第3話 杏とテネシー
「間口は狭いけど、中は結構広いんね」
「だろう」と男女の声がしたかと思うと、カウンターの席に二人が座った。
「あら、水槽。すっごく洒落てて…きれいやわぁ」。
女の嬉しそうな声を聞く男は満足げだった。
「いらっしゃいませ。どうぞ…」と細身のマスターがおしぼりを手渡す。
「バーボン、水割りで。君は…初めてだし、軽めのカクテルが良いんじゃないかな。マスター、何か女の子らしいカクテル、作ってやって」。
「バーボンと軽めのカクテルでございますね」と答えながらマスターは、女の方に向かって「何かお好みはございますか。甘めのものとか…フルーツを使ったものとか…」。
女はちょっと迷うそぶりを見せた。
「フルーツを使ったのにしたら。初めてだし、あれこれ言われんと」と男が言う。
女は「じゃあ…ただ炭酸を使っていないのをお願いしていいですか」と答えた。
「やっぱり炭酸はダメなんや。」
「ほやけん、チューハイは飲めんのよ。」
「弱いんやな。」
「そうやないけど…。」
二人が会話を続けている間に、マスターはバックバーからいくつか瓶を選び出すと、男に向かって「バーボンはこちらでよろしゅうございますか」と丁寧に聞いた。男はチラッと瓶を見ただけで「ああ、それで」と返した。そして女との会話を続けた。
マスターは男性にバーボンのロックとチェイサーを、女性に緑色の濃いドリンクを差し出した。女性のグラスは丈の低いワイングラスのような、ちょっと洒落たグラスだった。
「キウィを使ったものです。お気に召すとよろしいのですが。もし強すぎるようでしたら、ご遠慮なくお残しください」とマスターの物腰は柔らかい。女は男のグラスの方を向きながら「いい香り。なんだか美味しそう」という。男は「ウィスキーは強いし、女の子には似合わんけん、やめとき」と無下に退けた。
小一時間程して二人は勘定に立った。二人が座っていたカウンターには空になったロックグラスと半分程のこったグラスが残っていた。
それから1週間程後のこと、女が1人でやってくるとカウンターに座った。
「いらっしゃいませ。今日はお一人ですか」とマスター。
女はおしぼりを受け取りながら「この前は沢山残してしまってすいませんでした…実は甘いお酒が苦手なんです」と言い、続けて「マスター、あの、あごひげの男の人が麦かなんか持っているラベルのウィスキーってありますか」と尋ねた。
「あぁそれはニッカの黒ラベルです。あいにく私の所ではおいておりませんが、それが何か?」。
「昔、父がよく飲んでて、横で紅茶とか飲んどったら、それを入れてくれて…ものすご美味しいかったけん。また飲んでみたいなと…独りで瓶買うのも一本なんて飲めるかな…とか迷ってしまうんで…」と残念そうな顔をした。
マスターはふと「お酒はお強いほうなんですか」と尋ねた。
女はくすっと笑うと「炭酸が飲めんけん、弱いって思われとるけど、結構飲めます」と答えた。
「ニッカの黒ラベルはございませんが…ニッカのブレンディッドウィスキーでしたら竹鶴がございます。ただ、こちらは新しいお酒ですから、多分お父様とお飲みになっていた頃にはまだなかったお酒かと思います。おいしいお酒ではございますが…。」
「一緒に来た彼がバーボンってウィスキーを注文して…あ、ウィスキー懐かしいなって。けど、香りがなんだか違うような感じがしたけん。懐かしいウィスキーが飲みたいなって思ったやけど…」と女がちょっと寂しげに言う。
しばらくバックバーを眺めていたマスターは「懐かしいウィスキー…でしたら、ニッカではございませんが、こちらのお酒はいかがでしょう?」と一本のウィスキーを差し出した。
「ジョニー・ウォーカーの黒ラベルです。昔はちょっと憧れというか、特別なときに飲むお酒という感じでした。」
「じゃあ、それを頂きます。黒ラベルがいっしょやし、父も飲んだかもしれんけん。」
「飲み方はどういたしましょう。」
「えっと…香りが好きなんですけど…」。ちょっとマスターは考える表情をしたかと思うと、氷の入っていない水割りとストレート、そしてチェイサーをだした。
「水割りの方は氷を入れていませんので、香りが広がりやすいとは思いますが、懐かしいのが案外ウィスキーのお味の方なのであれば、ストレートが良いかもしれません。どんな飲み方で飲むかで、味や香りが変わりますので、初めてでしたら両方お試し頂きたいとおもいましたので。」
女は水割りを飲んだ後、ストレートグラスの香りを嗅いで一口含んで、ゆっくりと飲んだ。
「水割りの方が好きみたい。ストレートやとちょっと口当たりがキツくて…」と笑いながら
「ウィスキーって飲み方でこんなに味が変わるんやね。この前の彼はバーボンって注文して、ロックで飲んでたけど、ウィスキーごとで飲み方が違うの?それにさっきブレンディッド?とかいうてたけど、ウィスキーって種類が違うのがあるん?名前の後に小さく書いてあるんを見た事はあるけど、会社が宣伝かなんかで書いているんやと思っとたん。良かったら、教えてくれん?」
「え、えっ…そんな…お客様にお教えするというのはおこがましい話ですから…。」
「そんなん言われんと…お願いします。」
「で、では…。ウィスキーは大麦から作るもの、ライ麦からつくるもの、コーンを混ぜるものという材料の区別、それからシングルモルトといいまして、一つの蒸留所でつくられたものと、シングルモルトをいくつかブレンドしたブレンディッドウィスキーがございます。作られる場所もスコットランドのハイランド、ローランドと、アイラという島々でつくられるもの、アメリカで作られるもの、カナダで作られるもの、そして日本で作られるものと、やはり国や場所によってお味が異なってきております。」
「こちらの棚、私どもの業界ではバックバーと申しますが、このバックバーのこの辺りからずっと向こうまでが、全てウィスキーになっております。」
「それぞれにお味も香りも違いますし、そのままストレートでお飲みになった方がよく味のわかるもの、水を入れた方が香りが広がるもの、ソーダで割ると甘味が出るものと、やはり飲み方によってもお味が変わります。本来でしたら、ご自分のお好きな飲み方でお好きなウィスキーを飲まれるのが一番ですし、私どももお客様の好みにあれこれ言うことはございません。が…せっかく思い出のあるウィスキーをということでしたので、私としては常温の水割りかストレートでお飲みになっていただきたいと…。」
「確かに水割りとストレートで香りの広がりが違うし、味も違うし。でも水割りって氷を入れるんでしょ?」
「氷を入れますと香りが広がるのに若干時間がかかるかと思ったものですから…。それともう一つお出しした氷の入った水はチェイサーと言いまして、お酒とチェイサーを交互に飲まれると二日酔いや悪酔いをする事が少なくなります。ストレートをぐいっとあおるのがスタイルだと思っておられる方もございますが、特にストレートの場合は是非チェイサーをお飲みいただきたいと思っております。」
「さすが、本物のプロってすごいんね。」
「た、たいそうな事を申し上げました。申し訳ございません、決してその…」
「ええんよ。マスターってほんまにお仕事がお好きやねんね。それに…」とクスッと笑って「ウィスキーの瓶を持ってしゃべっている時って、剣を持った騎士みたいに堂々としてるけん、素敵やわ」と続けた。
マスターはカウンターの中が薄暗いのにつくづく感謝した。
その後、女は月に1度か2度、1人で来ては毎回違ったウィスキーをマスターが勧める飲み方で飲むようになった。そしてマスターの手があいている時は、二人でウィスキーの香りや味の話をしたりしていた。けれど、彼と一緒の時は、彼が彼女へは軽めのカクテルをと注文した。マスターは注文通りのカクテルを作って出し、女は帰りがけにマスターにちょっと頭を下げた。彼女のカクテルグラスが空になる事はなかった。
そんな月日が続いたある日、女が後輩らしい若い女の子を伴ってバーにやってきた。
「マスター、二日酔いって、ほんまに辛いんやね。頭はがんがんするわ、胃は重いわ…ほんま、笑い事やないわ…。今日は、その二日酔いの救い手においしいお酒をおごりにきたんよ」と女は嬉しそうに若い子を職場の後輩として紹介した。
「おや、二日酔いとはお珍しい。」
「居酒屋さんでチューハイと梅酒しかなくって、梅酒もあんまり美味しくなかったけん、ウーロン茶って注文したんよ。」
「そしたら店員さんがウーロンハイと間違えて」と後輩の子が続ける。
「何せ薄いから気がつかんと飲み干したら、飲めん、飲めんて言われんよって。」
「調子に乗ってみどり先輩が注文して、しょうことなしに飲んではった感じやったわ。」
「で、フラ〜っとしてしもたら、気ぃついてくれて、スポーツドリンク買うて一緒にタクシーでアパートまで、二日酔い対策のメモまで残してくれたという、えらい気のきく後輩なんよ」といって彼女は眩し気に後輩の顔を見た。
「そうですか、それはそれは。良い後輩でいらっしゃいますね。」
「そんなことないです。私、先輩には憧れてて、一緒にカクテルでも飲みにいこうわって誘われて、嬉しくって。先輩、仕事できるし、男の人にもきっちりもの言うけん、結構女の子の中では頼りにされてるんです。」
「まぁ、そんなことはどうでもええけん。何か好きなもん注文して」と彼女は恥ずかしげに遮った。
「私、カクテルなんて初めてやから…。」
「何か好きなお酒とか、あるん?チューハイでも好みとか…。」
「え〜っと、杏露酒ってゆうのか好きなんですけど…ないですよね…。」
「杏露酒もございますよ。そちらを使ってカクテルをお作りしましょうか?」
「ええ、お願いします。初めてなんで…飲みやすい、あんまり甘くないのを。先輩は?」
「えっと、この前が…あ、今度はいよいよバーボンやね。」
「はい。最初ですからワイルド・ターキーの水割りかロックか、これはどちらでもお勧めですが。」
「二日酔いの後やけん、おとなしく水割りで」と笑った。
「先輩。ウィスキー飲むんですか?」
「ふふ…昔、父親が飲んどってね、そんな話から、ウィスキーって色々あるって教えてもろて、独りできたら、マスターに順番に飲ませてもらってるんよ。」
マスターは、柔らかなカーブのカクテルグラスに何かをくるっと垂らし、シェイカーを取り出すと杏露酒にレモンとラム酒を混ぜてシェイクし、カクテルグラスに入れるとさらに黒い瓶から液体を静かに沈ませた。そしてそのグラスと、ターキーの水割りを二人の前においた。
なんだか複雑そうな作業を興味津々に見ていた後輩だったが、いざとなるとこわごわ口を付けた。
「ふわっと香りがして、すっきりとしてるのに…ちゃんと杏の味がする!杏露酒って杏の香りだけで、こんなに杏の味がしないのに…。杏のお酒を入れられたんですか?」
「いえ、お酒は杏露酒にラムだけで。ただ器と香り付けにパッションフルーツのシロップやリキュールは使っております。飲みやすいように仕上げておりますが、ラムを使っておりますので、ゆっくりとお楽しみください。」
「でないと、私の二の舞で二日酔いになるけんね」と女が茶々を入れる。
「もう、先輩!でも杏が加わってないのに、杏露酒より杏らしいなんて…カクテルって不思議」。
「でしょ」と女が少し誇らしげにでも優しく笑う。
二人はそれからゆっくりと話を続けていった。来たときはやや固めだった二人の間の空気はだんだんと柔らかくなっていった。
「先輩。このお店やっぱり彼と一緒に来られるんでしょ」。
それまで和やかに応じていた女は、ちょっと間を置いて考える表情をした。
「うん、まぁね。」
「もう3年になるけん、そろそろゴールインかなって…みんなで」と無邪気な声が続ける。
それにも女はすぐには答えなかった。
「3年かぁ〜…」。
気配を察したのか「あの…先輩、何かあったんですか…。あ、あの別に聞き出すとかそんなんじゃ…」。
「別に遠慮せんでもええけん。ほら、この前の山本君の件。」
「あ、あの時は本当に助かりました。山本さん、いっつも書式を間違えるし、肝心のところ抜けてたりするから、なんとか私らで直せるとこはいっつも直してたんですけど…。」
「知っとるよ。それをよう知っとるけん。そやけん今回の間違いをこっちの責任みたいにいってきたから、思わずキツい言葉でやり返したんやけど。」
「あの時、私らみんな心の中では万歳!大拍手したい気分で、すかっとしました。」
「けどね…怒られたんよ。彼に。まぁ彼は山本君の上司になるけんね。『もうちょっと言い方っていうもんがあるやろ。みんなの前で、それも女に怒られる気分を分かれや。気ぃのつかん』って…。」
「それって…。」
「まぁ前から気のつかんってよういわれとるけん、ええんやけどね。」と女はちょっと寂しそうに笑った。そして気分を変えるように「来月の異動で向こうの部署に移るって聞いとったけん、二日酔いの件を話したら喜んどったよ。気ぃの効く女の子が下におると仕事が捗るって。頑張りや。」
「すいません、先輩こそ、後輩の私らにいっつも気ぃ配ってくれるのに。」
「当たり前の事、大げさに言われんよ」と女はにっこりと笑った。
それが3月末の事、それからしばらくはいつも通り、彼と彼女が来る日と彼女1人で来る日が交代のように月に2、3度と続いた。そんなリズムにすっかりマスターがなれてしまったある夜、グラスを拭きながらふと「そういえば、このところお二人の顔を見てないな」とカレンダーを見た。カレンダーは既に10月の末を迎えていた。「お忙しいのだろうか…それとも…何かお気に召さない事でもあったのだろうか」心のどこかに引っかかりを覚えたものの、マスターは黙って仕事を続けた。
11月の半ばというのに、朝から冷たい風が吹きすさび、市内でも山際では降雪のニュースがある程だった。さすがにこんな日にバーに来る客は少ない。マスターも細長いカウンターの中で、この時とばかりグラスを拭きあげたり、バックバーを改めて清めたりしていたものの、暇を持て余していた。そんな時、バタンと店の細長い入り口の扉が大きな音を立てたかと思うと、冷たい風におわれるように客が入ってきた。
「ふぅ〜やっぱりあっったかい。」長いコートにマフラー、手袋に身を固めて入ってきた女は、いつもウィスキーを飲んでいた彼女だった。
「お久しぶりです、コートはこちらにどうぞ」マスターはカウンターから出ると、女のコートを受け取って、コート掛けに丁寧にかけた。そして女がゆっくりと手袋を取るのに合わせて、おしぼりをゆっくりと手渡した。
「まだ、熱いかもしれませんので、お気をつけ下さいませ。」
女はおしぼりの暖かみをじっくりと味わうかのように、両手を包み込んでいた。
「マスター、何か暖かいのが飲みたいんやけど…」いつもより静かな声で女が言った。
「それでしたら、ウィスキーをお湯割りにいたしましょうか…。」
「別のお酒でお願いできる…ウィスキー以外やったらなんでもかまわんけん。」
不思議に思いながらもマスターはホットバタードラムを作って女の前においた。
「ラム酒を温めてバターを浮かしたものです。甘味は抑えて作ったつもりですが…。」
女は両手でグラスを持つと、ゆっくりと香りを嗅ぎ、ゆっくりと一口味わった。
「美味しい…体の芯があったまっていく感じ…」そういうと、また一口ゆっくり味わって、黙って、グラスを両手で持ったままカウンターにそっとおいた。黙っているときでもどこか明るい雰囲気だった女が、いつになく辛げな雰囲気を漂わせていた。声をかけようかと思いつつも、マスターは黙って控えていた。
やがて、長い時間をかけてグラスを空にした女は「ごちそうさま」と言って立ち上がった。
「マスター、今日は1人にしておいてくれてありがと」と短く言うと、女は俯き加減に寒い街に戻っていった。
年明けの喧噪がすぎた頃、女は再び1人でバーにやってきた。
「今日はどういたしましょう。」
「前みたいに、ウィスキーを、マスターのお勧めで」そういって女はいつものようににっこりと笑った。
それから月に1度か2度、女は1人でやってきてウィスキーを飲んでいく。そのうちに「この前のウィスキーを今日はロックで」とか、「う〜ん。ロックで出してもろたけど、ちょっとだけお水をくわえてもろてかまん」など、自分なりの楽しみ方を試しだすようになっていった。そんな女の様子がマスターにはひどく好ましく思えた。
やがて街に初夏の気配が漂う頃、女が髪を綺麗にセットしてドレス姿でやってきた。手には大きな荷物を持っている。
「荷物はこちらでお預かりしましょうか。」
「お願いします。重くはないんだけど邪魔っ気で仕方なくて。」
「今日もいつものようにウィスキーですか?」
「ええ。」
「順番ですと…」とマスターはバックバーを見直して「テネシーウィスキーですね。」
その言葉と同時に女は吹き出すように笑ったかと思うと「マスター、今日はテネシーはやめて」と言った。笑い声だったけれど、少し苦いものが混じった声だった。
「も、申し訳ありません、何か失礼な事でもいたしましたでしょうか」とマスターは即座に謝った。
女は気を取り直したように「ええんよ、マスターのせいやないけん。この格好のとおり、今日は結婚披露宴と2次会…。ほら、前一緒によくここへ来てた彼と、一度後輩って紹介した女の子がおったでしょ。あの二人が結婚したんよ。やけん今日何時私が『テネシーワルツ』を歌いだすやろって、周りの女子連中が、ヒヤヒヤしながらも、どっかで楽しみにもしとったけん。そんな気ぃちっともないのに…それでちょっとしんどなって、2次会だけで抜けてきたん。で、ここへ来たらテネシーウィスキーやけん、つい。」とちょっと寂しそうな、それでも笑いを含んだ声で説明した。
マスターはどう答えていいのか分からないまま「では、何にいたしましょう」と尋ねた。
ふと、遠い目をした女は「マスター、ウィスキーと杏のお酒で作るカクテルってある?」
「はい、ございます。杏のお酒といっても、こちらの」と四角い大きめの瓶を取り出すと「アマレットといいまして杏の核のリキュールになりますが。」
「じゃあ、今日はそれをお願い。」
出てきたカクテルを一口、二口飲みながら「ウィスキーに杏。あったかくて複雑…力強いけど柔らかい…」とつぶやいた。そして「マスター。暇やったら愚痴、聞いてくれる?」といたずらっぽそうに笑った。
「はい、いくらでも。バーのカウンターはカウンセリングのテーブルのようなものでございます。守秘義務は明記されてはおりませんが…」と至ってまじめに受ける。
「マスターのそういうところがええねぇ」
「彼とね、11月の寒い日に分かれたんよ。まぁお互いなんとな〜くうまいこと行かん事が何度もあったけん、来るもんが、来たな〜って感じやったんよ。ショックはショックやったけど。ただ、その時にね『お前みたいにキツい女は女やない。なんであの子みたいに気がまわらんのや』って後輩の子をダシに言われたんが、結構キツかったんよ。しばらくして、二人が付き合ってるって噂が流れてきてね…まぁさっき冗談半分で『テネシーワルツ』歌うってゆうたけど、あの子が私から彼を奪い取ったみたいにゆう子もおって、それを打ち消しても、かえって逆効果やったりして…そっちの方がもっとキツかったかな…。結局、彼、自分を支えてくれる柔らかい女の子の方が好きやったんやと思うんよ。私はどっちかというと逆っぽいから。後輩が彼の部署へ行って、それがはっきりしたって感じやった。せやから、辛くないかとか、寂しくないかっていわれたら、そうやねんけどね。恨むとかそんな気持ちはないんよ…」そう一気に言うとまた、カクテルをゆっくりと味わった。
しばらく黙っていたかと思うと、顔を上げて、改めてマスターの顔を見て尋ねた。
「マスター、このカクテルなんて言うの。」
「ゴッドファーザーと申します。なんでも映画にちなんでとか。」
「ふぅ〜ん。でも二作目のアル・パチーノって感じやね」と女はふっと笑って「そういうたらあの映画のロゴってゴッドファーザーって英語の文字が操り人形みたいになっとったよね…。案外ゴッドファーザーの方が操られてるっていう皮肉なんかな。」
「後輩のあの子ね、人当たりはすっごく柔らかいし、男の人を立てるようにしてるけど、私よりずっとしっかりしてるし、言う事は言うんよね。でもキツい言い方やないし、相手に余地を残してるって感じに柔らかくって。せやから、気がつかん間にあの子の言うた正論が、誰が言ったでもなく、なんとな〜く共通了解になるん。結構、そういう気の回る所ってゆうんかな、刺々しくなくて、前にも出てこんで、それでいてチャンと物事を動かしているってとこあるんよね。私、それがすっごい羨ましいっていうか…ほら、自分にできんこと、軽々とできる人っておるやん。そんな人見るみたいに眩しかった。こんなん同僚の前では言われんけど。」
「考えてみたら、ほんまにあの子と私、反対やったんやね。正論ゆうたらそれでええ。あんたら文句言われんやろって感じやったんかもしれへんわ、私って。きっついストレートみたいに。チェイサーも出さんと。そう思たら、アマレットの入ったウィスキーみたいにならんとあかんのかもしれんね」としみじみと言った。
「もっとも男の好みはアル・パチーノより断然マーロン・ブランドやけど」とにっこり笑った。
「マスター、これからまた通うけん、ウィスキー使ったカクテルとか、他のお酒の事も色々教えてくれる。なんか私、今まで一つの事しか見てこんかったような気がする。お酒もウィスキー一本槍やなくて、いろんな味を知っときたいんよ。」
「はい、それはもちろんでございます。ここはバーでございますから。」
「私にとっては居心地のええ止まり木やけどね。」
「そういっていただけますのは、大変ありがたい事でございます。」
皐月の薫風の夜。だが夜風の底に梅雨の気配がかすかに漂っていた。そろそろ青梅の頃が近いのだろう。
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