第2話 傍観

 そんな彼は夢のことを両親に話さないでいた。話せば親が心配するから、と黙っていた訳ではない。恐らく、彼らの前ではそのことを忘れていたのだろう。眼前の一挙一動に注意を払っていたからである。そして、自分もその一挙一動を彼らから監視されているように感じていたのである。自分の何気ない所為が、予想もしなかった廉で非難されることがあるのを仁志は幾度となく経験していた。裏切られたような当惑に襲われる度、彼の目には両親の姿が童話で識った赤鬼、青鬼に映った。勿論、いつもではない。彼らは忽如として変化するのである。父正則が青鬼で、母澄子が赤鬼――別に正則が冷静沈着で澄子が熱情的という印象があったのではない。幼児の彼は、単に青が男、赤が女と識別しただけである。

 彼はこの抜け目のない、いつ何時その顔を見せるやも判らない鬼達に少しの隙も見せてはならなかった。それには決して、甘え心から油断したり、気を許したりしてはならない。一つでも余計な事を言わないのが最も優れた安全策であるということを身をもって学習していたのである。彼が正則にも澄子にも夢の話をしなかったのは、こうした意識が本人の気づかぬうちに働いたせいもあったのだろう。

 小学校に上がり仁志の夢を見る回数は減った。二年生になる頃には殆ど見なくなった。けれども、全くなくなった訳ではない。忘れかけると思い出したように、崖にぶら下がる四、五歳の自分の姿を夢に見る。

 明日から四年生という四月七日の晩もそうだった。

 雲一つない澄みきった青空が広がり、そこにあるのは大きな崖と仁志だけ――相変わらずの風景である。頭上のサンドベージュの表面を両手で握るとも押さえるともつかない格好でもってぶら下がっている仁志は、顔やら胸やら膝やらをごつごつとした黒とグレーの斑の岩肌に痛めつけられていた。

「手を離したら終わりだ」――彼は汗が染みて開けられない目を固く閉じたまま、必死で両手に力を込め続けた。

 ところがその時、晴れ渡った青空が、突如仁志を中心として暗闇に縁取られるように縮み始めた。あっという間もなく黒い縁の幅は拡がり、ちょうど真っ暗な部屋の中にモニター画面が一つだけ浮き上がっているような光景に変わった。そこでは、画面に映し出される様子を誰かが冷然と観察している。誰か?――画面からの微弱な光の反射で朧げながら認めることができるのは、仁志の面長な輪郭と冷ややかな視線だった。画面の中の仁志は、いつもの四、五歳の彼の姿だったが、その部屋にいる彼は随分大人の顔つきをしていた。

「また同じことだな……」

 彼は、やはり冷淡な視線を画面に向けながらそう呟くと、瞬きもせず、しかし凝視するふうでもなく、その瞳にモニター画面を映していた。が、暫くすると、それまで能面のようだった表情がやや呆れたような面もちに変わった。

「もういい加減、手を離して楽になれよ」

 彼は画面の中で汗みどろになっている仁志に話し掛けた。すると、仁志は首を振った。顔の汗が飛んで少し目を開けた。――どうやらこの部屋の声が届いているらしい。

 懸命な仁志は一向に手の力を緩めようとしない。その様子を画面の中に見た彼は、軽く一つ息を吐くと、目を伏せるように初めて瞬きをした。その刹那、彼の見せた眼光はそれまでと違った。暗闇にも蒼白く煌めいたのである。

「おい、まだわからないか?――これはどうせ、夢だ。手を離したからって落ちやしない。死にもしなけりゃ、痛くもないんだ。いつまでもそうやって、怖がっているのは止めにしろ」

 彼の諭すような低い声に、仁志はようやくはっとした表情を見せた。そして徐に両手の力を抜いた。すると、手元にあったサンドベージュの崖はすっと消えてなくなった。……(つづく)




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