第7話 7
八丈島から戻った一ヶ月後、美咲がひとりで自宅で洗い物をしていると、不意に電話が鳴った。濡れた手をタオルで拭き、電話に出てみるとマサ江だった。病院からの帰りだという。
マサ江は、来週から良太が入院するということを告げてきた。ドキっと心臓が脈打つのが分かった。しかし、すぐに取り直して「入院? 八丈ではあんなに元気だったのに?」美咲は訝しげに聞いた。するとマサ江は、検査入院であることを強調した。期間は十日間程だという。
「そうよね」
美咲はそう言うと、じゃあ、次の休みにはお見舞いに行くわね、と言って電話を切った。洗い物に戻った美咲は、胸騒ぎを感じていた。マサ江が検査入院だということを強調していたことが、なにより気になった。
次の土曜日、聡一家は町田の病院に向かった。勿論、良太のお見舞いの為だ。病室に着くと、既にマサ江が待っていた。町田の家から、良太が入院している病院までは五キロくらいの距離だが、途中は上り坂がある。自転車での毎日の見舞いは大変だろうと聡は思った。
「おじいちゃん、香織ちゃん来たよー」
マサ江が、声を掛ける。その声を聞き、うとうととしていた良太が目を開け、眩しそうに聡一家を見る。香織を見つけたのか、良太が二コリと笑う。
笑顔を浮かべる表情とは裏腹に、起き上がろうとする動作は、マサ江の手を借りなければ起きられないようだった。少し見ないうちに、随分弱々しくなった印象を受けた。
見回りの女性看護師が、病室に入って来た。定期的に体温を測ったり、様子を聞いたりする時間のようだ。良太のベッドは、入口から一番遠い、三番目、窓際に一番近いベッドであった。そのため、看護師が巡回するのも一番最後のようだった。
二番目の患者の巡回を終え、看護師が良太のベッドに近づき、カーテンを開けた。秋の光が病室に差し込む。既にベテランの域に入ったと思われる看護師が大きな声を出す。
「あら、おじいちゃん。今日はいいわね、大勢見えて賑やかね」
良太は、声を出さずに、ニコニコ笑っている。
「あっ、この子ね。香織ちゃんって」
そう言って、看護師は美香を見つめる。「やっぱり、実物は可愛いわー」
お世辞だとしても身内には嬉しい一言だ。香織は少し照れるような仕草をしている。
ほら見てこの写真、そう言うと、看護師は良太の枕元を指差した。そこには写真立てが五つも飾られていた。すべて、香織の写真であった。卒業式であったり、合唱のシーンであったり、ついこの前の、八丈島で撮った写真も飾ってある。写真の中では、香織の隣に座り嬉しそうに笑う良太がいた。「いつも言うんですよ」と言いながら、看護師は話しを続ける。
「自分の孫の香織は、日本一歌がうまくて、日本一可愛い。将来歌手になるから、今のうちにサインを貰っておいてやろうかって」
聡達はドッと笑うと同時に、その言葉を誇らしい気持ちで聞いていた。すぐ隣のベッドに寝そべる患者の男が言う。歳は良太より一回りは下に見える。入院患者とは思えぬほど、肌艶が良い。「そうそう、いつも孫の話しだ。だから、自然と同部屋の俺たちもお孫さんに会った気持ちになっているくらいだよ。自慢の孫なんだな、じいさんには」
「で、こんどコンクールがあるんでしょ? 楽しみだわね」
看護師が、まるで掛けあいのように言った。香織は、おじいちゃん絶対見に来てね、と言って手を握った。
見舞いは一時間くらいで切り上げた。病室を出た聡一家をマサ江が呼び止めた。
「どうしたの、おばあちゃん? 忘れ物?」
美咲は、尋ねた。
「いいや、そうじゃないんだ。実は・・・、入院が長引きそうでね」
「え、そんな・・・、どうして?」
「思ったより悪いみたいでね。もう、歳だから手術はできないってお医者さんは言われちゃった」
その言葉が、何を意味するのか、聡と美咲には分かった。その時、本来は人の往来が激しい筈の病院の廊下は、不思議と誰も通らず、マサ江と聡一家の四人だけが立っていた。沈黙が続いた。聡が美咲を見ると、既に頬に涙が流れるのが分かった。香織が何かを察したようで、ハンカチを差し出す。美咲は、ありがとう、と言って涙交じりの笑顔で香織の頭を撫でた。
「おばあちゃん、大丈夫? これからは、私も交代で付き添うわ。お姉ちゃんにも言っておく」
マサ江は、黙って頷く。
「でも、不思議ね。あれほど子供の頃、嫌っていたおじいちゃんでも、やっぱりこうなると良い思い出しか浮かばないわね。私が中学生の頃、毎日車で送って行ってくれたこととか・・・」
そう言うと、美咲は言葉を詰まらせ、続けることが出来なかった。聡は、そっと美咲の肩を抱いた。肩を抱かれる美咲の反対側の手は、香織の手を握っていた。
一か月後のことである。それは、突然やってきた。まだ夜も明けきらぬ、朝方の四時に聡の自宅の電話が鳴った。
美咲は、寝室から起き出し、電話に出た。聡は、目が覚めていたが、リビングには行かずに、ベッドから美咲の動向を覗っていた。うん、うん、と頷いている声だけが聞こえる。そして、ピッという電話が切れるときの電子音が聞こえた。しかし、美咲は寝室には戻ってこない。さすがに聡は心配になり、リビングに行ってみると、美咲が声を殺して泣いていた。聡は、すべてを悟った。
「美咲・・・」
聡がそう声を掛けると、美咲は堰を切ったように「おじいちゃんが、おじいちゃんが」と何度も繰り返し、聡に身を寄せてきた。聡は無言で美咲を抱きしめた。聡の目にも涙が溢れて、適当な言葉が見つからない。
マサ江からの電話を切ってから、三十分後には聡一家は、町田の病院に向かうため車中にいた。まだ空は暗く、ヘッドライトを点けて走っている。走る道は空いているが、とても明るい気分になれない。聡は美咲を励まそうと、良太との思い出を独り言のように語った。
「おじいちゃんが作ってくれたたい焼きうまかったよな」
「うん・・・」美咲が力なく答える。
「八丈島行けてよかったな」
「うん」
「お前を毎日中学校に送ってくれたんだよな」
「うん」美咲の返事は涙にまぎれて消え入りそうだ。
「頑固だったけど、いいおじいちゃんだったよな」
美咲はもう頷くだけで一向に涙が止まる気配は無い。話している聡も、涙声に変わり、それ以上言葉を繋げなかった。
車内には、FMラジオだけが、無機質に音を出していた。香織は、まっすぐ前を向いたまま、口を真一文字に結び、一言も喋らない。
一家が病院に到着すると、ロビーにはマサ江が座っていた。聡たちの姿を確認すると立ち上がった。美咲は何かに衝き動かされるようにマサ江のもとに走っていく。二人は無言で抱き合う。二人の背中は震えていた。聡と香織は、ただ立ち尽くして誰もいない病院のロビーで肩を震わせる二人を見ているしかなかった。
その後、遺体を安置してある部屋に通された。良太の顔は、今すぐに起きてきても不思議でない綺麗で穏やかな顔をしていた。誰も口を開こうとしない。その時、「おじいちゃん、大好き! 死なないで!」静かな霊安室の中に香織の声が響いた。家を出てから一言も喋っていなかった香織が、良太を前にしてその気持ちがこらえられなくなったのだろう。それを聞いた周囲の者は皆、すすり泣いた。
人が死んだときには、こんなにも機械的に物事が進んでいくのかと聡は思った。哀しむ遺族を尻目に、看護師が事務的に葬儀などの案内を始める。その看護師は、かつて見舞いの際に世話をしてくれていた、あの調子のいい看護師ではなかった。
残された遺族には、当然ながら葬儀についてノウハウがない為、なかば言われるままに、看護師が案内した葬儀社に連絡を取った。千葉に住む姉夫婦はまだ到着していない。
男は自分しかいない、ここは自分がしっかりしなくては、と思い、聡が葬儀社に電話をした。葬儀社の社員は、二十分程で病院に着いた。社員の男は、このようなケースは何度も経験しているだろうが、慣れた調子は表には出さずに、沈痛な面持ちで遺族に一礼をした。そして、これからの事を説明をしたいから、と聡を廊下の先にある美咲達とは少し離れた長椅子まで導いた。それからの事は、聡は鮮明には覚えていない。「私どもに任せておいてください」との言葉に頼り、その言葉通り、葬儀社は手際よく式場や段取りを決め、そして通夜の日を迎えた。
遺体が病院から葬儀会場に移された。通夜の時間までは、まだ五時間以上ある。四畳半くらいの部屋に布団が敷かれ、線香が焚かれてある部屋に遺体は一時、保管されることになった。遺体を置き、業者が部屋を出て行くと、その部屋には遺体を中心として、マサ江と聡一家、それと姉の亜希子夫妻の六人だけが残った。身内だけの最後の別れの時だ。
「いよいよお別れだね。おじいちゃん」
マサ江はまるで子供を愛でるように、良太の頭を何回も撫でた。「香織ちゃんの歌、最後に聞きたかったね」とも続けた。
その言葉を受け、聡は、バッグからラジカセを取り出すと、おもむろにスイッチを押した。ラジカセからは、香織の歌声が流れてきた。
「これは」と、マサ江が呟く。
それは、入院のため、聞くことができなかったコンクールのテープだった。「おじいちゃん、聞こえる? おじいちゃんの大好きな香織の歌だよ。しっかり聞いてね」そう言うと、美咲もマサ江がしたように、良太の頭を撫でる。美咲は溢れてくるものを堪えようとしない。
四畳半の部屋には、香織の澄んだ歌声だけが響いた。個人の部で出場した、美空ひばりの「川の流れのように」が流れている。生前、良太が良く聞いていた歌だ。
香織は良太が見に来てくれることを信じ、この曲を選んだのだ。その歌声を聴きながら、その場にいたそれぞれが良太との思い出を、思い出していた。聡は、初めて良太に会った日の事。美咲は、八丈島での楽しそうな夜、そしてマサ江は、何故かタイ焼き屋の店先で寡黙にタイ焼きを焼く、良太の後姿を思い出していた。
そう、マサ江は、ずっと良太の背中を見てきたのであった。それぞれが、それぞれの思いを胸に、全員が泣いていた。美香の頬にも大粒の涙がつたった。
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