第9話 喪主

 その夜、仁志は以前自分が使っていた二階の部屋で床に就いた。雄一郎と澄子は、一階の、ちょうど仏間の真下に当たる部屋を寝室としている。

 仁志は当然ながら、彼らの寝室の様子を窺っていた。待ってはいるが、歓迎はしない。かと言って、来てもらわなければ困る。――そんな心もちの彼は、昼間見た額縁の正則の顔がふと浮かんだ。

「ここに戻って来いってことか――いや、今は三宅さんがいるから、……でも、手に負えないのなら――いや、それじゃダメだな……」

 堂々巡りで二時間が過ぎた。

 その後も、仁志は時折うとうとしながら、正則が病床で息を引き取った時のことや、その前の入院生活を送っていた二年間のことや、店主の愉快な寝言のことや、――母親のことを気に懸けて帰って来たにもかかわらず、何故か父親のことばかりが夢のように思い出された。そしてこの日の午後の墓参り――仁志は会うことのできなかった住職のことが気になっていた。

 葉山家は代々の檀家であるから、仁志はこの真言宗豊山派の住職を幼い頃から見知っている。正則の葬儀でも授戒、引導、読経をこの住職が務めた。背が高く、体格の良い割に坊主頭は小さく、色白で物静かな雰囲気を持った彼は、人と言葉を交わす時はいつも伏目勝ちで口元は何処か涼しげだった。何事にも寛容な人――子供の仁志は「寛容」という言葉を知らなかったろうが、手短に表現すれば、幼い彼の目にはそう映った。

 その告別式で思い出されたのは、彼の読経も終わり、正則の眠る棺が親族に囲まれた最後の別れの場面である。――

 澄子に次いで正則の耳元に白菊を置いた仁志は、その後、位牌を両手に携え、棺の中の亡骸が徐々に白く埋もれていくのを少し離れた位置から窺っていた。澄子に代わって出棺前の挨拶を控えている彼は、嗚咽で言葉を詰まらせることだけは避けようと、なるべく故人の顔を直視しない体勢を保っていたのである。

 その場にいる全員の別れ花が終わると、斎場の担当の女性が仁志に耳打ちした。

「よろしいですか?」

「ええ……」

 仁志は盛られた花から垣間見える正則の顔を一瞥した。――この時彼はその女性の言葉の意味を少し取り違えた。この期に及んで故人の顔に視線を向けたがらない自分が、「ご覧にならなくてもよろしいですか?」と気遣われたように思ったのである。これは勿論、蓋棺と釘打ちに移るための確認だった。

 皆が小石で二度ずつ釘の頭を小突いた後、葬儀社の男性の金槌でもって胴の見えなくなるまで全ての釘が打ち込まれると、仁志はもう後戻りのできないような、遂に父親の息の根が止められたような思いに沈められた。その間にもマイクスタンドが用意され、先程の女性に促されて登壇すると、マイクの位置が手際よく調節された。

 両手で位牌を腹の辺りに据え、顔を上げた仁志は、スポット照明の眩しさで前が見えなかった。まるで暗闇に向かって言葉を投げ掛けるようだった。

 挨拶は参列者に対する謝意に始まり、謝意で終わる、お決まりの形式であったが、途中、幼少の頃は怖いと思っていた厳格な父親が晩年には驚く程優しくなってしまった、というような台詞が挿入されていた。仁志はそれまで親族の葬儀に幾度となく参列していたが、親族の皆がこの時程露わに烈しく嗚咽する葬儀を見たことがなかった。彼には意外でもあり満足でもあった。傍らに立っていた小学三年生の従妹が大粒の涙で泣き腫らしているのには流石の仁志ももらい泣きしそうになった。涙が滲んでくるのを堪えて斎場の袖へ顔を逸らすと、図らずも背の高い住職の姿が目に留まった。この時の彼の姿は仁志の心を掴んで離さなかった。――首一つ出た顔を上向き加減にした彼は、目を真っ赤にしてひとり静かに涙を流していたのである。……

 ところが、仁志の心を掴んで離さないのはこればかりではなかった。今も彼の目に焼きついて離れない場面がこの後に訪れるのである。(つづく)

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