第3話 熟睡

 仁志は消えた崖の夢を見てからは夢を見なくなった。崖の夢だけではない。一切の夢を見なくなったのである。勿論、実際には夢を見ていても、目を覚ました時には本人にその記憶がないということもあろう。しかし、少なくともこれまで彼を散々苦しめ、脳裏に鮮明な記憶を刻んできた崖の夢は、やはり見なかったに違いない。

 これに対し、正則も澄子も、よく夢も見れば、おまけに寝言も多い人だった。殊に、正則の寝言は普段の日中と変わりない口調だった。――「はい、いらっしゃい」とか、「こちらへどうぞ――」とか、「毎度ありがとうございます」とか、官署勤めの彼は、まるで飲食店の店主にでもなったような台詞を口にする。そうかと思えば、今度は急に「たらら、たららぁ~♪」などと上っ調子な鼻歌を始めたりする。吃驚して目を覚ます澄子と仁志は、情況を呑み込んだ後、決まって笑いを押し殺した。

「昨日の夜も『へいらっしゃい!』とか言ってたよ」

 仁志は澄子の顔をにやりと横目で見ながら、正則にそう言う。しかし彼は「ウソだろう?」などと笑い飛ばして相手にしようとしない。いつだったか、仁志は証拠を突きつけてやろうと、正則がいびきをかき始めたのを見計らって、レコーダを携えて待ち構えてみた。――が、そういう時に限って彼の店は休業日だった。

 この夢見る夫婦と息子のやり取りはいつもこんな具合である。――

「昨日、死んだ爺さんが夢に出て来て……」と正則が言えば、

「あたしは死んだ姉さんが枕元で黙ってこっちを見てるんだよね」と澄子が返す。

「へえ、夢なんて全然見ないけどなあ……」

 両親の会話を聴いていた仁志が横から口を挟む。そんな時、決まってこう返って来る。

「お前はぐっすり眠っているからだよ」

 たしかにそうかもしれない、と仁志は思う。と同時に両親は余り眠れていないのかと思うと、何か彼らに申し訳ないような、後ろめたい心もちになるのだった。(つづく)

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