第11話 危惧

 七月十八日、近畿では梅雨が明けた。

 その梅雨明けから明日でちょうど一週間となるこの日、仁志にとってそれは二十五年ぶりのことだった。――

 雲一つない澄みきった青空が広がり、そこにあるのは大きな崖と仁志だけ――頭上のサンドベージュの表面を両手で握るとも押さえるともつかない格好でもってぶら下がっている彼は、顔やら胸やら膝やらをごつごつとした黒とグレーの斑の岩肌に痛めつけられていた。

 ところが、そこにいる仁志は、四、五歳の彼ではない。かつてあの真っ暗な部屋でモニター画面に冷淡な視線を向けていた大人びた彼――まさに今の仁志自身だった。

「これはどうせ、夢だ。手を離したからって落ちやしない。死にもしなけりゃ、痛くもないんだ……」 

 仁志は迷わずサンドベージュの表面から両手を離した。が、崖は消えない。彼は黒とグレーの斑の岩肌に顔やら胸やら膝やらを擦られ、崖下に飲み込まれて行った。――そこには彼が十五歳の時、初めて澄子の中に見た深い闇が大きく口を開けて待ち構えていたのである。

 彼の頭上に開けていた視界は、カメラのレンズ絞りのように次第に小さくなり、やがてなくなった。何も見えないが、どこまでも、どこまでも、底なしの沼へ落ちて行く自分の姿が想像された。そうして闇の奥深くへと吸い込まれるうち、こめかみに突き刺すような痛みを感じながらも、次第に気が遠くなり、遂には気を失った。

 それからどれくらいの時間が過ぎたのだろうか、仁志は目を覚ますと、茹だるような暑さに汗まみれになっている自分に気がついた。次の瞬間、彼はこの暑さの理由に――すぐ足元に渦巻く焔が迫っているのに仰天したのである。だが、彼の躰はやはり彼の意志を無視するかのようにその位置を下げて行く。踵が焔の剣先に触れると、あっという間に紅蓮の波に囚われた。彼は再び気を失った。そしてその躰は跡形もなく消えた。――(つづく)

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