第2話 睦月の桜
開店の準備も終わり、看板の電気もつけ、ホット一息ついたと間もなく、店の外から「ね、開いてる?」「看板がついているから開いてるんじゃない?」「ね、だれが…」という若い声が聞こえてきたかと思うと、元気よく「こんばんわ〜」と4人グループがやってきた。グループというよりユニットというべきか。別段そろいの服装にそろいの髪型で決めている訳ではないのだが、一人一人の区別がうまくつかない4人の女の子達だった。
「いらっしゃいませ」カウンターから出てきたマスターはさりげなくボックス席の方を示した。
「ね、ね、カウンターでもいいでしょ。開いてるんだしぃ〜」と言ったかと思うと4人はカウンターの真ん中に席を占めた。ちょっと肩をすくめながらマスターは改めてカウンターの中に入ると、おしぼりを出しながら「東京からいらしたんですか」と聞く。
「やっぱわかるぅ〜」と得意げな声が返ってくる。
「私たちぃ卒業前旅行なの。海外なんて学生時代に行ってるしぃ〜ちょっと変わった旅行しなくっちゃねって」
「そうそう。で、国内の海外っていいんじゃないって」
「北海道とか沖縄とか月並みぃ」
「で、四国一周」
「ラストが千と千尋の道後!」
「もうカンドー!!映画そっくり」
「ね、ね写メうまくとれたー」とにぎやかに自分たちで盛り上がっている。やっとのことで「何を差し上げましょう」とマスターが聞いた途端、4人はヒソヒソと声を低めた。
「ね、誰が…」
「え〜私、やだ〜」という声が漏れ聞こえてきたかと思うと、少しおとなしめの女の子が思い切ったように声を出した。
「あの〜私たち…パブとか…結構お酒飲んでるんですけどー…カクテルとかって初めてで…」ときった口火を広げるかのように
「でさ、やっぱ社会人、とかになるしぃ。カクテルとかかっこ良く注文したいワケ」
「でも東京…じゃぁ…ネ」
「だからぁ、旅の最後だし、ここって松山でも昔っからあるって書いてあったから〜色々教えてもらえるかなってぇ。」
やれやれという顔をしかけたマスターに向かって4人は「よろしくおねがいしまぁ〜す」と軽く頭を下げて無邪気そうに笑ってみせた。
「4人ともカクテルは初めてですか…それならカシスオレンジとか…」とマスターがいい始めると
「カシオレ、ダっサぁイ」
「そうそうあとソルティなんとかとか…」
「うんパブの定番だもんね」
「やっぱ、カクテルってあのほらシャカシャカするやつ」
「うん、それで作るのが飲みタイよね」と一斉に駄目だしが入る。
「そうですねぇ〜でも初めてはやはり果実系から入るのがおすすめではあるのですが…」とちょっと迷い顔でバックバーを見渡したマスターだったが「果実系でも柑橘ではなくてベリー系ではいかがですか?」
「ベリー系??」
「ええ、苺もベリー系ですが、近頃だとブルーベリーなどもよく見かけられると思います。ちょっと甘酸っぱいものですが、この頃日本にもよく入ってくるようになったクランベリーを使ったカクテルがあるのですが…」
「私それ!」「え〜私もそれ欲しい!」「ずっる〜い」「だって…」
「どうなすったんですか?」
「あの…実は…4人で1種類ずつ頼んで…ちょっとずつ飲もうかって…」と恥ずかしげな声が返ってきた。
「だっからっぁ、チャンと回すって」と最初に声を上げた子がいう。
「そういっていっつもいっぱい飲むじゃない!!」
やれやれとマスターは声をかけた。
「回し飲みではなくて1/4でお作りしましょうか?」
「え〜それじゃぁ写メとれな〜い」と不満そうな声を抑えるように静かにマスターに問いかける声がした。
「あの、1/4ので作るというと別の器に移してから、分けるんでしょうか?」
「いえいえ、シェーカーから直接4つのカクテルグラスに注ぎ分けます。」
静かな声が他の子たちに声をかけた。
「ねぇ、そのほうがすごくない?トクベツって感じするじゃない?」。
そしてマスターに向かって「手元、取らせていただいていいですか。カクテルを注ぎ分けるとき。」
「ええ、かまいませんよ。」
「ね、ね、すっごい写メになるよ。他の誰もそんな写メ撮れっこないって。」
どうやらそれで全員が納得したらしい。手元のバックから一斉に携帯電話を取り出す。
マスターはおもむろにカクテルグラス4つに氷を入れでステアし、シェーカーを取り出し材料を入れると、カクテルグラスの氷を捨てて水を切って並べた。そしていつものようにシェークし、4つのカクテルグラスに最初は順々に、次に逆順にきちんと1/4に注ぎ分けた。女の子達は口々にすっごいとかなんとかいいながら、ぱしゃぱしゃと携帯カメラのスイッチを押していった。
「コスモポリタンというカクテルです。クランベリージュースを使っていますが、ベースつまり元になるお酒はウォッカが普通です。」
「わ、おいしぃ〜」
「飲みやっすい〜」
と、マスターは一人一人の前に氷を入れたグラスをおいた。
「これはチェイサーです。飲みやすいですがベースがウォッカなので、ワインの倍ほど強いお酒になります。特にこのカクテルではレモン風味のウォッカを使いますから、尚更飲みやすいカクテルに感じられると思います。けれど飲みやすさにつられるといつの間にか酔いすぎます。時折お水を飲むと悪酔いもしませんし、自分のペースで飲めます。こういうカクテルグラスでだされるお酒はショートドリンクといって、早めに飲んでいただいた方が味が変わりにくいのですが、世の中には飲みやすいショートドリンクばかり勧める悪い男もいますからね。チェイサーを注文するのはバーではごく当たり前のことです。むしろ飲み慣れている人だなという印象を受けるので、バーテンダーは安心できます。」
4人が携帯で熱心にメモを入力するので、マスターもいつの間にか講義調になっている。
4人はマスターにいわれた通りに、おとなしくコスモポリタンをすすり終わるとチェイサーをたっぷりと飲んだ。
「カクテルのベースは今お出ししたウォッカの他にもあります。次は…女性向けといっては何ですが、ブランデーベースでお出ししましょう。」
そういうとマスターはサイドカーを作って4人の前においた。
「どうですか、味が随分違うでしょう。」
首を傾げる子、眉をひそめる子…そんななかで1人「なんだかさっきよりキツくて、でもオレンジの味がちょっとするような。」
「ええ、ブランデーベースなのでウォッカよりもキツい感じがすると思います。私の店ではコアントローというオレンジリキュールを使いますから、オレンジの味が割と出ているのだと思います。普通のオレンジリキュールを使う店もあるので、社会人になられたら飲み比べられると面白いと思いますよ。さて…」とマスターが続けようとすると、1人の子が「マスター、ベースのお酒ってたくさんあるの?」と聞いてきた。
「そうですね、蒸留酒は大概ベースになります。皆さんがよく飲まれるかもしれないチューハイは焼酎がベースになっているカクテルになります。」
全員そろって「へぇ〜」とボタンをたたく真似をする。
「でも、よく使われるベースってやっぱりあるんでしょ?」
「そうですね、先ほどのコスモポリタンがウォッカ、今のサイドカーがブランデーベースですが、後よく使われるといえば、ジンと…」
「あ、ジンのカクテルって聞いたことある!えっとなんていったっけ………あ!マティーニ」
「有名なのそれ?」
「うん確か。ね、マティーニって有名よね。」とマスターに同意を求める。
マスターはちょっと困った顔になった。
「ええ、確かにマティーニは有名なカクテルで、カクテルの王様ともいわれていますが…」。
「ねぇねぇ、次、それにして!おねがいっ!」
「強いですし…シェイクしませんよ。ジンならまだホワイトレディとか…」
4人は「お願いしま〜す」と声を揃えた。
マスターは仕方なく「マティーニは強いお酒ですし、初めての方には飲みにくいお酒です。ですから1杯だけつくります。一口飲んだから次の方に回してください。皆さん、飲めるようでしたら、その1杯は店のおごりということで、改めて1/4バージョンを作りましょう。もしだめでしたら戻してください。飲みやすいカクテルに作り替えますから。」
そういうとマスターは冷蔵庫からミキシンググラスを取り出してマティーニを1杯だけ作った。
脅かされたせいか、さすがにおそるおそる口を付けていく。
「つよ〜おぃ」「うわっ辛い」という声が続いて、「すいません」という声とともにグラスが戻ってきた。
「いいんですよ。でもこれに懲りて背伸びはしないようにしてください」そういうとマスターは再びシェーカーを取り出して、マティーニをその中に戻し、材料を入れて1/4ずつカクテルグラスにいれた。
「あれっ最初のと同じ色」
「ほんとクランベリーの味がする」
「でも…ちょっとキツいね」
「ジンベースのコスモポリタンです。こちらの方を出すお店もあるので、最初のコスモポリタンがお飲みになりたい場合は、ウォッカベースといわれた方がいいかもしれませんね。」
「ほんと、全然キツいもん」「ねぇ」と同意する声の中から、小さく「ジンって森の…」という声がした。マスターはちょっと元気づけるように微笑んで「ジンはジュニパベリーという木の実で風味を漬けるお酒ですからね。森のような香りがしますよ。」
4人は最後に出されたチェイサーを一気に飲むと「お勘定お願いします」と立ち上がった。
「え、こんなに安くていいですか?」会計を任された子がいう。
「松山ですからね。東京の半分以下でしょう。それに学生さんには学割価格にしてますから」とマスターが答える。「ヤッター!ラッキー」という声を背後に「ありがとうございます。」と会計の子は丁寧に頭を下げた。
「ありがとうございました」とマスターは4人を扉の外まで見送ると、そのまま扉を開けておいた。彼女たちの香水と若さとも幼さともとれる匂いが店に溢れかえっているような気がしたからだった。
「やれやれ、なにやら倍以上に疲れたわ。俺も年かねぇ〜」とマスターは独りごちながらカウンターを片付け始めた。4っつ並んだグラスのほとんど飲み残されていたが、1つだけきれいに飲み干されて、グラスの縁は丁寧に拭かれていた。
ふとマスターは顔を上げた。扉の外から梅の香りが入ってきたような気がしたからだった。
夜気はまだまだ冷たい如月も半ばの頃。とはいえ、白梅も紅梅も競うようにその盛りを迎えようとしていた。
こと…と静かに扉の開く音がした。暇に疲れてボックス席に座り込んでいたマスターが慌てて客を迎えに立ち上がり、客とぶつかりそうになった。素早く一歩引いたマスターは改めて「いらっしゃいませ」と挨拶をする。店内を見回していた客は、挨拶をしたマスターにぺこんと頭を下げると「お久しぶりです」と挨拶をしてカウンターの奥にゆっくりと席を占めた。
「前に一度いらしたことが…失礼しました」
「いえいえ、10年程も前ですから…。でも覚えていらっしゃいます?4人揃ってマスターに無理ばっかりいた図々しい女子大生」。そういって客はにっこりと笑った。
「あの時は、本当に失礼しました」と頭を下げた。
「でも、お店、全然変わっていなくて…良かった…マスターも10年前とほんとに変わらないですね。そうそう、あれから私、すっかりジンが好きになって。とくにギムレット。冬のお月さまの光を飲んでるみたいで、大好きなんですよ。」
「それは嬉しい限りです。今日はお仕事で?」
「ええ、まぁ…。ちょっとこちらの支店、といっても会社は東京と松山だけなんですけどね、そこでトラブルがあったらしくて、東京にクレームの電話が来たものですから…」そういって、彼女はちょっと顔を曇らせた。
「ありがたいことです。10年も前のことを覚えていていただいて」と気を変えるようにマスターは話を継いだ。
「今晩は松山のギムレットをお出しいたしましょうか?」
「あの…また無理いってもかまいません?」
「…」
「優しくて、ほっとさせてくれるようで、でも甘くない…そんなカクテルが飲みたいんですけど。」
「ちっとも無理なご注文ではありませんよ」とマスターは微笑んだ。
「カクテルの名前でレシピ通りに作るだけであれば、バーテンダーは要りませんから。お客様にお酒をお出しして『これが飲みたかった』『美味しい』と喜んで頂くのが、バーテンダーにとっては一番嬉しいことですし、この仕事のというか、腕の見せ所です。そういった注文をされるとかえって嬉しいぐらいです。さてっと…」
とマスターはバックバーを見回し始めた。その後ろ姿を見ながら女は「客が喜ぶのが一番…」と小さくつぶやいた。
「さて、お気に召すといいのですが。」
マスターが出したカクテルを一口飲んで、女はひどく不思議な顔をした。
「これ…ギムレットのような…でもギムレットじゃないような…」
「昔、まだ日本で生のライムが手に入らなかった頃に我々の先輩たちが工夫して出していたギムレットです。ライムコンクとかを使うものですから、甘いのは甘いのですが、砂糖の甘味ではありませんし、生ではありませんから、その分キリッとした風味は薄くなりますけれど…。優しい、でも甘くない。そして普段はギムレットが一番好きだとおっしゃっていましたので、思い切って昔風のギムレットにいたしました。いかがでしょう。」
「美味しいです…というか、この味が欲しかったんだなって…嬉しい」と女がいった。
その時扉がまたゆっくりと開いて、店を覗き込んでいる雰囲気がしたかと思うと、男が独り入って来た。
「やっぱりここだった」といって、女の一つとなりの席に腰掛けた「相変わらずギムレットかい?」
「ちょっと違うの。」
「あ、ボウモアを。水割りでお願いします」男はマスターが注文を待っているのを察してそういうと、女に向かって続けた「ちょっと違うって?」
「飲んで見る?」
「いいのかい」そういうと男はおもむろに、しかし確実に女の飲み口を外して一口カクテルを味わった。
「う〜ん。朧月夜だね、春の。」
「えっ?」
「以前、ギムレットは冬の月だっていってたろう。このギムレットは同じ月でも春の朧月みたいだと思ったんだよ…。さては、相当落ち込んでるな。」
「うん。つい、東京の仲間の前と同じ調子でやっちゃったわ。松山の人にとったらまさしく『本社の威を借る鉄の女』よね…。」
「ま、あの会議でのあいつの発言は君の逆鱗に触れたから無理ないさ」そういって、男は運ばれてきたボウモアをゆっくりと口に含んだ。
「私の逆鱗?」
「プログラムや配列がどんなに素晴らしくても、客が使いにくかったらそのシステムはゴミ。それが君の口癖。あいつは会議で『使いこなせない方が悪い』っていっちゃったからね。瞬間、切れるなって思ったよ。」
「それでも、満座の前だったし…あの発言の後、出て行ったのが開発した人でしょ?」
「出て行ったのはあの発言をしたやつの上司。藤崎さんっていうのさ。作ったのは発言したあいつ。だから今晩もあんなに『鉄の女』だの絡んでたのさ。藤崎さんが飛び出したのは、顧客の会社に謝りににいくため。それも社長と担当の部課長だけじゃなくて、入力担当者一人一人に頭を下げてたよ。藤崎さんと顧客の会社との付き合いは長いらしくってね。今回の件で藤崎さんが出てこないのがおかしいっていうので、社長が東京に電話したらしいよ。」
「あぁ…どうしよう…凹む…」
「大丈夫さ。あいつのことは松山でも持て余してたらしい。ここまで案内してくれたのも藤崎さんだけど、君にくれぐれもよろしくってさ。『あいつに仕事を任せた私のミスです。でもおかげで徹底的に再訓練できます。ありがとうございました』って逆に感謝してたぜ。」
「う〜ん…でも…」
「ま、明日の朝、きちんとお世話になりましたっていっとけば大丈夫」そういって男はボウモアのグラスをゆっくりと揺らした。
「そういえばいつもボウモアの水割りね。」と女が言った。
「うん。一口飲んで見るかい。口当たりがキツいから気をつけて。」
女はゆっくりと香りをかいで、おそるおそる慎重に口に含むと、ゆっくりと味わって飲んだ。しばらく香りを楽しむかのように持っていたグラスを男に返すと「山の春風みたいね」といった。
男はちょっと驚いた顔をした。
「最初柔らかい口当たりで…でもそのうちぴりっとした風味がするんだけど…舌触りが残って…なんだか風の雰囲気みたい。それと、最後の最後に甘味がでてくるけど…いろんなものが…芽吹いたばかりの草の香りとかハーブっぽい苦みたいな甘味とかが混じっていて。でもなんだかふわっと柔らかくて…。なんとなくさっと吹き去っていく山の風に春が運ばれてきたみたいな感じがしたから…。」
男は顔を和らげると「僕、大学が信州だったからね。この酒を飲むと信州の春を思い出すんだ。正直東京の春は苦手なのさ。」
「私も苦手。特にソメイヨシノがだめ。なんていうのゴチャっていっぺんに咲いてウザったいっていうか。ま、花のせいだけじゃないけど。」
「じゃあ君も山桜派かい?」
「残念でした。私が好きなのは八重桜。」
「八重の方がボテって感じだけどなぁ〜。」
「それは八重桜に失礼よ。私が最初に好きになったのは緑の八重桜。凄く清楚なんだから。」
「緑の桜?そんなのあるのかい。」
「ありますとも」といって女はビジネスバックからタブレットを取り出すと画面を男に見せた。「『鬱金桜』。満開寸前までは緑で、満開になってから徐々に真ん中がピンクにはなるんだけど、最後まで緑なのよ」といってグラスを持ち上げたとき、マスターが声をかけた。
「お代わりは同じのでよろしいですか?」
自分のグラスが空になっているのに初めて気がついたらしい。ちょっと恥ずかしそうにした後、思い切ったように「マスター、桜にちなんだカクテルってありますか?名前でもいいんですけど、どちらかというと雰囲気が桜みたいな…。すいません。また無理を言って。」
「とんでもない。桜ですね…」というと、マスターは早速ピンク色のカクテルを作り、差し出す前に何かをスプレーで振りかけた。
「あれ、桜餅」と男がいう。
「え?」と女。
「僕はほら関西にもいたから。関西の桜餅は塩漬けの桜の葉っぱを使うんだよ。その香りがする」
「あぁ…それで。私は桜茶を思い出したわ。」
マスターはにっこり笑って一本の酒を差し出した。
「最後にスプレーしたのはこのズブロッカというウォッカです。水牛が食べるという薬草がつけ込んであるのですが、どういう訳か桜餅の香りなのですよ。お味の方はいかがですか。」
促されて女は一口飲むと驚いたような顔をした。
「見た目より全然甘くないですね…むしろキリッとしてるぐらい。」
「はい、ベースがジンですから。」
どれどれと男も一口飲んで見る。
「あぁ本当だ。最後に森の香りが残る…。名前はなんというのですか?」
「お恥ずかしいですがオリジナルです。後でレシピを書きますので、東京で…」というマスターを制して
「松山の桜って覚えておきます。松山でしか飲めないカクテル。だから飲みたくなったら松山のこのお店に来ます。」
男も頷いた。
「その所でないとっていうのがあると楽しみが増えるしね。」
「それはそれは…」とマスターが嬉しいような照れくさいような顔をする。
男は「じゃあ、今度は僕の番。あ、マスターお代わりお願いします。同じもので…」
「山桜とはいえないけどね。桜色じゃない桜っていうことで。淡墨桜。随分前に撮った画像だけど…。」
男がスマートフォンを取り出した。
と、その時扉が大きく開くと「マスター、3人やけどカウンターいける?」という声がした。どうやら常連客らしい。マスターが二人に「すいませんが…」というと、男の方が「いや、僕の方こそ場所取りしてしまって」と女との間の席を詰めた。
常連客は口々に「いつもの、水割りで」とか「う〜ん。今日はジンバック」と注文している。マスターは作りかけていたボウモアの水割りのグラスを空けると、常連客の注文を作り、それぞれの前に置いた。それから、再びボウモアの水割りを作りあげると、そっと男の手元に置いた。男は、つと顔を上げるとマスターにそっと会釈した。そして女との会話を続けた。
「吉野もね、奥の千本が盛りを過ぎる頃には人が少なくて風情があるよ」
「御室桜も素敵ななんだけど人が多くて…。桜はないし、ちょっと足を伸ばさなくっちゃいけないけど、光悦寺っていうお寺が…」
どうやら二人の会話は桜の名所からそれぞれの風情好みの話へと深まっていっているようだった。
常連客の相手をしているマスターの背中は、そんな二人をそっと見守っているかのようにも見えた。
梅は、と問うても臘梅ばかりの睦月半ば。けれど桜もつぼみの用意を始めているであろう。
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