BAR

なつき船

第1話  二羽の鳥

地方とはいえ県庁所在地でもあり、国の出先機関の所在地でもあったその都市は、小さいながら必要な機能はあらかたそろっているという、幕の内弁当のような都市だった。そして幕の内弁当のように何が特別にうまいかとか、何が名物かと尋ねられると地元の人も首をひねってしまう都市でもあった。といっても幕の内の中では特上の部類に入れても良いであろう。


 そんな都市の夜の繁華街の外れにそのバーはあった。一軒隣には薄っぺらで均一な白い光を広げるコンビニが、はす向かいには人造ダイヤモンドの光を反射するキャバクラのエントランスがあった。にもかかわらず、そのバーの周りだけは柔らかい闇が漂っていた。木の扉はひっそりとして、陽気な酔客はその店があることに気がつかずに通り過ぎていきそうだったが、その癖、いったん目にすると一度は押してみたくなるような扉でもあった。


 カウンターの客もそんな扉に惹かれたのだろう。手元にあるグラスはハイボールらしい。口を付けてゴトンと勢い良くおいたのか、炭酸の泡がまた立ち上っている。その音に気がついたらしくグラスを拭いていたマスターが客の顔を見た。

 「どちらからおいでですか?」

 「埼玉です。今月から仕事で…。右も左も分からないような体たらくで…」

 「味になれませんか?」

 「甘いですからねぇ…ラーメンまで。ま、外食ばかりしてるものですから仕方がないのですが」とまたグラスに口を付ける。

 「よ!」と勢い良く客が入ってくる。なじみの客らしい。

 「いらっしゃい」

 客はカウンターの席をぐいっと大きく引くと、ドスンと座り込む。

 埼玉の男はちょっと身を引いた。

 「いつもので?」

 「ああ」

 マスターは手際よく白い小皿にピクルスを盛りつけて、客の前に差し出した。客は大口を開けて放り込んでいく。

 「相変わらずマスターのはうまいわ」

 埼玉の男が思わず口を開いた。

 「このピクルス、マスターの手作りなんですか?」

 マスターは常連客の水割りをステアしながら、少し照れたように「ええ」と答える。

 埼玉の男は、残していたピクルスをまたつまみ直して、今度はゆっくりとグラスを傾けた。

 「甘過ぎますか…東の方には」

 「いえ、丁度ぐらいです。ですから既製品だと思っていたもので。いささかびっくりしました。」 

 「ここのマスターのつまみはうまいけんなぁ。わしはここのペペロンチーノが好物なんよ。」

 「バーに来て、スパゲッティが好物はないやろ」とマスターが笑う。

 埼玉の男はちょっとほっとしたような顔をした。

 「お代わりを作りましょうか」

 「え〜っと…実は僕、あまりお酒のことが分からないもので…。」

 「ハイボールがお好きなんですか?」
 

 「東京で、みんな注文するもんですから。つい。でもなんていうか、つまらないというか…」

 「つまらない?」

 「いえ、なんというんでしょう。口当たりとか…。凄く飲みやすいのですが、単純というか。ただ本当にハイボールぐらいしか飲んだことがないものですから」埼玉の男はちょっと追いつめられたような表情だ。

 マスターはちょっと考え込んだ顔をしたかと思うと、バックバーに列んだ酒を見渡しながら

 「ハイボール以外は飲まれたことがないんでしたら…」といって一本の酒を選んで、グラスに注ぎ炭酸を加えてステアした。

 「ハイボールなのですがね。ウィスキーを変えてみました。お気に召すと良いのですが。」

 埼玉の客はおそるおそる香りを嗅いだ。

 「これもハイボールなんですね。なんだか甘い香りです。」

 「あ、あまり一気には飲まれない方が…。」

 時既に遅く、埼玉の男はむせていた。

 「甘いと思って油断しました。苦みもあるんですね。嫌な苦みではなくて…なんて言っていいか分からないですけど…複雑な苦みです。珈琲みたいでもあるし、いろんなものが混ざった苦みというか…。」

 「アメリカのバーボンウィスキーです。バーボンは全般的に甘いのですが、この辺りが面白いかと思いまして」とマスターは鳥のラベルの瓶を示した。

 埼玉の客は今度はゆっくりと味わいながら二口目を飲んだ。

 「不思議ですね。最後はなんだか香りの効いた焼きリンゴみたいに甘いです。」

 「お、なかなか言うね」となじみ客が、からかうようなそれでいて親しみを込めた声をかけた。

 「いえ、素人の感想で…。でもこんな面白いお酒があるなんて、楽しいです。」

 「それは、なによりでした」とマスターが微笑んだ。


 まだ夜気に冷たさを残す早春の夜はゆっくりと更けていった。


 バタン!と大きな音を立ててバーの扉が開いた。入ってきたのは埼玉の男だった。息を荒げている。すっと顔を上げたマスターは「いらっしゃい。ふた月ぶりですかね」と声をかけた。その途端、埼玉の男は戸惑ったような複雑な顔をしてカウンター席に座った。

 「あの…前に頂いたハイボール、お願いできますか。」

 ハイボールが出てくると、埼玉の男はおそるおそる口を付けた。

 「やっぱりこの味だ…一体あれは何だったんだろう…」埼玉の男はさらに戸惑いを深めたようだった。

 「なにかございましたか?」マスターも気がかりな様子で尋ねた。

 「実は…」と埼玉の男は語り始めた。

 

 どうやら今晩彼の職場で飲み会があったらしい。まぁ少し遅めの歓迎会ということもあったのだろう。お定まりの居酒屋ではなく、ちょっと洒落た店で、最初の一杯はとりあえずビールであったが、二杯目からは皆バラバラに好きな酒を注文していた。気後れして注文が遅れていた男も、同僚が山崎をハイボールでと言ったのに意を強くして「僕もハイボールを。名前は分からないのですが、鳥のラベルのバーボンで」と注文した。しばらくして運ばれてきたハイボールに口を付けて、男は意外な気がした。確かにこの前のハイボールと同じく甘い香りがするのだが、奇妙に飲みやすいのである。いや、正確にいえば今まで飲んできたハイボールに比べれば、特色のあるお酒なのだが、最初から最後まで同じような味に感じてしまうのである。思わず「これ、鳥のハイボールですよね」と店員を捕まえて聞いた。


 「はい、こちらのウィスキーを使ったハイボールです」店員が取りに戻って示したボトルには、確かに鳥の絵がついていた。「おいおい、どうしたん」と隣の同僚が言う。「いえ、ちょっと…前に鳥のラベルのバーボンでハイボールを飲んだんですけれど、なんだか味が違うみたいな気がして…」。隣の同僚は「バーボンで鳥のレベルってこれやんな」と店員に同意を求めるように言う。「はい、私どもではこれですが…」。どこか遠くの方で「東京もんは…」というような声が、「そんなん言われんで」とたしなめるような声。「からかわれたんと…」という声も聞こえたような気がした。埼玉の男は何をどう思ったら良いのか分からぬままだった。が、彼の口は自動機械のように「いや〜僕の勘違いでしょう。意外に緊張しちゃってるのかな。皆さんに良くしていただいてるのに。早くなれないといけませんね」と声に出していた。

 二次会へ行こうという同僚達もいたが、埼玉の男は少し酔いすぎたからと断った。そのくせ大股で足を速めていた。口の中でぶつぶつと「勘違いなのか?いや確かに鳥だった。あの店が間違えたのか?同僚がからかったのか?所詮よそ者だから…まさかあの店が…」と繰り返していた。そして店にたどり着き、困惑と怒りに似た感情のまま扉を勢いよく開けたのだった。


 「すいません。マスターを疑ってしまって。確かにこの前と同じハイボールです」そういって埼玉の男は頭を下げた。

 「いえ、プロですからちゃんと説明すべきでした。こちらこそ大変申し訳ないことを…」といって、マスターはバックバーから二本の酒を取り出した。

 「どちらもバーボンです。昔はこちらのワイルド・ターキーが高くて、なかなか飲めないこともあってか、ワイルドな大人の男の酒という感じだったのですが、この頃は少し味も変わりました。こちらのカラスのラベルはオールド・クロウといいます。お勧めしたのはこちらのオールド・クロウの方なのです。ちゃんと名前もお伝えして、別に同じように鳥のラベルのバーボンがあることもお伝えすべきでした。本当に申し訳ございません」とマスターは深々と頭を下げた。

 埼玉の男は慌てたように手を振って「別に実害があった訳じゃないです。それより、もしよかったらワイルド・ターキーも飲ませていただけますか。ハイボールで」。

 マスターはちょっと驚いた顔でワイルド・ターキーでハイボールを作って差し出した。埼玉の男はワイルド・ターキーのハイボールを飲んではうなずき、オールド・クロウのハイボールを飲んではうなづいた。

 「良かった。僕の舌も捨てたものじゃないですね。ワイルド・ターキーの方がすんなりと最後まであまり味が変わらない。同じバーボンなのにこんなに違うのですね」と微笑んだ。

 が、しばらく二つの瓶をつくづくと見て独りごちた。

「七面鳥とカラスか…。七面鳥は良いですよね。パーティの主役になれる。それに比べてカラスは嫌われ者…」。

 その時、カウンターの奥から1人の女性が立ち上がった。60年配だろうか、真っ白な頭をすっきりとしたショートカットにしていた。どうやら帰るらしい。マスターと何やらやり取りをしていたかと思うと、埼玉の男の側にやってきた。

 「お若い人、私はカラスの方が好きよ。いくらパーティーの主役だっていっても、七面鳥は食べられてしまう。けど、カラスは頭がええし、山でも街でも生きていける柔軟性もあるけんね。」

 そういうと女性はマスターの見送りを受けながら店を出て行った。


 埼玉の男はもう一度オールド・クロウの瓶を手に取ると、カラスの上を優しくなでながら、そっと自分の側に置いて、ゆっくりとグラスに口を付けた。


 皐月の夜は薫風を運んで優しく更けていった。

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