サクラ咲け

@katsunuma_hitoshi

第1話 1

「早く起きなさーい」美咲(みさき)はそう言うと、ひとり娘の香織の部屋のカーテンを勢いよく開けた。窓からは、春の朝日が一気に差し込んでくる。

 それまで真っ暗だった部屋が、カーテンを開けた途端、部屋は一気に真っ白な光線で包まれた。暗から明へ、その途中がなく、瞬時に切り替わる。まるで舞台が反転するようだ。

「まだ、寝たーい」香織は、甘えるような声を出して、もうちょっとだけ、とお願いしている。

「ダメダメ」

 そう言うと、美咲は香織の布団を笑顔で剥ぎ取った。

 その笑顔は香織がまだ赤ん坊だったときに美咲が香織をあやしているときに見せた笑顔と全然変わっていない。 目尻の皺が少し深くなったくらいで、そのまなざしは外からの光線に負けないくらい、どこまでも温かい。

 香織はこの春、小学校を卒業したばかりだ。小学校では合唱部に入っていた。卒業後は、地元の中学に進学することになっているが、中学でも合唱部に入るつもりだ。将来は歌手になる。香織にはそう夢がある。 

 まだ入学前の春休み中だが、香織は中学の合唱部の練習のために起きなくてはならなかった。と、いうのは、今日は体験入部の日だったからだ。本来、香織の進学する公立の中学校にそんな制度は無い。でも、今日は体験入部が待っている。

 香織にはエミという親友がいた。そのエミの二つ上の姉が、この春、香織の進学する中学校の合唱部の部長になり、エミから香織の実力を聞いていた姉が、香織は実力を見込み、半ばスカウトに近い形で春休みからの参加を促されたというわけだ。香織もまんざらではないが、一人では不安なので、エミも誘った。

布団を剥ぎ取られた香織は、観念したのか、ベッドの上で、のそのそと起きる準備をしている。その姿を確認し、もう大丈夫、と思った美咲は、リビングに戻り、香織を起こす為に中断していた、三人分の朝食の準備を再開した。

 学生時代、新体操をやっていた美咲の体型、スタイルは今でも抜群だ。当時の体形を見事に保っている。細い指で持つ包丁がまな板の上でリズムよく踊っている。贅肉がまったくない細見の背筋はピンと伸び、肩まである髪は後ろで一つに纏め、腕まくりをしている。普段着だけどどこか凛々しい。

 美咲はフン、フン、フンと鼻歌を歌いながら料理を作る。即興で作ったのだろう、何の曲かは誰にも分からない。でも、これは機嫌が良い証拠だ。美咲は基本的にいつも機嫌がいい。美しさと母親としてのたくましさを兼ね備えている。

 リビングに目を向けよう。夫の諭(さとし)が、朝の散歩を終えて、その足で郵便受けから取ってきた朝刊を呼んでいる。散歩の効果か、今年四十歳になる聡の腹は出ていない。どちらかと言うと、聡も学生時代の体型を維持している。

 会社などでは「課長若~い」と冷やかされ(悪い気はしてないのだが)、実はその冷やかし声が体型維持のモチベーションになっている。しかし、ひときわスタイルのいい美咲の体型を受け継いだ香織のそれも非の打ち所がなく、まるでバレリーナのようだ。だから、世間的には羨ましがられる諭の体型も、この一家の中にいると、「痩せれば?」などと、からかわれたりする。

 諭は都内にある子供向けの玩具を扱う会社に勤める普通のサラリーマンだ。一家が暮らす練馬区のマンションから諭が勤める会社までは、ドア・ツー・ドアで一時間くらいの距離にある。同じ都内といってもマンションと会社は東西まったく逆方向にあり、一時間かかってしまう。

 家族が住むマンションは、飲料メーカーの工場跡に街ごと一体開発で建てられたもので、周囲は公園やショッピングセンターなどが配置してある。諭は、このマンションに引っ越してきた時から、朝食前に三十分ほど周囲の公園を散歩するのが日課になっているのだ。


「あー、今日は部活に行くの、嫌だな」洗面を終えた香織がトーストを食べながら、愚痴を漏らす。

「エミちゃんと、喧嘩したから?」

 母親である美咲は何でもお見通しと言わんばかりに、家事の手を止めずに返答した。

「どうして?」

 エミとのことは話していないのに香織には、当てられたことが不思議だった。

「だって、昨日、部活から帰って来た時、いつもより元気ないなって思ったのよ。それに、香織はいつも帰ってくると、今日はこんなことがあってとか、あんなことがあったとか、しつこいくらいに私に話してくれるけど、それがなかったから。香織は歌の出来不出来で、そんなに悩む子じゃないから、悩むとしたら仲良しのエミちゃんと何かあったのかって思ったのよ。私は香織が生まれた時からずっとあなたを見てきたのよ。何でも分かるわ」

 少し得意な顔をしながら、布巾で拭き終えた食器を篭に載せる。

「喧嘩って程じゃないんだけど、些細なことで言い合いになっちゃって・・・。それで、帰りはそのまま一人で帰って来たんだ。だから、なんとなく気まずいかな」

「大丈夫よ。エミちゃんだって、きっと後悔しているわ」

「そうかな?」

「そうよ。些細な事なんでしょ? この手の話しはね、時間が経てば経つほど、おかしくなっちゃうの。だから、いつもと同じように、待ち合わせ場所に行きなさい。ね」

「そうだよ。お母さんの言うとおりだ」

 ずっと二人の会話を黙って聞いていた諭が、口を開いた。

「今までだって、お母さんが言うことに間違いはなかっただろ」と、小さな子と話すようにやさしい口調で話す。香織が幼稚園生なら頭を撫でているところだが、中学生になる彼女には、さすがにそうするわけにはいかず、聡の右手は宙をさまよい、何事もなかったようにコーヒーカップを掴む。

「うん、そうだね」

 香織は、父と母の話しを聞き、すぐに明るい表情になって元気に答えた。諭と美咲は、口元を緩ませながら、お互いの顔を見合わせた。


 香織は、両親の愛情を一身に受けて、文字通りすくすくと成長した。もう中学生になろうとしているが、反抗期などは無く、これからも無縁だろうと思わせる。明るくて、素直で、ハキハキしていて、家族が大好き。そんな香織だが、諭と美咲は、香織の一番好きな所をあげろと言われれば、それは天真爛漫さを挙げるだろう。

「天真爛漫」よく耳にする言葉だが、ある辞書では次のように意味が書いてある。

『天真爛漫 ― 飾らず自然のままの姿があふれ出ているさま。生まれつきの素直な心そのままで、明るく純真で無邪気なさま』

 香織はまさにこの通りの性格の女の子だった。


 中学校に入学ともなれば、そろそろ父親を煙たがる家庭もあるかと思うが、香織にはそれも無い。毎日の小学校への通学と、諭の通勤のため自宅を出る時間が一緒なのだが、一緒に家を出て、途中まで同じ道を通う。

 諭のほうが気を使って、「別々に行ってもいいんだぞ」と言った事もあるが、香織はまったく気にせず、「別にいいじゃん、だって家族なんだから」などと言う。両親はそんな香織を愛おしく、また誇らしく思っていた。


「行ってきまーす!」今日も香織は諭と一緒に玄関を元気よく出ていった。中学校の通学路も諭と途中までは同じ道を行く。外に向かって振り向いた香織のおさげ髪が肩口で勢いよく躍っている。

 美咲は玄関で二人を見送り、ドアが閉まるとすぐに踵を返し、玄関とは反対方向にあるリビングを通過して、その先にあるベランダへと小走りで急いだ。

 ベランダのサッシを開け、サンダルを履き、手摺りに両手を添えながら、マンションの出口がある真下を見下ろす。数分もしないうちに、諭と香織が出てくるのが見えた。

 真上からだから表情は見えないが、諭と香織はきっと笑っている。香織の好きなアイドルグループの嵐の話題でもしているのだろう。香織のスッーとした後姿が凛々しい。気が付けば、背も少し伸びたようだ。これなら中学校では、背の順でクラスで二番目以降になれそうだ。母の美咲は女性の中では標準より少し背が高いので、香織も中学の三年間でグッと伸びると思っている。

 マンションから香織が向かう中学校までの通学路は、ほぼ一本道でベランダから見通しがいい。その一本道の途中の十字路に建っている郵便ポストの前で、香織と友達のエミは毎日、待ち合わせをしている。

 そのポストのあるところから三十メートルくらい手前の路地を右に曲がると、駅へ通じる道に繋がる。諭と香織は、いつもその路地まで、時間にするとマンションの出口から二~三分くらいの距離だが、そこまで二人で並んで歩く。夫の諭によれば、その二~三分間が親子の貴重なコミュニケーションの時間だと言っていた。

 美咲は、毎朝こうしてベランダから二人を見て、その行動を知っていた。それは、美咲の好きな光景だった。幸せの匂いがした。

 今日も、いつもと同じように二人は駅に通じる路地のところで分かれた。香織が手を振っているのが見える。春の日差しが気持ち良さそうだ。

 一人になった香織は、エミとの待ち合わせ場所である、ポストに向かって歩いている。急に足取りが重くなったようにも見える。

 ポストの前に香織は着いたが、肝心のエミの姿はベランダからは見えない。丁度、電柱の影になって見えないのだろうか。それとも、やはり昨日の事があって、エミは来ていないのだろうか。美咲は、しばらく香織の様子を見ることにした。

 香織は、ひとりでポツンと立っている。やはり、エミは来ていなかったようだ。香織は、そのまま動かない。どうやら、エミを待ってみるつもりのようだ。エミが来る方向を見ては、ため息をついているようにも見える。

 そんなことを繰り返していて、時間はあっという間に五分が経過した。それでも、香織はまだエミを待つようだ。美咲は部活に遅刻しないかと心配になってきた。香織の姿からもう目を離せない。美咲にはその時間が30分にも感じた。実際には五分が過ぎようかとしていた時、香織が手を振るのが見えた。美咲に対してではない、エミが歩いて来る道の方に向かって手を振っている。次の瞬間、走って来たエミが登場した。美咲からは、エミが来た道は見えないので、香織の直前で走り止まったエミしか見えなかったが、その前からエミは走って来たのだろう。香織にぶつからんばかりの勢いがついていた。

 距離があるので、鮮明ではないが、二人が笑っているということは美咲にも分かる。美咲はほっと胸を撫で下ろした。そして、香織とエミが並んで中学校の方向に歩きだすのを確認して、ベランダから室内に戻った。

 

 ベランダから戻った美咲は、フッーと大きく息を吐き、そして休む間もなく、洗濯物を洗濯機に入れ、スイッチを押した。洗濯機が止まるまでの間には、掃除機を取り出し、部屋の掃除を始める。黙々と、そして時には鼻歌を歌いながら、スイスイと掃除をしていく。ここまで、一回も休憩をしていない。それが、終わったら窓拭きをするつもりだ。

 美咲は、家事をすることが好きだ。というより、専業主婦であることを誇りに思っていて、自分の職業は専業主婦だと、憚ることなく周りには言っている。

美咲の職業としての専業主婦は徹底しており、普段の家事、美咲にとっての仕事は完璧だった。家の中はいつでも整然と整理されている。だから、年末の大掃除は必要ない。毎日の掃除の積み重ねで、改まって掃除するところなど無いからだ。

 一方で美咲は、土日は家事を行わない。諭に対して、「会社員のあなたも土日は休みでしょ、だから専業主婦という仕事も土日は休みなのよ」と微笑みを浮かべ、美咲としての考えの説明が結婚直後にあった。

 それを聞いた諭は、主婦の定休日なんて聞いた事が無い、と思ったが、同時に、なるほどな、と思った。理に適っている。それだけじゃない。よく考えれば、それのほうが、土日は家族で一緒に過ごす時間が多くなるという、副次的効果も生んでくれる。

 聡は美咲の提案を快諾した。結婚して十五年になるが、今でもこのルールを導入して良かったと思っている。何より、土日が楽しくて対等だ。

 今日は、金曜日。明日からの土日は、諭、美咲ともに仕事は休みだ。香織の部活も無い。一家は、町田に住む美咲の両親、美香にとってはおじいちゃん、おばあちゃんの家に遊びに行くことにしていた。諭が行こうと言い出し、美咲にそれを伝えていた。

 美咲には姉がいるが、姉一家は千葉県に住んでいて、東京を横断することになる町田は遠く、おじいちゃん、おばあちゃんと会う頻度は圧倒的に諭一家のほうが、多い。諭の両親も健在で、隣町に住んでいるのだが、車で行けば二十分の距離だが、こちらは滅多に顔を出さない。諭は「息子なんてそんなもんだ。なにも無いのに顔なんて出せないよ」と言っている。



 

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