第4話 魔物
仁志が十七歳になった年の春、正則は二年前に見つかった左肺の癌が元で他界した。その二年の大半を彼は病院のベッドで過ごしたのだが、この間、澄子は一人寝床でうなされることが多かった。
襖を挟んだ隣の部屋で床を取っていた仁志は、母親のうめき声とも泣き声ともつかないような声が聞こえてくると、すぐさま襖を開けて彼女の枕元に膝をついた。
「母さん、大丈夫?――母さん、……」
仁志はそう声を掛けながら、何かに取り憑かれたように硬直した彼女の頬を平手で何度か軽く叩く。これですぐに目を開けて平静を取り戻せばよい。が、目を開けても一向にその状態が収まらず、寧ろひどく怯えるように意味不明な言葉を発することもしばしばある。すると仁志はやむを得ず、彼女の正気に戻るのが確認できるまで、ビンタを喰らわし続ける。そうしないことには、母親が何者かに連れ去られてしまう。――勿論、仁志は初めから冷然とこのような対処ができた訳ではない。ある時正気に戻った彼女がこう話したからである。
「誰だか分からないけれど、――行こうよ、行こうよ、って母さんの手を引っ張るんだよ。あたしは嫌だよ、って手を離そうとするんだけど、向こうの力が物凄く強くて……だから、こういうことがあったら、ひっぱたいてでも何でもいいから、とにかくすぐに起こしてよ」
固く閉じていた瞼の目尻と目頭から滲みこぼれた涙でびしょびしょになった母親の顔には、かつて息子の目に映った赤鬼の形相の出て来る気配は微塵もなかった。しかしそのかわり、仁志は澄子の中に彼女を奪い去ろうとする深い闇を見たのである。
以来、仁志はこの深い闇と対峙してきた。少しでも怯んだ様子を見せれば、忽ち母親の魂を向こうに持って行かれてしまう――そう肝に命じて気持ちを強く持ち続けたのである。
ところがどういう偶然か、正則がいなくなってから、澄子のうなされる夜もぱたりとなくなってしまった。
「手を引っ張ってたの、父さんだったのかなあ?」
仁志は冗談交じりに澄子にそう言ってみた。
「いやあ、父さんなら、父さんだってわかるよ。声がね――優しい声だったんだよ。今考えてみると、女の人だったのかもしれないなあ」
澄子は遠くを見るような、柔和な面もちで顧みた。
「じゃあ、父さんがその人を連れて行ってくれたのかな?」
「そうかもしれないねえ……」
「――ってことは、天国か何処かで二人はちゃっかり仲良くやってたりして」
悪戯っぽく言った仁志の顔がすぐに引きつったのは言うまでもない。……(つづく)
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