第8話 再び――

 一週間後、仁志は新幹線の窓際に飛んで来る景色をやり過ごしながら、雄一郎の訪ねて来た時のことをぼんやり思い出していた。

 ――車輌は東京へ向かっている。

「何で今頃になってぶり返したのだろう……もう十八年になる」

 仁志はとうの昔に完治したはずの病が前ぶれもなく再発したような、まさにかつての悪夢に襲われるような心もちになっていた。

 雄一郎の話を鵜呑みにすれば、澄子の様子はあの頃よりひどい。今思えば、せいぜい目を開けたまま意味不明な言葉を口走る程度――それでも当時中高生だった彼にはかなり手強い相手だったはずであるが、これにとどまらず、大人ひとりの手には負えないくらい烈しく暴れ出す、しかも普段の小柄な彼女からは考えられない腕力だという。

 ところが、彼はこれを聞かされた時、俄には信じ難いというより、寧ろ、その母親の姿を思いの外たやすく頭の中に思い描いた。彼女の中にはそうした得体の知れない力が潜在しているのを――いつ何時、噴き出すやも判らない焔が深い闇の奥にくすぶっているのを当時から感じていたのである。

 東京駅に着くと、仁志は山手線で一駅の有楽町から地下鉄に乗り換えて護国寺で下りた。実家の最寄駅の一つ手前のこの駅で下車したのは、正則の墓参りを先に済ませようと考えたからである。さらにあわよくば、墓参りの前に駅近くにあるラーメンの行列店に行列ができていなければ、そこで遅い昼食を取ろうとも考えていたのである。

 正則の七回忌以来の街並みはさほど変わったようには見えなかった。が、目当ての行列店は並ぶ人はおろか看板も見当たらなかった。頭の中がラーメンで満たされていた仁志は、正則のいる寺からは少し離れてしまうことになるが、もう一軒のラーメン店へ行くことにした。そこは都内に数店舗あるチェーン店で、行列のできたのを見たことはなかったが、以前の彼はこちらの店の方へ好んで足を運んでいた。

 仁志は食事と墓参りを済ませた後、実家まで三十分程歩いた。門はいつも施錠されていない。玄関の扉も、ノブの感触から鍵のかかっていないのが判る。

 扉を開けると、澄子が上がってすぐの居間から顔を出して彼の方を見ていた。

「ただいま――」

 仁志は澄子の顔をちらりと見た後、足元に視線を落とした。相変わらず勘のいい人だ、と思った。

「おかえり。――門の音がしたからね」

 母親は息子の胸の内を見透かしたように言った。

「三宅さんは?」

「仕事でいないよ。でも土曜日は大抵早いからもうすぐ帰って来るよ」

「一人の時は鍵――閉めておきなよ」

「大丈夫だよ。それにもうそろそろ来るかと思って開けておいたんだよ」

「ふうん……」

「今日は泊まって行くんだろ?」

「ああ。寝るとこ、あるかな……」

「お前の部屋はそのままにしてあるよ……」

「そう。先に線香あげて来ようかな……墓参りはして来たから」

 仁志はそう言って二階の奥の、仏壇のある部屋へ向かった。澄子は明日、息子と一緒に正則の墓参りをしようと思っていたのだが、きっと仁志のことだから、その間の雄一郎のことを考えて先に一人で行ってしまったのだろう、そう察して諦めた。

 彼は、玄関から廊下を進んで階段を上り、奥の間に続く廊下を歩く間、もう何年も帰っていなかったにもかかわらず、家の中を支配する空気がまるで昔のままなのを、懐かしむどころか却って気味悪く感じた。この空間だけ、時の流れから取り残されたような、――いや、頑なに時の流れを拒んで居座っているかのような気配を漂わせていた。

 唐紙を開けて中を覗き込むように進むと、奥の間の長押から見下ろす正則の顔が目に入った。

「額縁もそのままか……もう下ろせばいいのに」

 仁志は線香を立てながら、遠慮勝ちにする雄一郎の顔が頭に浮かんだ。するとその時、階下で澄子の声がした。――雄一郎が帰って来たのである。

「お帰りなさい。お邪魔してます」

 仁志は階段を下りながら、紺のジャケットにグレーのボトムを合わせた雄一郎に声を掛けた。

「おう、おかえり。――お邪魔してますなんて、ここは仁志君の家だろ?」

 そう言う雄一郎の顔は、一週間前より少しやつれていた。

「お久しぶりですね、今来たところなんです」

 仁志は上目遣いでにやりとした。――雄一郎は、先週の江坂でのことは澄子に内緒にしているのである。

「まったく、夢にあたしが出て来たくらいで帰って来ることもないだろうにねえ……」

 ひとり言のようにそう言って伏せた眼差しは、老いた母親のそれに他ならなかった。

 勿論、仁志は夢などここ何年も見ていない。(つづく)

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