軍服を入れ替えて、精兵聯隊と弱兵と侮られている聯隊を逆に認識させることもやってます。なお、将校は聯隊の定色規定からはフリーダムでした。目立ちたいなら、どうぞご随意に。

 当時の軍服の基本スタイルは、外套、上衣、内衣(胴着)、膝丈の短袴、長靴下。上衣はジュストコルと呼ばれる形態ですが、言葉にすると冗長になるのでググってね。ロシアではドイツ風と言われていたそうな。あとピョートル期だと、長靴下は短袴の下に入れられるのが標準。ただし、幾つかの絵画では戦う兵士たちが短袴の上に長靴下を履いている姿が描かれているので、ここでも規定は適当なことがわかります。

 なお、当時の軍服の実用性はイマイチと言われています。夏は暑すぎて熱中症。冬は寒すぎて凍死。原野を駆け、塁壁をよじ登るには不適切と。ロシア軍服の実用性が大いに向上するには1780年代のポチョムキンによる改革を待つ必要があります。


 金刺繍:将校は、服装スタイルは兵卒と同じでしたが、装飾を凝らすことで区別されていました。キンキラキンです。それがために、狙われやすいです。


 飾り帯:いわゆるサッシュです。肩からかけたり、腰に巻いたりされる、この時代の軍服装飾の定番アイテム。ピョートル期のロシア軍は白青赤などの色を付けたものを使っていました。


 宝の塚:あれはホントに華やかですよね。


 正肩章:これはピョートル期にはありませんでした。もっと後の時代のものになります。7年戦争期頃になると親衛中隊などで用いられるようになりますが、階級章としてではなく兵士の装飾として用いられています。フランスでは1759年から階級章として用いられるようなってます。ただこちらの場合は、我が物語とは逆に、近衛聯隊などの精鋭隊は階級章としては用いなかったそうです。


 近衛隊の格:当時においては正規軍よりも近衛の方が基本的に格上で、どこの国でも圧倒的な先任権を持っていました。


 三稜帽:三角帽の方が日本語としては一般的なんだけど、モア船長で読んでからは、小説ではこっちを使いたいと常々思っていたのです。材質はフェルトです。

 なお、当時の戦列歩兵はみんな三稜帽を使っていると思われていますが、カルトゥズと呼ばれる直帽なんかも使われています。ロシアの寒い気候に対してはこっちの方が良いとも。

 

 喉甲:ゴルゲットと呼ばれるもので、首から前掛け状に垂らされていました。フランス語ではオス・コル。正面には王家の紋章やらの浮き彫りがありました。ピョートル期では王冠の下に正アンドレイ十字(所謂×印)の組み合わせが多かったようですが、いろんな種類があります。

 

 戦鎚:ほんとは歯を引っこ抜きたかった。でも殴り殺すのもロシア的君主のデフォですよね。いよっ、雷帝!

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