第二十話

「レイラが記憶を失っている……?」

 にわかには信じ難い話だった。

「私の言うことが信じられないか? まあ、無理もないだろうな。スパイだということを今まで隠してきたのだから」

 いいや、そういうことじゃない。

「そんなの嘘だ。レイラは俺と会った時、俺のことを知っていた。つい最近も、あの日もだ」

「言ったろう。レイラは自分の記憶を紙に書いて残していた、と」

「だから信じられないんだ。記憶を失った人間が、紙に書いた出来事を見て、すぐにそれが自分の記憶だと納得できるわけがないじゃないか。それに、秘術の直後に記憶を失っていたんなら、どうしてあんたのことは覚えていたんだ」

「それはだな……。あの子が失ったのは〝思い出〟だからだ」

「思い出?」

「そうだ。記憶というものを全て忘れていたんなら、あの子は一人で家に帰ってくることは出来なかっただろう。極端な事を言えば、秘術が終わった直後に神主の顔さえも忘れていたはずだ」

「……でも、レイラは俺との思い出を覚えていたんだ! 昔、いじめられていたことだって、クラス替えをしたことだって……。そうだ……! この場所のことだってちゃんと覚えてくれていた。ここは、俺とレイラの特別な場所だったんだ!」

「ああ、知っているよ。私も全て読ませてもらったからね。君がレイラにとって特別な存在だということも知っていた。それは、助けてくれた恩人という意味ではなく、ね」

「それは、どういう意味だ……」

「言わなくても分かるだろう? レイラは君のことをただの友人として以上の存在として見ていた、ということだが」

 もう頭がパンクしそうだ。

 俺はあの時からずっと、今に至るまで勘違いをし続けていたということなのか。

 嫌われたと思っていたらそうではなくて。むしろ、気持ちは通じ合っていた。

 なのに、俺はそれに気が付けなかった。

 気付くのが、こんな形になってしまった。

「どうだ、悔しくはないか。レイラはそんな君への想いすら忘れてしまっていたんだ。そう、君の言うとおりなんだ。たとえ自分の書き残した物だろうと、所詮は文字だけ。その全てが自分のものだったと受け入れ、演じ振る舞うことには相当な苦痛が伴う。今の自分という存在を殺してまで、過去の自分という名の他人を装うことが、どれだけあの子にとって苦しいものだったか……」

「過去も今も、どっちもレイラじゃないのか……」

「その考えを自分勝手というのだよ。過去を押し付け、忘れたのか、と問う。そのことがどれだけレイラにとって辛いことかわからないのか。レイラにとっては忘れたことなど何もない。始めから知らなかったことになっているんだ」

「そんな……」

「君もよく考えてみなさい。レイラは僅かな時間で、自分の書き残したメモを必死に暗記していた。しかし、その全てを覚えきれるはずはない。たとえ覚えていたとしても、人と接するにあたって単なる脚本を演じるだけでは不十分だ。必ず、受け取り側に違和感を与える結果になるだろうからな」

 その結果が、あの時のレイラが俺に対して素っ気ない態度をしていたということなのか。

 しかし、よくよく考えてみれば、思い当たらないこともなかった。

 街が焼き払われたあの日、俺はレイラをこの特別な場所へと呼んだ。その時にレイラはなぜか、いつも登って来ていた方角から来なかった。道を忘れてしまったかのように。

 それと、やけに昔話をしていたようにも思う。

 そう。まるで自分の記憶が正しいのかと、確認するように。

「白間君、これで君も分かっただろう。同じレイラを想う仲なら、私の気持ちが理解できないではないはずだ。レイラは人々を救うために自らの身を呈した。大切な思い出を忘れる代償が、霊羅という化け物になることだった。だから、私はあの子をこの手で救ってやりたいんだよ」

「今まで霊羅を倒そうとしていたのもそのためだったってことか」

「そうだ。親として、娘の不幸は取り除いてやらねばならん」

「……何が親として、だ。それこそ自分勝手じゃないか! あんたは自分が今の娘の形を受け入れられないから、勝手に楽にしてやろうだとか言い訳をつけてるんだろ! そんなの、レイラが喜ぶかよ!」

 カルロスさんは黙った。

 自分でもわかっていたからだろう。

 たとえ記憶を失うことになろうとも、レイラは自分で決意して今の状態になった。だったら、たとえ親の立場だろうとしても、他人にそれを批判される謂れはないはず。

「図星か……」

 しかし、その気持ちは俺にとっても理解に苦しいものではない。

 国に操られることで祖国を出て、異国の地で娘を人ならざるものへと変えられてしまった。それがどれだけカルロスさんの心を痛めてきたのかは、俺には想像もつかないものだろう。

 だからそこ、もしかするならば今ここで互いの想いを理解し合い、事の解決に向けて手を取り合えるのではないか。そう思わなくもなかった。

「……その通りだな。私は私の考えでしかあの子のことを考えてこなかった。だが、それは人間として当たり前じゃないのか? 心は自分にしかない。それが自分の心のままに動いて何がおかしい。私はあの子が不憫でならなかった。人を助けたいと思い、実行するあの子自身がどうして救われないのかと! 挙句、あの子は心さえも奪われた! 私との思い出もあの化け物の体を創るための肥やしとなった! 君にはわかるか!? 親が子との思い出を奪われるのがどれほど辛いことか、両親が健在な君に解るのかッ!?」

「……わかるよ。俺の親は二人とも死んでいないけど、分からないことはない。ただ、カルロスさんの気持ちを全部理解しただなんて、軽々しく言えないことも分かってる。それでも、同じ子供の立場としてレイラの気持ちは解るつもりだよ。こんなに子供のことを想ってくれる父親を裏切るなんて、レイラは本当に辛かったに違いないんだって……」

「だったら、君も一緒に安息を与えてやろう。それがレイラのためにもなる」

 カルロスさんが歩み寄って来る。

 だが俺は、退くことで返答を示した。

「……いいや、だからこそレイラの気持ちを尊重してやらなくちゃならないと思うんだ。親を裏切ってまで、レイラは人のためになることを成し遂げた。それをあんたが理解してやらなくてどうするんだよ」

「そうか、結局君には、私を理解してもらえないということか……」

「違う。お互いに理解し合えばいいって言ってるんだ。そうじゃなかったから戦争なんて起きたんだ。俺だって、レイラのことが許せなくて復讐なんて思いを掲げた日があった。だけど、それは違うってレイラ自身に気付かされた。やり返すだけなんて駄目なんだ。俺はもう、誰かを殺された人が誰かを殺す連鎖なんて見たくない」

「……だったら」

 カルロスさんの腕がゆっくりと上がった。

 爪先が俺に向けて突きつけられる。

「だったら、君が死ねば連鎖が止まる」

「俺の言ったことがわからないのかよ……!」

「私は、他人の暴挙を我慢してまで手に入れる平和など無意味だと思っている。結局は、どちらかが譲るだけで、もう一方が調子付くだけだからだ。それに……娘を譲ってしまった以上、私にはもう譲るものが無くなってしまったのだよ」

 一つ一つの言葉を語る度、カルロスさんの想いが痛いほどに伝わってくる。

 だけど共感はできない。

「譲るものがないのなら、俺は自分を差し出す」

「それはつまり、ここで死にたいということだな?」

「違う! もう誰も殺させはしないんだ!」

 そう、誰も死なせはさせない。

 それは誰かを守ろうと戦い抜き、動いている俺自身をも守り通すということ。

「俺は二度も死なない」

「ならば、死後の世界の住人だろうと、私は殺してみせる!」

 刹那、落ち葉が巻き上がった。

 目の前からはカルロスさんが消えている。

「どこに――」

 その時、まるで手で掴んだかのように確かな何かを感じた。その何かとは、今俺がナイフとして形にしているものと同じもの。

 カルロスさんが纏っている魂だった。

 糸の様に漂うそれは、視認できなかった獣が残した軌跡。

 突如、首元に出現した爪を、ナイフでどうにか受け流した。

 流れが見えていなければ、狩られているところだった。

 しかし、待たずして次の攻撃が開始される。

「心は決して速くはない。だが、早くはある。お前に私の心が捉えられるか!」

 猛獣が乱舞した。

 爪が体を、刃をも引き裂く。

 俺はどうにか、その一撃の一つ一つを対処することで精一杯だった。

 悲しくも怒り、恨みの具現と化した鉤爪。

 それは娘のために戦い抜くため、想えば想うほどに鋭くなっていた。しかし、倒してきたモノたちが娘の欠片だとは気が付かなかった。いつしかその爪は、最愛の娘を抱くには鋭くなりすぎていたのだろう。

 その嘆きが俺への痛みに繋がっているようだった。

「君は、自分を差し出すとまで言ったが、私はとうの昔に自分というものなど捧げていたよ」

 目が慣れてきたのか、牙を剥き続ける獣が視認できるほどにはなってきた。

 守っているばかりではやられる。

 攻める意思を固め、果敢に刃を突きだした。

 しかし躱されてしまった。

 いや、躱されただけなのであれば、次に当てればいいこと。だが、俺の攻撃は無情にも弾かれたのだ。まるで俺の動きが止まっているかのように、全く力が込められていなかった。目では追えていたのに、体は反応することが出来ない。

 その強さは、圧倒的と呼ばざるを得なかった。

「ああっ……!?」

 気づけば、腕が、足が、襤褸切れのようになっていた。

 もう動く事が出来ない。

 俺はその場に倒れるしかなかった。

 だが、俺の身体はカルロスさんの心の創痍を可視化したに過ぎない。俺が傷つけば傷つくほど、それは傷つけた相手が痛んでいた傷の大きさということになる。

「……私の妻はな、戦争で死んだ。お前たちの国の人間に殺されたのだよ。その時からとうに、私は人の心を捨てることを覚悟していた」

 意識だけははっきりしている。

 俺の視線の先には、悲しい瞳をしたカルロスさんが立っていた。

 見下ろしてくる目には、もう殺意はない。

「すまないが止めは刺せない。君は私の敵である以前に、恩人なのだから」

 いや、始めから殺意などなかったんだ。

 人の心だって完全には捨てきれていない。

「……だが、もう邪魔だけはしないでくれ。私はその恩人を殺したくはない」

 声が、草を踏む足音が遠ざかっていく。

 それを追うことは出来ず、俺は只々、自分の力の無さを悔いた。

 だが、次第に悔やむことも出来なくなってきた。

 体の自由が利かず、鉛のように重い。異常なほど体温が下がっていくのを感じていた。頭の中が朦朧としている。

 止めは刺せない。

 その言葉を思い出し、俺は力なく笑う。

 刺せないという以前に、必要のないほど痛めつけられていたのだから。

 どちらにしろ、瀕死な事には変わりない。

 戦いの際に落としたのか、目の前にペンダントが落ちていた。それをどうにか手繰り寄せ、手の中に収める。

「くそ……」

 諦めたくはない。

 でも諦めざるを得ない状況だった。

 体が動かないのだから仕方がない。

 レイラへの謝罪のつもりで、ペンダントを握る手に力を込めた。

 すると異変が起きた。

「みち君、起きて」

 どうしたことだろう。

 レイラの声が聞こえてくる。

 そうか、これが走馬灯というやつなのか。

「みち君、まだ消えちゃうには早いよ」

 しかし、その声は妙にはっきりと聞こえてくる。

 よく見れば、ペンダントを握る手の中が薄く発光していた。

「レイラ……?」

「そうだよ」

「でも、どうして?」

 話し声は、ペンダントから聞こえてくるようだった。

「私の魂だもん。お話しくらいできるよ」

「そういうもんなのか……?」

「そういうものなの。そんなことより、ほら! 早く立って!」

「いや、立つにはもう、力が出ないんだ……」

「そんなことないはずだよ。みち君は今、さっきよりもお話できるし、元気もあるはずだよ」

「うん?」

 思えば、たった数分前に比べると見違えるほど体調が良い気がする。

 ゆっくりと立ち上がると、負った傷がいつの間にか塞がっていた。

「幽世は死者の世界。でも、そこにも死は存在する。そして、死の世界だからこそ死ぬことが重く苦しい。みんな頭では忘れているけど、死を経験しているから、魂に死の記憶が刻まれているから死にたくない。

 でも、体はとっくの昔に亡くなっている。死ぬことはない。死ぬことがあるとすれば、それは魂が死んだ時。諦めないで、みち君の心の傷は浅いよ。気持ちを強く持って。私は私でお父さんを止めるから――」

 その声を最後に、レイラは話さなくなった。

「レイラが助けてくれたのか……?」

 そうに違いなかった。

 あれだけ負った傷が一瞬にして癒えてしまうなんて、まるで魄奪のようだからだ。

「……そういうことか」

 おやじさんが言っていたことが思い返された。

 レイラの純粋な魂を持っているのは、俺とカルロスさんだけ。

 それによって得られるのは、単なる力だけじゃなかったということだ。

「また、俺はレイラに守られたのか」

 レイラは自分でカルロスさんを止めると言っていた。

 どうするつもりかは知らないが、今のカルロスさんは危険だ。

 今度こそ、俺がレイラを助けないと……!

 俺は、街の上に見えるレイラを目印に駆け出した。

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