第12話 試練

 それで終わったかと思いきや、続きがあった。程なく仁志は右の前腕に激痛を感じて意識を取り戻したのである。周りには相変わらず焔が渦を巻いている。彼は自分のまだ生きていることが信じられなかった。躰が灰にならなかったことに合点がいかず、ほんの僅か腕の痛みを忘れた。が、それと同時に眼前に捉えた何者かに思わず後ずさりを――いや、彼は今、その何者かに右腕を掴まれて微動だにできないのである。仁志は紅蓮の炎の中で凍てついた。

 何者か――仁志にとって、もはや前意識に埋もれていたものが忽如として姿を現したのである。見覚えがあるというような生半可なものではない。四、五歳の幼い彼がその出現を危惧し、片時も抜かりなく注意を払っていた、あの青色の巨人が今、彼の右腕を絞めつけているのである。まさしく鬼の形相で――その不機嫌そうな緋色の瞳は見たが最期、瞬時に魂を貪ってしまうに違いない、烈しく餓えた、理性のない獣のそれだった。

「このままでは腕がもげてしまう」

 仁志は汗が差し込んで来る瞼を固く閉じ、顎を引き、歯を食いしばって苦痛に顔を歪めながらも、左手で鬼の青黒い右腕を掴んで振り払おうとする。しかし、まるで樹の幹のように硬く太いその腕は、彼の掌中に収まるはずもない。握るとも押さえるともつかないその必死な様は、毎晩のように崖っぷちにぶら下がっていた幼い彼自身を彷彿させた。彼は諦めることなく、左手に――五指の先端にあらゆる神経を一つ残らず集中した。鬼に掴まれている右腕よりも、鬼の右腕に噛みついた左腕の方が、その血管という血管が今にも破裂しそうな程に隆起した。

 するとその時である。うめき声とも泣き声ともつかぬような声が微かに仁志の耳に飛び込んで来た。聞き覚えのある声色に彼は一瞬動揺した。が、躰の反応は制止した。それから暫し呼吸を整えると、意を決したように顔を上げ、静かに瞼を開けた。

 緋色の瞳に仁志の姿は映っていない。――

 しかし彼は初めて鬼の眼を見た。左手の力を緩め、一つ瞬きをした。その刹那、蒼白い光の煌めくのが鬼の眼に映った。その瞳は緋色を失い、焔と共に暗闇の中に消えて見えなくなった。……

 明くる朝、目を覚ました仁志は江坂の彼の部屋にいた。

「やっぱり夢だったか……」

 そう安堵した仁志は、ひどい寝汗をかいていた。鬱陶しい額の汗を拭おうと左の甲を当てた。が、その瞬間彼は固まった。然してそれが解けるや思わず声をあげた。

「何だ、これ――」

 眼前にかざしたその指先は、親指から小指まで一様に、まるで顔料でも刷り込んだかのように青黒く染まっていたのである。……(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る