第10話 徒労

 それは、霊柩車が火葬場に到着し、下ろされた棺が台車に載せられて竈の扉の前に据えられた時のことである。

 二人の職員によって扉が左右に開かれるや否や、住職は合掌して瞼を固く閉じた。そして躰を上下に激しく揺らしたなり、呪文を唱えるが如く一心不乱に読経を始めたのである。あたかも、噴き出そうとする死者の情念の炎を法力をもって抑え込もうとするかのような、激しい祈りにも似た読経だった。その場を支配する切羽詰まった空気が、仁志をして側に立ち会う澄子の存在を忘れさせ、彼の目を奪ったのである。――台車を引き抜くようにして竈の中に棺が通され、職員がその位置を固定し、再び扉が閉められて点火されるまでの、僅か一分にも満たない時間だった。

 読経を終え、そのままの姿勢で一礼した住職の指先には、仁志の目が涙に霞み始めていたせいか、青黒い斑のようなものが映って見えた。が、住職のやはり真っ赤な目には仁志以上の涙が溢れていた。

 澄子の話では、今はどの檀家の法事も二人の息子に任せて彼は滅多に顔を出さないという。

「もう年は六十くらいか。何処か躰の具合でも悪いのか……」

 仁志は橙に灯った豆球に目をやりながら、そんなことを思った。……


 仁志は殆ど眠れなかった。そして、階下の寝室では何事も起こらないまま、梅雨空の朝を迎えた。

「駅まで送って行くよ」

 三人での朝食を済ませた雄一郎は、外の雨が強いのを理由に車を出した。

「昨日の夜は平和だったみたいですね?」

 仁志は車を走らせる雄一郎の横顔を見て先に口を開いた。

「うん、せっかく来てもらったのにね……眠れなかったんじゃない?」

「いや、何もなければそれに越したことはないですよ」

 そう言って笑った仁志は、雄一郎の胸の内の不安を察していた。

 仁志は、澄子が以前にもひどくうなされる夜が続いたことを雄一郎に話していない。それは雄一郎を徒に不安にさせるばかりか、彼の澄子に対する万が一の心変わりを気に病んだからである。――

「帰っても何の役にも立たなかったな」

 仁志は心の中でぼやきながら、大阪へ向かう新幹線の中、水しぶきの叩きつける窓ガラスに頭を寄せたなり、車内のテロップを目で追っていた。……(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る