第2話 2

 町田のおじいちゃんの名前は良太。会社勤めをしていたが、脱サラし、今は自宅一階を改装し、夫婦二人でタイ焼き屋を営んでいる。タイ焼き屋の他にも焼きそばを焼き、駄菓子も売っている。近所には大規模な団地があり、主に子供達が相手だが結構繁盛しているようだ。

 良太は、昔堅気と言えばそれまでだが、無口で頑固、いつでも機嫌が悪そうな態度、ひねくれた性格で、美咲が子供の頃は、父親なのに怖くて仕方が無かった。そして年齢が経つにつれ、その「怖い」が、「嫌い」に変わっていった。

 まだ、良太が脱サラする前のことだ。姉と二人でテレビを見ている時に、会社から戻った良太の「帰ったぞ」の声が玄関の引き戸を開ける音と同時に聞こえてくる。それまで女だけで楽しくしていたのはもうお終い。自分達の好きなテレビは見ることができない。

 良太の帰宅イコール憂鬱と思ったことが、美咲の頭には真っ先に思い浮かぶ。良太が見るのは、プロレス、ナイター、そしてニュースだ。どれも当時の美咲と姉には興味がないものばかりだった。

 もう中学生になっていた美咲は、「帰って来なければいいのに」とさえ、本気で思っていた。そんな良太の今はというと、歳をとって、動きこそ活発ではなくなったが、相変わらず口数も少なく、昔と変わらず頑固じじいでのままある。


 美咲には、良太との忘れられない思い出がもうひとつあった。これは良い部類に入る思い出だ。

 美咲が中学二年生になる春休みのことだ。それまで会社勤めであった良太が会社を辞め、タイ焼き屋をやるために、一家は今の家に引越すことになった。美咲が通っていた中学は同じ市内だが、新しい家からは、とても歩いていける距離ではなくなってしまった。電車やバスなどもあることはあったが、遠回りとなってかえって時間がかかる。

 普通であれば、転校するところだが、美咲はそれを拒んだ。母親のマサ江は、「すぐに新しい友達ができるから」と転向を勧めたが、美咲は受け付けなかった。すると、良太が「好きにさせろ。俺が送っていく」と言ってくれたのだ。

 それ以来、中学を卒業するまでの二年間、晴れの日も雨の日も、毎日美咲は良太の運転する車で中学校まで送ってもらった。お陰で、友達とも別れることもなく、充実した中学生時代を送ることができた。これは感謝している。

 良太が運転する車は、タイ焼きや焼きそばの仕入れに使えるようにと、それまでの乗用車を乗り換え、白い軽トラックだった。そのため、乗り心地は決して良いとは言えなかった。しかも、エアコンなどは付いて無く、夏は窓を全開にして乗らなければならない。冬は逆に窓を閉めるのだが、フロントガラスが曇ってしまう。その曇ったフロントガラスを乾いたタオルで拭くのが美咲の役目であった。車内には焼きそばの具として使用するキャベツの匂いが、いつも漂っていた。

 中学校までは時間にすると三十分くらいの所要時間だったが、良太と二人だけの車内は会話は無く、カーラジオだけが流れる空間だった。勿論、カーステレオなどは付いていなかった。

 良太は、普通の父親なら聞いてきそうな、友達や部活のことなどは、聞いて来る事は無くいつも無言だった。美咲のほうは、乗せてもらっている手前、最初のうちは積極的に話しかけていたが、どの質問でも答えは「うん」とか、「そうだな」であり、徐々に美咲の方からも良太に話しかけることは減っていった。それからは、さして興味がないカーラジオを聞き流しながら、ボーと外を見ていることが多かった。

「行ってきます」

 会話は無かったが、車を降りる時に美咲はいつもこの言葉で良太と別れる。良太は「おう」とだけ言って、目も合わさず、すぐに車を発車させる。そんな毎日の繰り返しの二年間だった。無言でつまらない三十分間だったけど、大人になった今、そのことを諭に話したことがあった。

「いいお父さんじゃないか」と諭は言ってくれた。


 良太と共に生活をし、一緒にタイ焼き屋をしているのが、美咲の母親で香織のおばあちゃんのマサ江だった。美咲と姉は二人とも嫁に出ていってしまったので、今は良太と二人で暮らしている。気難しい良太と、一日中一緒に過ごす事を想像するだけで、美咲は憂鬱な気持ちになる。マサ江は昔の人なので、男の人が家庭で威張るというのは当たり前、仕方のないことだと思っているのかも知れない。それにしても偉いとおもった。

 マサ江は、歳はとっているが若々しいおばあちゃんだ。車の免許がないので、移動はもっぱら自転車だが、七十過ぎの老人とは思えぬ足運びで、今でも颯爽と買い物に出かける。セール品などがあると、隣町の普段は行かないスーパーにも行ってしまうくらいの、元気印のおばあちゃんだ。

 美咲は、おばあちゃん、即ち、母が大好きだった。美咲が子供の頃から、いつも優しく接してくれた。学校が休みの日でも店は年中無給休。姉が出掛けてしまい、美咲がひとりで遊ぶことが多かった。そんなときは、良太が仕入れなどで外出している時を見計らって、その時間だけ店を閉め、外にお昼ごはんを食べに連れ出してくれた。それはマサ江と美咲だけの二人だけの秘密だった。二人で食事をしているときは、まるで友達同士がそうであるように、隠し事をせず、色んな事を話した。美咲はその二人だけの時間がとても好きだった。

 良太はいつもマサ江に文句を言っていた。部屋が暑いとか、料理の味付けが濃いとか、文句を言わない日はなかった。時々、マサ江は泣いていたこともあったのではないかと、今にして美咲は思っている。でも、マサ江は美咲といるときは美咲に心配をかけまいと、愚痴ひとつこぼさず、いつも優しく笑顔を接してくれた。

 嬉しかったのは、タイ焼き屋の共働きで、忙しいのに授業参観にも欠かさず来てくれたことだ。車の運転は出来ないから、移動手段はいつもの自転車だ。車でも三十分掛かる距離だから、自転車で来るのは楽な距離ではない。

「今日も来てくれるだろうか」

 不安な気持ちで教室の後ろを振り返ると、涼しげな顔で笑顔をくれるマサ江がいつもいた。他人の母親と比べると、明らかに器量で勝るマサ江は、美咲の自慢だった。美咲が中学を卒業する頃、マサ江の背の高さを追い抜いたときの、嬉しそうなマサ江の笑顔は一生忘れないだろう。

 一方で、この授業参観に来るために、良太に散々嫌味を言われたんだろうなと思うと、子供心に憂鬱な気持ちにもなった。

 子供の授業参観に行くのにも嫌味を言われる。そんな夫を持ちながら離婚せず、二人でタイ焼き屋をやっているのだから、夫婦とは不思議である。

 でも、最近は、良太が何かドジをすると「あーおじいちゃん、またやったのかい。だめだね、まったく、もう」などと、マサ江のほうも嫌味を言うことがあるようで、二人の力関係も少しずつ変わってきているかもしれない。そう思うと美咲は少し安心した気持ちになる。



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