第四日 プレコンパの夜
朝の気配を感じて勢いよく跳ね起きたときには、もぬけの殻になったシュラフがすでに三つあった。四番目ということである。今日もやは り早起き一番を逃してしまったようだ。
顔を洗うために水道のところへ行くと、すでにお米を研ぐために三つあった蛇口はすべて占領されていた。
「すみません、先に顔洗わせてください。」
「遅いなー。研ぎ始める前にちゃんと顔ぐらい洗っとけよ。おい、奥山に蛇口ひとつ譲ったれ。」
後ろから仲田さんが言ってくれた。仲田さんはブスを点火するために真っ先に起きていたのだった。仲田さんの隣には松阪さんも居た。
「奥山くん、残ってるお米は全部炊くようにという岡田先輩の指示よ。」
「ええっ、じゃあこのあとの食事はどうするんですか。」
「とにかく、もうお米は使い切ってもいいと言うことみたいよ。」
ぼくは少し多いと思いながらお米を研いだ。昨夜はメシがあっというまになくなったし、みんな着実にラリーの中で大食いになってきて いる。だから少しくらい多い目でもきっと難なく克服してくれるだろう。ただ、これから先にお米がいらないということはどんなメニューの流れになるんだろうか。ぼくにはよくわからなかった。学大サンドはいつ登場するのだろうか。
仲田さんがてきぱきと手際よくブスに点火していた。ぼくはお米を研ぎ終えたコッフェルをその上に載せた。
全部炊いてしまえという指示なので、全部のコッフェルと飯ごうを動員したが、それでやっと六升八合である。朝食と昼食の量ぎりぎりだ。ビニール袋の中にはまだお米が残っていた。
「むりやり入れて多い目にして炊きましょう。」
五味がむちゃくちゃな主張をした。炊くのに失敗したらそれこそ目も当てられないではないか。ぼくは提案した。
「やっぱり勝手に決めないで岡田先輩に相談するべきじゃないですか。」
五味が呼びにいくと先輩はすぐにやってきた。
「しゃあないなあ。炊ききれへんのか。おまえらで残った米分けろや。どれくらいあるねん。」
「二升はあると思いますけど。」
「じゃあ三人で適当に分けろや。五味、おまえ米いるやろ。」
「いただきます。先輩、ありがとうございます。」
五味はすぐに自分のサイドバッグから汚いビニール袋を出してきて、そこに半分くらい入れてしまった。ぼくと藤江は残りを分けることに する。
メシが炊きあがるまでしばらくぼくらは手持ちぶさただった。次々と炊きあがってブスが空いてから、その上に大鍋を載せた。みそ汁の 具は一回生の女子にまかされてたので、何が出てくるのか楽しみだった。
切り分けられて運ばれてきた具は、さつまいもと茄子とネギだった。女子がサツマイモが好きなのはまあ許そう。問題は茄子だ。ぼく はそんな組み合わせのみそ汁をこれまでの人生で一度も喰ったことがなかった。
沸騰したお湯の中に粉末のダシの素が入れられ、そしてさつまいもが投入され、柔らかくなるまでしばらく煮立てられた。続いて茄子 が投入された。しばらくたつとお湯が徐々に紫色に染まっていった。ぼくは不吉な予感がした。
「なんかこの色、気色悪くないですか。」
「味噌入れたら大丈夫違いますか。」
しかし、その紫色は味噌を溶かしてもやっぱり紫色だったのである。
「なんやこのみそ汁は! 具はなんや具は。」
「さつまいもと茄子です。」
「アホか。茄子は先に水に浸しとかんとあかんやろ。そうせんと煮汁が真っ青に染まるんや。」
岡田先輩は少し怒ったけど、でもまあ食べられないほどのトラブルでもないし、不評のみそ汁の分タクアンやキュウリのQちゃんをみんなはしっかりと食べてコッフェルを空にした。
食事の時に今日の走行班が発表になった。ぼくはやっと竹本さんと同じ班になれた。しかもぼくが呼ばれたのは彼女の次だったので、 走行順が彼女のすぐ後ろということで、ずっと後ろ姿を眺めながら走ることができると知って思わず笑みがこぼれた。
「奥山、おまえ嬉しそうやなー。マドンナと同じ班やからか。」
「藤江、おまえこそオレと違う班になれて淋しいやろ。」
「アホか。おまえのケツなんか拝んで走りたくないわい。」
藤江はいちばん後ろの班で、岡田先輩と一緒だった。
食べ終わってごちそうさまの儀式をして、速攻でガチャを洗ってすぐにみんな出発の準備に入った。
江田島からフェリーで宇品港に渡って、そこから原爆ドームや平和公園を見学してから宮島に渡るのが今日の予定だった。距離も短いし、まあ楽勝のパターンである。ぼくは今夜のプレコンパのことを早くも想像して気分が浮きたっていた。
港が近づくと、むこうからあわてた様子で主管の山本さんが戻って来る。山本さんはぼくたちのグループを追い越して、岡田先輩のいる 最後尾の班の方へすっ飛んでいった。何かが起きたに違いない。
ぼくたちの班はその場に停止して、岡田先輩の班が到着するのを待った。
岡田先輩は山本さんと並んで何か話しながら走ってきた。
「とりあえず、港まで行こうや。」
止まっていたぼくたちの班も出発した。
港に着くと、大きく赤字で掲示してあった。
「定期点検のために欠航」
そんなこと、ずっと前から決まっていたことじゃないのか。ぼくはそのことをきちっと調べていなかった主管校の手抜かりに腹が立った。 岡田先輩も山本さんも困った表情をしている。
「山本、どうすんねん。」
「すみません。きちっと調べていなくてこんなことになりまして。」
「誰にでも失敗はあるからしゃあないけど、今日の予定をどうするかやな。こうなったら昨日と同じフェリーで呉に戻って、そこから走って 行くしかしゃあないやろ。」
「呉から広島までは下見してないんですが。」
「アホか。おまえら広島に住んでたらそれくらい走ったことあるやろ。下見してなかったら走られへんのか。」
「すみません。」
「しゃあないやんけ。遠回りになるからちょっと急がんとあかんけど、とにかく走って宮島まで行かんとあかんのやな。」
「はい」
「別にかめへんやんけ。それやったら。楽勝やったのが、普通の距離になっただけのこっちゃ。」
「すみません。」
「おまえさっきから何回同じこと言うてんねん。大事なのはここでどう行動するかやんけ。そんなんで主管の資格ないぞ。あんまりオレ に腹立たせるなよ。」 「すみません。」
「もうええって言うてるやろ。みんなに説明せえや。」
山本さんのまわりにみんなが集まった。
「すみません。今日の予定ですが、ここで乗る予定だったフェリーが欠航していますので、予定を大幅に変更して昨日のフェリーに乗っ て呉に戻ります。そこから陸路広島を目指します。距離が伸びて余裕がなくなるので、今日の見学の予定はもしかしたら中止になるかも 知れません。あと、交通量の多い国道を長時間走ることになるので、くれぐれも走行中の危険防止のために心がけてください。」
「みんな、山本が言うたとおりや。ここまでは主管校の人が注意してできるだけ交通量の少ないコースを選んでくれてた。でも今日は突 然のコース変更で下見もできてへんし、交通量の多い国道を走って行かんとあかんようになったんや。ラリーの時に一番怖いのは交通 事故や。自転車がこうして十数台くっついて走ってることなんかドライバーは普通想像してへんのや。強引にスレスレのところを追い抜い ていくし、耳元でクラクション鳴らしよる。オレらがクルマに迷惑にならんようにルール守って集団走行してることなんか相手には絶対に通 じへんのや。交通事故でケガしたらほんまにシャレならんぞ。死亡事故なんかになったらその場でラリーは中止やぞ。みんな気ぃつけた らんとあかんねんぞ。」
「先輩、わかりました。」
みんな口々に言った。とにかく気持ちを引き締めて走らないといけない。ぼくたちは昨日フェリーを降りた小用港まで移動した。呉に戻 るフェリーはそこから出る。心なしかペースは速かった。しかし、フェリーは出たばかりでタイミングが悪く、次の出航の時間まで2時間近 く待たないといけなかった。
「焦ってもしゃあないやんけ。海の上走るわけにもいかへんし。」
岡田先輩は言った。自転車を停めて、みんなは思い思いの行動を取った。
西尾は味村さんや上原さんたち祇園の一回生女子と話していた。栗田さんは並んでる自動販売機に取り忘れの釣り銭がないか一台 ずつ探っていた。ぼくは藤江や五味と一緒にいた。五味はさすがに集合場所まで走ってきただけあって、汚れてしわくちゃになていたが 地図を持っていた。その地図を見ながら五味が言った。
「別にフェリーの時間を待たなくても、遠回りだけど走っていけばいいんじゃないですか。」
五味の持ってる地図をぼくはのぞき込んだ。確かに遠回りだが、走っていけないこともない。早瀬の瀬戸というところに橋が架かってい て、倉橋島と東能美島がつながっている。そして倉橋島は音戸大橋で呉と結ばれている。呉までの距離は約三十キロというところだっ た。呉から宮島までは五十キロくらいはあるから、走行距離は一気に八十キロになってしまう。個人ツアーなら走れないこともないが、これだけの集団ならどうだろうか。体力を温存するためにやっぱりフェリーを待った方がいいのではないだろうか。ぼくは岡田先輩を目で探した。先輩はベンチに横になってゴロ寝していた。
「先輩、ちょっとすみません。起きてください。」
うたた寝していた先輩はすぐに目を覚ました。
「先輩、今五味くんの持ってる地図を見ていたのですが、フェリーに乗らずに呉まで走って行ったらどうなりますか。」
「それはオレも計算したよ。八十キロなんか走られへんやんけ。」
「でも、ここで二時間もつぶすんやったら、走った方がいいです。」
「オレが女子のことを考えて無理やと判断したんや。もしも女子がバテて倒れたらどうすんねん。自分の体力を基準にしたらあかんねん ぞ。」
「わたし、八十キロくらい走れます。」
ぼくの後ろに立っていた竹本さんが突然言った。ぼくは予期せぬその発言にびっくりした。
「先輩、先輩が女子の体力を気遣ってくれるのはわかります。それはとってもうれしいです。でも、いつまでもわたしたちは甘えていたく ないです。一日八十キロという距離は決して走れない距離じゃありません。」
竹本さんは先輩の目を見てきっぱりと答えた。
「わたしもがんばります。」
昨日、ハンガーノックで倒れた味村さんも言った。先輩は腕組みして少し考え込んだ。それからみんなを諭すように言った。
「ええんか。日帰りツアーと違ってみんな荷物積んでるんやで。あんたらもサイドバッグ積んでシュラフも積んでフル装備なんや。一回生は10㎏以上の装備があるんや。そのこと忘れたらあかんで。」
そう言ってから先輩は井藤さんを探した。井藤さんはぼくらのやりとりに気づいてこちらに歩いてきた。
「井藤さん、フェリーに乗るのをやめて走るという話が出てるんやけど。」
「どれくらいの距離になるんですか。」
「宮島まで八十キロくらいかな。」
「時間はかかるけど、行けると思います。」
「おまえとこの味村は大丈夫か。」
「先輩に注意されてからはしっかり食べています。それくらいの試練は与えてあげてください。」
「井藤さんがそう言うんやったら、がんばって走ろか。」
先輩はあっさりとさっきの主張を翻した。昨日のフリーランの時にバテた味村さんのことがやっぱり一番気に掛かっていたのだろう。
「山本、おまえはここから呉までのコースは実走経験あるんか。」
「ラリーの下見の時に走っています。」
「途中に危険な場所はないんか。」
「危険なのは呉から広島までの国道です。音戸大橋までは交通量も少なくて大丈夫です。でもアップダウンは激しいです。」
「よっしゃ。そしたら走ることにしよ。みんなそれでええなぁ。」
みんな先輩の言葉に頷いた。先輩は念を押すように味村さんの方を見た。味村さんは少し恥ずかしそうにうつむいたけど、でも顔をあげ て先輩に眼で応えた。
「走行順は今朝の発表の通りです。少し速い目のペースで走ることになりますが、苦しかったら遠慮せずに言ってください。」
「先輩、わたしたちが前を走るわけにはいきませんか?」
突然味村さんが言った。
「なんでや、先頭は主管校やんけ。」
「自分のペースで走りたいんです。男子がわたしたちを気遣ってゆっくり走ってくれるのは嬉しいです。でもわたしたちもちゃんとサイクリ ング部の部員なんです。不十分ながら今までトレーニングもちゃんとしてきました。いつまでもラリーのお荷物じゃないです。自分のペースでどれだけ速く走れるか試してみたいんです。」
「味村、おまえ一日でどえらい成長したな。」
「ありがとうございます。」
「おまえの言うのももっともや。確かに先頭を走れば自分のペースで走れるやろ。特にアップダウンのある場所やったらなおさらや。」
「じゃあ走らせてください。」
「アホ。おまえは肝心のことがわかっとらん。」
「肝心のことってなんですか。」
「おまえらクラブランの時、車間距離どれくらい取ってる?」
「ぶつかったら危ないからけっこう離れてますけど。」
「そやろ。それやったら集団で走ってる値打ちがないんや。」
「じゃあ前とくっついて走るんですか。」
「そや。集団で速く走ろうと思えばそれしかないんや。」
「それじゃあ危ないじゃないですか。」
「そのために走行中のサインがあるんやんけ。ええか、走ってるときには空気抵抗が発生する。ところが前を走ってる自転車にピッタリくっつけば、その空気抵抗を少なくできるんや。これをスリップストリームと言うんや。楽に走るためにはこれを上手に利用せんとあかん。 先頭を走るということは、自分のすぐ後ろの人間がちゃんとついてこれるかを常に判断せんとあかんのや。」
「先輩、わかりました。予定通りぼくが先頭行きます。」
山本さんがそういった。でも、先輩はじっと味村さんを見ている。
「味村、希望通り先頭走らしたるよ。でもその前はオレが走るよ。おまえのペースを前から調節したるよ。」
「先輩、ありがとうございます。」
「宮田、班編制の変更や。ちょっと今日の一覧表貸せ。」
岡田先輩は宮田さんが持っていた今日の走行班の一覧表の上から自分のペンでメンバーを書き換えた。一班に岡田先輩と味村さん が入り、三班の最後尾に宮田さんが入った。先輩は山本さんから受け取った地図を自分のフロントバッグの地図入れに入れた。ぼくは 竹本さんと一緒に一班になっていた。
走り出す前に先輩はもう一度味村さんに言った。
「味村、無理するなよ。」
「先輩、大丈夫です。がんばります。」
「宮田、ケツ締めは任したぞ。」
「はい、承知しました。」
先輩を先頭にして一班からスタートした。ぼくは前から四番目だった。先輩、味村さん、竹本さん、そしてぼくだった。山本さんはこの班 の最後尾にいる。岡田先輩だったら地図を読み間違うことも絶対にないと安心して先頭を譲ったのだろう。そしてペースは不思議なほど 速かった。
そう、速かったのだ。ぼくの予想をはるかに超えていたのだ。
ぼくはけっこう真剣にペダルを踏んだ。海岸沿いの道はアップダウンがある。上りになればペースは落ちて当然だ。でもあまり速度を落 とさずにぐいぐい進んで行くので驚いた。味村さんはそのペースにけっこう調子よく合わせている。そして後ろから見てると、岡田先輩は 走りながらしょっちゅう後ろに気を配っていた。先輩のマシンのハンドルバーの先に何か光るものがある。後ろから見ていてぼくはそれが 気になった。よく見るとそれは小さな丸いバックミラーだった。京都駅で分解したときにあんなのはつけていなかったはずだ。すると先輩 はわざわざ今のために取り付けたということになる。なんという気配りだろうか。
三十分ほど走ると目の前に大きな橋が見えてきた。早瀬大橋だった。休憩を取らずに一気に渡りきった。休憩してじっくり景色を眺めた かったけど、先輩は止まらなかった。それで仕方なく走りながらぼくはボトルの水を飲んだ。後ろから見ていると先輩の足はシャカシャカ とよく回っている。軽い目のギヤで回転数をかせぐという理論を忠実に実行していた。そしてすぐ後ろを走る味村さんもそれに影響された のかシャカシャカと回している。竹本さんも同じだ。ぼくがいちばん重いギヤを踏んでいるということがわかったので、ぼくも一段軽いギヤ に落とした。
早瀬大橋を渡ってしばらく走った時だった。後ろからファファーンとクラクションを鳴らす音がする。その音はたぶんグループ最後尾を走る人への軽い警告だったのだろう。きっと最後尾の宮田さんは確実に前に「後ろクルマ」という合図を送ったはずだ。
クラクションの音はそのままいつまでも鳴りやまず、結局一番前のぼくたちの班を追い越すまで鳴り続けた。耳がおかしくなるほどの不 愉快な騒音だった。そのクルマが先頭を走る先輩を追い抜いた時、先輩は一瞬後ろを振り向き、手で味村さんを制してから道路の中央 に出て一気にダッシュした。道路には黒々と先輩のタイヤの溶けた跡がつき、焦げた匂いがたちこめた。十分にエンジンの回転数をあげ たクルマが一気にクラッチをつないで急発進するような、そんな弾丸のような加速だった。すぐに追い抜いていったクルマに追いつき、そ のまま右側から並びかけ、手で運転席側のウィンドウを叩いた。クルマは音をたてて少しスピンして急停止した。先輩はクルマが動かせ ないように前に停まった。ほどなくぼくたちもその場所に追いついた。
ドライバーが窓を開けて迷惑そうに言った。
「きみ、危ないじゃないか。」
「どこが危ないねん、オレらちゃんとルール守って走っとるわい。」
「そんな大勢でかたまって走っていれば危ないじゃないか。」
「そやからちゃんと一列になって、道路の端に寄って、クルマのじゃまにならんように走ってるやないか。なんで鳴らすんじゃ。」
「警笛を鳴らされたくらいでどうして怒るんだ。」
「アホか。ものには程度ちゅうもんがあるんじゃ。おまえの鳴らし方はなんやねん。クルマが来たことくらい音ですぐわかるわい。警笛鳴 らすにしても一回で十分やろ。いったいどんだけ鳴らしたら気ぃすむんじゃ。でっかい音をあんだけ耳元でずっと鳴らされ続けたらたまらんやろ。この無礼者め。」
「それで君は追いついてきたのか。」
「そうじゃ。おまえのようなボケには言い聞かしたらんとわからんのや。おまえみたいなクソがクルマ運転しよるから自転車乗ってるモンが迷惑するんじゃ。舐めとんかコラ。ええかげんにせえよあほんだら。」
先輩はクルマに近寄った。あわてて山本さんが先輩の後ろから抱きついて止めた。
「山本、止めんでええぞ。こんなボケは二、三発どついたらんとわからんのや。」
「先輩、気持ちはわかります。でも暴力はやめてください。こんなとこで事件起こしたらラリーが中止にされるかも知れません。やめてく ださい。お願いです。」
「オレはこいつに詫び入れさすまで気ぃ済めへんのや。クルマから出てきさらせボケ。」
クルマを発進させて逃げるにも、クルマの前後左右はみんなのマシンで取り囲まれていて、身動きならなくなっていた。
「謝るか謝れへんのか、どっちやねん。」
先輩はドライバーをにらみつけて怒鳴った。今にも山本さんをふりほどいて殴りかかりそうだった。
「悪かった。君たちに不愉快な思いをさせたことは謝る。」
「そんなこと当たり前や。オレの言いたいことはそれだけちゃうんや。」
「じゃあどうすればいいんだ。」
「直さんとあかんのはおまえのその運転の態度と性格じゃボケ。クルマに乗ってるだけで自分がエライと思うなよアホ。おまえのその傲慢さがその運転に表れてるんじゃ。そやから警笛鳴らして蹴散らしたろという行動に出たんやろ。おまえみたいなアホが横断歩道は歩行者優先ちゅうことも忘れてひき逃げとかするようになるんじゃ。」
先輩の剣幕に押されてそのドライバーの表情はしだいに蒼ざめていった。しかも大勢の自転車に取り囲まれて身動きならない状態である。
「ええか。これから警笛鳴らすときはもっと気ぃつけろよ。迷惑にならんようにせえよ。わかったか。」
「すみません、気をつけます。」
さっきまでの横柄な口調とはうってかわって、急に先生に叱られた生徒のようになった。先輩はクルマの周囲を取り囲んでいるみんな に道を開けるように指示した。
ぼくたちはさっきまでの一列縦隊の集団走行に戻った。
ケンカになりかけた時は一瞬ひやりとしたけど、けっこうぼくはこの一部始終を楽しんでいたのかも知れない。もちろん先輩の一人のファンとしてだが。それにしてもあのダッシュしたときの先輩の速度は超人的だった。瞬間的に時速八十キロくらいは出ていたのではない だろうか。クルマに自転車で追いつくことなどやはり想像もつかない。出発の日に京都駅まで爆走した時の先輩は、どう考えたってぼくがついてこれるように力をセーブして走ってくれていたに決まってる。本気を出して走る先輩のスピードに自分が追いつけるはずがないではないか。あのときはぼくがついてこれる程度にしか先輩は力を出していなかったんだ。
結局、ぼくたちはノンストップで一時間以上走って、音戸大橋を渡ったところで最初の休憩になった。快調に二十キロ以上の距離をか せいだことになる。
「味村、大丈夫か。」
「先輩、速く走るって気持ちいいですね。」
「わたしも気持ちよかったです。」
竹本さんも先輩にそう応えていた。ぼくも気持ちよかった。余裕のあるペースでちんたら走るのは楽だが、少し速いペースでリズミカル に足を回転させて走るのも気分がいい。疲れているはずなのに却って気分がいい。これがもしかしたら「ランナーズハイ」と呼ばれる精神 状態じゃないだろうか。脳内にドーパミンが放出されて、疲れそのものも一種の快感となって、酔ったように気持ちよく走れる状態とはこ のことなんだろうか。
音戸大橋から呉までは昨日走って覚えている景色だった。そして呉から広島までは、先輩が心配していたように交通量の多い国道三十一号線を走るしかないのだった。
昨日買い出しをしたスーパーの駐車場で二度目の休憩を取った。岡田先輩は昨日同様にまたまた全員分のアイスクリームを買ってく れた。走りづめで身体が熱くなっていたので、歯にしみる冷たさが快かった。エンジンに水冷式や空冷式があるとすれば、さしずめ自分 は口冷式とでも言おうか。ときどき冷たいモノを口にすると調子よく走れるということがわかった。
みんながアイスクリームを食べ終わって発進するとき、先輩はマスクをした。ただのマスクではない。水で濡らして湿らせてあった。そし て頭をバンダナで包み、サングラスを掛けた。そのものものしいいでたちにみんなが思わず笑った。
「おまえらなにを笑っとるんじゃ。排気ガスを吸うたら身体に悪いやんけ。そやからこうしてマスクしてるんや。サイクリングが健康的やと いうのはウソや。交通量の多いところで排気ガスをいっぱい吸い込んで走ったらてきめんに寿命が縮むんや。そやからオレはカッコ悪い けどこうさせてもらうで。」
肌の露出面積を減らした先輩のいでたちにはちゃんと意味があったのだ。
マスクをしたのは先輩だけで、みんなはそのままで走り出した。国道三十一号線は確かに交通量が多かったが、大阪や京都の幹線 道路ほどではないとぼくはそれほど気にもとめなかった。
しかし暑い。黒い色は光を吸収すると習ったとおり道路の真っ黒なアスファルトは太陽熱をしっかりと捕らえて蓄え、それをこちらに向けて放射する。そして上からはもちろん真夏の太陽が照りつける。走ってるみんなはいちおう帽子はかぶってるが、サイクルキャップと呼ば れる前にだけ小さなつばのある帽子だ。そんなもので完全に熱をさえぎって日射病が防げるような気はしなかった。宮田さんだけはキャ ップじゃなくて開会式の時からずっと黄色いヘルメットをかぶっていたけれど。
ぼくは走りながらボトルの中の水を少し頭にブッ掛けた。そのまま走るとそれが蒸発してほんの少し涼しくなった。腕にも掛けた。日焼 けした肌がジュッと音をたててその水を跳ね返しそうな気がした。
汗がTシャツを濡らし、その汗のせいでべったりと腹にTシャツが密着して気持ちが悪い。そしてもうひとつ不幸だったことは海岸沿いの 道には日陰というものが全く存在しない。どこにも逃げ場のないままじりじりとただ灼かれるままなのだ。ぼくは太陽を激しく呪った。
暑い。とにかく暑い。
ラリー一日目のあの雨の中の走行も、考えれば今の灼熱地獄よりもはるかにマシだったかも知れない。蒸し暑かったが少なくとも、こ の照りつける太陽だけはなかった。
真上からの熱線と、アスファルトからの照り返しを受け、サンドイッチ状態でぼくは灼かれた。上下同時に焼けるグリルの中に入れられ たサンマ状態に近かった。しかしぼくはそこでまた別の楽しみを発見してしまったのだ。それは流れる汗だ。あの雨の中で松阪さんの水 玉パンツを見てしまったように、今は前を走る竹本さんのTシャツが汗でべったりと背中にくっついて、ブラジャーの線がくっきりと写ってい た。白いTシャツのおかげで透けて見えているのだった。
灼熱地獄の中に、ささやかな楽しみを見いだしたぼくは、暑さがさらに増すことで竹本さんのTシャツが汗でびしょびしょになり透明度が 高まることをひそかに願った。短パンは松阪さんと違って白ではなかったけれど。
交通量の少ない道路では後方からの車両に対しては必ず合図があったが、ひっきりなしにクルマが走る時はいちいち「後ろクルマ」の サインは聞こえてこない。そのかわりにバスや大型トレーラーなど道幅いっぱいに走る可能性のある大型車の通過の時だけは後ろから 声が掛かった。
「後ろ大型」
そのフレーズを自分も前走者のために叫びながら、慎重にマシンを道路の左端に寄せた。
前方に「広島大橋」という表示があった。先輩が右手をお尻のところに当ててストップのサインを出して、班の全員が停止した。
「山本、この橋渡ったら近道ちゃうんか。」
「この橋は自動車専用です。」
「なんや、あかんのか。ケチやのう、あったら渡らせてくれてもええやんけ。ここ渡れたら近道やぞ。」
確かに、その橋を渡れたら距離にして5キロ以上短縮できる。三角形の二辺の和は必ず他の一辺よりも長いのだ。広島大橋を渡ると いうコースはまさにその三角形の一辺のショートカットコースであり、渡らなければ必然的に二辺を走ることになるのである。でも、自動車専用道なら致し方ない。
料金所を強行突破するわけにもいかず、先輩があっさり近道をあきらめたのでぼくたちはそのまま国道三十一号線を走ることになっ た。ただ、近道を通るクルマが多かったおかげで、交通量はほんの少し減ったような気がした。
そのうち、ぼくは空腹を感じだした。それも当然だ。今日は距離をかせぐために朝からずっと走り詰めなのだ。けっこう燃費には自信の あったぼくでさえ空腹に苦しんでいるのだから、ぼくよりもはるかに燃費の悪い藤江などは今頃走りながら気を失ってるのじゃないかと想 像するとおかしかった。
信号で停止したときに、ぼくは前にいる竹本さんに話しかけた。
「竹本さん、お腹すいてない。」
「奥山くんは。」
「むちゃくちゃすいてる。」
「わたしも少しすいてきちゃった。でも速く走るって気持ちいい。昨日までの余裕のコースはなんだか物足りなかったから。今日みたい に真剣に走ると、これがラリーなんだって思えるから満足感があるし。でもお腹はすいちゃったぁ。早くごはん食べたい。」
信号というのは、そんな時に限ってすぐに青になる。いつまでも赤のままだったらもっと竹本さんと話ができるのにと、ぼくは思い通りに ならない信号に舌打ちした。
そのとき、後ろから猛スピードで仲田さんが追いついてきた。
「先輩、パンクです」
「誰や」
「江村さんです。」
「それやったら、仲田。おまえが直したれよ。そこのコンビニの駐車場にでも駐めようや。」
「わかりました。とりあえずそこまで持ってきます。」
ぼくたちはみんなが到着するまで、クルマが数台置けるほどの広さのコンビニの駐車場で待機した。パンクしたマシンには乗れないの で、江村さんはマシンを押しながらやってきた。
「先輩、わたし自分で直せます。」
「ええから、ええから。仲田が直す方が早いんや。」
パンクしてるのは前輪だった。仲田さんはハブのクイックレリーズを解除してすぐに前輪だけをはずしてしまった。不安定になったマシン は泥除けが地面につかないように歩道と車道の境の縁石のところに固定された。
タイヤレバーを一本リムとタイヤの間に差し込んでスポークに引っかけて固定し、もう一本のタイヤレバーで少し離れたところをこじると すぐにタイヤがリムから離れた。レバーを入れたまま一回転させて一周回すと、今度はその隙間からチューブを引き出した。そして空気 バルブのところのネジをゆるめて、チューブだけを完全に取り外した。
仲田さんは自分のマシンからポンプをはずして持ってきた。
「仲田くん、これ使って。」
江村さんは自分のマシンのポンプを持ってきた。
「江村さん、ぼくのポンプの方がよく入るんです。」
「どうしてですか。」
「フレームサイズの大きいぼくのマシンの方が、ポンプの全長が長いでしょ。ポンプは長い方がよく圧縮できるから空気がよく入るんで す。逆に言えば、短いポンプでは満足な圧力をかけられないので、タイヤの空気圧を上げるためにはよっぽど力を入れて入れてやらないと困難なことになります。江村さんのマシンは、後で後輪の空気圧も確かめますけど、その付属のポンプで入れたのなら、そのせいでパ ンクしたということも考えられますよ。タイヤの空気圧不足で乗ってると、段差を乗り越えた衝撃でチューブがリムと道路に挟まれてパンクすることもありますから。」
仲田さんはチューブに少し空気を入れて、そして耳を近づけた。そのまま一周させて、それから少しチューブを戻して言った。
「ありました。ここに穴が開いています。」
そこには長さ2ミリほどの小さなキズがついていた。仲田さんは慎重に耳を近づけていたが、指に少しつばをつけてチューブの二カ所に なすりつけた。その二カ所に小さな泡ができた。
「穴は二つ開いています。リムと接触する部分です。さっき言ったように、このパンクは空気圧不足で起きたものです。」
仲田さんは少し油汚れしたウエスでチューブを拭き、それからサンドペーパーを取りだして穴の周辺をやすり掛けした。そして工具セッ トから小さな丸いシールのようなものを取りだした。それは男性用避妊具の形状によく似ていた。
やすり掛けした部分にゴムのりをやや広い範囲に塗った。それを少し乾かして、端の方が乾いたことを指で触れて確かめてからさっき の避妊具の親類のような丸いシールを張り付けた。張り付けた部分を強くドライバーの柄の丸い部分で押さえつけて圧着した。
完全に穴がふさがれたかどうか、仲田さんはチューブに少し空気を入れて、耳を近づけて確認した。
「仲田、水にくぐらせんでも大丈夫か。」
「大丈夫やと思います。空気の漏れる音はしません。」
「江村、もしも漏れてたらまた仲田に責任持って直してもらえ。」
「仲田さん、ありがとうございました。」
仲田さんはメカに強く、ブスの扱いに強いだけではなくて、修理の手際も見事だった。考えたら町の自転車屋さんでも仲田さんほど鮮やかに素早く修理できないかも知れない。
チューブを外した時とは逆の手順で今度はタイヤの中にチューブを押し込んで、中でチューブがねじれないように少し空気を入れて、最 後はタイヤレバーを使ってリムの中にタイヤを納めた。それから今度は空気をいっぱいに入れた。
修理が完了した前輪をマシンに装着してから、仲田さんは後輪の空気圧もチェックした。
「後ろも減っています。ちゃんと入れときます。」
空気を入れるバルブの部分の形状は、ふつうの自転車に採用されているものと違って、フレンチバルブと呼ばれる空気圧を調節しやす いものになっている。キャップをはずしてからネジを少しゆるめて、そこにポンプの先の部分を押し込んで入れるという作業になる。
仲田さんは力強くシャカシャカシャカと腕を往復させて、たちまち後輪の方の空気圧も上げた。そして入れ終わるとバルブを元通りにし てキャップを閉じた。
江村さんは前輪も後輪もしっかりと空気の入ったマシンを前にして笑顔を見せた。少し持ち上げてから地面に落として言った。
「なんだかタイヤがはずむようです。」
そりゃそうだ。仲田さんがあの太い腕でぐいぐい入れれば相当高い空気圧になるに決まってる。まるで人間コンプレッサーだ。かえって バーストの心配をしないといけないくらいだ。ただ、空気の減ったタイヤで走ってると転がり抵抗が大きいはずである。今日のハイペース にそんなタイヤでついて来れた江村さんの力も侮れないのではないかとぼくは感じた。
パンク修理を待っていた間にもさらに暑さは増した。走ってるときの方がまだ風があるだけマシだった。日陰に立っていても全身が汗が 噴き出す。
「山本、昼食の場所はどこにするねん?」
「比治山公園に寄ろうと思っています。」
「平和公園を見学してる余裕はないなあ。」
「今夜はプレコンパですから、時間の余裕はみておいた方がいいと思います。」
「じゃあ、比治山公園で昼食後、そのまま一気に宮島やな。」
「わかりました。」
国道二号線と合流してからはさらに交通量が増えた。先輩の言うとおり、サイクリングが健康的なんてウソだ。排気ガスをこうして大量 に吸入すれば確実に寿命を縮めてしまう。喫煙の害よりももっと深刻だ。ぼくは排気ガスに咳き込みながら濡らしたマスクの有用性をや っと理解した。交通量が増えてからは先輩は走行ペースをぐんと落とした。安全運転を心がけてではなく、朝からずっと走ってきたので 女子が疲れてきたことを察知したからかも知れない。ぼくはずっと竹本さんのお尻を見ながら走ってきたけど、やっぱり朝のような躍動感 は失われていた。疲れというか、けだるさというか、そんな哀愁がお尻の周辺に漂っていた。
比治山公園で木陰を見つけてそこでやっと昼食になった。時計はもう一時を過ぎていたので、ぼくの空腹は極限だった。
公園でみんながまず最初にしたことは水浴びだった。蛇口から水道の水を勢いよく出して、排気ガスに汚れた顔を洗い、ヒートアップし た手足を十分に冷やし、頭からぶっかけ、そして生温くなっていたボトルの水を捨てて入れ替えた。
しっかりと走った分、みんな猛然とメシを喰いまくった。
朝食の残りのタクアンやキュウリのQちゃんも次々と放出され、藤江も持ってるフリカケを繰り出した。
満腹すると眠くなった。ぼくはごちそうさまの挨拶をする前に蛇口の前で豪快に頭から水をかぶった。そうでもしないと寝てしまいそうだ ったからだ。
先輩はここまでのハイペースに耐えた女子に声をかけていた。
「味村、おまえむちゃくちゃ成長したぞ。よくついて来れたな。」
「先輩のおかげです。ありがとうございました。」
「そんなん当たり前やんけ。メシもちゃんと喰うようになったしな。」
「もしもこのまま大喰いだけの女になって肥ってしまったら、先輩が責任とってくれますか。」
「責任? なんで責任とらんとあかんねん。」
「肥ってしもたら嫁のもらい手がなくなってしまうやないですか。その責任とってうちと結婚してくれますか。」
味村さんが冗談にしろ結婚という単語を口にしたのでぼくはびっくりしたが、先輩は軽妙に切り返していた。
「アホなこと言うな。オレなんかと結婚したらロクなことないぞ。浮気はする、金遣いは荒い、暴力は振るう。」
「先輩は暴力ふるうんですか。」
「そうや。オレはサディストなんや。」
「エーッ、先輩はサディストだったんですかぁ。」
サディストと言えないこともないなあと、京都駅まで命からがら走った時間を思い出した。今から思えば、はじめから新幹線に乗るつもり ならあそこまで急ぐことはなかった。そして、あの速度はぼくにはとんでもなく速かったけど、クルマにあっという間に追いついた先輩の超 人的なスピードからすればあれは力をセーブして走っていたことは明らかだ。
先輩はぼくの潜在能力を試すために、わざとあの旅立ちを演出したのじゃないだろうか。
赤信号になった交差点に強引に突っ込む時の判断力はどうか。
どれだけ急いで分解したマシンを輪行袋に収納できるのか。
輪行袋を運んでどれだけ速く歩けるのか。
そんな、サイクリストとしての諸能力を測りながら、そしてその能力が限界まで引き出せるようにと。
ぼくはふと高校の時の恩師を思い出した。その教師は英語が苦手だったぼくのことをよく授業中に指名した。ほとんど毎時間のように ぼくは当てられた。どうしてぼくばかり目の敵にしていじめるのか、ぼくは自分がなぜ恨まれるのかわからずに悩んだ。そして、当てられても絶対に完璧な答えが繰り出せるように、意地になって勉強したことを思い出した。
それはもしかしたらやはり「いじめ」の一種だったのかも知れない。ただ、ぼくは自力で英語力を身につけ、百二十パーセントの予習をノルマとして自分に課し、どんなところを当てられても胸を張って答えられる自信をつけた。
真にすぐれた教師とは、生徒に最小限のきっかけだけを与えて、自分で達成したという満足感を勝ち取らせてくれる存在だと聞いたこ とがある。
先輩がラリーの中でぼくに見せたひとつひとつの行動は、もしかしたらすべてそんな示唆を含んでいるのではないのだろうか。
先輩は井藤さんの方に近づいて言った。
「あんた汗っかきやなー 水冷式か。」
「もうぐっしょりです。」
「あんまり汗かくと乳首が透けて見えるでぇ」
「先輩!」
その行動はなんの示唆も含んでいるとは思えなかった。ただのスケベオヤジだ。ぼくはさきほど一瞬頭を占めた先輩への好意的な見 解をすぐに撤回することにした。
食器を公園の水道で簡単に洗い、みんなは分担している装備を積んだ。ぼくは走り出す前にもう一度水でTシャツを濡らした。これで走 ってる間は少しでも涼しくなるだろう。そして目の前で暑そうにしている竹本さんのTシャツに水をぶっかけることはいやがらせでもなんで もなく親切のような気がした。特に先輩の「乳首が透けて」発言は激しくぼくの理性を揺さぶった。
「奥山くん、Tシャツを濡らすのって気持ちよさそうね。」
「走り出したらもっと気持ちいいですよ。」
「そのボトルの水、掛けてくれる?」
ぼくはその唐突な申し出にびっくりした。
みんながフレームに取り付けているポリボトルは、強く中央部を押せば変形して水が勢いよく飛び出す。水鉄砲のように使うこともできる。
「本当にかけてもいいんですか。」
どこに命中させればいいんだ。うっかり乳房を狙ったことがバレたらどうするんだ。
「背中に掛けて」
竹本さんはこちらに背を向けた。ぼくはその背中に勢いよくボトルの水を噴射した。竹本さんが軽い悲鳴をあげた。
その瞬間、ぼくは顔面に強烈な水圧を感じてのけぞった。
西尾が至近距離からボトルの水をぼくの顔面に浴びせてきたのだ。
「何すんねん、西尾」
「奥山こそ何してんねん。いたずらにもやってええことと悪いことがあるんや。今おまえ竹本さんに水掛けたやろ。」
「頼まれたから掛けたんや。」
「そんな変なこと頼むわけないやろ。」
「奥山のカタキや」
藤江がピストル型の水鉄砲から勢いよく水を飛ばして西尾の首筋に浴びせた。どうして藤江はそんな子供のオモチャを持ってるんだ。
「飛び道具なんか卑怯や」
「アホか。こんなんに卑怯もクソもあるか。」
ぼくはボトルを満タンにするために蛇口の所に走った。水鉄砲遊びは一気にエスカレートして、女子もお互いに掛け合ってじゃれあって いた。もしかしたらぼくのよこしまな願いは叶うかも知れない。ボトルに水を満たして戻ってきたぼくは、栗田さんが後ろから岡田先輩の 頭を狙ってるところに出くわした。
「先輩、あぶない!」
その声で一瞬早く身を沈め、水柱の直撃を飛び跳ねてかわした先輩は、振り向きざまにボトルのフタをはずして、中味の五百CCの水 のかたまりを栗田さんの顔面にぶち込んだ。無重力状態の人工衛星の中では水が意志を持った生き物のように浮遊するという。邪悪な 意志に彩られた水のかたまりが栗田さんにヒットする瞬間、ぼくはそういう光景を思い浮かべた。
「先輩、お見事。」
栗田さんは先輩の前からコソコソと逃げ出して、今度は自分よりも弱そうな松阪さんや上原さんに水を浴びせようとした。女子は派手に 悲鳴をあげて逃げる。それが面白いのか、栗田さんはなかなか追い回すのをやめようとしなかった。
先輩は宮田さんに目で合図した。そして仲田さんにも同様のサインを送った。ぼくには先輩の意図がわかった。もちろんぼくにも異存は なかった。
松阪さんと上原さんを追い回してる栗田さんの周りで、手に手にボトルや水鉄砲を持ったメンバーがじわじわと包囲網を狭めていること に、栗田さんはなかなか気づかなかった。ぼくもその包囲網の中に加わっていた。
「やれ!」
先輩の合図でみんな一気に栗田さんめがけて殺到した。次々とありったけの水を浴びせては一撃離脱する。十人近い連続攻撃に栗 田さんは逃げ出した。
「松阪、大丈夫か。」
「先輩、ありがとうございます。」
松阪さんは栗田さんの攻撃で胸元をびしょびしょにされていた。でもブラジャーが透けて乳首が浮き上がるというところまでは濡れてい なかった。ぼくは先輩が出した一斉攻撃の合図は、少し早かったのではないかと思った。
その一斉攻撃で、水遊びもお開きとなった。
「なんや、松阪はバストとお尻ばっかり掛けられたんか。やっぱりデカいと的にしやすいんやな。」
「もぉーっ、みんなの前で変なこと言わんといてください。」
「デカいからデカいって言うたんやけど、迷惑やったかな。」
「恥ずかしいから言わんといてください。」
ぼくは先輩のことを思いやりにあふれる優しい人だと思っていた。しかしその先入観はやっぱり間違っている。先輩はデリカシーのないただのエロ人間だ。やっぱりただのスケベオヤジだ。ぼくはほんの一瞬頭を占めた先輩への好意的な見方をまたしても撤回した。
水遊びのおかげでみんなずぶぬれになり、結果的に走り出してから涼しさをたっぷりと味わうことができた。
ぼくはしっかりと前方を注視して、竹本さんのマシンのサドルの上にのっかった柔らかい桃のような物体のあたりに視線を集中して慎重に走った。たとえ同じ光景であっても、美しいモノはいくら見ていてもちっとも見飽きない。
昼食後しばらくは岡田先輩と山本さんがポジションを交代した。地元の道に詳しい山本さんが広島市内の交通量の少ない裏道を選ん で走ってくれた。主管校の黄色いTシャツは宮田さんの黄色いヘルメット同様よく目立つ。先頭を走ってるといやでもドライバーの目に入るだろう。ぼくは先輩から「サイクリストはとことん派手になれ。」と練習後のビールの時に言われたことを思い出した。目立たないと弱者は不利だからということだった。クルマから見れば確かに自転車は圧倒的弱者だ。クルマのように速く走れる先輩ただ一人を除いて。
その弱者にとって、派手な色で自己をアピールするのは必要だ。自然界の獣や鳥や蝶が、目立つことによって外的に狙われる可能性 も増すのにその外観に固執するのはなぜか。危険以上のメリットを手に入れるからに他ならない。
カッコいいとかいう二次的な理由じゃなくて、サイクリストは自らの生命を守るために派手なスタイルを選ぶのだ。
抜け道から出て、国道二号線に合流してからはまた交通量が増えた。排気ガス除けの岡田先輩のマスクも復活した。
宮島に渡る前に、道路沿いの大きなスーパーで買い出しのために止まった。
先輩が山本さんと何か小声で打ち合わせたあと、みんなを呼び集めた。
「ここで夕食と明日の朝食の買い出しや。これから分担を発表する。買い出し部隊は三つに分ける。仲田、おまえは残った燃料を確認して、明日の朝食の時までブスが使えるようにしろ。江村さんは井藤さんと一緒に明日の学大サンドに必要な材料を頼むで。パンがかさばるから竹本と西尾、藤江も手伝え。松阪さんはオレと一緒に夕食の方を分担する。味村と上原、奥山もついて来い。あとのモンは外で 自転車の番をしといてくれ。」
「岡田、酒の買い出しはどうする?」
物静かだった瀬川先輩が口を開いた。
「山本の話では、宮島に渡ってからも酒屋はあるらしい。そっちで買えるから大丈夫や。」
「だったらええけど、今夜はプレコンパやろ。」
「じゃあ酒の買い出しの時は瀬川が指示してくれるか。」
「ええよ。酒の種類に希望があったら言うといてな。」
藤江がぼくに耳打ちした。
「コンパの酒は全部先輩のおごりやねんで。ラリーの費用に食費は入ってるけど、酒代は含まれてへんから、全部上回生の持ち出し やねん。四回生は二人だけやから、二人でプレコンパの酒は全部買うとしたら一人一万円はかかるやろなあ。三回生もちょっと出すかも 知れへんけど。」
それで瀬川さんが気に掛けた理由がわかった。
それぞれのグループが店内に突入した。ぼくは松阪さんの後にくっついて行った。松阪さんが先輩に質問している。
「先輩、今夜はなんですか?」
「そうめんや」
「ええっ? そうめんですか。」
「そうや。どうせ食べたモンは半分はゲロになるんや。プレコンパやからって甘く見てたらあかんで。そやからあんまりリッチなもんは食う必要はないんや。それだけと違う。今日は死ぬほど暑かったやろ。こんな暑い時には冷やしそうめんでも食ってみたいとオレは思った んや。」
「だったらそうめんとつゆを買うだけですね。」
「アホか。そんな単純なそうめんだけやったらつまらんやんけ。」
「だったら何を入れるんですか。」
「薬味や。ネギ、ショウガ、大根オロシ、わさび。」
「大根オロシやわさびを使うって、ソバみたいですね。」
「あと、刻んだキュウリ、錦糸タマゴ、ハム、味付け海苔。」
ぼくは後ろでそれを聞いていて、それまでそうめんというものに対して持っていたイメージを大幅に修正しないといけなくなった。先輩は あくまでコンパの前の軽食という意味でそうめんをとらえているのだろう。でも、やっぱり基本はこれまでと同じだ。先輩はこだわりを捨て ていない。
「忘れてた。トマトや。」
ぼくにはそうめんにトマトが載ってる状態は想像できなかった。
買い物カゴを持って移動しながら、店内で何度か「学大サンド買い出し部隊」とすれ違った。彼らのカゴの中味が気になったが、コロッ ケがあったことだけしか確認できなかった。
買い出しした食糧の重みで少しペースダウンしながら宮島口へ。そこからフェリーで宮島に渡った。フェリーからは厳島神社の赤い大鳥居がはっきりと見えた。
上陸するとマシンを駐めてみんなで厳島神社に参拝した。
十七人がひとかたまりとなってぞろぞろ歩く異様な集団は観光客の中でもひときわ目を引いた。ぼくは自分に突き刺さる他のまっとうな観光客の視線が痛かった。しかし、他の観光客に注目されるのも当然だった。
だって藤江は大鳥居にしがみついてセミの鳴き真似をするし、五味は買いもしないのに試食品のもみじまんじゅうを全部喰ってしまった し。井藤さんは誰もが目をとめる美女だったし。
参拝を終えたぼくたちは今夜の宿泊場所であるキャンプ場まで移動した。
キャンプ場の入口には「駐車場」「駐輪場」という表示があったが、ぼくたちはそれを無視して、荷物を満載したマシンを押しながらどん どん奥に入って、指定されたテントのところまでやってきた。
「テント割りは後で決めるから、とりあえずみんな荷物おろしてメシの支度にかかれよ。」
宮田さんが大声で指示した。
ぼくは藤江や五味と一緒に仲田さんのブス点火を手伝った。西尾は女子と一緒に薬味を刻んでいた。いつもながら要領のいいヤツだ。 ただ、これまでも食事の準備の時に西尾がブスをほとんど触らなかったことを思うと、もしかしたら苦手なのかも知れない。ブスも扱えな いでどうするんだと少し気になった。
真っ先に勢いよく炎を吹き出したブスを岡田先輩がキープした。岡田先輩は小さなコッフェルに薄く油を引いて、火加減を調節して、薄 焼きタマゴを作り始めた。先輩は薄く薄く延ばされた黄色い生地を、まな板の上に一枚また一枚と積み重ねていく。キュウリやハムなど も刻まれて、それぞれ大きめの食器の中に入れられた。薄焼きタマゴは松阪さんの手にした包丁できれいに細く刻まれて、錦糸タマゴ となった。
そして他のブスの上では、大鍋もメシを炊くためのコッフェルもすべて動員され、そうめんをゆでる用意が調えられた。
「ゆですぎは禁物や。ゆで時間は2分くらいやぞ。一、二本硬さを確かめて大丈夫と思ったらすぐに流水で冷やせ。」
大鍋はブス二つで、普通のコッフェルはブス一個だったので、沸騰するまでけっこう時間が掛かった。沸騰すればそこにそうめんを入れ る。麺が適度な硬さになればすぐに水道のところに運んで冷やすという繰り返しだった。
瀬川さんがコンビニから戻ってきた。袋入りの氷をいくつも提げている。
「ありがとう。これでほんまの冷やしそうめんになったわ。」
先輩が瀬川さんに買い出しのお礼を言ってから氷の袋の封を切った。そうめんの上に大きなかたまりの氷がいくつも載せられた。
濃縮タイプのそうめんつゆを一つだけ残ったコッフェルの中で水で薄めて、それをお玉ですくってみんなの食器に満たした。つゆの中に も氷が入れられた。
芝生の上にみんなが円になって座り、そして中央に広げたビニールシートの上には大鍋いっぱいのそうめんと、個人用の食器に盛ら れた薬味が並べられた。
「宮田さん、やっぱりこれも普通のいただきますですか?」
「宮田、ごはんとちゃうで、そうめんやで。」
確かにおかしい。いただきますの儀式は、手拍子で「五」を数えた後、「ごはん」である。ごはんではない時はいったいどう言えばいい のか。宮田さんは頭を抱えた。
「そんなん、簡単やんけ」
「どうするんですか?」
「ごーはーん」の掛け声のところで、「ごーはんちゃうでそうめん」とやったらええんや。
「先輩、ありがとうございます。それで行かせてもらいます。」
宮田さんは安心して手拍子を始めた。
「いちとーにーとーさんとーしーとーごーはんちゃうでーそうめん」
「いただきまーす」
しかし、みんなの食器にはまだそうめんつゆしか入ってない。いただきまーすのかけ声と同時にみんな立ち上がって、輪の真ん中のそうめんや薬味に殺到した。
ぼくは先輩の焼いたおいしい錦糸タマゴをつゆにたっぷりと浸し、そうめんと一緒にキュウリやトマトも食べた。どうもこの後にあるコン パのことを考えると、いくらそうめんがおいしいと言っても、本能の赴くままにがむしゃらに食いまくることに対して一抹の不安があった。
「ラリーで冷やしそうめんなんか喰えると思わなかったですよ。」
栗田さんが大きな声で言った。でもぼくは心の中で「そうめんなんか」というその言葉に少しカチンときた。栗田さんはいったいどんな意味で言ったのだろうか。そうめんみたいなチープな内容になってしまったことを揶揄するつもりで言ったのだろうか。栗田さんは「そうめんのようなすばらしいもの」という意味で言ったわけがない。でも先輩はその言葉に気を悪くしたという風でもなく、隣に座る松阪さんとおしゃべりしながら楽しそうに食べていた。ぼくはそこに「言いたいヤツには言わせておけ」という余裕を感じた。
余ったらがんばって喰おうと心の準備をしていたけれど、それほど量も多くなかったのか、一回生がノルマをするまでもなくそうめんは 順調にみんなの胃袋に消えた。
ごちそうさまをする前に、宮田さんの説明があった。
「今夜のプレコンパのことについて説明します。まずお酒の買い出しですが、瀬川さんをリーダーとして、上回生が行きます。お酒の中 味については瀬川さんに一任します。コンパの開始時間は八時です。」
コンパの声にみんなが歓声を上げた。でも、楽しくお酒が飲めるだけがコンパじゃない。お酒を飲むことが「義務」であり「ノルマ」である というサイクリング部のコンパの性格を理解しているとすれば、それは歓声どころではなくてむしろ悲鳴と呼んだ方がいいときもある。
ごちそうさまの手拍子がはじまろうとしたその時、キャンプ場の管理人とおぼしき中年男性がやってきた。岡田先輩が誰よりも先に立 ち上がった。
「この自転車はあなたたちのですか。」
「そうです。何か不都合なことがおありですか。」
「自転車置き場は向こうにあります。自転車はちゃんと自転車置き場に置いてください。」
「そんな遠いところに置くと不便なんです。申し訳有りません。」
「困ります。ちゃんとルールを守って利用していただかないと。」
「それはどういうルールですか。」
「キャンプ場には自転車は乗り入れ禁止という規則です。」
「どうしてそんな規則があるんですか。」
「説明の必要はありません。決められたことですから利用する以上は従ってもらいます。」
「あんた、この自転車ナンボするか知ってんのか。」
先輩の口調が急に乱暴になった。それまで丁寧な物腰だったのが急変した。同時にさっと管理人の顔色が変わった。
「そんなことが何の関係があるんですか。」
「あんな遠いところに置いたらぶっそうやんけ。盗られたらどないするんじゃ。」
「ちゃんとカギを掛ければいいでしょう。」
「アホ抜かせ。そんなもんクルマに積んでそのまま持って行かれたらおしまいやろ。あんたここの管理人か。自転車盗まれたら責任と ってくれるんか。おまえがゼニ出してくれるんか。どないやねん。」
「どうしてそんな言いがかりをつけるんですか。」
「おまえが管理人やから言うてるんや。」
「自転車を自転車置き場に移動するわけにはいきませんか。」
「当たり前や。オレらにとってマシンは命の次に大事なんや。そんな大事なもんを目の届かんところに置けるわけないやろ。」
「それなら、キャンプ場の使用を差し止めることになります。」
山本さんが蒼くなった。キャンプ場から出ていけと言われたら今夜は宿無しだ。主管としてその事態はどうしても避けないといけない。
「おまえ、今言うた言葉、本気やろな。オレらに本気で出て行け言うてるんやろな。」
先輩は一歩近づいて、拳を握りしめて怒りを露わにした表情で言った。
「どういうことですか。」
「本気でそんなこと言うてるんかどうかと聞いてるんじゃ。よけいなことは答えんでエエ。本気でオレらを追い出そうとしてるんかどうか や。」
「規則を守れない方に、キャンプ場を利用してもらうわけにはいきません。」
「そやな、規則は守るべきやな。あんたの言う通りや。」
「わかっていただけましたか。」
「舐めとんか、コラ!」
「えっ?」
「舐めとんかと訊いとるんじゃ。」
「なんですか。」
「おまえはオレらを舐めとんかと聞いとるんじゃ。ええかげんにさらせよ。何が規則やねん。エエか。自転車の乗り入れ禁止やったらク ルマも乗り入れ禁止やろ。そやから入口に駐車場があるんやろ。それがなんやねん。そこにも向こうにもテントのそばにいっぱいクルマ が乗り入れてあるやんけ。これはどないなっとんねん。あれはいったいなんやねん。なんでオレらの自転車だけ言うんじゃ。おまえが規 則をタテにとって出ていけ言うんやったら、クルマ乗り入れてる全員にも同じコト言えよ。ほら、そこのテントのとこで肉焼いてるヤクザみたいなオッサンがおるやんけ。クルマをそばに置いてるやんけ。あのオッサンに言うてこいよ。あれかって規則違反やろ。どないなっとんねん。」
「もちろん、これから言います。」
「言いやすそうな相手にだけ言うて、言いにくい相手には言わへんのか。」
「そんなわけではないです。」
「おまえがクルマを全部キャンプ場から駐車場に移動させられたら、そのときはオレらも聞いたるわい。わかったかボケ。」
「先輩、こらえてください。ぼくらの立場もわかってください。」
思いあまってとうとう山本さんが先輩に言った。
「ぼくら、大学のクラブの行事でこのキャンプ場にはいつもお世話になってるんです。ここでトラブルは起こしたくないんです。どうかここ は引いてください。お願いします先輩。」
先輩は山本さんを見て、それから管理人の方に向き直った。
「今日は言うだけにしといたる。あんたも管理人やし言わんとしゃあないからなあ。自転車はなんとかするわ。」
最後にそう言うと、先輩はもとの場所に座った。山本さんはその管理人の男に何度も頭を下げていた。
管理人が行ってしまってから、先輩は山本さんに言った。
「山本、すまんなあ。ついカッとなって言い過ぎてしもて。」
「先輩が怒るのももっともです。間違ってるのは向こうです。でもぼくら弱い立場なんです。わかってください。」
「しゃあないのう。ここのキャンプ場はおまえらのなわばりやさかいな。」
「先輩、あそこに使ってないテントが張ってあります。自転車はあそこに隠しましょう。」
「それはナイスや。自転車は全部テントの中に隠してしまうのがエエわ。」
「とりあえず先にごちそうさまの挨拶をして片づけましょう。」
「そやなあ。みんなせっかくおいしいそうめん喰ったのに、まずくなるようなこと言うたわ。ほんまにごめんな。」
話が片づいたのを見計らって、宮田さんが手を叩き始めた。みんなも手拍子に加わって全員が揃ったところでごちそうさまの挨拶になっ た。
「いちとーにーとーさんとーしーとーごーとーろくとーしちとーはちとーくったーくったーごちそうさまでした。」
「ごちそうさまー」
一回生は酒の買い出しには関係ないので、ぼくは片付けを手伝った。岡田先輩は結局瀬川さんと一緒に買い出し部隊として出かけて 行った。
食器を洗いながらぼくは竹本さんに話しかけた。
「竹本さんはお酒は好きですか?」
「わたし、お酒はほとんど飲めません。」
「関門大学はコンパとかなかったんですか。」
「新歓コンパのあった日に、わたし風邪をひいて休んだんです。だからほとんど飲んだことないんです。下宿でも飲みません。」
「だったら今日がほとんど飲酒初体験に近いことになるんですね。」
「そうです。今夜のコンパがすごく楽しみなんです。いろんなことに新しくデビューしていくという感覚がとても楽しくて。」
ぼくはコンパの時にどうやって竹本さんの近くの席を確保するかということにとりあえずは全力を尽くすことに決めた。
西尾は上原さんに話しかけているようだった。このラリーが終わればいくつかのカップルが誕生するんだろうか。班長の宮田さんは、ラ リーのマドンナ井藤さんと時々二人で話していた。同じ京都の大学で、同じ三回生ということで共通の話題があるんだろう。栗田さんは 休憩の時に同じ二回生の江村さんに話しかけていたが、ぼくは栗田さんの性格は苦手だ。江村さんはいったいどう思ってるのだろう。そして岡田先輩はどうだろう。
松阪さんはきっと先輩のことが好きだ。
それはほぼ確信に近かった。松阪さんが先輩と話すときの表情は他の時と全然違う。でも、先輩はそれをどう思ってるのだろう。考えればぼくは先輩に彼女がいるのかどうかという基本的なことすら知らなかった。練習後のビールの時もそんな話題はついぞ出たことなか ったし、そもそもぼくはラリーに来るまで、岡田先輩がラリーに欠かせぬ重要なキャラクターであったことなど知らなかったのだ。
ラリーというのが巨大な合コンみたいなものであり、男女の出逢いの場、交流の場であるのなら、打ち上げコンパや閉会式のあたりまでに「告白タイム」が存在するのだろうか。
打ち上げコンパのことを考えたとき、ぼくはイノコのことを思い出した。そうだイノコだ。明日の打ち上げコンパの時にイノコの謎は解ける だろう。でも、ぼくは次第にイノコなんてどうでもよくなっていた。
ラリーの始まった頃は、イノコの謎を解き明かすという目的意識が強かった。でもだんだんぼくはラリーそのものを楽しむようになってき た。ラリーの持つ麻薬のような魅力に溺れて来ていることに気づいたのだ。
酒の買い出し部隊が無事に帰還した。ぼくたちは夕食をとった芝生のところにもう一度集まった。満月の月明かりの下の野外コンパで ある。
紙コップが全員に配られた。味村さんと上原さんがビールを注いで回った。井藤さんもミニ樽を提げている。
「今日はいっぱい飲まされそうやで。飲ませ上手の祇園の女の子が四人もいてるから手強いわ。」
先輩がそう言うとみんながどっと笑った。宮田さんがコンパ開演の挨拶を始めた。
「いよいよみなさんお待ちかねのプレコンパの時間となりました。お酒はたっぷり用意してありますので、思い切り飲んでください。ガンガン行ってください。酔いつぶれた人のためにゲロテンも一つ確保されています。安心して吐くまで飲んでください。それでは乾杯です、 岡田先輩お願いします。」
宮田さんに促されて、先輩は紙コップを高々と空中に差し上げて言った。
「ラリーの成功とこれからのWUCAのますますの発展と、そして六班メンバーすべての交通安全を祈って、乾杯!」
「乾杯!」
「乾杯!」
紙コップを持ってみんなが動き回ってコップを接触させあった。十七人全員とコップを接触させるためにみんなが激しく入り乱れた。
「奥山、コップにビールが残ってるぞ。ちゃんと飲めよ。」
栗田さんがぼくのコップを指さした。
「乾杯というのは杯を乾かす、つまり飲み干すということや。先輩が乾杯と言うてるのに飲めへんのは無礼やで。」
ぼくはあわてて紙コップの中味を一気に飲み干した。
見ると、飲酒初体験の竹本さんもコップを空にしていた。そこに栗田は強引にビールを注いでいる。ぼくは竹本さんを栗田から救うため に間に割って入った。
「栗田先輩、ぼくにもお願いします。」
「おう、殊勝な心がけや、入れるで。」
たちまちぼくのコップにはなみなみとビールが注がれ、泡がこぼれそうになったのであわててぼくは口をつけた。
五味は、飲むことよりもせっせとおつまみのカッパえびせんやポテトチップを食べることに専念してるようだった。
岡田先輩は瀬川さんや宮田さんと日本酒を飲んでいた。乾杯の時は全員ビールだったが、後はみんな思い思いの好きな酒を選んで 飲めるみたいだ。
用意されたお酒にメロンフィズがあった。先輩はそれをペットボトルのスプライトで割って、上原さんに出した。
「先輩、これってジュースみたいにおいしいですね。これやったら何杯でも飲めますよ。」
ちょっと危ない発言のような気がした。ぼくの隣にいた竹本さんが小声でぼくにだけ聞こえるようにささやいた。
「ああいうお酒って、女性を酔わせるためにあるんでしょ。」
「ぼくはまだお酒のことは詳しくないんです。」
「岡田先輩はどう相手するんでしょうね。」
先輩は上原さんを子供のようにあしらっていた。
「ほんまに何杯でも飲めるんか。」
「だって、ジュースみたいに飲みやすいじゃないですか。お酒じゃないみたいですよ。」
「じゃあ連続で五杯飲めるか?」
「五杯くらいだったら大丈夫です。」
「あんたが五杯飲んだら、明日あんたの荷物オレが全部積んだるわ。」
「えーっ、本当ですか。わたし飲みます。」
上原さんは立て続けに三杯飲み、そこで一息ついた。さすがに連続五杯は苦しいだろう。でも休憩をはさんだら飲めるかも知れない。
仲田さんがみんなに大声でアピールした。
「一回生の宮寺が芸を披露しますので、みなさんよろしくお願いします。」
ぼくはどんな芸がはじまるのかと期待した。
地面にコップが八つ並べてあり、そのうち七つは北斗七星の柄杓の形に並んでいた。そして、柄杓の一辺をそのまま五倍したところ、 ちょうど北極星の位置するところに残ったひとつのコップが置かれていた。
「大阪工芸大学一回生宮寺です。これから、部の伝統芸、北斗の拳アタタ飲みをやります。日本酒を入れたコップが七つ、焼酎を入れ たコップが一つ並べてあります。合計八杯です。それではお見せします。あたたたたたたたたたたたぁ!」
奇声を発しながら宮寺はまず一つ目のコップをひっつかんで飲み干して投げ捨てた。続いて二杯目、三杯目、そこで地面でバック転を 決めてからさらに四杯目、地面を転がった後で五杯目を立て続けに飲んだ。なんて過激な芸だ。
そして息もつかせずに六杯目、七杯目を飲み、そこで宮寺はいったん静止した。残った一つ、北極星の位置にあるコップを指さして苦し そうな表情で言った。
「ぐぬぬぬぬ。死兆星!」
その瞬間観客は一斉に拍手を送った。その拍手に後押しされるように宮寺は死兆星のコップをつかむとそれを高々と空中に掲げてか ら一気に飲み干した。再び拍手が彼を包んだ。
「お見事!」
岡田先輩も笑顔で手を叩いていた。
ぼくにはこんな過激な芸はとうてい真似できそうもなかった。
そうして次々といろんな大学の伝統芸が披露されていった。ぼくはふと気になった。というのは自分の母校、鴨川大学はどんな芸を出 せばいいのかということだ。ぼくはまだ先輩から何の芸も教えてもらっていない。ぼくは自分の番が回ってこないことをひたすら祈った。
藤江が指名された。ぼくは藤江が初日に見せたあのスト-ムという、ただがなり立てるだけの自己紹介を思い出した。あれも芸と言え ば芸かも知れない。岡田先輩が藤江に向かって茶目っ気たっぷりに言った。
「桜島大学と言えば、やっぱりボボ節やなぁ。」
いくらぼくが性の知識や経験が不足してると言っても、ボボというのが九州地方で女性器を指す単語であるということくらいは知ってい る。ということは、「ボボ節」というのはなんと恐ろしいネーミングであることか。そんな恥ずかしい芸が存在するのだろうか。
ボボ節と聞いて、藤江は驚愕の表情になった。
「岡田先輩、それだけは勘弁してください。あれをやったら恥ずかしくてぼくはもう二度とラリーには来られなくなります。それ以外のこと やったらなんでもします。ボボ節だけは勘弁してください。」
「しゃあないのう。そしたら一気やな。」
「桜島大学一回生藤江。一気やります!」
藤江は先輩に手渡された紙コップの日本酒を、水を飲むようにたちまち飲み干した。
「奥山、そろそろやな。」
先輩はぼくを呼んで言った。
「オレが手本見せたるから、しっかりと覚えろよ。これからはおまえがこの芸を受け継ぐんやぞ。ええなぁ。」
そう言ってから先輩は立ち上がった。
先輩が立ったのを見て、思い思いに談笑していたみんなが急に静かになった。
「これから、鴨川大学の芸を披露します」
みんなが拍手をした。
ベートーベン作曲、歓喜の歌、アイン・ツバイス・ドライ
ダースーメッチェン フートンシイテン
メークリテン スカートリッヒ
トリテン パンティリッヒ
マイネンポンチタチーネン
ハインリッヒ ハインリッヒ
ダースーメッチエン ナキヨッテン
ヤバーアーイーケン
イッヒ ニゲターケン
その歌詞は、ドイツ語のようで全然ドイツ語ではなかった。先輩はそれを腹の底から大声を出してどなるようにして歌った。みんな聞き ながら笑い転げてのけぞっていた。第二外国語でドイツ語を履修しているぼくには、その歌詞の単語が見事にドイツ語の特徴をとらえて ることがよくわかった。
先輩の替え歌を聞きながら、ぼくは大学のトイレで見た落書きを思い出していた。トイレの扉にはこのように書いてあった。
”Ich hunbatte das unchi”
それは、「イッヒ フンバッテ ダス ウンチ」と読ませたいのだと思うが、ドイツ語の発音のルールに従うならば、最後の単語は「ウンチ」ではなくて「ウンヒ」になってしまうのではないかと思ったものだ。
栗田さんが一升瓶を持って五味や宮寺のコップに注いでいた。
「先輩の酒が飲めんちゅうことはないやろな。一気に行けよ。」
宮寺さんは言われるままに一気に飲んだ。五味は半分だけ飲んでコップを口から離した。
「五味、なんでオレの酒が飲めんのや。」
「一気に飲んでもおいしくないです。つまみも食べてゆっくりと自分のペースでぼくは飲みたいです。」
「おまえは先輩に口応えするんか?」
「栗田さんは渦潮大学じゃないので、ぼくの先輩ではありません。もしも栗田さんが渦潮大学に入り直したら、そのときは逆にぼくの方 が先輩ということになります。そのときはぼくの注いだ酒を一気してくれますか。」
「五味の言うとおりじゃ。栗田、一本取られたな。」
岡田先輩が声を出して笑った。
たまたまラリーで一緒になったからと言って、よけいな先輩風を吹かされて偉そうにされたくないという意味のことを五味はきっぱりと言った。ぼくは心の中で栗田さんに対してそう感じていたけど、でもそれを面と向かっては言えなかった。
他の大学の上回生でも素直に先輩として尊敬したくなる人はいる。リーダーシップを発揮してる宮田さん、頼れる仲田さん、そんな人に はやっぱり敬意を払ってしまう。栗田さんのような先輩が居ても誰も敬意を払わないが。ぼくは栗田さんが自分の大学の先輩でなくてよかったとつくづく思った。
ラリーの中で生まれる上下関係に対して、宮寺みたいに封建色の強い大学の者はけっこう順応してしまうのかも知れない。注がれた 酒を黙って飲み干したのを見てぼくはそう思った。しかし、さっきアタタ飲みをして相当参ってるはずなのに、なんという強さだ。あまり飲 めないぼくは正直言って宮寺のタフさがうらやましかった。
楽しくおしゃべりしながら飲んでいても、気が付いたら自分もたくさん飲んでいた。トイレに行こうとして歩くと少し足元がふらついた。便器に勢いよく放尿している時に少し頭がクラクラした。オシッコを出すと水分が放出された分だけ血中アルコール濃度が増すのだろうか。 ぼくはおぼつかない足取りでコンパの輪の中に戻った。
「上原、もうエエから止めとけ。」
「先輩、約束ですから五杯目飲みます。」
「もうかめへんから、明日はおまえの荷物積んだる。オレの負けや。」
上原さんは五杯目のメロンフィズを勢いよく飲んだ。そして目つきが怪しくなって先輩にもたれかかった。
「ちょっとヤバイわこいつ。寝かせといた方がエエんちゃうか。」
「上原はこっちに寝かせます。」
井藤さんが味村さんと二人で上原さんを抱きかかえて、少し離れた芝生の上に横にならせた。上原はもう完全に酔いつぶれてしまって いるみたいだ。
「先輩がよけいなことを言ってそそのかすからですよ。先輩の責任ですよ。」
井藤さんに言われて、先輩はバツが悪そうにしている。
そのころにはタフな宮寺ももう倒れていた。藤江も苦しそうだ。ぼくもなんだか気分が悪くなってきて、ふらつきながらもう一度トイレに駆 け込んだ。
胃袋の方から何か暴力的な力が押し寄せてきて、酸っぱい感覚と一緒に大量のエネルギーが一気に噴出した。ぼくは思い切り吐い た。便器までたどり着けずにコンクリートの床に大量に吐瀉物をぶちまけた。ふいのことでよけきれずにTシャツや腕にも靴にも吐いたも のがこびりついた。立っていられなくてぼくはそのままそこに座り込んだ。
しばらく気が遠くなっていたが、物音がしたので目をさました。ぼくが気を失っていたのはどれくらいだろうか。
目の前には岡田先輩と井藤さんが上原さんを二人がかりで抱きかかえていた。上原さんのTシャツはゲロまみれで、髪の毛も顔も汚物でぐちゃぐちゃになっている。
「先輩のせいですよ。」
井藤さんが怒っている。怒った顔もやっぱりきれいだ。
「先輩があんなこと約束しなかったら、こんなことにはならなかったんですからね。上原にもしものことがあったらどうするんですか。」
一方的に罵倒される先輩がかわいそうだった。飲むか飲まないかは自己責任じゃないのか。先輩は栗田さんみたいに一気を強要した わけじゃないと、ぼくは弁護したかった。でもぼくも身動きとれる状態じゃなかった。ただかすかに目が見えて、音が聞こえるだけだった。
「まず、汚れをなんとかしようや。いつまでもゲロまみれにしとくわけにもいかんやろ。」
先輩は上原さんを抱きかかえて手洗い用の蛇口のところで水をぶっかけた。それから井藤さんと協力して汚れたTシャツを脱がせた。 Tシャツにひっぱられてブラジャーがずれた。ぼくは朦朧とした意識の中でチラリと見えた上原さんの小ぶりながら形のいい乳房を記憶に 焼き付けた。でも記憶があるのはそこまでだ。ぼくは再び重い眠りに落ちた。
誰かがぼくをテントに運んでくれたようだ。夢うつつの中で「ゲロテン」という単語を何度か聞いたような気がする。プレコンパの終わりを 見届けることができず、ぼくの記憶はそのまま朝までとぎれてしまっていた。
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