第4話 4

 香織は中学校に入学して、初めての夏休みを過ごしていた。今日は、部活が休みなので、クーラーの利いたリビングで美咲と一緒に嵐のDVDを観ていた。

「今日のお昼、何がいい?」と美咲が香織に尋ねた時だった。

 プルルルルー。電話が鳴った。誰かな、と言いながら、美咲が電話に出る。相手は、マサ江だった。

「どうしたの? こんな時間に? お店は?」

 掛かってきた電話なのに、いきなり美咲は矢継ぎ早に質問を浴びせる。美咲の質問に、マサ江はまごまごしながら、応えてるのだろう。痺れを切らした様子で美咲が更に言葉を続ける。

「分かった。じゃあ、駅まで迎えに行くから、着いたら電話頂戴」

 そういうと、受話器を置いた。

「なに? なんだってー?」

 美香はマサ江からの電話だと察している。

「なんか、暑いから、靖国神社に涼みに来たんだって。で、せっかく出てきたから、うちに寄りたいって」

「靖国神社って涼しいの?」

「涼しくないわよ。どこも、一緒。でも、あそこには木がいっぱい生えていて、日陰があって涼しいって、昔から信じ込んでいるのよねぇ。毎年行ってるのよ」 

 香織は、ふーん、そうなんだ、答えながら、見ていたDVDに視線を戻した。

「見え見えなのよ。要は、なんだかんだ理由をつけて、うちに来たいの。いや、香織、あなたに会いたいのよ。それなら、それで言えばいいのにね。かわいいね、おばあちゃんたち」

 電話を切ってからの美咲は気分が高揚しているようで、嬉しそうに二人のことを話す。

 そうなのだ。良太とマサ江は、よくこの手を使って、聡の家に来る。それは、大抵が学校が休みの平日で香織のいる日、言いかえれば、聡のいない日が多かった。良太もマサ江も、聡のことは勿論嫌いではないが、やはり聡の家に押しかけて、そこに家の主がいるのは気を使うらしい。それは、美咲としても分からないではない。だから、美咲は二人のその辺りの気持ちを汲んで、「来たいなら、来たいって言ってよ」とは言わない。用事のついで、という二人なりのかわいい企てを尊重している。

 この前の春休みのとき、諭一家が二人の家に行った日の一週間後も、新宿御苑に桜を見に来たから、という理由で、やはり帰りに聡の家に来た。勿論、それも平日で、香織が家にいるときだった。

「香織は愛されているね」と言いながら、美咲は聡の携帯電話にメールをした。「二人が来る事になったから、早く帰ってきてね」とメッセージを送った。二人が来たら、町田まで車で送りながら、途中で晩御飯を食べていくのが、お決まりのパターンだった。

 一分後、「了解」と聡からメールが帰って来た。了解の横には、笑顔の絵文字が添えてあった。聡も、二人が来た時の対応を心得ており、喜んでメールを返したのだ。


 マサ江の電話があってから、二十分後に、再びマサ江から電話があった。もう、最寄駅に着いたとのことだ。

 美咲は思った。「おかしいな、靖国神社からここまでは、小一時間は掛かるのに、さては、既に最初から近くにいたな」と。美咲には、老人二人の必死の工作がかわいく思えた。

「香織、行くわよ」

 そう言うと、美咲はサンダルを履いた。駅までは、急げば五分くらいで着くが、炎天下の下での早歩きは御免とばかり、美咲と香織は日陰を選びながら、ゆっくりと駅に向かった。二人には、暑いから駅前にあるスーパーの休憩所で涼んでいるように伝えたので焦りはなかった。

 スーパーに美咲と香織が姿を現すと、マサ江はいつものように「香織ちゃん、ごめんよ暑いのに。大丈夫かい?」と最大限の愛情を示し、香織に話しかけた。

「うん、大丈夫。香織、暑いの好きだから」

 確かに、細身の香織は涼しげな顔をしている。良太は香織の近くに行きたそうな仕草をして間合いをはかっている。その目は香織に会えた嬉しさで満ち溢れている。

 マサ江は、今度は美咲に話しかける。

「暑いから、靖国神社に涼みに行ったのさ」

「聞いた」

 おどけ口調で、美咲が答える。

「そしたら、おじいちゃんが、『今日は、香織はいるのか』って。それで、電話したの」

 マサ江がおじいちゃんをダシにしているのか、それとも本当のことなのか、突きとめる気はなかったが、恐らく本当の話しではないかと美咲は思った。その証拠に、良太は「ホッ、ホッ、ホッ」と否定も肯定もせず、笑っている。

  

 お昼御飯は、そのまま駅前にあるレストランで食べた。その時、土産だと言って、クマのストラップをマサ江は香織に差し出した。マサ江も、靖国神社に行こうと決めたときから、うちに来る気だったのだ。どっちもどっちだ。

「わぁ、可愛い。これ、香織の鞄に付けるぅ」

 社交辞令ではなく、香織は本当にそのクマのストラップが気に入ったようだった。マサ江が買う香織へのプレゼントやお土産は、いつもセンスが良い。「良かったね」美咲は、目を細めた。良太もマサ江もニコニコして、早速持ってきた鞄に、たった今貰ったばかりのストラップを付ける香織を見ていた。

 

 聡の家に着いた二人の老人は、主がいないので、気楽そうだった。良太はリビングにあるソファーに腰をどっかりと下ろし、マサ江もソファーには座っているが、背もたれには背中は付けずに、カウンターキッチンの向こう側で麦茶の準備をしている美咲に、「早く見せてくれ」とばかりに、催促の視線を送っている。

 気を利かせたのか、香織が自分の部屋から一学期の通知表を持ってきた。二人は、「へぇ」とか、「すごいね」と言葉を発しているが、通知表について熱心に説明する香織の顔ばかり見ている。香織はそんなことは気付かずに、説明を続けている。

「はーい、どうぞ」

 美咲がニコニコしながら、お盆に麦茶の入ったグラス四つを乗せ、それをリビングのテーブルの上に置いた。マンションの十五階のこの部屋は大きな窓から太陽の光が入っている。日よけのカーテンをしているが、それでも室内の照明を点けなくても十分な明るさを保っている。

「香織、DVDのスイッチ入れて」

 美咲は、そう指示をすると、麦茶のグラスを配りながら、今度は良太とマサ江に向かって、「何から、見る?」と聞いた。

「何からって・・・」

 マサ江は、香織のDVDなら何でもいいんだから、という口調で、良太を見た。良太は、マサ江と美咲の会話にはまったく入る気がないようで、ゴクゴクと麦茶を飲みほしている。

「じゃあ、まずは、小学校の卒業謝恩会の時のやつね。本当はこの前あった区民センターでの、区のコンクールのほうを見せたいけど」

「大丈夫。どっちも見るから」

 マサ江は、茶目っけのある目で、そう答えた。

「謝恩会は、香織のソロパートはないからね。その代わり、区のコンクールは香織のソロがたっぷりあるから、楽しみにしてね」

 美咲は、そう言うと、リモコンを巧みに操り、謝恩会のDVDをスタートさせた。どこかの父兄が撮ったということで、アングルや画質には期待はできない。手ぶれが目立つ。曲は、森山直太郎の「さくら」だった。香織は画面に近寄り、これが自分だよと、指を指している。

「今時は卒業にこんな歌を歌うんだな。俺の頃は、仰げば尊しか、蛍の光だったけどな。なあ?」

 聡が居ないときの良太はいつも饒舌だ。

「そうねえ、でも上手ね」

 マサ江は、上手ね、の部分は香織をほうを向いて言った。香織に言うときだけは、今日も声のトーンが違う。尤も、良太は良太で、自分の発した質問の答えには興味が無く、香織が指差した、画面の中の香織を食い入るように、見ている。

 二曲目は岩河三郎作曲の小学校の卒業式の定番のひとつ、「巣立ちの歌」だった。この歌には、少し耳馴染みがあるのか、良太は無言で聞いている。横顔は満足そうだ。

 最後のフレーズが終わり、一拍置いて、ピアノがゆっくりと後奏を始める。その無音の一拍に別れの寂しさと、新たな旅立ちという万感の思いが込められている。何かを思い出したのか、それとも単に感極まったのか、マサ江はまた目尻を拭いていた。曲が終わった瞬間、濡れた目尻のまま、画面に向かって拍手をしていた。香織は、美咲と顔を見合わせ、ニッコリと笑った。

「どうだった?」

 香織が、聞く。

「良かったよー。感動したよ」

 マサ江は、余韻に浸りながら答えた。

「おじいちゃんは、どうなの?」

 美咲は、無表情の良太にも聞いた。

「ああ、良かった」

「それだけ? 見せ甲斐がないわね」

 笑みを浮かべながら、美咲は言った。言いながら、次のDVDをセットするべく、別のケースを棚から取り出し出している。

「じゃあ、次はいよいよコンクール。この前、やったやつ。香織は一年生なのに、ソロを任されたのよ。ねぇ、香織」

 美咲が自慢を込めて言う。更に、「本当に凄い事なのよ。だってまだ、入ったばかりの一年生なのに、任されたのよ」と続けた。何度も同じ事を言っていることに自分では気が付いていない。香織はさすがに照れたのか、美咲の後ろに隠れた。

 そう、香織は小さい頃から歌手を目指し、歌の稽古に通っていたので、そのへんの中学生に負ける訳がなかった。

「すごーい。さすが、香織ちゃんだ」

 さっきまでの謝恩会の感動はどこかにいったのか、マサ江は先ほどにも増して大袈裟なリアクションを返した。そして、良太に対して、「そうなんだって、おじいちゃん」と、話しを振った。マサ江の呼び掛けに良太は「ホッ、ホッ、ホッ」と優しく笑った。孫娘の活躍が嬉しそうだ。やっぱり、良太は頑固じじいではなくなってきている。どうやら、出演者全員が同じ画面に映る卒業謝恩会よりも、香織のソロパートがある、次のDVDに期待をしているようだ。

 映像が始まった。曲は、映画「天使にラブソングを」のジョイフル・ジョイフルだ。区が専門の業者に撮影を依頼したため、先ほどの謝恩会とは比べ物にならないくらい、見やすかった。そのためか、良太とマサ江には絶対に知らないであろうこの曲でも、二人の興味は増して、自然と先ほどよりも少し前かがみになっていた。曲も中盤に差し掛かり、香織のソロパートになった。それこそ、天使のような優しくて、それでいて意志の強さを感じさせる、伸びのある声だった。

「キャ!」

 香織のアップに、マサ江が思わず声を発する。

「うるさい」

 良太が頑固じじいの片りんを見せた。一声も、一瞬も逃さないという気迫が伝わってくる。美咲は、そんな良太がむしろ嬉しかった。

 曲の終盤は、全員による大合唱だ。皆、手拍子をしながら、笑顔で楽しそうに歌っている。客席で観ている他校の生徒も、手拍子を合わせている。時々映る、香織のアップは、青春を感じさせた。美咲は、娘の一生懸命で、充実した表情に心が揺さぶられ、混み上げてくるものを感じた。何度も見ているDVDなのに、だ。

 曲が終わると、マサ江は先ほどの謝恩会よりも、一層大きな拍手をした。「すごーい、すごーい」を連発している。見ると、良太も笑顔で手を叩いていた。歌詞は英語なので、意味など分からない筈なのに、歌は二人の老人の心をも揺さぶったようだ。

 そして、映像はコンクールの結果発表のシーンに変わった。第三位、第二位と順番に、学校名が発表されていく。そして、いよいよ優勝校の発表となった。結果は、分かっているのに、美咲はこのシーンになると、いつもドキドキする。良太とマサ江にも結果はコンクール直後に伝えてあるが、二人もドキドキしているのだろうか。優勝校の名前が読み上げられた。香織の学校だった。今日、三度目の拍手がリビングに響いた。

 美咲は、二人の反応が思った以上だったので、満足感で一杯だった。香織も得意げな表情をしている。

「たいしたもんだ」

 良太が簡潔に、感想を言った。

「良かったね、香織ちゃん」

 マサ江は、満面の笑みで香織を褒め讃える。

「うん、次は区の代表として東京都のコンクールに出るんだよ」

 香織は、ソファーの後ろに回り込み、背もたれの向こう側から、首から上だけを出して、言った。得意げな表情はまだ続いている。

「そう、今度は会場も大きいから、父兄も見に行っていいんだって。おじいちゃんとおばあちゃんも来るでしょ?」

 美咲は、そう言いながら、日程などの話しを始めた。

「えっ、いいのかい? もちろん、行くよ。いつだい」

 マサ江は、良太の了解を得ず、すぐに快諾した。良太も否定していないので、楽しみにしているのだろう。

「秋。夏休みが終わったあとだから、もう少し先よ」

 美咲は、二杯目の麦茶を注いだ。


 その後、まだ時間があるから、と謝恩会とコンクールのDVDをもう一度ずつ見た。良太とマサ江の希望だった。二度目なので、さっきよりは静かな反応であったが、その分、じっくりと細かく、観察をしているようだった。その証拠に、マサ江は「あっ、香織ちゃん、この日はリボン付けてたんだ」など、よく見てるな、というような感想を時折言っていた。良太は、一回目よりも更に優しい目で画面を見つめている。


 美咲の携帯電話が震えた。聡からのメールだ。「これから帰宅します」シンプルなメールだ。メールになると夫婦でも、何故か、「ですます調」になってしまう。

「了解」

 返事もシンプルだ。だが、今度は美咲が笑顔の絵文字をつけて返した。送信を終えた携帯電話のメール画面に映る時計を見ると、夕方の五時を過ぎたところだった。

「香織、お父さん、今から帰って来るって」

 美咲は、香織を通じて、家の中にいる全員に伝えるつもりで、そう言った。

「えー早いね」

 香織は嬉しそうにソファーの背もたれに上半身を預け、足をバタバタとさせ、全身で喜びを表現している。それは、まるで空中をバタ足で泳いでいるようであった。確かに、普段の聡は、もともと帰宅は遅い方ではなかったが、それでも7時前後に、「帰るメール」があるのが普通だった。

「お母さんは、これくらいの時間だと思っていたよ」

 涼しい顔をして、美咲が言う。更に

「外出先から直接帰るのよ。この時間ってことは」と続けた。

「へぇーすごいね。お母さんどうして分かるの?」

「どうしてかって? それは・・・お母さんはお父さんの所定鑑定人だからよ」と言って高笑いをした。勿論、実際には所定鑑定人などではないが、昔、二人で骨董品や美術品を鑑定するテレビ番組を見ていた時に、それが本物かどうか鑑定するために、その子孫である所定鑑定人と呼ばれる人が出てきたので、「こんな鑑定人いるんだ」と驚いたことがある。それから二人の間で使っている言葉だ。所定鑑定人は、一見しただけでは分からない、癖や工程などを、その作品から読み解く事が出来、本人が作ったものかどうか見分けるのだ。美咲は自分は聡の所定鑑定人になれるほど、聡のことを把握していると自負していた。

「ショテイカンテイニン?」

 香織は心の中でその言葉を呟いてみた。意味が分からなかったが、しかし聞き返すことはしなかった。たぶん、お母さんはお父さんのことなら、何でも知っているという類の意味だろうと思ったからだ。

「帰って来るのか?」

 良太が、何かが攻めてくるのか、と言うような調子で、美咲に聞いてきた。緊張感が伝わってくる。

「そうよ。おばあちゃんから、昼間に電話が来た時に、聡に報告しておいたの。みんなでご飯食べに行って、そのまま町田まで送るから、聡が気を利かせて、早めに帰ってきてくれるの」

 美咲は、当たり前のことだというニュアンスを込めて言った。

「あら、悪いわね、そんなことしなくてもいいのに」

 マサ江は、遠慮の言葉を口にするが、香織と一緒にいられる時間が延びたので、その言葉とは裏腹に、表情は喜んでいた。

 マサ江の嬉しそうな態度とは対照的に、良太は聡のメール以来、口数が少なくなったように美咲には感じた。別に二人は反目しあっている訳でもなく、皆で旅行に行った時などは、お互いにお風呂に誘うような仲だ。男同士は、どこかでお互いを牽制している部分があるのだと美咲は思っていた。男って面倒くさくて滑稽だ、と思った。良太も香織といる時間が増えて嬉しいに決まっているのだから、素直に喜べばいいのに、と。

「さあ、おじいちゃん、おばあちゃんは帰る準備をして、香織は出掛ける準備!」

 美咲の号令が家中に響いた。


「ただいま!」

 聡の大きな声が、玄関先から聞こえてきた。メールをしてから一時間は経っていない。香織が、「おかえりー」と言いながら、玄関への廊下を走って行く。

「早かったね、お父さん」

 香織は、早く帰ってきた聡に話しかけた。

「うん、外出先からそのまま帰ってきたんだ」

 革靴を脱ぎながら、聡はそう答える。

「やっぱり」

 香織は、自分の後ろに立つ、美咲の方を振り向いて言った。

「でしょ?」

 美咲は、人差し指を立て、得意気に返事をした。

「『やっぱり?』『でしょ?』って何?」

 聡は、二人やりとりが何のことかさっぱり分からず、当惑している。

「お父さんは外出先から帰って来るって、お母さんが予言していたのよ」

 香織が説明をする。

「そうか、そういうことか。そうだよ、お母さんはお父さんの事なら、何でも当てちゃうんだ。お父さんの所定鑑定人だよ」

 本来の正しい使い方ではない事は聡も知っていたが、聡と美咲との間では、二人にとって所定鑑定人とは何を意味するのか知っていた。

-ショテイカンテイニン-また、この言葉だ。でも、父親の使い方を聞いていたら、さっき自分が予想した意味は外れていないと香織は思った。

「着替える?」

 スーツ姿の聡に、美咲は聞いた。

「そうだな、僕だけスーツっていうのもな。着替えようかな」

「だよね」

 聡が、そう言うか言い終わらないかのうちに、美咲は二人の部屋に戻って、既に用意をしていた聡の私服を出してきた。「はい」と言って手渡す。まるで、聡が着替えたい、と言うと初めから分かっていたみたいに段取りが良い。「その前に」と言って、聡はリビングのドアを開けた。

「こんにちは」

 聡は型通りの挨拶をした。

「お邪魔してます」

 マサ江が、畏まって答える。やはり、娘の旦那として、聡のことを尊重しているのが分かる。

 良太は「お疲れさん」と声を掛けた。無愛想というよりは、仕事があるのに大変だね、というような、言わば一家の主としての同じ気持ちを分かち合うかのような、そんな気遣いを聡は感じた。

「少し待っていてくださいね、すぐに着替えてきますから。そうしたら、ご飯を食べに行きましょう」

 聡は、良太とマサ江に初めて会った時の、二人の自分への評価として『近年稀に見る好青年』というフレーズを気に入っており、そのイメージを崩さないように、敢えて爽やかさを強調した。

 寝室に戻り、私服に着替えていると、香織が「お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんと話す時は、いつも美香たちと話す雰囲気と違うね」と、纏わりついてきた。

「違う? そうかな? 会社ではいつもこんな感じだけどね」

「そう、お父さんは、外面が良いの」

 美咲が、聡から受け取ったネクタイをクローゼットに戻しながら、言った。

「ソトヅラ? 何それ? ヅラ? カツラの一種?」

 香織は真顔で聞いた。それを見た、聡と美咲は顔を見合わせ、次の瞬間、同時に吹いた。

「もう、香織ったら、可愛いんだから」

 美咲は、そう言うと、香織の頭を撫でた。中学生になり、大人になりつつある香織が、時折見せる小さい子供のような、そんな仕草、振る舞いが美咲も聡も大好きだった。子離れできないな、とよく二人で話している。

 当の香織は、何故、両親が笑っているのか、そして何故頭を撫でたのか、分からなかった。馬鹿にされたようで、不満そうな顔をしていると、美咲がもう一度、頭を撫でる。「外面って、外にお面の面って書くの。まあ、顔って言ってもいいわ。外面というのは、家族などの親しい人以外に見せる態度や振る舞いのことよ」香織は、ああ! と言う声を出し、合点がいったという顔をしている。聡は、着替えながら、二人のやりとりを優しい目で見ていた。


 着替えを終え、皆より一足早く、聡は家を出た。マンションの駐車場に停めてある車に、先乗りする為だ。エアコンを掛け、皆が来るまでには、少しでも車内を涼しくしておきたかった。

 駐車スペースから車を出し、マンション前のロータリーまで車を走らせる。窓を全開にして、車中に溜まった熱い空気を逃がす。学生が夏休みに入ったばかりだと言うのに、なんという暑さだ。ロータリーに着き、車を停車させると、カーナビを操作し、行き先を良太の家にセットする。晩御飯は、その道中で街道沿いのファミリーレストランに入るつもりだ。エアコンがゴーっと音を立てながら、フル稼働するのを待ち、聡は車の窓を閉めた。

 十分くらいすると、美咲たち四人がマンションロータリーに姿を現した。聡が運転する車は、三列シートの七人乗りだ。美咲はスライドドアを開けると、二列目のシートを倒し、良太とマサ江を三列目のシートに招き入れた。マサ江は、「すみません」と言いながら、良太は言葉は無かったが、笑顔で美咲に従った。これから遠足に行く園児が、幼稚園の先生に導かれバスに乗るシーンに似ていると、聡は心の中で思った。

「いい? 押すわよ」

 美咲は、そう言うと、二列目のシートを所定の位置に戻した、二列目には美咲と香織が座った。

「涼しいっ!」

 香織が叫ぶ。聡は、香織の笑顔に至福の時を感じながら、アクセルを踏んだ。


「えー、送って行ったの?」

 電話の向こうでは、美咲の実の姉、亜希子が声を張り上げている。会話の内容が筒抜けだ。美咲は、耳から少し受話器を話しながら、応対している。電話の声が大きいのは、美咲の一家の伝統なのかも知れない。

「そうよ、だって楽しいじゃない」

 美咲もテンションが高い。

「楽しいって、今日は平日でしょ? 聡さんだって、大変じゃない」

 亜希子は、なおも美咲を攻める。でも、本当に攻撃している訳ではなく、女姉妹同士の楽しいやりとりだ。その証拠に受話器の向こうでは、バリバリと袋を破くような音がしている。お菓子でも食べながら話すつもりだろう。

 良太とマサ江を町田の家に送り、諭一家が自宅に戻ってきたのは、夜の十時を少し回ったところだった。家に戻ると、暗いリビングの中、留守番メッセージが入っている事を知らせる緑色のランプが光っていた。留守電のメッセージは亜希子だった。亜希子と美咲は、別々の家庭に収まった今でも、週に二~三日は長電話をする。特に用事があっても、無くても電話のペースは変わらない。ただ、美咲は専業主婦だが、亜希子は仕事をしているため、伝票の締めだとか何だかの時には、早々に電話を切られることも、ままある。

 留守電は亜希子だと知った美咲は、すぐには折り返しの電話を掛けずに、香織を寝かしてから、電話を掛けた。美咲の方もゆっくり話そうと思ったからだ。


「平日って言っても、金曜日だし。で、用件は何なのよ」

 美咲は、身内ならではのぶっきらぼうな口調で尋ねる。

「そうそう。おじいちゃんの事なんだけどね」

「え、お父さん」

「あ、うん。お父さん。良太君ね」

 亜希子はわざとおどけて、言った。これから話す内容が重く伝わらないための予防線を張ったのだ。

「良太君がどうしたの? 今日も暑かったけど元気だったよ。でも、さすがに丸くなったね。一日中、香織にデレデレ。昔の頑固じじいの面影がどんどん無くなってきているわよ」

「おばあちゃんは何も言ってなかった? おじいちゃんのこと」

「何も。で、何なのよ。早く言ってよ」

「じゃあ、言うわよ。この前、市の老人を対象とした健康診断があって、おじいちゃんは『そんなもの受けたくない』なんて言っていたらしいのだけど、無理やりおばあちゃんが連れていったのよ」

「うん、それで。いいんじゃない。もういい歳だし」そう、良太は昭和十五年生まれだから、今年で七十六歳になる。

「そしたら、胃に影が見つかったんだって。良太君」

 亜希子はさらっと言ったが、それでも美咲を驚かせるには十分だった。美咲は、それまでのリラックスした姿勢から、いつものように背筋をピンと伸ばした姿勢に座り直していた。何故か、美咲の頭には、あの中学校の時のキャベツの匂いに包まれた車で毎日学校まで送ってくれたシーンがよぎった。

 暫くして「・・・え、それで」この言葉を返すのが、精一杯だった。

「しっかり検査してみないと分からないけど、癌かも知れないって、お医者さんの説明があったらしいよ。でもね、そんなに心配しなくていいよ。老人だから、進行も遅くて、すぐにどうこう、という程度ではないみたいだし」

「心配しなくてって・・・。心配するわよ。ね、入院とかは?」

「入院は当分、先じゃない? 本人に自覚症状ないみたいだし。だから、この話し、お父さんには言ったらだめよ。途端に弱り出すかも知れないから」

「・・・わかった」

 美咲は、それ以上喋ると涙が溢れそうで、その後は、早々に電話を切った。


「どうした」

 始めはテンションが高かったのに、後半はほとんど声が聞こえなくなった美咲を見て、心配した聡が声を掛ける。美咲は泣いているみたいだ。

「聡、おじいちゃんが・・・、おじいちゃんが癌なんだって」

 いきなりの衝撃的な言葉に、聡は動揺した。ついさっきまで楽しんで電話を盗み聞いていたのに、一気に奈落の底に突き落とされるような気持ちだ。

「嘘だろ。だって、今日もご飯いっぱい食べていたじゃないか」

 強い口調で言うと、更に美咲が泣き出しそうなので、聡は努めて明るく、軽く返答した。美咲は返事を返さない。どうやら、本当のようだ。しばらく、リビングには沈黙が続いた。聡は、自分の心だけがリビングの天井裏に入り込み、その位置から困惑している自分と美咲を、天井に開いた小さな穴から客観的に見ている。そんなシーンが頭に浮かんでいる。当事者として、このことを捉えられなかったのだ。

「入院は?」

 聡が沈黙を破る。

 美咲がその言葉にハッとして、身体をビクンとさせる。美咲もまた、聡と同じように意識が違う所をさまよっていたのかも知れない。

 ゆっくりと、口を開く。

「まだみたい。老人だから、進行が遅いらしくて、今日、明日という話ではないって」

「そうか・・・」

 聡は沈痛な面持ちだが、それでも美咲に対しては努めて明るく言った。

「心配ない。美咲には僕がついてる。それよりも、これからの事を考えよう」

「これからの事?」

 聡は、そんな事を言うつもりはまったく無かったが、美咲を何とか元気づけようと、気付いた時には、これからの事を考えよう、という言葉を口に出していたのだ。

「ああ、そうだ。今日の今日で、切り替えはすぐには出来ないと思うけど、これからはおじいちゃんとおばあちゃん、そして僕たちとの思い出づくりだ。残された人生を哀しみだけで過ごしていくなんて、寂しすぎる。香織にはしばらくこのことは内緒にしておこう。今のおじいちゃんは香織だけが、希望の光だ。香織の笑顔を最後まで見せてあげよう」

 そう言うと聡は、お風呂に入ってくる、と言ってバスルームへ消えた。

「思い出づくり・・・」

 ただ一人、リビングに残された美咲は、心の中で、その言葉を何度も繰り返していた。


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