第3話 3

 香織が、部活から帰ってきた。

「あー、お腹減った」帰ってくるなり、昼食の催促をしている。

「エミちゃんとは、どうだったの」美咲は、自分とマサ江がそうであったように、香織とは友達のような親子でありたいと思っている。だから、なるべく友達のような言い方で聞いてみた。

「うん、大丈夫だよ」

 洗面所から明るい声が返ってきた。

「大丈夫って?」

「だから、エミも何とも思ってないみたい。いつものように角のポストに行ったんだけどね、居なかったんだ。でも、少し待っていたら来たんだよ。なんかね、今朝は寝坊しちゃったんだって。昨日のことは、お互い忘れちゃって、ゆうべ、エミも歌番組見てたんだって。嵐かっこいいよね、で盛り上がっちゃった。帰りも一緒に帰ってきたよ」

 美咲は、心の中で、ほっと胸をなでおろした。親バカかも知れないが、最近は些細なことで、仲間外れやいじめに発展するというから、朝一緒に行くのを見た後も、少しだけ気にしていたのだった。


 自分の心配が杞憂に終わり、美咲は香織との昼食を楽しむことができる。自然と話も弾む。

「香織、今日の晩御飯の買い物、一緒に行こうか?」

「うん、行きたーい!」

「よし、じゃあ昼ごはん食べたら支度してね。あっ、そうそう。明日、部活休みでしょ? だから、お父さんが、町田のおじいちゃんちに行こうって言ってるんだけど」

 カフェオレを香織のピンクのマグカップに注ぎながら聞いた。

「うん、行くー。いいよ」

 中学生にもなれば、おじいちゃん、おばあちゃんの家に行くのは退屈するので、普通は嫌がるところだが、香織はそんな素振りはまったく見せない。我ながら、いい子に育ったな、と思うと、幸せな気持ちになり、美咲はカフェオレを飲んでいないのに胸のあたりが気持ちの良い温かさで包まれるのを感じた。

「でも、不思議だね」

 香織がサンドイッチを頬張りながら、聞く。

「なにが」

「お父さん。だって、お父さんのお父さんって、隣町に住んでいる板橋のおじいちゃんでしょ? でも、お父さんは、自分のお父さん、お母さんに会うよりも、町田のおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行こうっていうことの方が多いよね」

「ああ、板橋のおじいちゃんとおばあちゃんね。そうね、それは、多分、香織をたくさん褒めてくれるからよ」

「褒める? 私を」

「そう。板橋のおじいちゃん、おばあちゃんも香織のことは可愛いと思ってくれているわ。でも、あちらの家は、お父さんのお兄さんが同居していて、そのお兄さんの子供、まあ、香織と同じく、おじいちゃんたちから見たら、孫ってことね、そのお孫さんが一緒に住んでいるから、やっぱり香織だけを可愛がるわけにはいかないのよ」

 聡の兄は聡の実家に住み、香織を挟んで、それぞれ一歳違いの、娘と息子がいた。下町育ちの飾らない子供たちだ。

「ふーん」香織が、分かったような、分からなかったような顔しているので、美咲は続ける。

「要は、私のお姉ちゃん、亜希子おばちゃんには子供がいないから、町田のおじいちゃん、おばあちゃんにとっては、香織がたった一人の孫なの。だから、香織のことをとても可愛がってくれるのよ」

「そうなんだ。それって、お母さんも嬉しい?」

「嬉しいわよ。可愛い自分の娘が、褒めてもらえるんだもの」

「香織も、町田のおじいちゃん、おばあちゃん好きだよ。明日楽しみ!」

 そうであった。香織が言う通り、諭は休みの日に予定がなかったりすると、町田に行こうと、よく提案をする。その理由は、美咲が言っていることも当たっているが、町田のおじいちゃん、おばあちゃんの喜ぶ姿を見るのが、諭は好きだったからだ。

 特に、おばあちゃんはテレビドラマで見るような、大袈裟なリアクションで香織を歓迎してくれる。心底、香織に会えて嬉しいという気持ちを包み隠さずに全力でぶつけてくる。


 翌日の土曜日、諭一家は車の中にいた。勿論、行き先は町田だ。外は今日も快晴で、春のぽかぽか陽気が、行き慣れた町田への道を、希望あふれるピカピカの道に変えてくれている。

 運転席の真後ろに座る香織は、お気に入りの嵐のCDに合わせて、歌っている。いつも車内では嵐の曲が流れているせいか、香織の隣に座る美咲も感化され、いつしか口ずさめるようになっている。ご機嫌に歌う二人を、諭は車内ミラーを通して、微笑ましい気持ちで、ちらちら見ていた。

 途中、道が混んでいたので、空いていれば一時間くらいのところを二時間かけて町田に着いた。時刻は、丁度午後三時であった。

「こんにちわー」

 香織が元気よく、店のドアを開けた。

「いらっしゃーい!よく来たね」

 マサ江が満面の笑みで出迎える。今か、今かと待ちわびていた気持ちを、やはり隠しきれずに全力で嬉しさを表現している。諭と美咲はお互いを見つめて、さあ、始まったとばかりに、満足そうな笑みを浮かべた。

 一方、外の通りに向かってタイ焼きを焼いている良太には、諭の運転する車が、駐車場に停まるところが目に入っていた筈だ。しかし、手を止める気配はない。軍手をはめて職人然として黙々と焼いている。

「おじいちゃん、香織を連れてきたよ」

 美咲が上機嫌で言う。良太は、鉄板から目をチラリと離しただけで、またタイ焼きを焼き始めた。

「まったく、せっかく香織ちゃんが来てくれたんだから、そんな無愛想にしてないで、手を休めたら」と、マサ江が言う。

 マサ江と良太の力関係は、いつの時からマサ江が巻き返していたのだが、実家にくる度に、その度合いは増している。今は完全にマサ江が勝っている。女は強いな、と聡は思った。

 美咲が、突然声を出す。「あっ、おじいちゃん、香織の写真飾ってくれているんだ」

 鉄板の横の、ガラスケースの上に香織の写真が飾ってあった。つい先日の、小学校の卒業式の写真を美咲達がプレゼントしたものだ。

「そうなのよ。おじいちゃんが、ここに飾っておけって言うのよ。美咲の中学時代にそっくりだって」

 美咲は良太に話しかけたのだが、そう返答したのはマサ江だ。良太は依然、黙ったままだ。

「へぇー」

 素直じゃないねぇという気持ちを込め、美咲は悪戯な目をマサ江に向けた。マサ江はうん、うん、と同じように悪戯な目をしながら頷いている。

「香織ちゃん、最近お歌の方はどう?」

 マサ江が香織に向けて発する声は、良太に向けて発するそれとは違っていて、一オクターブ高い声だった。

「うん、中学校の部活に体験入部しているんだよ。香織だけ特別に。すごく楽しいよ」

 ニコニコと香織が答える。諭と美咲はその様子を微笑ましく眺めている。

「そうかい、そうかい、それは良かったね。将来は歌手になるんだもんね、香織ちゃんは」

 そう言うと、マサ江は店内に置いてある、ドーナツ状のパイプ椅子に座るよう、香織を促した。いつもは、マサ江が座っている椅子だ。さ、さ、早く座りなよ、と言いたげに、マサ江は香織の手を引いて椅子に座らせた。

「渋滞してお腹空いただろ、タイ焼き食べな」

 マサ江は焼きたてのタイ焼きを香織の前に差し出した。ところが、香織はもじもじして、タイ焼きを受け取ろうとしない。そして、助けを求めるような目を、美咲に向ける。美咲は、ハッとしてマサ江に話す。

「おばあちゃん、悪いけど、美香は餡子が苦手なのよ。だから、中身はクリームじゃないと」

 昔は、タイ焼きと言えば中身は餡子だったが、最近はクリームなどの中身が入っていることも珍しくなく、良太の店でもクリームのタイ焼きはあった。頑固な良太は、クリームなんて、と言っていたが、美咲が「最近はみんな売っているのよ」と説得して焼くようになっていたのだった。

「そうだったね、ごめんね、香織ちゃん。クリームだったね」

 マサ江は鉄板の横にあるガラスケースの中を見た。しかし、餡子の置き場所には何個ものタイ焼きが並んでいたが、クリームの場所にはひとつもなかった。マサ江はがっかりして、良太に大急ぎでクリームを作ってもらうようお願いをしようと思った時だった。

「ほれ」と良太がひとつのタイ焼きをマサ江に差し出した。それはクリームのタイ焼きだった。

「なんだ、おじいちゃん、取っておいてくれたのかい?」

 マサ江は、安堵と、それならそうと言ってよ、という気持ちが混じった声を出した。その声を背に受けながら、良太はまた無言でタイ焼きを焼き続けている。

「はい、クリーム」

 マサ江は満面の笑みで、クリームのタイ焼きを香織に手渡す。それはまるで自分の手柄かのようだった。

「ありがとう。おばあちゃん。あと、おじいちゃんも、取っておいてくれてありがとう」

 香織がそう発しただけで、歳をとって涙もろくなっているマサ江は、目尻がもう濡れている。香織は、クリームタイ焼きを一口食べると、「おいしーい。やっぱりおじいちゃんのタイ焼きはおいしいね」と、感想を言った。

 その言葉を聞いた良太は、振り返り、香織に向かって「そうか、そうか、おいしいか。そうか、そうか」と目尻を下げた。それは、職人の顔ではなく、まぎれもなく一人のおじいちゃんの顔だった。

 誰かが話しかけても、これまでずっと黙ったままの良太が、初めて言葉を発した。その様子を見た美咲とマサ江が目を合わせて口をポカーンと開けている。あの気難しい良太が笑っている。正確には、目尻を下げているだけだが、良太は笑っているのだと、美咲とマサ江には分かった。


「本当は、お店がお休みの明日に来ることが出来れば良かったんだけど、予定があってなかなか来られないのよね」美咲もタイ焼きを食べながら、誰に向かうともなく大きな声で話す。すると、マサ江が「いいの、いいの。今日、こうして香織ちゃんの顔が見られたんだから。今日は、ご飯食べて行くんでしょ?」

「うん、そのつもり。で、明日のお休みはどうするの? おばあちゃんたち」

「そうねぇ、釣りにでも行こうかって言ってるんだけどね」

「釣り? そんなこと前からしていたっけ?」

「最近また始めたの。八丈島にいる時を思い出したんだって。最近、やたら島にいた頃の話しをするのよね」無言で背中を向けている良太を顎で指しながら、マサ江が答えた。

「まあ、おじいちゃんは島出身だから、やっぱり海が好きなんだね。でも、なんだかんだ言って、二人は仲が良いんだね」

 嬉しそうに、美咲が話す。頭の上には♪マークが見えるかのような、上機嫌ぶりだ。やはり、父と母が健在で、仲良くしている事は嬉しいのだろう。

「でも、おじいちゃんの運転で行くんでしょ? 気をつけてよね、おじいちゃん」

「ああ、わけないさ」

 娘の美咲の言葉に、良太は初めて反応した。


「もう、今日はいいぞ」と良太が言うので、諭一家三人とマサ江の四人は店舗二階にある自宅に上がって、夕食の準備をすることにした。

「買い物は?」と美咲がマサ江に聞くと、もう、今日の午前中に用意してある、という答えが返ってきた。楽しみにしていたことが伺える。

 マサ江が用意していた夕食は、通称「島寿し」と言われるお寿しだった。ネタはトビウオを醤油漬けにしたもので、見た目は通常の握り寿しだが、寿しに付きものの山葵が入っていない。代わりに、黄色い練りカラシが添えてある。良太の故郷である、八丈島の郷土料理だ。

 昔、その地方では山葵が手に入り難く、代わりにカラシを使ったことの名残だという。漁が盛んな八丈島では、漁に出た後、船の上で食べられるようにと、保存が利いて痛み難い酢飯が広がり、練りカラシなど独自の進化を遂げ、今の島寿しとなったようだ。

 美咲は、子供の頃から食べているので、違和感は無かったが、八丈島とは縁もゆかりもない諭にとってみれば、練りカラシには最初は面食らった。でも、何度か食べているうちに島寿しの旨さにはまり、今では美咲以上に島寿しを好きなんではないかと、自分で思うほど好きになっていた。

 マサ江と美咲が寿しを握り、その握るシャリを香織が団扇で仰ぐという分担で、準備は進んでいった。諭は特にやることがなく、申し訳ない気持ちはあったが、だからと言って、一階に降りて、良太と二人きりになることも避けたかった。男同士、会話が弾まないのは、火を見るより明らかだったからだ。


 諭は、初めて美咲の実家に行った時の事を思い出していた。美咲から「あなたを両親に紹介したいから」と言われた時のことだ。

 父親の良太について散々、頑固だとか、気難しいとか聞かされていたので、二十五歳の若蔵であった諭にとって、それは大きなプレッシャーとして圧し掛かっていた。

 その日、諭と美咲は町田にある美咲の実家に車で向かっていた。東名高速道路は、大きな渋滞もなく順調だった。この車内でも諭は、良太は怖かっただとか、頑固者だとか様々な形で良太のことを聞かされた。自然と無口になって運転をしている諭に美咲は、「緊張しているの?」と聞いてきた。

 良太は会社で広報部に所属していて、人前で話すことや、初対面の人と話すことには慣れていた。だから、美咲の問いには、緊張している、なんて答える訳にはいかなかった。そう答えたら、「本当に、会社では立派にやっているの?」と言われそうで、結婚前のこの時点で、美咲からそう評価されるのは、なんとなく避けたかった。だから、結果的には頑固者ということ意外に良太についての事前の学習はせずに、今日の初顔合わせに臨むことになってしまった。

「緊張? この俺が緊張する訳ないじゃないか」

 強がってみせた。しかし、それから先の言葉が続かず、無口な運転が続く。カーステレオだけが流れる静かな車内であった。

 

 諭と美咲は、美咲の実家で両親を車に乗せ、近所のレストランに向かった。初顔合わせで、いきなり自宅に上がり込むのでは、サッカーで言えば、強豪国のホームに練習なしで乗り込むようなもので、美咲が気を使ってくれたようだ。せめて中立的なリラックスできる場所をと。しかし、レストランまでの車内は美咲とマサ江だけが会話をするだけで、良太の放つ頑健なオーラが車内に緊張感を与えていた。その雰囲気は車を降りるまで結局拭えなかった。

 当然、レストランでも車内での緊張感を引き摺り、ぎこちない雰囲気で会食は進んでいった。車で来ている為、お酒も飲めず、酔いに任せて、はっちゃけることもできない。美咲と母のマサ江が、最近できたお店の話しや、美咲の子供時代の話しをして、何とか場を凌いでいた。マサ江も美咲も良太の顔色が気になって仕方がなかった。依然、諭は無口だった。

「諭も学生の頃、スポーツやっていたのよね」

 学生時代、バレーボール部だった美咲が突然、話を諭に振った。さすがに、諭にも発言させないと、という気持ちが働いたのだろう。諭はラグビー部の出身だった。美咲はせめても、との思いで諭の得意分野の話しを振ったのだ。

「ああ、そう。ラグビー部」と言ったが、口の中が渇いているので、ちゃんと伝わったか心配だった。慌てて、諭は水を一口飲み、話しを続けた。

「そう言えば、ラグビーの強豪校、町商、町田商業はこの近くですよね」

「ほお、町商を知っているのか」

 それまで無言だった良太が口を開いた。

「はい、勿論です」

 良太の反応があり、諭は驚いたが、この機は逃せないとばかりに、続けた。普段、広報部で養ったコミュニケーション能力を活かすときがきた。必死だった。

「古豪、町商を知らないラグビーファンはいません。去年は県の決勝で負けてしまいましたね。残念でした」

「あれは、惜しかった。勝てた試合だった」

 良太は諭の話しに喰いついてきた。

「お義父さんは、町商のファンなんですか?」

 なおも、諭は続ける。美咲は、応援するような目でこちらを見ている。聡は、「おとうさん」と呼んでしまっても良かったのかと、言い終わってから気付き、背中に汗が垂れるのを感じた。

「ファンも何も、あいつらは、いつも練習帰りに、うちの店でタイ焼きを食って帰るんだ」と勢いづく良太を見て、呼び方の事など気にしていないと聡は安堵した。

「そうだったんですか。それなら、町商の動向は気になりますよね」

「ああ、息子みたいなもんだ。あいつらは。君はなにかい? ラグビーは、いつからやっていたのかね?」「ラグビーの練習はきついだろう?」

 それからは、良太のラグビー話しは止まらなかった。諭も、やっと見つけた金脈を失わないぞ、とばかりに必死にラグビー談議に応じた。美咲はホッとして、前に座るマサ江と目を合わせ、ほくそ笑んだ。


 気が付くと、諭と良太の話しは、ラグビーの話しから、相撲の話しに変わっていた。さすがに、ラグビーだけではネタ切れになりそうだと、諭が巧みに話題を変えたのだ。これがまた、当たった。諭は、第二の金脈を掘り当てたのだ。良太は無類の相撲好きで、顔を上気させて熱っぽく語った。

 実は、諭はラグビーほどは相撲には詳しくなかったが、良太くらいの年齢なら、相撲は好きだろうとヤマをかけて、話題を変えたのだ。諭は、相撲を詳しくないことを逆に利用し、良太の言うことに「へぇー」とか、「さすが」とか相槌を打ちながら、先生に教えを乞う生徒のように接した。そんな風に接せられたら、誰でも気分が良い。良太は上機嫌のまま、会食を終えることができた。

 店を出て、駐車場に向かいながら、「やるじゃん、彼」とマサ江が嬉しそうに肩を寄せてきた。「まあね」美咲は、胸の前で親指を立てた。それから、両親を実家に送り、そのまま二人とは別れた。

 

 その夜、自宅に着いた美咲は、帰るなり受話器を手にして、ボタンを押した。リビングの時計を見ると、夜の十時三十分を過ぎたところだった。会食が思いの他、盛り上がり、この時間になってしまった。いつもマサ江は十時過ぎには寝ると言ってたけど、と独り言を言いながら、美咲は受話器を耳にあてた。

「今、着いたよ」

 すぐにマサ江が出た。やはり今日はまだ寝ていなかった。

「どうだった?」

 美咲が、挨拶もそこそこに、もう質問をしている。

「美味しかったよ」

 聡には電話の向こうで話すマサ江の声が漏れてくるのが聞こえた。興奮して声が大きくなっているみたいだ。

「料理の話しじゃないわよ。彼の話し。お父さんは何て言ってたの?」

 美咲が一番気になるところだった。

 美咲の指摘に対して、また、マサ江の声が、漏れて聞こえて来る。美咲は神妙な顔をしていたが、徐々にその顔が綻んでくるのが聡には分かった。

「えっ、ほんと? 良かったー。第一関門突破ね」

 美咲の声が、マサ江に負けないくらいに大きくなった。

 それから、二言、三言、話して美咲は電話を切った。すると、すぐに諭が座るソファーにピョンと飛び乗り、言った。「合格よ、合格」

 諭は、その合格が何を意味しているか分かっていた、父親の良太の反応が良かったということだ。聡は、意味を理解していたので、「そう、それは良かった」と、淡々と答えた。当然だよ、と言わんばかりにコーヒーを口にふくむ。美咲には、それが不満なようだった。

「もっと、喜んでよ。お父さんが、初対面の人を褒めるなんて有り得ない事なんだから」

「でも、俺は打ち解けたって感じは、まだ無いんだけど・・・、何か話さなくてはいけないと思って、めちゃくちゃ疲れたよ」

「あなたが疲れたかどうかはいいの。とにかく、凄い事なのよ。初対面で気にいられるなんて」

 興奮する美咲の言葉を聞き、褒められた諭は、良太が自分をどう言っているのか、聞きたくなった。

「どこが良かったとか、言ってたのかな、お義父さん」

「うん、スポーツマンで、『近年、稀に見る好青年』だって。フフ」

「近年、稀に見る好青年? 古い表現だな。フフ」

 釣られて、諭も笑った。

「そうね、あんまり最近聞かないわね。でも、いいじゃない、とにかくこれで、第一関門突破よ」

 美咲は、そう言うと、颯爽と立ち上がり、自分のコーヒーを注いだ。

 その後、一年の交際を経て、聡と美咲は結婚した。美咲が二十五歳までには結婚したいと言っていたのを聡は覚えていたのだ。


「おじいちゃん、出来たよー」

 マサ江が、階段の上から、一階の良太を呼ぶ。返事はない。

 一~二分しても、上がってくる気配は無い。今日は諭一家が来たから早めに店閉まいにしようとマサ江は良太に言っておいた。だから、この時間は鉄板の火を落とし、シャッターを閉めるくらいのことくらいしか、閉店作業はない筈だ。

「今度は、香織が言ってごらんよ」

 美咲が、香織を促す。分かった、と香織は言う。素直に応じるところが香織の良いところだ。香織は大きな声で階段の上から叫ぶ。

「おじいちゃーん、早く来てー」

 甘えるような声だ。少し間が空いてから、

「ほーい、今、行くぞ」

 明るい声が帰ってきた。

 マサ江とのあまりの違いに、諭達は吹き出しそうになった。だが、声をあげて笑うのは必死にこらえた。ちょっとしたことで、良太にへそを曲げられたら困ることは、みんなが知っている。

 良太が二階に上がってきたので、早速、島寿しを囲んで夕食が始まった。

「おいしーい」

 香織はさっき、タイ焼きを食べたのに、もう二つ目に手を付けている。

「さすが、育ち盛りね」

 マサ江が目を細める。香織が島寿しをおいしそうに、次々と口に入れていく様子を、良太は嬉しそうに見ていた。勿論、香織はカラシは付けない。

「そうか、そんなに美味いか?」

 良太のほうから話しかけるのは珍しい。でも、照れがあるのか、香織の方を向かず、料理を見ながら、独り言ともとれる仕草で言った。

「うん、おいしい。香織、これ一番好きかも」

 香織は、独り言かも知れない良太の問いに笑顔で応える。

「ホッ、ホッ、ホッ」

 良太が嬉しそうに、どうだ、美味しいだろ、という顔つきで声を発した。自分が育った郷土の料理を褒められて、嬉しくて、思わず声が出てしまったのだろう。まるで、それだけを見れば好々爺だ。こんなことは最近では、滅多に無かった。いつもの威厳を保とうとする自分と、孫が可愛いという自分が良太の頭の中で戦って、後者が勝ったのだ。いや、勝ち始めたと言っていい。初めは、威厳を保とうと自分の感情を抑えていたようだが、最近は、香織の前での笑顔が明らかに増えた。もう、勝負するのはやめたのかも知れない。

 

 良太の笑顔を見て、美咲がまた、昔を思い出していた。小学生に入った頃、近所で一番最初にクーラーを買ったと自慢していた時のことだ。こんな良太でも、あの時は自分を膝の上に乗せて、やさしい父親だったな、と思いに更ける。そうだ、まだ自分が小さい頃は、良太も優しく、公園などで遊んでくれた。段々と無愛想になって、今の姿になったのは、美咲たち姉妹のほうが、良太から離れていったからではないだろうか。

 その証拠に、天真爛漫な香織に対する態度は、あの時の良太のままだ。良太は優しい心を無くしてしまったのでは無い、まだ心の奥底に持っていたのだ。固い氷山を融かすかのように、自分の娘の香織が三十年の時を経て、良太の心をゆっくりと融かしている、そう思うと美咲は目頭が厚くなった。

「どうした?」

 その様子に気付いた諭に聞かれたが、美咲は「島寿しのカラシ、付け過ぎちゃって」と、笑って返した。

「もう、お母さんはー」

 香織が笑いながら、美咲に突っ込む。周囲は、それに合わせて笑っている。みんなが、香織を見ていた。美咲は「よくも言ってくれたな」という気持ちで、笑顔で香織のおでこに自分のおでこを擦りつけた。


 帰りの車の中。さっきまでワイワイと騒いでいた香織は、高速道路に乗った途端、静かになり、そして今は寝息を立てている。横に座っている美咲は、「あら、寝ちゃったわ」と言いながら、ブランケットを掛けた。

「まるで、電池が切れたみたいだな。ハハ」

 例によって、聡がバックミラー越しに美咲に話しかける。香織は香織なりに、サービスして疲れたんだろう、とも付け加えた。

「そうね。香織は自分の立場を理解しているわ。賢いね。私たちの子は」

「ああ、そうだな。でも、相変わらず、おばあちゃんの歓迎ぶりは凄いね。あの歓迎ぶりを見ただけで、来て良かったっていう気持ちになるよ」

 香織が生まれた頃から、聡と美咲は、良太とマサ江のことをお義父さん、お義母さんではなく、おじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶようになっていた。

「そうね、本当に待っていたっていう感じが伝わってきたわね。もう少し頻繁に行ってあげないといけないわね」

「うん。それにしても、おじいちゃん、今日は、えらく上機嫌だったな」

「うん、もう自分の気持ちを抑えられないって感じ。歳をとったのかな? でも、そのほうがいいよね? 私も嬉しいなー」

「嬉しい? 歳をとって?」

 聡は後ろに付いた車の、車間距離が近いことを気にして、追い越し車線から中央の車線へ自分の運転する車のハンドルをゆっくり左に切りながら聞いた。すぐに後続の車は、聡の車を追い抜いていく。

「ううん。そうじゃなくて、おじいちゃんの香織に接する笑顔を見て、そう思ったの。あんなに楽しそうなおじいちゃんの顔を見るのは、久し振りだから」

 聡は、美咲が自分と同じように、香織が褒められることだけではなく、おじいちゃん、おばあちゃんの喜ぶ姿を見る事も、美咲にとって嬉しいことだと分かり、「同じものを食べていると似てくるって言うけど、性格もそうなのかな」と心の中で思っていた。

「どうしたの? 嬉しそうにして」

 聡は心の中で思っていたのだが、表情が緩んでいたらしい。

「僕も同じこと思っていたんだ。本当に愛すべきおじいちゃん、おばあちゃんだ」

「おじいちゃんは、昔は憎らしかったけどね。でも、確かに、最近は変わったね。というか、私、いま思ってたんだけど、昔は-私がまだ小学校の頃は-、ああだったのよ、おじいちゃん」

「じゃあ、昔に戻っているってことだ」

「そう、香織がそうさせたの。そう思うと、なんか泣けちゃって・・・」

「それで、さっきは涙を拭いてたんだ。島寿しは食べ慣れているから、おかしいな、とは思っていたけど」

「二人をもっと喜ばせたいなぁ」

 美咲は独り言のように呟くと、車の窓から流れる夜空を見上げた。


 

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