第五日 打ち上げコンパ
目覚めたときはもう完全に明るくなっていた。ぼくと同じテントには宮寺も西尾も藤江も寝ていた。栗田さんも居た。最初にぼくを襲ったの は猛烈な臭気だった。テント内には吐瀉物に汚れたシュラフと大量の新聞紙が敷かれ、その上でぼくたちは寝ていたのだった。
西尾が目覚めたぼくに向かって言った。
「一回生のテントがゲロテンになったね。」
ぼくはその単語の意味を問い返した。
「ゲロテンってなんですか」
「ゲロを吐く人を収容するテント、すなわちゲロテンや。酔いつぶれた人がみんなここに放り込まれたみたいやね。テントの中でゲロ吐かれたら他のメンバーがたまらんから、危険な人は一カ所に隔離されるんや。二回生の栗田さんもここに居るのは酔いつぶれたから押し込まれたのと違うかな。」
「上原さんはどうなりましたか。」
「上原さん、最後は救急車で病院に運ばれてたよ。奥山くんは先につぶれてたから知らんかったのも無理ないけど。酒に弱い人間の方があまり飲まなくて済むからかえって安全やね。でも上原さんはどうして倒れるほど飲んだんかなあ。」
「朝食の準備は?」
「岡田先輩が言ってました。明日は上回生がするから、一回はゆっくり寝とけって。」
「それは何時くらい?」
「夜の十一時くらいだったかな。」
コンパは八時にはじまったから、約三時間だったという計算になる。ぼくはもう一度テントの中を見渡した。五味がいない。
「五味は?」
「あいつは最後までピンピンしてたよ。先輩に反抗して自分のペースで飲んでいたから大丈夫だったんじゃないかな。」
「じゃああまり飲まなかったのかな。」
「いや、そんなことは絶対にないと思うよ。タダで飲める酒を五味が飲まないわけがないから。しかも飲んだものは絶対に出さない。ケ チだから。」
マイペースで飲み、一度口に入れたものは意地でも出さない五味だけが、なぜか一回生男子の中で生き残ったのだ。
ぼくは顔を洗うためにテントの外へ出た。ゲロまみれになったシュラフも洗って臭いを消したい。自分の汚れたシュラフをつかんで外に 出た。テントの外はまぶしいほどの光が降り注いでいた。もうすっかり日は高くなっていた。
「奥山くん、無事だった?」
松阪さんから声をかけられたので、ぼくは逆に聞き返した。
「それより、女子はみんな無事なんですか。上原さんはどうなったんですか。」
「上原は点滴をしてもらっただけで戻ってきたわよ。たいしたことなくてよかったわ。他の女子は無理して飲まなかったし。」
「竹本さんは無事?」
「竹本はとっくに起きて朝食の準備に加わってるわよ。」
ぼくはあたりを目で追った。そしてブスの前でしゃがみこんでいる竹本さんの後ろ姿を発見した。
「ぼくも朝食の準備手伝います。」
「奥山くん、その気持ちはうれしいけど、上回生がみんな手伝ってくれてるから大丈夫。それよりもその臭いシュラフと汚れたTシャツをなんとかし た方がいいわよ。今ならまだ干せば乾くのとちがう?」
確かにその通りだ。ゲロの香りをプンプンさせながら朝食の準備に加わるのは迷惑である。ぼくは松阪さんの忠告に従って、ゲロのついたシュラフを水洗いした。それから日当たりのいい場所にシュラフを運んで、よく日が当たるように広げてから風で飛ばないように石を 重しにした。ついでにサイドバッグからきれいなTシャツを出して着替えた。
ぼくがシュラフを干してる隣に、宮寺と藤江もやってきた。まだこのシュラフでもう一晩お世話になることを考えると、きれいにしておきた いというのはみんな同じ気持ちみたいだ。
「洗っても無駄というのはわかってるんやけど。」
宮寺が言った。宮寺の性格から考えて今夜も玉砕的な飲み方をするに決まってるので、おそらく彼のシュラフは今夜もゲロまみれにな ることは確実だ。
「栗田さんも同じテントでしたね。」
ぼくはまだ起きていない栗田さんのことが気になって言った。
「いい気味だと思いますよ。あのまま死んでいて欲しいです。」
その声にびっくりして振り向くと、上原さんがいた。
「わたしも一緒にシュラフ洗わせてください。」
「もう大丈夫なんですか。」
「昨日はずいぶんみんなに迷惑かけちゃったみたいでごめんなさい。岡田先輩がTシャツを着替えさせてくれたと知ってすごく恥ずかし かった。」
上原さんは背中にKUCCとプリントされたぼくと同じTシャツを着ていた。それは確かに岡田先輩のものだ。
「このTシャツ、気に入ったのでこのまま今日一日借ります。今夜の打ち上げコンパの時には大学別スタンツがあるので、その時には 返します。」
「上原さんも、栗田さんが嫌いですか。」
「嫌いも嫌い、本当に大嫌い。昨日も飲ませようとしつこかったのよ。」
「上原さんは昨日は自分から飲んだのじゃなかったんですか。」
「岡田先輩が前にいると思ったら安心して飲めちゃったの。」
「栗田さんは自分が嫌われてることわかってるんでしょうか。」
「あの人、鈍感そうだから気づいてないと思うわよ。」
「だったら気づかせないといけないですね。」
「一回生みんなで協力して何かしましょうよ。」
「なんだか危険な企画ですねー。でも面白そう。手伝いますよ。」
「宮寺くんも手伝ってくれる?」
「宮寺はダメですよ。だってこいつ大阪工芸大でしょ。工芸大は先輩が川に飛び込めといえば本当に川に飛び込むし、死ねと言ったら死ぬというとんでもない大学ですよ。そんなとこのヤツが先輩を裏切る下剋上のたくらみに乗ってくるわけがないでしょ。」
「いや、いつもそうとは限らんよ。オレも栗田さんには頭に来た。」
宮寺は堰を切ったように話し始めた。
「奥山がつぶれた後でオレは竹本さんと話してたんや。そしたら栗田さんが竹本さんに飲ませようとするから、オレが竹本さんのコップ を代わりに飲んだんや。そしたら栗田さんはオレをつぶそうとして何杯も飲ませたんや。」
「だったら宮寺くんは竹本さんの身代わりになって飲んだの。」
「基本的にはそういうことや。悪いのは全部栗田のボケや。あいつ、女の子に酔わせてつぶしてから変なことしようとたくらんでいたん かも知れへん。」
「確かにスケベそうな雰囲気やもんなー」
ぼくは竹本さんの危機を救ってくれた宮寺に感謝はしたが、宮寺が竹本さんのコップを奪って飲んだと言うことはすなわち、「間接キッ ス」じゃないのかという事実が妙に気になった。ああ、どうして自分は先に酔いつぶれてしまったんだ。自分がもう少し粘っていれば、宮寺に代わって竹本さんを救うナイトとなり、そして間接キッスもできたのに。
ぼくは思わず頭を抱えた。
「じゃあ栗田さんはどうしてゲロテンに寝ていたのでしょう。」
藤江がふと疑問を口にした。
「誰かがつぶしてくれたんじゃないですか。」
「そんな正義の行動をしてくれたのはいったい誰でしょうね。」
「岡田先輩じゃないですか。」
「岡田先輩ならしてくれそうですね。」
いつのまにか先輩がヒーローになっていた。しかし本当に先輩がヒーロだったのかどうか、この場にいる一回生は全員つぶれていたの で検証できない。ぼくは自分が酔いつぶれた後に起きた出来事を全然見られなかったことが残念だった。今夜の打ち上げコンパの時は 気力を振り絞ってなんとか最後まで倒れずにいようと思った。
「吐きそうになったら我慢せん方がいいぞ。」
西尾が言った。西尾もゲロまみれになったシュラフを洗いに来ていた。
「オレはゲロを自由自在にコントロールできるんや。少し飲んだらすぐに喉に指を入れて吐く。すると楽になってまた飲める。飲んだらまた吐く。その繰り返しで十分に休憩を取りながらコンパを乗り切るのが一番や。少しずつ吐くからダメージも少ないし、アルコールの吸収量も押さえられる。奥山は昨日ギリギリまで我慢してたやろ。オレ、あのときそばで見てたんや。すごい圧力で一気に噴き出すような吐き方やったからよくわかった。あそこまで行ったら我慢しすぎや。もっと小出しにしてダメージを減らさんとあかん。」
「西尾、おまえゲロの達人やな。これからおまえのことゲロ西と呼ばしてもらうで。」
藤江が感動したように言った。ゲロを吐くのに熟練するということは、限りない修羅場を経験したことに他ならない。決して西尾も要領だ けの人間じゃないことを知った。
「今日は学大サンドでしょ」
ぼくは朝食のことを聞いた。
「学大サンドは江村さんが作ってくれてるわ。女子で元気な人も手伝ってるけど。わたしも手伝おうとしたら、シュラフを洗えと叱られち ゃった。」
「自分で汚したシュラフ洗うのはまだいいですよ。ぼくなんか自分のゲロと違うんですよ。ぼくの汚れは全部栗田さんのゲロです。」
西尾が怒ったように言った。よく考えればゲロをコントロールできる西尾が自分のシュラフを汚すわけがない。
「ぼくの隣に栗田さんが寝ていたんですよ。栗田さんが夜中に突然噴水のようにゲロを吹き上げて、ぼくのシュラフにもろにそいつが掛 かったんですよ。顔じゃなかったのが不幸中の幸いでしたけど。足元に生温かいゲロをぶちまけられて目覚めた時はむちゃくちゃ悲しか ったです。」
「栗田さんって、起きてるときも寝てるときも、人を困らせることしかしないとんでもない人ですね。」
上原さんがあきれたように言った。
「じゃあ、ここに居る人はみんな栗田さんをやっつけるのに賛成ですね。」
「えーっ、何かするって、もしかしてやっつけることですか。」
「当たり前やんけ。他に何があるねん。」
西尾がきっぱりと言った。
「じゃあ作戦をたてよう。」
藤江が言った。でも藤江にはたいした作戦は思いつけないような気がした。
「食べ物に何か入れるというのはどうだ。」
やっぱりたいした作戦じゃなかった。
「アホか、そんなんバレたらどうなるねん。それにやり方が卑怯や。」
「いや、卑怯じゃないです。食べ物を入れればいいんですから。」
「上原さん、何かいい方法があるんですか。」
「確かに食べ物に虫とか毒を入れるのだったら反則でしょ。でも食べ物に食べ物を入れるんだったらいいと思うわ。」
「わかった。カラシや。サンドイッチに死ぬほどカラシを入れてこましたれ!」
宮寺が拳を突き上げて言った。ぼくもほとんど同じことを考えていたが、言うのが遅れた。
「誰が実行部隊になるんですか。」
ぼくはおずおずと質問した。
「わたしがやります。松阪先輩に協力してもらいます。」
上原さんが自信たっぷりに言った。
朝食の学大サンドは着々と製作されていた。江村さんは学大サンドに入れる具を用意していた。ベンチの上にスライスチーズ、ハム、 ゆで卵、コロッケ、レタス、シーチキンの六品が並んでいた。松阪さんはその横でカラシマヨネーズを作っていた。その松阪さんに上原さんが耳打ちした。松阪さんは練りカラシのチューブからビー玉大のカラシのかたまりを絞りだして上原さんに渡した。
六枚切りのパンが十七斤用意されている。六枚切りということは、間にはさむ具は最低五種類用意すればいいということである。
「江村さん、六品あるのはどうしてですか?」
「シーチキンとレタスは一緒に入れます。」
「パンの耳はどうするんですか?」
「耳は全部包丁で落とします。」
「だったらその耳をくださーい! 捨てるのならぼくがもらいます。」
その声の主は当然だが五味だった。
「ぼくは帰りも走って帰ります。十七斤分の耳があれば、十分に徳島まで走る食糧になります。ぜひぼくに譲ってください。」
もちろん、ぼくたちに異存はなかった。
江村さんがていねいに耳を切り落とし、その耳は松阪さんがきれいなビニール袋に詰めて五味に渡した。耳を切られて真っ白になった 十七個の立方体が整然と並んだ。その十七個のパンの間に、松阪さんがカラシマヨネーズを薄く塗って、そして流れ作業で具が次々と 挟みこまれて行った。一人が一つの具を受け持って、順番にサンドイッチは完成していった。
具が全部入った学大サンドは、更に五十パーセントほど厚みが増して、立方体ではなくて高層ビルのようになっていた。上原さんはス ライスチーズを入れる係だったが、さっき松阪さんから受け取ったカラシのかたまりをチーズにべったりと塗ってさりげなくパンの間にはさ んだ。そしてスライスチーズの端をわざと大きくパンからはみ出させた。巧妙に目印を残したのだ。さきほどの悪巧みを知る一回生たちは 皆、その目印を注視した。
そこへ岡田先輩が、最後まで寝ていた栗田さんを起こして連れてきた。
「栗田、おまえが最後まで寝とったんや。みんなもう起きてるぞ。」
きっとカラシ爆弾は栗田さんにとって強烈な目覚ましになるだろうとぼくは想像した。
「おっと、このパンは置き方がずれとるやんけ。こんなんやったら学大サンドが持ちにくいぞ。まっすぐ直しとくわ。」
先輩はこともあろうに、故意にはみ出させたチーズをまっすぐに直してしまった。爆弾入りの学大サンドは他のサンドイッチと全く 見分けがつかなくなってしまったのである。
「みんなパン食おうゼー。準備できたゾー。」
宮田さんがみんなを召集した。
シュラフを洗って干していたグループも次々と集まってきた。
みんなが輪になって並んで座った。目の前には十七個の学大サンドが並んでいる。ぼくはその十七個の中のどのサンドイッチが爆弾 入りなのか覚えていた。
隣にいた上原さんにぼくは小声でそっと確認してみた。
「上原さん、爆弾はあの四つ目のですね。」
「奥山君違うよ。五つ目だよ。」
「ええっ? 違うよ。」
「違わないよ。奥山くんの方が見間違っているよ。」
いったいどちらが正しいのか。実行した上原さんが間違うわけがないような気がする。ということは自分が少し目を離したときに見間違 えてしまったのだろうか。まあ上原さんがちゃんと見ていてくれたから心配はいらないだろう。
上原さんは輪になったみんなに次々と学大サンドを配っていった。五つ目にあったカラシ爆弾入りの学大サンドはちゃんと標的の栗田 さんに渡した。二つの大鍋にはそれぞれコーヒーと紅茶が沸かしてあってお玉で各自の食器にすくって飲めるようになっていた。スティックシュガーも、コーヒーフレッシュもスライスしたレモンもあった。
「みなさま、これより学大サンドの食べ方について説明いたします。」
江村さんが学大サンドの食べ方をみんなにレクチャーしはじめた。ぼくのように初めて食べる一回生はこういう説明は重要だ。ここまでの数日でいろんな掟がこのWUCAの中に存在することをぼくは知った。学大サンドの食べ方にもなんらかの掟が存在するに決まってる はずだ。
「まず、学大サンドは絶対に分解してはいけません。そのまま六枚をいっぺんに食べてください。三枚ずつとかに分けて食べるのは反 則です。」
手が小さくて指が届かなかったらいったいどうするんだ。
「それから、どんなに時間が掛かっても食べてしまってください。食べ残しは認められません。」
そんなことはラリーの時は当たり前だ。
「みんな、学大サンドの食い方わかったなぁ。じゃあいただきますの挨拶しよ。先輩、今日の挨拶はどうすればいいですか?」
宮田さんがいただきますの儀式を始めようとしてふとためらった。昨夜に引き続いて「ごはん」ではない。ためらうのもわかる。
「やっぱり、サンドイッチだから、いちとーにーとーさーんどいっちというのはどうですか。」
ぼくは宮田さんの苦し紛れの提案もなかなかいいと思った。
先輩は腕組みして考えていた。それから言った。
「なんかちょっと違うんや。もっときれいに決めたいんやけどな。学大サンドはパンやろ。」
「だったらどう数えるんですか?」
「数えんでもエエんや。」
「数えないんですか。」
「パンや。」
「えっ?」
「拍手一発、せーのーパーン!で一斉に大きく手を叩く。」
「わかりました。」
宮田さんがみんなに指示をした。みんなその一発を叩くために両手を前に出して用意をした。
「せーのー」
パーンという激しい音と、いただきますのかけ声のあと、みんな一斉に学大サンドとの戦いを開始した。なんとか六枚が分離しないよう にぼくはパンを圧縮してつかんだ。そして端からかじり始めた。
食べながら栗田さんの口元に注目した。カラシ爆弾の効果はいかに、という成り行きが気になったからだ。上原さんも西尾も宮寺も、こ の悪巧みを知る仲間はみんなチラチラと栗田さんをうかがっていた。
しかし、栗田さんはおいしそうに食べている。
もしかして、栗田さんが食べてるのは、カラシ爆弾入りではないのではないだろうか。そうすると本物のカラシ爆弾入りの学大サンドは いったい誰が食べているのだ。
上原さんが五つ目と言ったけど、本物はやっぱり四番目だったのじゃないのか。その四番目はいったい誰が食べてるのか。
ぼくは一人一人の食べ方を観察した。あのカラシ入りサンドを平気で食べられる人間が居るとは思えない。しかし、ぼくにはいくら観察 してもわからなかった。
ぼくはある可能性を思った。
このメンバーの中で最も忍耐力のある人と言えばそれは誰だろう。
もっともラリーの経験が豊かで、多くの修羅場を乗り越え、そして自分の取るべき行動を最もよく理解し、思いやりの精神にあふれた人 と言えばぼくには一人しか思い浮かばなかった。
もしもその人がカラシ爆弾を食べているとすれば、必死で自分の食べてる学大サンドがそんな異常なものであることを隠すのではない か。
ぼくは先輩の方を見た。
「先輩、どうして泣いてるんですか?」
松阪さんが先輩の方を心配そうに見た。
「このサンドイッチ、むっちゃうまいねん。こんなうまいサンドイッチ食うのはじめてやねん。」
先輩は何かをこらえるように涙を流しながら食べていた。
ぼくはそのとき、自分の予想が当たったことを直感した。先輩はもしかしたら学大サンドを利用したイタズラの存在に気づいたのではな いだろうか。誰が陰謀の首謀者で誰を標的にしたかも気づいてるのかも知れない。
「先輩、辛くないですか?」
松阪さんが思いあまって訊いた。
「そんなことないよ。ちょうどいい辛さや。」
そう答えながらも、先輩はコーヒーをがぶ飲みしていた。砂糖をたっぷり入れたコーヒーの甘さで辛さをなんとかごまかしているのかも知れなかった。
松阪さんはまだ何か言いたそうだったが、先輩はそれを目で制した。
パン一斤という量はもしもラリーの初日ならそうとうきつかっただろう。でも十分に胃袋が大きくなった今ではそれほどヘビーなものでは なかった。ぼくの手元の学大サンドは順調にその体積を減らしていった。昨夜食べたものは全部お酒と一緒に吐いてしまっていたので、 かえって空腹感を感じていたぼくにはちょうどよかった。
ぼくの隣で竹本さんが少し持て余していた。ぼくは竹本さんのペースが鈍ってさっきから紅茶ばかり飲んでることに気づいていた。
「竹本さん、ぼくは自分の分だけだったら全然足りないんです。よかったらぼくに少し分けてくれませんか。」
「いいんですか? 実はわたしさっきから持て余していたんです。」
「ぼくは全然足りなかったんです。ちょうどよかったですね。」
「でも、どうやって分ければいいですか。」
確かに分けにくい。学大サンドのルールとして、パンを分離してはならないのである。上下に分割すれば簡単に分けられる。しかしそれ は反則なのだ。
ぼくは半分近く残っている竹本さんの学大サンドに力を加えて、強引に引きちぎってまっぷたつにした。そのときにちゃんと両方に彼女 が食べていた面が残るようにした。これで昨夜間接キッスを果たした宮寺と同じレベルにまで近づけることになる。そうして手に入れたさ さやかな達成感にぼくは限りない幸福を感じた。そして小さい方を彼女に返した。
「これくらいだったら大丈夫でしょう。」
「ありがとう、後はがんばって食べます。」
考えたら、全員に平等に同じ大きさのサンドイッチを課すこの学大サンドというメニューは、胃袋の小さな女子にとって実に過酷なことで ある。それはWUCAの中で珍しく男女半々の部員を抱えた大阪学芸大のサイクリング部の伝統なのであった。大阪学芸大は教員養成系の学部がある単科大学なので、女子学生が多いそうだ。ほとんど男子校に近いわが鴨川大学から見ればうらやましい存在であった。
先輩もいつのまにかカラシ爆弾を克服したようだった。食べ終えて隣の松阪さんとしゃべっていた。
ただ、通常のメシの時と違ってなかなかごちそうさまにはならなかった。持て余しながらゆっくりと食べる女子がなかなか食べ終わらな かったからである。ぼくはその時間で干してあるシュラフが少しでも乾くことを喜んだ。
「食事中すみません。今日の予定を説明します。」
主管校の山本さんが食べ終わるのを待ちきれないというふうに話し始めた。
「まだシュラフを乾かしてる人もいるので、ゆっくりとお昼過ぎにこのキャンプ場を出ます。フェリーで宮島口に渡ったら今度はファミリー レストランに寄ります。そこでお茶を飲みながらゆっくりと色紙を書きます。それから打ち上げコンパの会場のある広島平和大学まで移動 します。夕食は大学の前のお好み焼き屋さんで、広島風お好み焼きを食べる予定です。」
今食べている学大サンドが、朝食兼昼食であったことをぼくはその時はじめて理解した。プレコンパの翌日ということで無理なく移動で きる予定が組まれていたのだ。しかも広島平和大学まではせいぜい10㎞ほどである。移動時間は限りなくゼロに近い。
「なんや、そんな楽勝やったらもっとゆっくり寝てたらよかったなあ。」
先輩が言った。もう涙目ではなかった。カラシの後遺症はなさそうだ。
「出発まで2時間近くありますので、それまで自由時間とします。」
山本さんが言った。ぼくはシュラフ以外の汚れ物も少し洗っておこうと思った。日差しが強いのですぐに乾くだろうし、もしも乾かなくても 走りながら乾かせばいい。
学大サンドのもうひとつの利点は、食後の片づけがほとんど不要ということである。ごちそうさまの挨拶を終えて、すぐにぼくはサイドバ ッグの底から汚れ物を出した。汗くさいTシャツやブリーフがビニール袋の中に押し込められて異臭を発している。それを取りだして、さっ きシュラフを洗った蛇口のところに行った。
そこにはアルミの洗面器がいくつも置いてあったので好都合だった。汚れ物を入れてまず簡単に水洗いし、汗の塩分を洗い流した。それか ら今度は液体の洗剤を入れて汚れてる部分をしっかりともみ洗いして、最後に流水で何度も泡が全く出なくなるまですすいだ。それを固くしぼって、それから広げて振り回した。脱水器と同じ原理で回転運動を与えて遠心力で脱水した。それから日当たりのいい場所に広げて干した。
洗濯物を干しながらぼくは考えた。ラリーもいよいよ大詰めだ。今夜の打ち上げコンパでイノコの謎も解けるだろう。結局ここまでで決定 的な手がかりは何も得られなかったのが大いに残念だったが、ここまで封印した以上、イノコの謎は最後の瞬間までとっておきたいよう な気がした。わずかな残り時間をいとおしむように、そして一分一秒を大切に味わっていたいという気分になったのだ。
走ってる時間にも、食事の時にも、そしてちょっとした休憩の時の何気ない会話にも、楽しいコンパの時にも、ラリーは多くの顔を持って いてぼくたちを楽しませてくれる。それぞれのイベントという点を楽しむのではなくて、線の楽しみ、つまりラリーという連続した時間が多くの喜びや快楽をもたらしてくれている。ぼくはそれをはっきりと理解した。
そして、先輩が四回生になってもわざわざラリーに参加してることの意味も少しはわかった。本当なら四回生は就職活動の準備で忙しいはずだ。自分が四回生になったときに、ラリーに参加するか就職活動に力を入れるか、どちらの選択をするかはまだわからない。た だ、ラリーで過ごす宝物のような時間は、他のなにものにも代え難いような気がし始めていた。
昼過ぎになって出発の時間が来た。テントの中に隠してあったマシンが次々と引き出されて装備が積み込まれ、ぼくたちは最後の一 日に向けて発進した。
フェリーで宮島口に渡り、ほんの少し国道二号線を走った後、道路沿いのファミレスにぼくたちはマシンを停めた。駐車場にはすでに先 客があった。他の班もこのファミレスで休憩しているようだ。
ぼくたちが店内に入ると、先に入っていた班の人が全員立ち上がった。気をつけの姿勢でみんな直立している。その中の一人が言った。
「岡田先輩、ラリー参加ありがとうございました。」
「おうおう、そんな硬くならんでもええがな。斎藤も走ってたんやな。」
「おかげさまで無事に打ち上げの日を迎えることができました。」
「それはおまえらがしっかり運営してくれたからや。ほんまに面白いラリーにしてくれてありがとう。こっちから礼を言うとくわ。とりあえず ここで色紙書かしてもらうで。そっちの班はそっちで適当にやっといてな。」
「ありがとうございます。失礼します。」
斎藤という名前で、ぼくは目の前の人が開会式の時に挨拶をした実行委員長であったことに気が付いた。
ぼくたちはとりあえずいくつかのテーブルに分かれて座った。 五味がみんなの口火を切って先輩に訊いた。
「何でも注文していいんですか?」
「メシは食うな。まだ夕食には早い」
メニューを見てぼくはかき氷に心を奪われた。しかしいきなりかき氷を注文するのにはちょっとためらいを感じた。他の人が飲み物だけ なら、ぼくもそうしようと思った。
「やっぱり夏は氷や」
先輩が言った。
「この暑さでかき氷を食わないという選択はないなあ。みんな氷食ってもええぞ。二日酔いでお腹こわして下痢の者以外は氷にせえ よ。」
先輩のその一言には誰も逆らわず、全員がかき氷ということになった。
山本さんが用意してきた色紙を十七枚出した。それを配ろうとすると先輩が止めた。
「山本、食い終わるまで待った方がええ。今配ったら絶対に濡らすボケがおるぞ。」
山本さんは配りかけた色紙をもう一度ビニール袋に戻した。先輩が食べるのを中断して立ち上がって言った。
「ちょっとみんな聞いてくれ。これから班の記念品の色紙を書いてもらうんやけどその時にいくつか守ってもらわんとあかんことがあるん や。よく聞いてくれ。まず最初に、色紙のど真ん中に大きく自分の大学名と名前と回生を書く。それがないと誰の色紙かわからんように なるからなあ。それから順にみんなの色紙に書いていくんやけど、そのときも必ず大学名、名前、回生は抜けへんように書けよ。これは 貴重なラリーの思い出の品なんや。絶対に忘れるなよ。もうひとつ大事な注意や。この色紙は家に持ち帰ったら親や家族も見るかも知 れへん。そのときに見せられへんような恥ずかしいことだけは書くな。要するに卑猥なことばとか他人を傷つけるような言葉は書くなとい うことや。言葉だけちゃうぞ。絵も描くなよ。二重丸からヒゲが生えてるようなあの発電所のマークも絶対に描くなよ。」
発電所のマークと言われて一瞬考えたが、公衆便所の落書きなんかにある、あの女性器を図案化したようなあの絵のことだ。そんな ものを描かれてはたまらない。でも班の中でそんな迷惑なことをしそうな人は栗田さん以外にいないような気がした。
みんながかき氷を食べ終わってから色紙が配られた。そして記入用のいろんな色のサインペンも配られた。ぼくはさっそく書き始めた。
書きながらいろんなことを思い出した。その相手との関わりの中で最も印象的だったことを書くつもりで、ぼくはあれこれと思い出した。 それと同時に自分という存在はみんなにどのように映ったのかと気になった。
竹本さんの色紙が回ってきた。ぼくは他の連中がどんなことを書いてるのかが気になった。こんなフレーズが並んでいた。
「同じ九州なので、九州ラリーで逢いましょう。」
「身代わりになって飲まされたけど、本当はお酒強いんじゃないですか。」
「可愛い竹本ちゃん、笑顔がステキよ。」
「神戸の異人館を案内してやるよ。いつでもおいで」
露骨にデートを誘ってる最後のフレーズを書いたのはもちろん栗田さんだった。ぼくは急に不愉快になった。それでそこに矢印をつけて 「こういう誘いに乗ると危険です」と、筆跡やペンの色を変えて自分とはわからないようにして書き足しておいた。そして迷った末に短くこ う書いた。
「一緒の班になれて、とても楽しかったよ」
小一時間ほどかかってみんなは色紙を書き終え、山本さんが預かった。打ち上げコンパで紛失するといけないので、明日の解散時に 渡すとのことだった。
竹本さんがぼくの色紙に書いてくれたメッセージはこうだった。
「これから何度もラリーで一緒になれそうですね。四回生までおたがいがんばりましょう。」
ぼくはその同じ言葉を何度も何度も読み返した。
先輩の所に実行委員長の斎藤さんが色紙を持ってきた。他の上回生の人も色紙を持ってきて先輩に書き込んでもらっていた。ぼくは それを見てプロ野球選手にサインしてもらってるファンの姿を連想した。
「そろそろ出発しましょう」
山本さんがみんなを促したので、冷房のよく効いた店内から灼熱の駐車場に出た。考えればラリーの間中はずっと冷房とは無縁に過 ごしていたわけである。テントに冷房がないのはもちろんだが、町の集会所で止まった時もやっぱり扇風機しかなかった。数日ぶりの冷 房だったわけだ。だから外に出たとたんに激しい温度差に身体から汗が一気に吹き出した。一番最後に先輩が店内から出てきた。ぼく たちはラリーの参加費を払ったが、その参加費でまかなえるのは食費と運営費くらいであって、昨夜のコンパの酒代とか、こうしてかき氷を食べたお金とかはみんな上回生のおごりなのだろう。上回生には責任だけではなく負担も伴うということを実感した。
そのファミレスからほんの少し走るとすぐに広島平和大だった。門のところには大きな垂れ幕が出ていた。
「祝! 第十七回WUCAラリー広島大会 主管・広島平和大学 」と書かれている。
垂れ幕の下をくぐった先輩のまわりに他の班の上回生たちがすぐに集まってきた。色紙を差し出してる人もいた。マシンに跨ったまま、 先輩は数枚の色紙に次々と記入していた。
門を入ってすぐのところにラリー参加者への連絡事項が模造紙に書いて張り付けてあった。
1,各班の装備係は装備一覧表と照合してから装備を返却してください。
2,閉会式は夜7時から開始します。夕食はそれまでに班別にとってください。
3,コンパが始まるまでに必ず各自のシュラフに指定した荷札をつけて本部まで提出してください。
4,参加記念品は明朝の解散時に配布します。その時に名札を返却してください。
「参加記念品」とはいったい何がもらえるのだろう。ぼくは五味が持っていたスプーンを思い浮かべた。大阪工芸大のラリーの記念品と して配られた名前入りのスプーンである。
六班の一回生は返却のためにみんな自分が積んでいた団体装備をサイドバッグから降ろした。
「仲田くん、ブスの修理をありがとう。これで夏合宿乗り切れるわ。」
松阪さんが仲田さんに言った。仲田さんは少し照れて恥ずかしそうにしていた。
全員が装備を返却した後、コンパ開始まで余裕があったので一旦解散して自由時間になった。夕方六時に大学の正門から少し坂を降 りたところにあるお好み焼き屋の前に集合するということになった。
先輩は他の大学の上回生の人たちに囲まれていた。一人になったぼくは竹本さんの姿を目で探した。竹本さんも同じ関門大学の人と 何かしゃべってるようだった。最終日の走行距離がほとんどなかったぼくたちの班と違って、遠くから走ってくる班はまだ到着していなか った。
話し相手がなくなってぼんやりしてると、藤江が近づいてきた。
「奥山、たいくつそうやな」
「藤江とこの大学は他に来てないんか。」
「来てるけど、同じ大学の連中なんか地元に帰ったらいくらでも話できるからなあ。せっかくラリーに来てるのに仲間同士群れとってもし ゃあないわ。」
藤江はそういったけど、ぼくがひとりぼっちで居たのでぼくのそばに来てくれたのかも知れなかった。
「藤江、イノコのことわかったか。」
「わからんわ。誰も教えてくれへんし、一回生は誰も知らんし。六班なんか岡田先輩が居てるやろ。そんなとこでラリーの掟を破って教 えるわけないやんか。まあ今夜わかることやし、楽しみにして待っとくわ。」
そうだ。謎が解けるのは今夜なのである。
藤江はフロントバッグの中のビニール袋からパンの耳を差し出した。
「食うか?」
ぼくは一本受け取って口に入れた。
「五味から少し分けてもらったんや。今朝は朝昼兼用やったやろ。ほんまはかき氷じゃなくて焼き肉定食が喰いたかったんやけど、先 輩がおごってくれるところでそんな迷惑かけるわけにも行けへんしなあ。ほんまに腹へったわ。広島風お好み焼きか、楽しみやなあ。大 阪のモダン焼きとどっちがうまいのかなあ。」
ぼくも生まれて初めて食べる広島風お好み焼きに期待していた。
「今朝のカラシ入りサンド喰ったの、岡田先輩やろ?」
藤江はふとぼくに問いただすように言った。
「たぶんそう思うけど」
「先輩、なんで怒らんかったんやろなあ。」
「先輩はもしかしたらぼくらのたくらみに気付いてたんと違うかな。」
「それはどういうこっちゃ?」
「先輩はぼくら一回生が、サンドイッチにカラシを仕込んだことにすぐに気づいたと思うねん。そしてそれが誰に対して仕組まれたかもわ かったはずや。でも、ラリーはまだ終わっていない。そこで騒いで事件を大きくするんじゃなくて、自分の胸に納めてくれたような気がする んやけど、違うかな。ぼくらが栗田さんに対して持ってる感情もみんな理解した上で、先輩はぼくたちのことも、そして栗田さんをもかばっ たのだと思うんやけど。」
「奥山、おまえそこまで読んでたんか。」
「だって、ぼくは岡田先輩の弟子やから。先輩の考えてること少しは理解してるつもりやで。」
「すごいな。」
「少しは見直してくれた?」
「アホ! おまえと違う、岡田先輩や。」
藤江はしばらく腕組みして地面をにらんで考え込んでいた。それから向き直ってぼくの両肩に手を置いて言った。
「奥山、今度帰省した時は連絡するからメシでも一緒に喰おうな。その時に絶対岡田先輩を呼んでくれ。頼むわ。オレ、先輩に惚れた んや。勘違いせんといてや、ホモちゃうで。先輩は男の中の男や。オレ、同じ班になれたことほんまに誇りに思うわ。あんなすごい人、オレの大学にも一人も居れへんわ。」
涙を流さんばかりの調子でそう語る藤江を前にして、ぼくは藤江の感動の意味を考えていた。
人が人を愛する。人が人に惚れる。そのきっかけはいろんな形があるだろう。男女の愛もあれば、こうして男同士の友情もあるし、もち ろん片思いもある。ぼくは漠然と先輩にあこがれ、その体力に感動した。
でもそれは「惚れる」という感情ではなかった。人が人を深く理解するためには、そうした衝動こそ必要ではないのか。そしてぼくはこれ ほど身近に居ながらいかに先輩を知らなかったことか。
「藤江、ラリーが終わったあとはどうするの。鹿児島に帰るの?」
「いったん鹿児島まで帰ったら、また電車賃使って出てこんとあかんし、いったん大阪の実家に帰るつもりや。」
「他の六班のみんなはどうするのかな。」
「新幹線で帰るのとちゃうか。京都や大阪まで帰るのは遠いから。」
「藤江は?」
「オレももちろん新幹線や。」
ぼくは行きの時に使わなかった青春十八きっぷを持っていたことを思い出した。往復ともそれで移動するつもりだったので二枚ある。も しも藤江が鈍行で帰るのならそのうち一枚を売りつけようと思ったが、どうも買いそうな気配はなかった。
「祇園女子大のみんなも新幹線かな?」
「そんなこと当然やろ。みんな名門女子大のお嬢さんやぞ。新幹線でリッチに帰るに決まってるやろ。」
そのお嬢さんが学大サンドをほおばったり顔中ゲロまみれになったりするのだろうかと思うとおかしかった。
どうやら自分と一緒に青春十八きっぷで帰りそうな人間はほとんどなさそうだった。せっかく買ったきっぷが無駄になるけど、みんなと 一緒に新幹線で帰るのも楽でいいかとぼくは思い始めていた。
ずいぶん長時間、ぼくは藤江ととりとめもない話をしていた。腕時計を見ると、六時少し前になっていた。マシンを大学キャンパス内に 置いたまま、ぼくたち二人は徒歩で門の前のお好み焼き屋に向かった。そこにはもう腹が減ったのを待ちきれないというふうに班のみんなが揃っていた。
店に入る前に、先輩と山本さんの激しい論戦が起きた。
「お好み焼きはやっぱり関西や。広島風なんか邪道やで。」
「先輩は広島風のお好み焼きを食べたことあるんですか?」
「そんなもん食べるかい! お好み焼きは関西風と決まってるんじゃ。」
「おいしいかどうかは食べてみないとわかりませんよ。」
「そんなもん、喰うまでもないわい。」
「だったら、先輩だけ喰うのやめますか。」
「アホか。喰わへんかったら腹減るやんけ。喰わへんわけないやろ。」
「だったらどうして広島風にケチつけるんですか?」
「こうしてけなしといたら、本当にうまかった時にありがたさがよくわかるちゅうこっちゃ。最初からうまいと思て贔屓目に見ると、真実を 見誤るぞ。どんな食い物でも批判する姿勢を忘れんこっちゃ。」
「だったら先輩もじっくりと食べて検証してくださいね。」
「おうおうおういくらでも喰うたらあ。もしもまずかったら覚悟せえよ。仕返しにほんまにうまいお好み焼きを大阪で死ぬほど喰わしたる ぞ。」
「そんな覚悟ならいくらでもしますよ。」
死ぬほど喰わしてくれるという時にはぜひぼくも呼んで欲しいと思った。
駄菓子屋を兼ねたそのお好み焼き屋さんの店内は意外に広く、十七人全員がゆったりと座れた。そして全員が広島風お好み焼きを注 文したことは言うまでもない。
目の前の鉄板の上で繰り広げられる一部始終を見ながら、関西風では最初から混ぜられていた「具」が、広島風では少しづつ追加されて載せられて徐々に完成に近づいて行くということをぼくは知った。関西風お好み焼きにはおそらく存在しない「もやし」という具もあっ た。
焼き上がってオタフクソースをたっぷりかけられた広島風お好み焼きは、ぼくが日頃下宿のそばで食べているモダン焼きと呼ばれる、 そば玉を内包したあのお好み焼きよりもさらにさらに大きく感じた。一口食べてみた。さくっとしたライトな感じだ。体積こそありそうに見え るが、これなら食べるのは軽いかも知れない。ラリーの中で十分に肥大拡張したぼくの胃袋は、どんどんお好み焼きの細片を飲み込ん だ。しかし熱い。とにかく熱い。口に入れた後、水を飲んで冷やしながら飲むと、オタフクソースの香りが水で薄められて台無しだ。しかし そうしないと口の中をやけどする。ぼくは周りを見回した。みんなどんな喰い方をしてるのだろう。一番期待が持てる先輩を見た。先輩は 順調なペースでどんどん食べている。どうしてあんなに速く喰えるのだろうか。その口元に注目してみた。熱いかたまりを口に入れた後、 どうやら少し口を開いて激しく息をハフハフしているようだ。ぼくも少し真似てみた。口の中に熱いお好み焼きを入れ、それを少し口の中に浮かすようにして、そして激しく空気を通過させてみた。するとあんなに熱かったお好み焼きに舌を接触させることができた。そうだった のか。息でお好み焼きを冷やすんだ。まるで空冷式だ。その秘技を手に入れたぼくは、早食いの藤江に匹敵するペースで順調に食べる ことができた。
山本さんが少し勝ち誇ったように言った。
「岡田先輩、なかなか美味しいでしょ。」
「うーむ、ハフハフ。なかなか、ハフハフ。いける、ハフハフ。」
「なかなかいけるというのは美味しいということですね。」
「そうだな、ハフハフ。けっこううまい、ハフハフ。クセになりそうだ。」
味にうるさい先輩もその店のお好み焼きの美味しさを認めたようだった。ぼくは一口食べたときからもう降伏していたけれど。もちろん空 腹もあったが、それよりもたっぷり野菜が入ったこの広島風お好み焼きのような食べ物に自分が飢えていたことがよくわかった。ぼくはラリーのメニューの中にお好み焼きというのが登場しないかとふと考えてしまった。
そしてぼくと岡田先輩が実践する「空冷ハフハフ喰い」というのは、お好み焼きの食べ方の奥義として、密かに伝承されるべき技だとい う気もした。
みんながお好み焼きを食べ終えて、ひとしきり歓談の花が咲いた後、打ち上げコンパの会場となっている総合グランドに徒歩で移動し た。装備を完全に降ろしたマシンはもう移動させる必要は全くなかった。貴重品だけをウエストポーチに入れて、ぼくは同じ班のメンバー と連れだって移動した。
グランドでは班ごとにビール1ケース、日本酒数本、ワイン、ウイスキー、焼酎、つまみなどが青色シートの上にかためて置かれ、六班と 書かれたB4サイズの紙が貼られていた。シートの大きさは十分で、真ん中にお酒を置いても班全員がそのシートの上に座るだけの余 裕があった。ぼくたちは六班のシートの上に陣取って座った。次々と他の班もグランドにやってきた。参加者全員の熱気でまるで空気ま で熱くなってるような気がした。室内よりも風がある分まだマシかも知れないが、その風はなま温かい風ばかりだった。
ぼくはこれからはじまるイノコを期待した。イノコとはいったい何なのか、もうすぐ知ることができるのである。やっと自分の疑問が解決す るのだ。
「藤江、これでやっとイノコがわかるなあ。」
「オレはなんとなく見当ついてるんや、イノコは。」
「どんなふうに見当ついてるの?」
「イノコはきっと閉会式のプログラムのどこかに盛り込まれてるはずや。」
藤江に言われて、ぼくは模造紙に張られた閉会式式次第を読んだ。
1,実行委員長によるラリー報告
2,WUCAラリー後援企業挨拶
3,班別報告
4,ファイヤーストーム点火
5,乾杯
6,大学別出し物(スタンツ)
7,閉式の辞
1番から7番まで、どこにも「イノコ」という文字は存在しなかった。
「イノコなんかどこにもないやんか。」
「おかしいなあ。きっと式次第のどこかに盛り込まれてると思っていたのに。」
ぼくも藤江も当てが外れて少しがっかりした。ただ、ぼくはこのラリーに企業スポンサーまでついてるという事実を知って驚いた。先輩が他大学の上回生の人と話しながらこちらへやってきた。いろんな大学の人が次々と先輩のところにやってきては言葉を交わし、握手して去っていく。
マイクで放送が入った。
「ラリー参加者のみなさま、まもなく閉会式を行います。静粛にお願いします。」
会場のざわめきは少しおさまった。前方の舞台のところに立ったのは、少し前にファミレスで逢ったラリー実行委員長だった。
「ラリー参加者のみなさま、このたびは第十七回WUCAラリー広島大会へのご参加本当にありがとうございました。おかげさまでラリ ーの方も小さな転倒やケガなどは発生しましたがたいした事故もなく、こうして無事に終えることができました。不肖この斎藤が主管校を 代表してみなさまに御礼申し上げます。本日がラリー最終日ということで、恒例の打ち上げコンパの時間が参りました。班ごとにビールも日本酒も十分な量を用意させてもらっておりますが、班によりましては底なしの酒豪が多いとかいう理由で酒が足りないという不幸な 事態が発生するやも知れません。その場合は本部の方に一言おっしゃってくだされば、直ちに追加の酒をお持ちいたしますので、どうぞ心ゆくまで飲みまくり踊りまくり、そして語り合ってくださるようお願い申し上げます。」
「実行委員長挨拶が終わりました。続きまして協賛企業からの挨拶があります。協賛の島田工業の専務、仲田一郎さま、お願いします。」
島田工業と言えば、自転車部品の最大手のメーカーである。ぼくはさっき入口の門のところにあった垂れ幕に小さくその名前が入って いたことを思い出した。
「WUCAのみなさん、こんにちは。島田工業の専務取締役、仲田でございます。当社製品を愛用していただきまことにありがとうござ います。」
前で挨拶している人が、同じ班の仲田さんにどこか似てるような気がして、ぼくは仲田さんの方を見た。仲田さんは恥ずかしそうな顔を している。
「仲田、あれはおまえのオヤジか?」
先輩が小声で訊いた。仲田さんは小さく頷いた。
「エエこと聞いたで。今度おまえのオヤジのコネでパーツ安く買わせろよ。」
仲田さんは苦笑いしている。
「我が社は今回のラリーの記念品として、サイクリンググラブを提供いたします。どうぞお使いください。」
大きな拍手が巻き起こった。サイクリンググラブというのはハンドルを握る時に使う指先の部分をカットした手袋のことである。手のひら にパッドが入って衝撃を吸収するようになっている。またセーム皮などの素材でできているので、転倒時のケガ防止にも役立つ。あまり 安くはないものである。
「みなさま、記念品は明日のネームプレート返納時にお渡しすることになっています。コンパの前に配布すると混乱の中で紛失という可 能性もありますので。」
司会の人があわてて付け加えた。確かに、気を失うほど酔う可能性を考えればその方がいい。
「続いて、班別報告を手短にお願いします。」
一班から順に班長の人が出てきて、班別走行の四日間のことを報告していった。
「一班の班別走行の報告をいたします。一班班長、千里万博大学三回生桜田浩一です。一班は縁結びの神様出雲大社を訪ねるとい うコースでした。集合場所からいきなり輪行して松江まで移動したのですが、いきなり駅に輪行袋を一個忘れるという大失敗が発生、その節は主管の広島平和大学の方にずいぶんご迷惑をおかけしました。わざわざクルマで運んでくださってありがとうございました。松江では和菓子のノルマにみんなが苦しみました。彩雲堂のお菓子は適度な量なら最高です。小泉八雲を語り、津和野を観光し、文学の香り高い知的集団としてWUCAの名を高めて参りました。アホな自分たちには不似合いだった四日間でたまったストレスを吹き飛ばすた めに、今夜は飲んで飲んで飲みまくろうと思います。」
挨拶が終わると盛大な拍手が起きる。そうして次々と各班の班長が立ち上がって報告をした。六番目に宮田さんが立ち上がった。黄色ヘルメットはやっぱり目立つ。
「六班の班別走行の報告をいたします。 六班班長、新島大学三回生宮田憲一です。いきなり雨の中始まった班別走行ですが、二日目以降は好天にも恵まれました。わが班にとって最大のトラブルは、乗る予定だったフェリーが欠航していたことです。この不手際を思うと、主管校から参加費の半額くらいは払い戻して欲しいくらいです。」
そこで会場のみんなに笑いが漏れた。
「ただ、その最大の危機もみんなが必死で走って乗り切りました。それが六班の強い団結を生み出したことはいうまでもありません。 強い絆に結ばれた六班は今夜一人の落伍者もなく全員がしっかりと飲むことをここに誓おうと思います。」
拍手とそして歓声、笑い声が入り交じったどよめきがあった。
順々に班別報告が続いて、最後の班まで報告が完了した。
聖火ランナーならぬ聖火ライダーが火のついたたいまつを片手に持って自転車に乗って暴走してきた。火を手にしているのにジグザク走行して各班の脇を 駆け抜けたので、びっくりした女性の悲鳴が上がった。一周したあとでそのたいまつはグランドの真ん中の太い材木を井桁に組み合わ せた部分に投げ込まれた。瞬間、炎が高く上がった。ファイヤーストームに点火が完了した。
「乾杯の準備をお願いします。」
ぼくはケースの中からビールを引き抜いて、すぐに藤江が持っている紙コップの中にビールを注いだ。ぼくのコップには竹本さんが注い でくれた。すぐにみんなのコップがビールで満たされた。
「準備はいいですか。乾杯の前に一言注意しておきます。これから宴たけなわとなるとイノコをされる方もあると思いますが、中央のファイヤストームにはくれぐれもご注意ください。ファイヤーイノコは固く禁止いたします。」
ファイヤーイノコという単語にみんなの失笑が漏れる。
「それでは、第十七回WUCAラリー広島大会の成功を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯!」
どよめきとまばらな拍手がグランドを包んだ。拍手が一斉でなかったのは、紙コップを持ったまま拍手しにくいからである。みんな立った ままなので紙コップをどこかに置かないと拍手できない。ぼくは紙コップを最初に竹本さんとぶつけあった。それから藤江や五味、宮寺、 上原さん味村さんと接触させた。カチンという音がしないのでちょっと興ざめだけど、割れる危険があることを思えば仕方がないだろう。あ とは精力的に動き回って班全員とコップを触れ合わせた。漏れる相手のないようにちゃんと回数を数えながら。
万歳の声がする。「イッキイッキ」というかけ声も聞こえてくる。始まったばかりだというのにいきなり一気飲みとは。そんなに急いで自 滅することもないだろうと思うけど。
松阪さんがビール瓶を提げてさっそく注ぎに回ってきた。やっぱり祇園女子大サイクリング部の女性たちは天性のホステスかも知れな い。こうした行動にそつがない。ぼくのコップにもなみなみと注がれた。
そのときだった。岡田先輩が突然、大声で叫んだ。
「イノコやぁぁぁぁぁー!」
そして放たれた矢のような勢いで走り出した。それを見た他の班の人たちも次々と同じように叫びながら走り出した。
「イノコや!」
「イノコや!」
片手を天に向かって突き上げながら、先輩はまっすぐラリー実行委員長の斎藤さんのところまで突っ走った。そして、そばにあったマイ クをつかんで大声で叫んだ。
「鴨川大の岡田です。斎藤くん、ラリー実行委員長お疲れさま。これから実行委員長の労をねぎらって実行委員長をイノコしたいと思い ます。みなさんふるってご参加ください。」
二、三歩逃げだそうとした斎藤さんに先輩は飛びついた。先輩と同じように走り出した十数人の人が次々と殺到した。斎藤さんはすぐに 仰向けにされ、両手手足をつかまれて自由を奪われた。先輩は斎藤さんの腹の上に馬乗りになって跨った。手足をつかめなかった人は 周囲を輪になって取り囲んだ。
先輩がかけ声を掛けた。
「イーノコ イノコ イノコ餅ついて 繁盛せぇ 繁盛せぇ」
そのかけ声にあわせて斎藤さんの身体が激しく上下に振り回され、馬乗りになっている先輩もそこで思い切り飛び跳ねた。斎藤さんの身体が持ち上がるのにうまくタイミングをあわせて先輩が飛ぶので、まるで空中に二メートル近くジャンプしてるように見えた。空飛ぶ絨毯が飛びながら波打つように、斎藤さんの肉体が激しく上下運動し、さらにその上で軽やかに先輩が飛び跳ねた。
これがイノコなんだ。
ぼくは目の前で繰り広げられる狂態にただあきれた。こんな手荒な祝福があるだろうか。
たとえばぼくたちは胴上げをする。成果や業績をあげた者へのはなむけとしてその行為を行う。しかしイノコは胴上げのような生やさしいものにはとても見えなかった。一つ間違えば大ケガをしかねない、そんな危険な行為だった。
高くジャンプしている先輩がバランスを崩して落下すればどうなるのか。手足を持ってる人たちの息が合わずに地面に叩きつけてしまっ たらいったいどうするのか。
「さかさやー!」
斎藤さんの身体は裏返され、今度はうつぶせになってさきほどと同様に両手両足がつかまれた。しかし今度は先輩は馬乗りにならな かった。
身体が先ほどとは表裏がリバースされた状態になり、斎藤さんは今度はうつぶせにされた。さっき同様にかけ声が掛けられた。今度も 先輩の声が一番大きかった。
「イーノコ イノコ イノコ餅ついて 繁盛せぇ 繁盛せぇ」
かけ声の節回しにあわせて六回上下運動を繰り返し、そして静かに斎藤さんは地面に降ろされた。ただ、降ろされたあとすぐに斎藤さんは起きあがって、先輩としっかりと握手を交わした。ラリーで最も重要な儀式を終えたということで割れんばかりの拍手が巻き起こっ た。先輩はゆっくり歩いて班のところまで戻ってきた。他のイノコ実行者たちも同様に各班に戻った。
ぼくはついにイノコを見た。
イノコそのものは時間にすればほんの数秒だ。
でもぼくは言葉を失った。自分が目撃したものの衝撃の大きさに。
これはいったい何なんだ。この奇習はいったい何なのだ。どうしてこんな奇怪な行為が存在するのだ。
班に戻ってきた先輩のコップに、松阪さんが日本酒を注いだ。その日本酒を一気に飲み干した後、先輩は一回生の前で言った。
「どや、おまえら初めてイノコ見たやろ。イノコが何なのかよくわかったやろ。」
「わかりました。ありがとうございます。」
「こんな危険な儀式やから、むやみに繰り出すものやないんや。そやから一回生には内容まで封印してあったんや。」
「先輩のおっしゃるとおりです。」
「ちょっと質問していいですか?」
その声のした方をみんなが振り向いた。そこには竹本さんが居た。
「イノコは、自分よりも目上の人に対してしてもいいんですか。それは相手に対して失礼には当たらないのですか。」
「エエ質問や。さっき斎藤をイノコしたメンバーにはお調子者の一回生も混じっとったぞ。別にそんなんはかめへんのや。イノコというの は一種の下剋上や。ラリーの中で気にくわない先輩に対して逆らうことは許されない。その代わりに最終日の打ち上げコンパでその先 輩に対して復讐のイノコをぶちかますというのももちろんアリなんや。」
気にくわない先輩と言われてぼくは真っ先に栗田さんを連想した。先輩の言葉通りなら一回生みんなで栗田さんをイノコしてもいいの だ。
ぼくはなんだかうれしくなって、先輩のマネをしたくなった。それでぼくも同じように大声で叫んでみた。
「イノコやぁぁぁぁぁー!」
そしてそばにいた栗田さんの腕をつかんだ。それを見ていた他の一回生も次々に集まってきて栗田さんの手足をつかんだ。押し倒され て仰向けにされた栗田さんは少し手足をバタバタさせたが、八人の一回生全員が相手だったので全く無駄な抵抗だった。
ぼくは先輩に見習って、栗田さんの上に馬乗りになった。そばで見ていた先輩がかけ声を掛けてくれた。
「イーノコ イノコ イノコ餅ついて 繁盛せぇ 繁盛せぇ」
そのかけ声にあわせて栗田さんの身体が激しく上下に振り回され、馬乗りになったぼくも振り落とされそうになりながら必死で飛び跳 ねた。地面に降ろされた栗田さんは激しい形相でぼくを見た後、ニヤリと笑って言った。
「岡田先輩をイノコや!」
ぼくたち六班のメンバーはその言葉に一瞬身体が凍り付いた。誰も動こうとしない。よりによって先輩をイノコするとは何事だ。そんな恐 れ多いことなどできるわけないじゃないか。
栗田さんが声を張り上げたので、他の班の人も集まってきた。そのときに先輩が言った。
「どうしたんや。なんでイノコしてくれへんのや。イノコはラリーの時に必ずするもんやんけ。何も気にすることないんや。さっさとやってく れ。」
そう言って先輩は仰向けになった。ぼくたちはしぶしぶ先輩の手足をつかんだ。栗田さんが馬乗りになろうとしたが、なんとそこには松阪さんが割って入って乗った。松阪さんが乗るとなると、ぼくたちは余計に慎重にイノコしないといけなかった。もしも振り落としたら大変 だ。
「イーノコ イノコ イノコ餅ついて 繁盛せぇ 繁盛せぇ」
その振幅は、さきほど栗田さんをイノコしたときの半分程度だった。やっぱり自然と手加減してしまう。六回の上下運動を終えて地面に降ろされた先輩に向かって松阪さんが言った。
「先輩、上に乗ってすみません。わたしが一番体重が軽そうだから、他の人が乗るよりはマシかと思って乗りました。」
「アホか。乗り方が下手やったから重かったぞ。」
ぽっちゃり体型の松阪さんに向かって先輩はそう言って笑った。ぼくたちもつられて爆笑した。そうだ。この明るい笑いこそがイノコの精 神なのだ。される側もする側もイノコを楽しまないと意味がないんだ。イノコされたことに怒ってはいけないんだ。
ぼくは自分が最初にイノコに対して持ってしまった先入観を思い切り恥じた。
他の班を見回すと、あちこちで小さなイノコの輪ができていた。最終日まで封印されていたものがやっと解かれたので、みんな一斉に エネルギーを爆発させていた。
そこかしこで炸裂しているイノコを眺めながら先輩がしみじみと言った。
「やっぱりイノコはラリーの華や。イノコがないとラリーに出た気がせえへんし、イノコを見てるともう終わりやという寂しさがこみあげてく るわ。」
ぼくは先輩の横顔を見ながら、先輩がどれだけラリーを愛してるか、ほんの少しわかったような気がした。わかったなんて言うことはおこがましくて、本当は言えないことかも知れないけれども。たった四年でみんなこの世界を卒業していく。参加者は一回生が一番多くて、 上回生になると勉強や就職活動が忙しくなってだんだん参加者が減ってしまう。そして就職して社会人になればもうこの世界とは縁が 切れてしまう。四回生である先輩にとって、留年でもしない限り来年のラリーはない。先輩にとってこの夏のラリーが最後になるのだ。
マンコ マンコ マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
突如響いた異様なかけ声にみんなギョッとした。あわててファイヤーストームの方を見ると、大学別スタンツの一番手が始まったところ だった。
一つ開いた傘屋のマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
二つふやけた土左衛門のマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
三つ見慣れたカカアのマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
四つ汚れた売春マンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
五つイモ屋のガスマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
六つ向こうのドテマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
七つ質屋の出し入れマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
八つ八百屋のピーマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
九つ子供のパイパンマンコ
マンコマンコ
マンコマンコマンコマンコマンコマンコマンコ
ああなんてお下劣なんだ。あまりにもインパクトがありすぎる。放送禁止用語をただ連呼するだけのそのひどい芸が仮にも大学のスタンツであるとは認めたくなかった。連呼しながら踊り狂ってるのは六甲大学の人たちだった。そしてあろうことか先輩は、手拍子をしなが ら一緒に歌っていた。
「先輩、大学のスタンツってみんなこんなのなんですか。」
「そうや。六甲は毎年特にエグいけどなあ。」
「ウチは何番目ですか?」
「二十番目や。さっき斎藤がわざわざ教えに来てくれた。」
「どんな芸を出すんですか?」
「アホか。二十番目なんかあるかい、そこまでにみんなとっくにみんな酔いつぶれとるわい。せいぜいやれるのは六、七番目くらいまで やな。後はみんな泥酔状態になるから続行不能や。」
それを聞いてぼくは少し安心した。でも鴨川大のスタンツってもしかして、先輩がプレコンパで歌ったあのドイツ語の歌だろうか。それな らまだぼくは歌えないのでできない。先輩からきちっと教えておいてもらおうと思った。
「おまえもおれも酔いつぶれたら、スタンツどころやないからなぁ。」
そういって、先輩はぼくのコップに日本酒を注いだ。表面張力の限界を超えた分が少しあふれてしまったのでぼくはあわてて口をつけ た。こぼれた分だけのつもりが半分くらい一気に飲んでしまった。喉を熱いものが通過する感覚が不思議と快かった。上原さんが先輩の コップに注いだ。先輩はそれをゴクゴクと喉を鳴らして一気に飲んでしまった。
「先輩、わたしにもお酒ください。」
「アホか、むちゃスンなよ。おまえ昨日のこと忘れたんか。」
先輩は上原さんに向かってきつい調子で言った。
「大丈夫です。昨日ちゃんと自分の限界を知りました。今日はその一歩手前で止めます。だから注いでください。」
「よっしゃ、その心意気や。つぶれたらオレが責任持って介抱したる。」
そう言って先輩は上原さんのコップに半分ほど注いだ。
ぼくは竹本さんを探した。
竹本さんは栗田さんにお酒を勧められていた。どうも昨日宮寺が遭遇したのと同じ場面のようだ。今度はぼくが救う番だ。ぼくはナイトの精神を発揮するために竹本さんのそばに寄った。
「栗田さん、女性にお酒を無理強いするのはよくないですよ。」
「なに? おまえいつから上回生にタメ口きけるようになったんじゃ。」
だめだ。栗田さんは完全に酔っちまってる。
「すいません、言葉に失礼があれば謝ります。」
「あたりまえじゃ、奥山。上回生を舐めるのもエエかげんにせえよ。謝るんやったらちゃんと態度で示さんかい。ほれ、そこに土下座せえ。」
土下座と言われ、ぼくは怒りに拳を握りしめた。でも、ここで殴ってしまったら取り返しのつかないことをしてしまうことになる。そうなると ぼく個人の責任じゃすまない。鴨川大学のサイクリング部員として、大学の看板に泥を塗るわけにはいかない。
ぼくは土下座するために地面にうずくまった。ここで屈辱に耐えればそれで済むんだ。
「キャーッ」
ぼくはその声に思わず顔をあげた。栗田さんがTシャツの上から竹本さんの乳房をつかんでいた。ぼくは立ち上がった。ぼくが栗田さん の顔面に拳を浴びせようとするよりも一瞬早く、栗田さんはその場にぶっ倒れていた。先輩がそこに立っていた。先輩の鉄拳が栗田さん の頬にヒットしたのだった。
「栗田、なんぼコンパが無礼講やいうてもな、やってエエことと悪いことがあるんや。おまえはその一線を越えてしもたんや。このドアホ め。」
ぼくはその場に立ち尽くした。
「竹本、今日までこのボケを野放しにしたのはオレにも責任ある。ちゃんと謝らせるさかい、許したってくれや。せっかくの楽しいコンパ やのにイヤな気持ちにさせてもうてごめんな。」
竹本さんもとっさの成り行きに呆然としていた。
「先輩、もういいです。栗田さんも酔っていてのことです。わたしだったら別に気にしていません。触る値打ちのあるほどの胸じゃないで す。」
十分値打ちがあるとぼくは心の中で反論していた。
「竹本、それやったらあかん。おまえらは泣き寝入りしたらあかん。こんなボケはちゃんと言い聞かしたらんとあかんのや。ラリーは神聖 な世界や。そんな場所にオレはセクハラとか持ち込んで欲しくないんや。こんな勘違いしてるボケは永久にラリーの世界から追放せんと あかんのや。」
「先輩、すいません。」
栗田さんが地面にうずくまったまま小さな声で言った。
「アホ、謝る相手が違うわい。おまえが謝る相手は竹本さんやろ。」
先輩は栗田さんのお尻を後ろからつま先で蹴った。栗田さんはそのまま前にのけぞって倒れた。
「栗田、おまえはラリーもそれから自分の立場も勘違いしとる。ただ威張るだけが上回生の仕事やないんや。シゴキといじめは違うん や。おまえが一回生に対してやってたことはただのイジメや。オレは最初からそれが見えとった。そやからその都度おまえにわかるようにやんわりと注意してきたはずや。それがわからんおまえは最後までボンクラやったのう。ほんま最低やドアホ。」
竹本さんが栗田さんを助け起こして言った。
「先輩、もういいです。これ以上やったら栗田さんがかわいそうです。」
「かわいそうなことなんかない。こいつだけはとことんやらんとあかん。」
「もういいんです。わたしがもういいと言ってるんです。わかってください。」
竹本さんが懇願するような目で先輩を見た。
「栗田、竹本さんが許してくれたぞ。この恩を忘れるなよ。」
そういうと、先輩は一人で向こうに歩いて行った。
ぼくは自分の手で竹本さんを守れなかったことが少し悔しかった。でも、もしも先輩ではなくぼくが栗田さんを殴っていたらどうなっただ ろうか。栗田さんがあそこまで従順になって聞いてくれただろうか。
自分が栗田さんを殴ったとしても、それは気になってる女性にセクハラをされたことに対しての怒りであり、私怨から来るものだ。
でも、先輩の行動はそれとは意味が全く違う。先輩はラリーの秩序を守るために、そしてラリーという世界の掟を無法者に教え込むた めに、あんなふうに正義の拳をふるったのではないのか。
ぼくは気分を変えて飲み直すために、一升瓶を手に持ってファイヤーから少し離れた芝生の上に竹本さんと一緒に移動した。まず自分 のコップにお酒を満たしてから、竹本さんにも新しい紙コップを手渡してそこに半分くらい注いだ。
「奥山くん、ごめん」
「えっ、どうしてぼくに謝るの?」
「さっき、わたし岡田先輩にお礼を言わなかったから。先輩を悪者にしちゃったかなと思って。」
「そんなこと気にしてないよ。それにさっきの場面は悪いのはどう見たって栗田さんだし。」
「ううん、そんなことじゃない。どうして素直にありがとうって言えなかったのかなって。」
「ありがとう・・・って?」
「そう、ありがとう。わたし、おとなしそうに見えるし、あまり活発じゃないし、そのせいか男の子からよく標的にされて、スカートめくられ たり身体さわられたりされてすごくいやだった。大学受験の時に誰も知らない遠くの街に行こうと思ったのは、それもちょっぴりあったの。 自分にイヤなことをした男の子とまた大学で逢ったりしたら気分悪いでしょ。そんなこと今まで誰にも言ったことなかったし、そんな理由で 遠くの大学受験したいと言っても両親を説得する自信はなかったし。岡田先輩が栗田さんを殴ってくれてわたしを救ってくれたこと、そし て悪いのはスキがある自分じゃなくて、そんなことをする側だとちゃんと言ってくれたこと、とても嬉しかった。でも、もっと嬉しかったの は、奥山くんが先輩とほとんど同時に殴ろうとしてたこと。先輩の方が素早かったから一瞬負けちゃったけど。奥山くんが本気で怒ったのラリーの中ではじめて見た。わたしを心配してくれたんだと思うと嬉しかったの。」
ぼくは自分の胸をつきあげたあの衝動が何に由来するものなのか、まだうまく説明できていなかった。
「奥山くん、わたしたちってこれからもラリーのたびに逢えるね。」
「うん、絶対に逢えるよ。」
「卒業までに夏があと三回あるよね。」
「うん」
その先を言うのが照れて少し恥ずかしくなってしまったぼくは、心の動揺をごまかすようにコップの中味を全部飲んでしまった。すると竹 本さんが一升瓶から空になったコップに注いでくれた。
「ラリーって本当にすてきだよね。先輩がラリーを愛してるのがよくわかったわ。わたしも初参加なのにこんなにラリーが好きになった し。」
「ぼくも、ラリーが大好きになったよ。」
そこまで言ってからぼくは緊張に耐えきれなくなって立ち上がった。さっきから大量に飲んでいたので、膀胱が爆発寸前の状態だった のだ。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる。」
ぼくは駆け出した。トイレの場所まで一目散に走った。トイレにたどり着いて気持ちよく放尿してると、やっぱり頭がクラクラした。セーブ して飲んだつもりだけど、どうやら限界に来たのかも知れない。吐けば楽になるというふうに西尾が言っていたことを思い出し、ぼくはのどに指を突っ込んで、便器の中に胃の中のものを豪快にぶちまけた。
胃液で酸っぱくなった口を水道ですすぎ、グランドの六班のところに戻ったとき、もうさっきの場所に竹本さんは居なかった。竹本さんだ けではなくて女性陣はみんな引き上げていた。
ぼくは吐いたおかげで少し楽になったので、まだ残っていたサントリーホワイトをコップに注ぎ、ペットボトルのスプライトで割った。
仲田さんがぼくを見て言った。
「奥山、無事やったんか。さっきトイレのとこで吐いてたって聞いたぞ。もう死んだと思ってたのに復活したんか。無理するなよ。」
「無理はしてません。つぶれるときは潔くつぶれます。そのときはお願いします。」
「わかったわかった。復活したんやったら遠慮はいらんな。注ぐぞぉ!」
仲田さんはぼくのコップにホワイトを注ぎ足した。
「ホワイトは二回生の酒や。」
「どうしてですか?」
「一回生はレッド。これはとにかく悪酔いする酒や。」
「ぼくはまだレッドは飲んだことありませんよ。」
「ぜいたくやなー。一回生はレッドでええ。」
「それで二回生はホワイトなんですか。」
「そうや。二回はホワイト、三回はオールド、四回がリザーブ。」
ぼくは父にもらったサントリーリザーブを飲んだことがあるのを思い出して少し悪い気がした。一回生の分際で四回生の酒を飲んでしまったことに なる。ちょっぴり誇らしい気もしたが、どんなものにもそうして序列をつけ、そして意味を与えようとするそんな部分が妙におかしかった。
二回生の酒というホワイトを注いでもらって、ぼくはなんだか出世したような気分に浸れた。空っぽになった胃にホワイトが染み渡った。
「仲田さん、岡田先輩知りませんか。」
「知らんなぁ。他の大学の人に囲まれてるんとちゃうか。先輩はラリーの人気者ナンバーワンやさかい。」
「ちょっと気になってるんです。さっき先輩が栗田さんを殴ったんです。」
「なんで殴ったんや。」
「栗田さんが竹本さんの胸さわったんです。」
「そら、殴って当たり前や。オレかて殴る。相手が岡田先輩でもその時は殴る。先輩は絶対そんなことせえへんけどな。」
「殴った後で、先輩はすごく淋しそうにしてたんです。」
「それで気になっとんたんか。おまえ、なかなかエエとこあるなあ。気にせんでもええ。絶対どっかで飲んで騒いでるはずや。ほら、向こ うでイノコやってるやんけ、あれ先輩やろ。」
遠くからかすかにイノコのかけ声が聞こえてきたのでぼくはその方向を見た。そこには馬乗りになって飛び跳ねている先輩の姿があっ た。
「奥山、オレ去年のラリーの時岡田先輩と同じ班やったんや。そこでむちゃくちゃお世話になったんや。言うてみれば恩人みたいなもんや。自転車のことが好きでクラブに入ったのに、うちの大学めっちゃ封建的やからシゴキやいじめばかりでアホらしくなって辞めたくなってたんや。サイクリングだけやったら一人でもできる。一人で好きな場所を走ったらええんや。そう思ってクラブをやめる気になっていたときにラリーがあって、こんなエエ先輩がおるんやと思たら辞めたくなくなったんや。自分も先輩みたいになったろと思ってトレーニングも積んだし、メカのことにも詳しくなれたんや。」
ここにもこうして先輩に影響された人が居る。
ぼくはラリーという不思議な世界と、その世界で大きな影響力を発揮してきた先輩の存在の意味を思った。
スプライトがなくなったので、ぼくと仲田さんはホワイトをそのまま舐めるようにしてチビチビ飲んだ。舌の先が熱くなった。
コンパの終了を告げる放送と、蛍の光のメロディーが流れてきた。なんとかコンパ終了まで意識を保てたようだ。これなら自力でシュラフに潜り込めるだろう。帰ろうとして歩き出したぼくは、酔いつぶれて地面にへたり込んで寝ている人影を発見した。よく見るとそれは五味だった。
「五味、大丈夫か。五味」
「奥山ぁー 頼むから連れてってくれ。歩かれへん。」
立ち上がった五味はすぐによろけて派手にぶっ倒れた。ぼくは五味をおぶって歩き出した。食べたものは絶対に吐かないという五味だから、首筋にゲロを吐かれる心配はなさそうだった。
「五味、いつまでも意地はらんと吐いたら楽になれるのに。」
「一回口に入れたものは出さない主義なんだ。」
「わかった。頼むから今だけはその主義を貫いてくれよ。」
参加者全員の寝室にあてられた体育館の床には、一面に新聞紙が敷かれていた。その上でシュラフにくるまって大勢の人がそこらじ ゅうに寝ている。入口のところに黄色いTシャツの主管校の人が居て、ぼくらの姿を認めると質問してきた。
「名前と所属、回生をお願いします。」
「鴨川大学一回、奥山です。こちらは渦潮大学一回、五味です。」
少し待つと、荷札に名前を記入したそれぞれのシュラフが渡された。コンパの始まる前に各自預けていたものである。このシステムのもうひとつの利点は、シュラフの残りを確認することで、コンパから戻ってない人をちゃんと把握できるということだろう。未帰還者だけを捜索に行けばいいのである。
体育館の奥の方で二人分の隙間を見つけ、シュラフを敷いてその上に五味を寝かせた。蒸し暑いので中に入らなくても大丈夫だろう。 その横でぼくもシュラフの上にごろ寝した。先輩はまだどこかでイノコでもしてるのだろうか。四回生である先輩にとって、このラリーが最後の夏になるということをぼくはふと考えた。最後のラリーなんだ。心ゆくまでイノコをしたりされたり繰り返しているに違いない。
人はいろんな卒業を迎える。このラリーの世界を体験できるのもわずか四年間のことなのだ。大学を卒業して社会人になればもうラリーとは縁がなくなってしまう。長い人生の中のほんの一瞬にしか過ぎないこの大学の四年間に多くの出逢いがあり、別れがある。先輩がこれまでに築き上げてきた多くの伝説は、卒業とともにみんなの記憶の中にしまい込まれる。あと四年たてばWUCAの中に先輩を知ってる人 は一人もいなくなってしまう。
ノルマに苦しみ、一気飲みをさせられるという一回生ならではの体験も、考えればその時限りなのだ。二度と体験できないからこそ、それらは貴重なのであり、宝物なのだ。もしも永遠に繰り返されるのならただの苦痛にしか過ぎない。ただの一度しか経験できないからこ そ、その瞬間は思い出の中ですてきな結晶となってしまい込まれる。
ぼくはずっと昔に読んだ絵本「100万回生きたねこ」のことを思い出した。100万回生きたねこは100万回死んで100万回生き返っ た。どんな幸福な時間も、繰り返されて何度でも体験できるのならそれは色褪せる。でも、その時間が有限で一回きりだと思うことで、人 はその重みを真摯に受け止めるのではないだろうか。ねこが死ぬのなどちっとも怖くなかったのは100万回繰り返せたからであり、最後 の一回にねこは繰り返す必要のない充実した時間を生ききったから満足して死んでしまう。わずか四年間という時間でラリーという世界 を十分に堪能し尽くして、ぼくはちゃんとそこから卒業できるだろうか。
「アホか奥山、たった四年でラリーの面白さが全部わかるわけないやんけ。留年してとことん味わいつくさんかい!」
先輩の罵声が聞こえたような気がしてぼくは跳ね起きた。でも、まわりのシュラフから聞こえるのはいびきと寝息だけだった。空耳だっ たのだろうか。もう一度ぼくはシュラフの上に身体を横たえて、そして急激に眠りに落ちていった。
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