第一部 四章 ートルメンタ・イ・アディオスー
準備を指示されて五日後、私とチコ、レブとフジタカはトロノの隣村、アラクランに向かっていた。セルヴァとは逆方向なので、私も行った事は無い。
「平和だなぁ……」
景色を見てフジタカがしみじみと言った。徒歩でも半日で着ける距離だけど、今のところは注意する脅威は何もない。
今回はアラクランの近くで人を襲っているビアヘロの退治に向かっている。体は大きくないが、突然飛び掛かってきて人を刺すらしい。
「呑気なものだな。どこにビアヘロがいるかも分からぬのに」
トーロの一言に欠伸をしていたフジタカも口を閉ざす。
「すみません……。そうなんすよね、他の召喚士だって何日も捕まえられていないって話なのに」
だけど、フジタカは欠伸をするくらいには緊張が解れている。オリソンティ・エラの空気に馴染んでいるともいえるわけで、私も肩の力を抜いていた。
「フジタカ、装備は万全?」
「ん?あぁ、剣もナイフも、すぐに出せるようにはしてるぜ」
革の鎧と鞘、剣も支給されてフジタカも見た目は完全に戦士だった。元の体格が良いからというのもあるけど、黙っていれば雰囲気も出ていると思う。
「レブは?」
「私を殺せる者がそうそう現れてたまるか」
「はは……」
レブは相変わらずの自信。それに……。
「仰る通りでございます!まして、アラサーテ様に何かあろうものならこのティラドルが、命に替えても御身をお守りしましょうぞ!」
「私に何かを起こすような存在が出現してみろ。ティラ、お前では手に負えんぞ」
ティラドルさんが持ち上げるものだから、レブもますます調子が良さそう。
「………」
ソニアさんは最初に会った時に比べて随分口数が減っていた。今も私達から距離を置いて、竜人達の話を黙って聞いているだけ。多分だけど、ティラドルさんに言われた事を気にしているんだと思う。
召喚術で招いた自慢のインヴィタドから、吐き捨てる様に粗末な召喚陣と言われたら私だって立ち直れない。……言ってくれないのも、嫌だけど。
「……大丈夫なんですか?」
「ソニアはあのインヴィタドを召喚した時、かなり喜んでいたわ」
カルディナさんの表情も暗い。
「自分の術士としての力を誇っていたのに、当の竜人は自分の目的に利用しただけ……」
私は元から力が未熟だった。偶発的にレブは来てくれたけど、それも利用するだけだったのかな……。
「ザナさんのせいではないから。抱え込まないでね」
「はい……」
私がレブを呼び出したからティラドルさんも来て、ソニアさんも巻き込まれた。無責任ではいられないと思う。
何ができるでも自分の胸を掻いても閃かない。今はただ、二人の距離感を見守ることしか選択肢はなかった。
「お前んとこのインヴィタド、相変わらず偉そうだな……」
そこにチコが近寄って会話に加わる。カルディナさんはトーロと周囲の警戒に戻ってしまう。
「と……邪魔したか?」
「ううん」
今はそっとしておくしかない、と結論は出した。後ろめたい自分の決断に気を落としそうになったところに、チコが来てくれたのはむしろありがたい。
「まさかあんな立派な竜人と顔見知りとはな」
「あはは……。私も驚いちゃった」
チコはティラドルさんの話を全部は信じていなかった。彼はレブを、三万年近く生きている凄い竜の息子ということで呑み込んだらしい。今の姿しか知らない者からすれば、それでも少し無理がある気はする。
「なぁ、俺が召喚できたんだから、フジタカの世界ともここは繋がってるんだよな?」
「だと思うよ」
「だったら、フジタカの知り合いもどこかに来てたりしないのかなー……」
先を歩くフジタカの背中を見ながらチコは目を細める。レブとティラドルさんを見て、チコも気にはしているんだ。
「ビアヘロでなければ会える可能性は少しあるかもね」
当然、異世界の住人は召喚士の元に集まる。フジタカの世界の特徴を記して共有しておけば役に立つ時はくるかもしれない。
「お、先手必勝っと」
そこに、一番前を歩いていたフジタカの足が止まる。
「どうした?」
「あっ……。あぁ、いや。変なトカゲみたいのが見えて……さっ!」
「ギッ」
フジタカはナイフの柄に蔦を巻き付け、茂みの一点へ投擲した。直後、短い悲鳴と例の消失音が聞こえてきた。蔦を手繰り寄せてフジタカは満足げにナイフを畳んでしまう。
「いやー、俺って爬虫類苦手なんだよね」
「攻撃は最大の防御だ。やるではないか」
「おう!」
褒めたレブに対してフジタカは笑顔で応じる。爬虫類は苦手でもドラゴンは平気なのかな。
「……てか、今のビアヘロだったのか?」
「消したら確かめようもないわ。まずはアラクランに到着してからにしましょう」
この世界の生物だって強靭な牙を持ち、人くらい簡単に殺してしまう生物はいる。フジタカの見た生き物もその類の可能性はあった。
カルディナさんの提案通りに歩き続けて私達はアラクランへと到着した。木々に囲まれていない平原にポツンとある村だが、石を積み上げて作られた家屋はセルヴァの民家よりずっと頑丈に見える。
「先発の召喚士と交代してきます。皆さんは装備を最小限にしておくように」
「俺も行く」
宿に着いてカルディナさんはトーロを連れて出て行った。ここまでは特に何も起きていない。
「確か毒を持っているビアヘロ……。ソニアさん、何か知りませんか?」
私が荷を下ろしながら聞くと、ソニアさんは肩を跳ねさせた。
「あ、あぁ……。毒を持っているビアヘロ……ワームかアスプ辺りが妥当かしら。バジリスクやヒュドラということはないと思うんだけど……」
切り替えは早く、すぐに教えてくれたソニアさんにレブが目を細める。
「襲われた者の容体は?」
「遭遇した三人がおよそ半日で死亡したとのことです。石化や発火、腐食して暴れ出すといった事例は報告されておりません」
レブの質問に代わって答えたのはティラドルさんだった。
「詳しいな、ティラ」
「事態の把握はしておきたかったためです」
ティラドルさんが得意げに胸を反らすとソニアさんの表情も明るくなりかけて、止まる。半端に作った笑顔が弱々しかった。
「このまま寝ちまいたいがな……」
「夜に襲われたんだ、こちらも夜に見回りしなきゃ退治できないかもしれないだろ」
「分かってるよ、それくらい」
剣の鞘を放ったフジタカだったが、チコからの注意に再び背負う。柄を握り直してから宿の外へ向かうと、ちょうどカルディナさんがトーロと戻ってきた。
「うぉ!?」
「交代を済ませた。次は俺達の番だ」
トーロは静かに言うと自分の荷物から油の入った瓶を取り出して腰に括り付けた。
「準備はできてる?」
「はい!」
カルディナさんが皆を見回し、私が返事をするとアラクラン周辺の警備が始まった。
夜がやってきて私達は松明と星の輝きを頼りにビアヘロを探した。月も今夜は満ちているから視界はかなり良好だった。
「ビアヘロってそんなにしょっちゅう出るもんなのか?」
「分からず退治してる時もあるんだ。それに、召喚士に頼らずとも剣だけで倒せるやつもいるしさ」
周囲を警戒しながらフジタカとチコは話を続けていた。風がそよぐ音や野鳥らしき鳴き声も混ざり、騒がしくはないが沈黙で重いということはなかった。
「踏み潰しちまった虫が実はビアヘロだった……なんてこともあるんだよな?」
「極端な話な」
どこまでが異世界の物か、どこからが元より自世界の存在か。歴史が続いていく中で曖昧になっているものもあった。
「じゃあ召喚士って忙しいのか」
「他にも行くとこはあるから……」
アラクランから先に駐留していた召喚士は入れ替わりで撤退した。ビアヘロがトロノ方面へ向かっているかもしれない。夜行性と考えて強行したそうだが、フジタカは一緒に調べれば良いのにと出掛けてから言っていた。
人手が足りていない。そのために召喚士とインヴィタドがいるのだけど。
「鳥でも召喚できたら空から探せるのかなー」
「飛べぬ私への嫌味か」
フジタカが呟くと、すかさずレブが食い付いた。やっぱり気にしてたんだ……。
「おのれ!我が主君を愚弄するか!」
「なんでそうなるんだよ!」
「いい加減にしないかお前達!」
フジタカにティラドルさんが爪を凶器の様に伸ばして殺気を放つ。怯むが声だけは大きいものだから、トーロも呆れて怒鳴ってしまう。この中でオリソンティ・エラでの生活は彼が一番長い。だからこそ三人ともとりあえず静かにはなった。
「……我はただ、アラサーテ様への無礼を粛清してやろうと……」
「俺は別にデブに飛んでくれなんて言ってねーし……」
ぶつぶつと呟きでのやり取りが続くが、すぐに声は大きくなっていく。
「この……!」
「ゴホン」
「ちっ……」
トーロに対しては一目置いているのか、ティラドルさんは舌打ちをして一歩引く。この空気を変えられるのは一人だけだ。
「レブ……」
「分かっている」
ティラドルさんの気持ちを鎮めてあげられるのは、崇拝されているレブだけ。だから……。
「ティラ。貴様が空の偵察へ行け」
「な、なんと!?」
うん、違うよレブ。私が言いたかったのはそうじゃない。
「しかしアラサーテ様!それでは我がお近くで御身を……」
「ティラ」
「はひっ!」
不服なのは当然でティラドルさんは慌てるが、レブが名前を呼ぶだけで背筋を伸ばした。
「私の言う事が聞けぬ、と申すか?」
「滅相もございません!直ちに、行って吉報をお届け致します!」
その大きな翼を広げ、大きく羽ばたくとティラドルさんの体は大きく浮き上がった。どんどん飛んでいき、ある程度の高さで止まるとそこからは音もなく宙を滑る様に移動し始める。
「行っちゃった……」
「これで良いのだろう?」
ふふん、と鼻を鳴らしてレブが笑う。まったく空気を読めていない。
「そうじゃないでしょ……」
私が苦笑し肩を落とすと、レブの目付きが引き締まった。
「確かにな」
「えっ……」
自覚あったの?あっててやったの?
「本来なら、今の指示は召喚士がすべきだ」
言ってレブはソニアさんを容赦なく睨む。
「くっ……」
言い返そうとしたソニアさんだったが、言いかけて下唇を噛む。
「ティラは粗末な召喚陣と言ったが、奴はその召喚陣を通りここに居る。紛れもなく魔力を供給しているのだから、何を言おうと立場は絶対的に奴より上だ」
「そんなの……!分かっ」
「分かっていない。ティラの事も、自分の力も。自覚が全然足りていない。だからあやつに軽く見られただけでそんな顔になる」
「………」
言い返す元気を取り戻しかけたソニアさんをレブが説き伏せる。誰も間に入ろうとはしなかった。
「……貴方は、あのインヴィタド……ティラドルに聞かせないために偵察へ行ってもらったの?」
私もチコも、フジタカもトーロも加われなかった話にカルディナさんは自然に入っていった。
「さてな」
「だったら、こうすれば良いんだよって実践してあげたか」
「………」
レブは答えず腕を組んだ。私にはだとしたらなんだ、と言いたげに見える。
「ソニアさんは……どうしたいんですか?ティラドルさんと」
「私は……」
恐る恐る、私も質問してみるとソニアさんは胸に手を当て一歩引いた。
私もどうしたいんだろう、どうすべきだろう。レブと、どう接していけば良いのか。
「アラサーテ様ぁぁぁ!」
そこに、ティラドルさんの声が上空から聞こえてきた。高速で空を飛び、私達の上で止まる。
「主をそんな上から見下ろしていていいのかー?」
フジタカが見上げて声を張る。一瞬、ティラドルさんの体が動いたが、首を振ると戻ってきた方向を指差した。
「そ、それどころではない!アレを見ないか!」
「アレ……?え……!」
言われた通りに見ると、前方に妙な穴が見えた。
平原の真ん中にある穴は決して岸壁に穿たれた洞窟などではなかった。ざわざわと揺れる風は穴に吸い込まれる様に流れていく。何も無い空間に、どこへと続いているかも分からぬ穴がぽっかりと開いていたのだ。
「まさか……」
フジタカが剣を、トーロが斧を抜いてそれぞれの召喚士の前に立つ。
「召喚陣……なのか?」
「違う、異界の門だ!」
「じゃあ……」
「あぁ、出るぞ!」
トーロが叫ぶ。同時にレブも私の前に飛び出した。
「出るって……」
「当然、ビアヘロだ!」
穴から地響きに似た音がゴゴゴゴゴ、と続いて現れたのは黒光りする鋏と鎧だった。
「なに、あれ……」
月に反射して暗い光沢を放つそれは鋼鉄ではなかった。しかし、鎧としては十分に機能している様に思える。全身の大きさはトーロの数倍はあった。
後足が幾つも生えて、前足二本のみが大きく膨らんだ鋏を持っている。しかし、一番の特徴は節が設けられて長く前に反った尾だ。先端が膨らみ、鉤状に飛び出た針は明らかな武器だ。
「あんなの……私達の任務に入っていない」
カルディナさんが顔を青ざめさせて言った。
「タムズ……。こんな場所に現れるなんて」
ソニアさんも身を引きながら目の前に現れたビアヘロの名前を呟く。
「知っているんですか」
「蠍の怪物。危険度はまぁ、見た目以下ってことはないわ……」
呑気に詳しく話している場合ではない、とだけは分かった。
「キシュゥゥゥゥゥゥ!」
「毒の尾にだけは絶対に触れないで!一時間も保たない!」
タムズは私達を見付けると口から空気が抜ける様な声を洩らす。同時に向かってくるものだからソニアさんも叫んだ。
「一度退く!トーロ!」
「分かっている!」
カルディナさんが名を呼ぶとトーロは斧をしまい、その場に立ち尽くした。
「チコさん!フジタカ君とビアヘロの足止め!」
カルディナさんはチコとフジタカにも指示をくれたけど、肝心の二人はまだ事態を把握できていない。
「えっ……えっ?嘘……」
「だぁぁぁ!フジタカ、お前、虫は平気か?行くぞ!」
「虫で済むレベルかよぉぉぉぉ!」
チコも剣を抜いてようやくフジタカが吠え、ナイフも抜いた。
「そうだよフジタカ!一撃離脱!」
「あ、そうか!」
彼のナイフを見て私が叫ぶ。あのナイフなら大きさなんて関係ない。
「行くぞぉぉぉぉぉぉ!」
一撃当てるだけで何でも消すナイフ。フジタカは力いっぱい握り締めたナイフを思いっきり振り上げ、跳んだ。
「おりゃぁぁぁぁ!」
右からはチコの一撃。それはタムズの気を引き付けるだけで、逆の左側からフジタカが振るうナイフが本命。ガキン、とチコの剣が鋏にぶつかり弾かれるがそれでいい。
「終わりだっ!」
フジタカの足がタムズのもう片方の鋏を踏み付け、足と鋏の節にナイフが刺さる。
「クシュゥゥゥゥゥゥゥ!」
「え!?うおわぁぁ!」
「がぁぁぁぁ!」
ナイフは刺さった。しかし、タムズはいつもの様に消えることなくその場にいる。フジタカの刺突は完全に決まったが、何も起きない。鋏を叩き付けられ、チコもフジタカも宙を飛んで地面に顔から着地する。
「チコ!フジタカ!」
「がっ……はっ……!」
チコの元に駆け寄ると、彼は腕がざっくりと切れて血を流していた。
「ちょっと待って……」
「くっ……うあぁぁ!」
すぐに服を裂いて包帯代わりに巻いてやる。だけど、それもすぐに赤黒く染みを広げていく。とても縛っただけで済まされる怪我じゃなかった。
「フジタカは!?」
「俺は……なんとか。あいてて……」
フジタカは自力で起き上がるとナイフを手探りで見付ける。
「なんで……。あれ?」
何を思ったのか、フジタカは生えていた手元の草を切る。そこで異変に気付いた。
「け、消せない……。消えてない……!」
ナイフの効果が無い。今まであれだけ消していたのに。
「ど、どうして!?」
「例えば、いつもと違う場面での使用とかな」
驚く私を尻目にレブが呟く。
一度落ち着いて、考えてみた。いつもフジタカが訓練をしていて消してきたものとの違いも含めて。
「生き物は消せない?」
「スライムも生きているぞ。思考は単純だが、知能はあのビアヘロと変わらん。それに、トカゲも消していたのだろう」
「そうだよね……」
だったら……とフジタカはしばらく黙り、一言だけ口を開いた。
「俺……夜にナイフ使うの、初めてかも」
それを聞いて、レブと顔を見合わせた。
「夜は使えぬナイフ、あり得なくはないな」
言ってレブはこちらに威嚇を続けるタムズを睨んでいる。
「ならば今宵の犬ころは、あのタムズとかいうビアヘロの前に無力か?」
「突撃ぐらいなら……」
「正面からぶつかって死ぬのはお前だけだ」
叱り付ける様に言うがレブも動かない。
「だったら、レブはどうするの?」
「まずは見たいものが完成する。動くならそれからだ」
「え?」
レブが指差した先。そこにはトーロがまだ、同じ場所から一歩も動いていなかった。
「あれって……」
「地よ!奴を囲み、捉えろぉぉぉ!」
トーロの足元が淡く輝き、彼を中心に陣が展開する。召喚陣とは紋様がまったく異なった意匠だった。
「キ!?キシュゥゥゥゥゥ!」
地鳴りが起き、突然タムズと私達の間から地面が割れて飛び出した。それだけではない。飛び出たのは岩の塊。ボコボコと何本も現れたそれは、地震と共にしばらく続き、終わる頃にはタムズの四方をすっかり囲んでいた。余波で私達の周りにも何本か岩が生えてきている。
「これが、あの牛が使う大地の魔法というわけだ」
「凄い……」
岩にチコの背を預けさせると、彼は失血のせいか気絶してしまっていた。長くこの場にはいられない。
「ご苦労様、トーロ」
「あぁ……」
カルディナさんがトーロを労う。ソニアさんは結局、離れて見ているだけだった。
「まさかそのナイフ、夜に弱いとはな」
「もっと前に知ってたら……チコをこんな目に合わせずに済んだのに」
悔しそうに牙を鳴らすフジタカ。しゃがみこんでチコを背負うと、彼の耳が後ろを向いた。
「終わっていないぞ、お前達!」
声を張ったのは上空で待機していたティラドルさんだった。直後、岩壁の上部分が弾け飛ぶ。
「きゃあ!」
「カルディナ!」
石の礫がぱらぱら降り注ぐ。トーロはカルディナさんを庇い、その筋肉で礫を受け止めた。
「ふっ!はっ!」
私にも当たりそうだった大きな石ころはレブが叩き落としてくれた。
「ありがとう……」
「ふん。多脚の虫からすればあの程度、足場としか思わぬのだろうな」
礼を聞いているのかいないのか、レブは構わず見上げて口を曲げる。岩の頂上から見えていたのは、トーロが覆い隠した筈の鋏だった。
「ティラ!」
「承知!」
レブの一言でティラドルさんは手を高らかに掲げる。
「食らえ……!」
レブの言った通り、岩を足場にして徐々に姿を見せ始めたタムズをティラドルさんは見下ろし一言。空中に陣が展開し、彼の手から何かが放たれた。
「キシュゥゥゥゥゥゥッ!」
タムズの鋏が、上半分だけ千切れて落ちた。痛みに悶え苦しみ、尾が岩を割る。
「っ……。これ……」
ティラドルさんの手からはしばらく何かが放出されており、ふと私の顔にも違和感が起きた。手で拭い、匂いを嗅いでも何も感じない。
「……水?」
舐めてみても味もない。正真正銘の水だった。
ティラドルさんは水を出す魔法を使えるんだ。ただし、勢いは計り知れない。少なくともタムズの鋏を千切るだけの水圧を出しているみたい。
「だ、だめ!」
そこに叫んだのはソニアさんだった。声は聞こえたのか、魔法を中断してティラドルさんは上空で彼女を見下ろす。
「もう魔力が尽きたか?やはりお前は……」
「タムズに斬撃は効果的じゃない!打撃でないと暴れ出して……」
「我の魔法ならば効果は……ぐっ!?」
魔法を止めた途端。本当に短い間に信じられない事が起きた。
タムズが宙を跳び、尾でティラドルさんを叩き落とした。
「ティ、ティラドル様!」
「ぐぁぁぁぁ!」
体勢を再び戻す前に地面に激突するティラドルさん。レブも目を見開いて飛び出した。
「牛よ!殴れ!」
「あぁ!」
ソニアさんの助言に従い、レブがトーロと拳を繰り出した。隆々たる肉体から放たれた一撃は飛び降りてきたタムズの甲を大きく歪ませる。
「ケシャァァァァァァァァ!」
今まで聞いた事のない声で苦しむタムズにトーロとレブは更に拳を振るう。
「女!どういうつもりだ!」
「え……」
そこに聞こえてきた怒号。振り返ると、ティラドルさんがソニアさんに今にも掴み掛りそうになっていた。
「余計な真似を……!あのままやっていれば!」
「違うんです……。タムズへは一点の水圧攻撃よりも、拡散させた重い一撃の方が効果があるのです」
ソニアさんの横にはトーロが避難させたカルディナさんがいる。だけどソニアさんは殺気を隠さないティラドルさんへ一歩踏み込んだ。
「確かに、一点集中も節を綺麗に抉れば効果があると思います。けど、見てください」
「………」
ティラドルさんがタムズを見る。釣られて私も向き直った。
今はレブとトーロが戦っているが、ティラドルさんとの戦闘で受けた怪我はタムズにはほとんどなかった。片方の鋏こそ吹き飛ばしたものの、それだけ。
「私の……言う事にも、耳を傾けて頂けませんか。貴方様の力を軽くみるつもりはありません。ですが……」
「………」
ティラドルさんは目を細め、拳を握る。
「……知識だけは認めよう」
くぐもった声でティラドルが言うとソニアさんの目に輝きが戻った。
「あ、ありがとうございます!」
「我にどうしろと言う。あのビアヘロをここら一帯ごと水で流すか」
ティラドルさんが、ソニアさんを庇うように立った。
「アホだな!私も洪水で綺麗さっぱりにするつもりか!」
「ぐ……」
恰好良く見えたけど、口の悪いレブが両断する。ティラドルさんの力ならできるだろうけど、私達も流されたら全員死んでしまう。
「ティラの悪いところだ。頭が固く、力の制御が下手。だから程々にできない」
健在の鋏を鱗で弾いて避けながらレブは指摘する。
「叩けば、割れる。ティラは下がって見物していろ」
「叩ければの話だがな……」
レブとトーロは引き続きタムズと真っ向から戦う。それでも、互いの戦いを見ていて変化が生じ始めていた。
まず、タムズは距離をレブ達から距離を置き始めた。そして、トーロは大粒の汗を流し、拳からは血を流して明らかに疲労している。
「くっ……ふっ……」
「疲れているなら休んではどうだ」
「それじゃ……お前も……危ないだろうが!」
渾身の力でトーロがタムズを殴った様に見えた。
「な……!」
しかし、トーロの拳はタムズに届くことなく鋏に捕らわれる。籠手がミシミシと音を立てて変形していた。
「が、がぁぁぁぁ!」
「ティラドル様!彼を!」
「……ちっ!」
トーロの悲鳴にティラドルさんが飛ぶ。すかさず蹴りを鋏に見舞ったが解放はされない。鋏でトーロを持ち上げたまま、ティラドルさんに叩き付けて投げ飛ばす。
「トーロ!」
「ティラドル様!」
どちらも動かない。残されたのは、私達とフジタカだけ。
「ザナ!逃げようって!」
「レブ!下がって!」
フジタカの提案に乗るしかない。私も叫ぶが、もう遅い。
「私一人でもこの程………ぐぶぅ!」
「レブ!」
レブが飛び掛かった瞬間、それを見越していた様にタムズは鋏を大槌の如く振り下ろした。
トーロと違い、レブの体力は余っていた。でも、レブも万能ではない。魔法も制限があり、打撃の衝撃に弱いのは同じだった。
「が……」
大地が割れるだけの勢いで叩き付けられてもレブの鱗には傷も入っていない。それでも動くことはできなかった。
「っ……!」
「ザナ!何をする気だ!止めろ!」
フジタカの静止も振り来って私は走り出していた。
だって、タムズの尾が動かないレブを狙っている。あのままじゃ、レブは……。
「レブ!」
なんとかレブの元に辿り着く。仰向けに寝かせて、息をしているのだけは確かめた。
「良かった。レブ、早く逃……っ!」
逃げよう?と声を掛けるつもりだった。なのに、左腕から突然ぶつっ、と嫌な音と激痛が走った。
「えっ……」
顔を動かすと、左腕からは血が溢れ出していた。私の血痕が続く先へ目を向けると、タムズの尾へと続いていた。
「は……」
直後、再び尾が振るわれる。左腕に激突し、痺れる様な痛みと共に私は吹き飛び、岩に体を打ち付けた。
「れ、レ……」
私は辛うじて動いた右手をレブに向かって動かしたが、視界が狭まっていき、そのまま意識を失った。
「……やれやれ、手の掛かる事だな」
「目を開けろ」
レブの声が聞こえた。言われた様に目を開けると、私は静かな空間にレブと二人きりでいた。横たわったまま見回しても、何も見えない。
「ここは……?」
「そんな事はどうでもいい」
身を起こした私の質問をレブは断じて振り返った。
「自分の置かれている状況は分かっているな?」
「えっと……」
どうしてたんだっけ、私。……ビアヘロの退治に来て、異界の門が開いて……。
「あぁっ!」
「意識はまだ、あるようだな」
思い出した。私!……でも、腕に怪我がない。痛みも、ない。
「いいか」
レブが立ち上がった私を見上げる。
「このままでは、あのビアヘロは街に入って暴虐の限りを尽くす」
「うん」
絶対に、それだけはさせない。
「しかし、私にスライムをけしかけた召喚士達では歯が立たないだろうな」
レブは腕を組み、楽しそうに言うと鼻を鳴らした。
「まさか、このまま見殺しにするの?」
信じられない、とレブから身を一歩引く。レブは途端に顔を皺を寄せて私に詰め寄った。
「何を言っている。見殺すのではない、見返すのだ。私達の力を見せ付けて、な」
負けず嫌いのレブらしい、一言だった。でも……。
「どうやって?」
私の質問にレブは事も無げに答える。
「方法が、一つだけある。私が全力で挑めば良い」
単純だろう、と言うがその意味が分からない。すると、レブはゆっくりと自分の親指に牙を立て、ガリっと音を立てて少しだけ切った。
「これを舐めろ」
「え……」
ぽたぽたとレブの指から滴る血と顔を交互に見る。
「時間はない。決めるのは貴様だ。倒すか、ここで倒れるか」
レブの迷いない目に他の手段は無いと書かれているように思えた。話している時間も惜しいというのは分かっている。だから……。
「ん……っ」
「っ……」
少し怖かったがぺたんと座り、身を屈めてレブの指を伝う血を舐め、傷口を咥えた。拭うように吸い、口を離した途端に、私とレブの体に異変は起きた。
「戻るぞ」
「……うん」
再び目を開けると、私は岩を背にして既に立ち上がっていた。
「状況は芳しくない。分かるな?」
「うん」
見れば、私の隣で偉そうにレブの声を発していたのは別人だった。……ううん、別人ではない。
宝石の様な紫の鱗に、背中に生えた羽。しなやかな身体に厳しい顔付き。大きさは異なれど、そこにいるのは間違いなく、ずっと私の横にいてくれたレブだった。発する気迫にタムズも身を固くしている。フジタカは腰を抜かして呆然と、私が初めてレブに会った時の様に見上げていた。
「こうなれば専属契約をするしかない。付き合ってもらうぞ」
「えっ……それって……」
レブの言った専属契約。それは召喚士が他のインヴィタドを召喚はしても契約をしない、インヴィタドも万が一にも他の召喚士から魔力のやり取りを行わないといういわゆる誓いだった。この誓いを互いの合意で行う事で魔力線の繋がりを強め、互いの魔力を飛躍的に高め合う。
「私で、いいの……?」
「時間が無いと言った。ビアヘロも逃げ場は無いから直に襲ってくる。もう引き返せん」
そうだ、私も毒に……。と、腕を押さえたが異変に気付く。血はまだ乾いていないのに、傷口は完全に塞がっていた。体調も問題ない。
「私……」
「希釈せずに竜の血を口に含んだのだ。解毒と治癒作用ぐらいはある」
「……そっか」
レブが言って腕を組む。もう、何が何だか分からないけど、今は納得した。
「じゃあ、やるよ。もう、放ってはおけない」
「それでいい。指先に意識を集中させろ」
言われた通りに念じると、指先からぽう、と温かな光が宿った。
「契約の陣を……」
「うん」
専属契約は直接焼印であったり、刺青でインヴィタドに刻み込む。この指でレブも陣を描けと言うのだろうけど、どうしよう。
「……えっと」
「……この辺で良いだろう」
言って、レブは少しだけ腕を上げた。じゃあ、と私は意を決した。
「く、ふぅっ……!」
左手をレブの胸に置き、右手の指を脇より少し下に這わせ、陣を描く。
「だ、大丈夫?」
「ふん。くすぐったい、だけだ……」
クネクネとレブの尻尾が落ち着きなく揺れている。本当は痛くて強がっているだけかもしれないが、少し我慢してもらうしかない。
「……できた」
指に息を吹き掛けると光が消える。同時にレブに描いた陣も黒ずみ、体へと定着する。
「ならば、
「………」
一度離した手を、再び陣の上に置いた。
「どうした」
「レブ、なんだよね?」
「そうだ」
躊躇うことなく答えたレブは変わらない。少し、ほんの少しだけ私はレブがレブでなくなってしまったのではないかと思ったけど、そんな事はなかった。
だから、私も言える。彼となら、やっていける。
「召喚者ザナ・セリャドの名において命ずる。轟雷の統治者、紫竜アラサーテ・レブ・マフシュゴイよ。我が力を喰らい、我が手足となる事をここに……誓え」
これがレブにした、初めての命令だった。
「
アラサーテ・レブ・マフシュゴイの返答と共に陣が輝く。それまで萎縮していたタムズは再び暴れ出した。
「終幕だ」
「うん」
レブの姿が消える。違う、消えたと思う程の速度でタムズに突撃したのだ。それでもレブより数倍大きい怪物は岩に激突してもすぐに体勢を整えた。
「今の私に!」
レブを襲う尾の針は腕の鱗に弾かれる。
「質も!」
毒針の付いた尾を掴むと、節の間に的確に爪を走らせ体から分断する。
「量も!」
鋏を手当たり次第にタムズは振るい、激突して砕けた礫だったが、レブが翼を広げると同時に四方へと飛んでいってしまった。
「意味を成さん!」
レブはあろうことかタムズの顎を掴み、何倍もの巨体をそのまま上へ軽々と放り投げた。空中で身動きが取れなくなった時点で勝負は決した。
「奥義!レランパゴ・イ・コルミージョォォォ!」
詠唱も、陣の展開も無しにレブは翼を羽ばたかせ飛んだ。空に暗雲が立ち込め、唸り声を上げたかと思うと眩い稲妻がタムズを貫く。
「クキャ……」
断末魔は短いものだった。上空からは雷、地上からは紫竜の鉄槌が音よりも早く、閃光の様に襲ったのだから。一撃から遅れて周囲に鳴り響いた轟音はしばらく、近くに居た者の鼓膜を叩き続けた。
決着がつくと、暗雲は吹き飛ぶ様にして綺麗に晴れ、辺りには再び静寂が訪れた。
「………」
「レブ!」
ゆっくりと下降してきたレブを迎えるために駆け寄る。しかし、レブは黙ったまま返事をしてはくれなかった。
「れ、レブ……?」
そこで、レブに何が起きているのか気付いてしまった。
神々しさを身に纏っているわけじゃない。レブは光の粒子を散らしながらその姿を徐々に薄く消していた。
「……時間、だ」
言って、レブはただ私を見下ろしていた。
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