第三日 爆走ヒルクライム

 目覚まし時計が鳴ると同時にぼくは飛び起きた。一回生は五時起きだが、ぼくは十五分前に合わせておいたのである。まだ寝ている藤江と五味を起こさないようにしてぼくはシュラフから這い出した。自分なりにひとつの決心をしていた。昨夜栗田さんにバカにされたことは すごく悔しかった。自分だけではなくて、自分の先輩まで侮辱されたようで耐えられなかった。せめて一回生の中でいちばん早起きして、きちっといろんな仕事をしたい。率先して働くということだけでもアピールしたい。自分でも明日からすぐにできることは何か? シュラフの中で昨夜の自分が 考えた結論は早起きすることだった。走りが速くなるとか、メカに強くなるとかという目標を達成しようと思ったら、長い時間の努力と経験 が必要だ。いますぐにやれることからぼくは始めようと思ったのだ。


 歯を磨いてると、仲田さんが起きてきた。


「奥山、早いなあ。一番乗りやんけ。」


 「おはようございます。」


 「一回ではおまえが一番やぞ。みんなまだ寝とるわ。」


 「何から始めたらいいですか。」


「そやなあ。オレがブスつけとくさかい、おまえは米でも研げや。」


ブスの点火術にかけては装備マニアの仲田先輩にかなう者はいない。ここはすべておまかせするのがベストである。ぼくは飯ごうに米を入れて、研ぎはじめた。やがて他の一回生も起きてきた。昨日と同じ量なので、使用可能な飯ごうとコッフェル全部に入る分の米を研げばいい。


 一回生男子が次々と米研ぎ軍団に加わった。西尾、宮寺、藤江が現れたので合計四人になった。ぼくはラリーが始まる前から気になっていることをみんなの前で聞いてみた。


 「みんな、イノコって何のことか聞いたことある?」


 「オレもイノコのこと聞きたかったんや。奥山は知ってるんちゃうんか。」


 「おまえ岡田先輩に聞いたらなんでも教えてもらえるやろ。」


「そんなことないよ。イノコのことに関しては教えてくれへんわ。」


「やっぱりどこも一緒かな。オレとこかってや。」


 「一回生にはイノコのこと教えたらあかんらしいで。」


 「そうや。うちの大学もや。一回生がイノコを知ったらみんな恐怖でやめてしまうからわざと教えへんらしいで。」


 「イノコってそんな怖いもんなのか。」


 「ケガ人とかも出るそうやから。夏合宿が終わる前に新入部員が逃げ出したらあかんから、どの大学も申し合わせで一回生には教え へんらしいで。」


 「それはシゴキの一種かなあ。」


「そうかも知れへんなあ。それやったらやられたらかなわんわ。」


とにかく、この場の四人は全員知らないということがわかった。そして、イノコの秘密を一回生に教えることは禁じられてるということもわ かった。ここで得られたもっとも有益な情報は、それが「シゴキの一種かも知れない」という説だった。


 運動部にはいろんなシゴキがある。サイクリング部の世界にだって存在してもおかしくはないはずだ。


 「イノコ」はもしかしたらそのシゴキに相当するのかも知れない。そうすると開会式の時に実行委員長が語った「イノコによる負傷」という意味もわかる。きっとそれほど危険なものなのだ。


 ぼくはイノコが少し怖くなった。ラリーには参加したものの、ぼくはイノコの恐怖に耐えられるだろうか。負傷ならまだいい。ろくに鍛えてない軟弱なぼくは、もしかしたら命を落とすのではないだろうか。いや、ラリーに死者が出たという話はまだ聞いていない。だったら少し は安心できるだろうか。


 ずいぶん遅れて五味が起きて来た。五味の手はなぜか油で少し汚れていた。その手で米を研ぐのかとぼくは気になった。


 「五味、おまえ米研ぐ前にちゃんと手ぇ洗っとけよ。」


 藤江がぼくの心配したことを先に言ってくれた。五味は食器洗い用の中性洗剤を手のひらにドピュッと出して、しばらく両手でこすり合 わせて、少し離れたトイレの前の水道のところに行った。洗剤がたちまち真っ黒になるのをぼくは横目で見た。あれじゃあ多少洗ってもあ まり意味はなさそうだ。一番いいのは先に全部の米を研いでしまって五味に洗わせないことである。自然とぼくの手の動きが速くなっ た。他の一回生にも伝染したのか、みんなの動きも速くなった。


 急いだ甲斐あって、五味が戻ってきた時には、米研ぎは無事に終了していた。せっかく手を洗ってきたのに、五味は米研ぎができなくて残念そうだった。


 昨日トンカツを作ったベンチでは、松阪さんが一回生の女子を指導してみそ汁の具を切っていた。カボチャとさつまいも、それにワカメが 見えた。今朝のみそ汁の具はこの三種類のようだ。そこに栗田さんがやってきた。


 「松阪さん、おいしい納豆があるんですよ。今朝は納豆汁にしませんか。」


「待ってください。みそ汁の具は岡田先輩の許可を得ないと勝手に変えられません。」


 「松阪さんコック長なんでしょ。自分で決めたらそれで別にええんちゃうの。それとも納豆はキライですか。」


 松阪さんは答えに窮していた。同じ二回生どうしなんだから言い返したらいいのにと思ったが、栗田さんの言い方はとても強引だった。 岡田先輩はまだ寝てるのだろうか。ぼくはそれが気になってテントの方を見た。


 そのとき、轟音をたてて道路からキャンプ場に凄い勢いで突っ込んでくるマシンが一台あった。岡田先輩だった。


 「朝からちょっとトレーニング代わりに走ってきたわ。この近所はなかなか景色がええなあ。後で泳げへんか? 向こうに海水浴場もあ ったで。」


 自分が一番早起きだと思ったが甘かった。岡田先輩はなんと朝一番に起きて走っていたのである。


 「先輩、ちょっと聞いてもらえますか。」


 松阪さんが栗田さんの方を指さした。その指さした方向には、栗田さんの持ってる水戸納豆の包みがあった。


 「栗田、おまえなんで納豆なんか持ってるんや?」


 「先輩、納豆食べませんか。本場の水戸納豆ですよ。」


 「おれはそんなこと聞いてないんや。なんで朝食の準備の場所に持ってきたかということを聞いてるんや。個人装備やったらあとで自分 が喰うときに出したらええんやんけ。」


 「みそ汁に入れたらおいしくなると思ったからです。」


 「おまえいつからコック長になってん?」


 「いや、コック長は松阪さんです。」


 「それやったらなんでおまえが口出しするねん。あのなあ、オレは納豆は大嫌いなんじゃ。納豆なんか喰うヤツは関西人やないんや。 おまえ六甲大学やろ、関西人ちゃうんか。桂三枝は納豆喰えへんやろ、あれが本物の関西人と言うんや。豆はもともとおいしいものなん や。枝豆もゆであずきもみんなおいしいんや。その畑の肉と呼ばれる栄養満点の豆を、なんでわざわざ腐らせるんや。なんでそんなもっ たいないことをするんや。お百姓さんに失礼やとは思わへんのか。誰も腐らせるために豆を作ってるんとちゃうぞ。おいしく食べてもらうた めに作ってるんや。丹精こめて作った豆を腐らされて、糸までひいた状態にされて、どれだけ農家の人が無念に思ってるか、おまえ想像したことあるんか。」


 「その糸を引いてる状態が納豆のおいしさなんですよ。」


 「アホか。それはおまえの勝手な味覚なんじゃ。少なくとも関西では納豆は異端なんや。おいしいみそ汁にそんな腐った豆を入れられ てたまるかアホ。」


 岡田先輩のむちゃくちゃな論理に、みんなクスクス笑っていた。ぼくも笑いをこらえきれなかった。栗田さんは不服そうな顔で黙って水 戸納豆をしまった。ようするに先輩は納豆嫌いなので、みそ汁に入れられたくなかっただけのことである。ただそれを言えばいいのに、壮大な理由を構築して栗田さんをやりこめたのである。ただ納豆嫌いの者は他にもいるかも知れない。そのことを思うと、やはりみんなが食べる朝食のみそ汁に納豆を入れさせないという岡田先輩の決定は正しいのじゃないかと思った。


 そして、昨日からしゃくにさわることばかり言う栗田さんがやりこめられたことはむしょうに嬉しかった。


 松阪さんはブスの炎で沸騰したお湯に、ダシの素を入れてからカボチャやさつまいもを入れた。しばらく煮立ててやらないとやわらかく ならない。


 岡田先輩は班長の宮田さんとなにやら相談していた。


カボチャとジャガイモが柔らかくなったのを確かめてから、松阪さんはワカメを入れ、ミソをすこしずつ溶かしながら入れた。


 その時、ぼくは五味に呼ばれた。五味は飯ごうの番をしていた。


「奥山、このメシが変なのでちょっと見て欲しい。」


五味に言われて、ぼくはすばやくフタをとって中のメシを数粒スプーンですくって口にいれた。米粒の中心にまだごはんになりきってい ない硬い部分が存在した。


 「芯かな」


 「芯?」


 「うん、芯メシみたい。」


「途中で飯ごうを倒してしまったので、水がこぼれたけどそのせいかな。」


 「どうして水を足せへんかったの。」


「ちょっとくらいだったら大丈夫かなと思ってて・・・」


 ぼくはあわてて水を小さな食器に汲んで持ってきて、フタをあけてそこに少しだけ補充した。それから少し火を強くした。しばらくすると 今度は焦げたような香りが漂ってきた。あわてて飯ごうを火から降ろした。そこに岡田先輩が来た。


 「どうしたんや。」


 「五味が飯ごうの水をこぼしたんです。」


 「五味のせいにするなよ。おまえは何をしたんや。」


 「芯メシやったから、水を足して復活させられるかと試したんです。」


 「それでどうなったんや。」


 「わかりません。少し焦げました。」


 「やばいことになったな。」


 ぼくは先輩の言う「やばいこと」の意味がまだ理解できずにいた。 


 「奥山、ちゃんと聞いとけよ。おまえが作ってしまったのは恐怖の三段メシと呼ばれる恐るべきメシなんや。まず最上段にはべちゃべち ゃの水っぽいメシが存在する。これはまずい。」


 あとで追加した水のせいだと思った。


 「中段は芯メシや。これは消化に悪い。」


あのまずい芯のあるメシを食べるのは誰だろうと思った。


 「そして、一番下はこの香りからわかるように焦げメシや。ある学者の説では焦げには発ガン物質が含まれているらしい。」


べちゃべちゃ・芯・焦げ・・・この三つが勢揃いするから恐怖の三段メシということなのか。


 「奥山、おまえが責任喰いや。」


 ぼくは五味の方を見た。五味はうつむいていた。そして小さな声で言った。


 「奥山ごめん、一緒に食べてな。ぼくも一生懸命食べるから。」


 飯ごう一個を二人で食べるのならそんなに苦しくない。ぼくは責任を取ろうと決心した。


 昨日の夕食のように十七組の食器が配置され、メシとみそ汁が入れられた。 最後まで寝ていた人たちも全員起き出して、食器のま わりに座った。宮田さんが手拍子を叩き始めた。岡田先輩がそれを手で制した。


 「いただきますの前にちょっと言うとくぞ。」


 みんな静かに注目した。


 「実は、今朝の飯ごうの中には恐怖の三段メシが存在する。三段メシというのは、べちゃメシ、芯メシ、焦げメシが三位一体となった悲劇の飯ごうである。」


 失笑の声が漏れた。


「罰としてそのメシを炊いた奥山が責任喰いすることになる。」


シーンと静まり返った。


 「鴨川大学の一回生の失敗は先輩のオレの責任でもあるから、オレも一緒に責任喰いにつきあう。」


 盛大な拍手がわき起こった。その拍手はそのままいただきますの手拍子に連続した。「ごーはーん」の声が終わるやいなや、岡田先輩はぼくの前に置かれた飯ごうから大量の芯メシを自分の食器に盛り上げた。隣に座った藤江もその飯ごうを手に取った。


 「オレは焦げメシが好きなんや。下から喰うぞ」


 そう言って藤江は飯ごうをかき回して、下から掘り出した焦げメシを自分の食器についだ。焦げメシにフリカケを食べている藤江は、妙に満足そうに見えた。


 宮田さんが今日の予定について説明をはじめた。


 「みなさん、食べながら聞いてください。今日は午前中にフリーランを行いたいと思います。ただのフリーランでは面白くないので、この フリーランでは各大学の一回生を競馬の馬に見立てて、勝ち馬投票券を作成し、先輩方に馬券を買ってもらおうと思います。もちろん一回生が買ってもかまいません。なお、収益金の二十五パーセントは天引きいたしまして、プレコンパの酒代にあてようと思っています。なお、一回生の中で一番速かった人には岡田先輩から記念品が出ます。」


 一斉に拍手が起きた。


「これから出走各馬の紹介を致します。紹介された人は立ち上がって挨拶をしてください。まず一番は桜島大学の藤江です。あれだけ 大喰いで遅いわけがない。優勝候補ナンバーワンです。」


 思わず笑いが漏れた。確かに彼は大喰いナンバーワンである。


「続いて二番は渦潮大学の五味です。マシンはもっともボロですが、雑草のようなしぶとさを発揮して上位に食い込む可能性がありま す。電車賃がないので集合場所まで走ってきたという実績もあり、ウォーミングアップはばっちりこなしています。」


 五味の場合、走行中にオンボロマシンが分解するという危険がありそうだった。


 「三番は鴨川大学の奥山です。岡田先輩の話では鴨川大学でもっとも軟弱だそうです。まず勝ち目はないでしょう。ただ、誰も投票しないことが予想されるので大穴です。一攫千金を夢見る人は奥山を狙うのもいいかも知れません。」


 一攫千金どころか、カネをドブに捨てるようなものだとぼくは思った。


 「四番は新島大学の西尾です。いかに女子と仲良くなるかだけを考えてるその要領のよさはレース運びのうまさにつながる可能性もあ ります。意外と狙い目かも知れません。穴馬です。」


 女子と仲良くするために率先して食器洗いに加わるという行動が、ちゃんと大学の先輩にバレていたので、西尾は恥ずかしそうにしていた。


 「五番は大阪工芸大学の宮寺です。先輩の言うことには絶対服従の工芸大学。先輩が勝てと命令すれば、どんな困難があっても克服して走りきること間違いなしです。」


 先輩の命令に絶対服従ということは、勝てという命令を達成できなかった場合はどんな罰があるのだろうか。ぼくはその方を心配した。


「六番はただ一人の二回生、六甲大学の栗田です。ベテランの味に期待しましょう。ペース配分はばっちりだと思います。」


 まさか栗田さんが出走してくるとは思わなかった。ぼくは栗田さんには意地でも負けたくなかった。


 「七番は本日の紅一点、竹本さんです。本人の強い希望により出場が決まりました。どこまで一回生男子に食い込めるか。果たして竹本さんに負ける男子は誰かというところに興味が集まります。なお、勝ち馬投票券は一枚が300円で発行されます。みなさん、ふるって 参加しましょう。」


 出場者の紹介が終わり、みんな再び目の前のメシを平らげることに集中した。ぼくの目の前の三段メシもどんどんなくなっていった。岡田先輩が真っ先に食べてくれたおかげで、他の人もわざわざこの飯ごうから先に食べてくれた。



 食事中に、山本さんが今日のコースマップを配った。それによると、タイムトライアルは音戸大橋から休山のてっぺん、瀬戸内海を見お ろす小高い展望台までの標高差約五百メートル、距離にしてわずか7キロほどのコースだった。帰りは登った道路をそのまま折り返すと いうことになる。


みんながほぼ食べ終わって、飯ごうの飯粒掃除が終わったのを見計らってから、宮田さんが手を叩き始め、ごちそうさまの挨拶を終えた。祇園女子大の一回二人と西尾、そしてぼくという四人が食器洗いのメンバーとなった。


 自転車置き場の方を見ると、竹本さんと岡田先輩が何か話をしていた。ぼくはその話の内容が気になったが、西尾から話しかけられた。


 「奥山、今日のフリーラン勝てそうか。」


 「絶対に惨敗だと思います。ぼく、クラブの中でも一番遅いんです。」


 「そうか。それやったらおまえの券買うのはやめとくわ。」


 西尾は純粋に勝ちそうな一回生に投票して儲けようと思ってるのだろうか。要領よく計算高い西尾らしい行動だと思った。


 出発までまだ少し余裕がありそうだったので、祇園女子の二人にイノコのことを聞いてみた。


 「味村さん、イノコって何かご存じですか。」


 「イノコ? その言葉は聞いたことはあるわよ。」


 「どんなものかわかりますか?」


 「どうして奥山くんのところの先輩に聞かないの?」


 「先輩は絶対に教えてくれないんです。それを一回生に教えることは禁止やそうです。」


「松阪先輩も同じこと言うてはったわよ。」


 「だったら一回生は全員知らないということですね。」


 「男子も誰も知らはれへんの。」


 「今朝、一緒にお米研いでる時に聞いたら誰も知らなかったんです。」


「どうして一回生には教えてくれないんでしょうね。」


 「やっぱり、教えると都合が悪いことがあるからじゃないですか。」


 「都合が悪いことって、どんな?」


「危険なこととか、ケガ人が出そうなこととかです。」


 「イノコでケガ人が出るって本当?」


 「開会式の時に実行委員長挨拶の中で、イノコによる負傷というのがあったじゃないですか。ぼくはあれが気になって仕方がないんです。もしかしたら一回生に対する危険なしごきのようなものじゃないですか。それだったら一回生で団結して阻止できないんですか。」


 「それは無理やと思うわ。」


 「どうして無理なんですか。」


 「だって、イノコはラリーの華だと松阪先輩が言ってたもん。もしもイノコを無くしてしまったら、ラリーがラリーでなくなってしまう。そんなことになったら、ラリーを愛してる人がみんな悲しむでしょう。」


 その言い方は妙に説得力があった。「ラリーの華」とまで言われる重要なイノコというものを簡単に失くしてしまえるわけがなかった。


 とりあえず、ぼくはここまででイノコについてわかったことを整理してみた。


 一、イノコのことは絶対に一回生には教えてはならない。

 二、イノコは時には負傷することもある危険なものである。

 三、イノコはしたりされたりするものである。

 四、イノコはラリーに不可欠なほど重要なものである。


 手がかりとしてつかめたのはこの四点だけだ。そしてその四点からイノコの全貌を想像することはきわめて困難なことであった。


 食器洗いも終わり、テントの撤収がはじまった。ぼくは自分が積むことになってる六テンを五味と一緒にたたんだ。宮田さんがみんなを 召集した。


 「今日の走行班を発表します。一班のコースリーダーは主管の広島平和大学の山本くんに担当してもらいます。二班は六甲大学の栗田くん、三班は大阪工芸大の仲田くんにお願いします。それから、フリーランの時は山本くんに計測係として先に登っておいてもらいま す。それではメンバーを発表します。



 一班、山本、宮寺、竹本、五味、上原、瀬川さん


 二班、栗田、井藤さん、西尾、奥山、岡田さん


 三班、仲田、味村、藤江、江村、松阪、宮田


 以上三班です。一班のサブリーダーは瀬川先輩お願いします。二班のサブリーダーは岡田先輩お願いします。三班のサブリーダーは この宮田が担当します。以上よろしくお願いします。」


 ぼくは今日も竹本さんと同じ班にはなれなかった。宮田さんにこっそりと頼んで同じ班にしてもらうかという卑怯なことをふと考えてしま ったが、そんな下心が先輩にばれたらはずかしい。


 出発の準備ができた。一班がスタートして、間隔を三十メートルほどとってからぼくたち二班がスタートした。同じ班にマドンナ井藤さん がいたが、ぼくの走る順序は西尾の後ろだったので、走りながらマドンナのお尻を見つめられるというラッキーなことはなかった。それど ころか西尾のケツを見て走るのかと思うと退屈しそうな気がした。


 昨日と違って快晴だったので、走り出すとすぐに汗が噴き出してきた。暑い。この調子だとボトルの水がすぐになくなりそうだ。フリーラ ン開始まで一時間ほど走るので、軽くウォーミングアップするつもりで、軽い目のギヤをくるくる回して走った。


 一度目の休憩の時に、勝ち馬投票券の販売があった。といっても宮田さんのメモ帳に誰が何番をいくら買ったのかと記録するだけであ る。ぼくもいちおう買うことにした。いつもノルマを助けてもらっている藤江に敬意を表して二口、六百円分買った。当たれば増えて返ってくるのだ。


 「岡田さん、なんで奥山なんか買うんですか。それも三千円も。」


 「いや、負ける馬もある程度売れてないと配当が額面割れするおそれがあるからな。はずれ馬券もちゃんと作ってるんや。」


 それを聞いてぼくは情けなくなった。いくらぼくが遅いといってもそれはひどいじゃないか。でも、もしもぼくがトップをとれば、岡田先輩 は投資額の何倍にもなって返ってくるんだ。それにぼくもみんなの前で自分をアピールすることができるんだ。でもすぐにそんなことがで きるわけがないとぼくは自分の甘い考えを打ち消した。


 投票が終わってから、宮田さんがしばらく電卓を叩いて倍率の発表になった。


 「それぞれの馬の倍率を発表します。一番藤江くん、二・九倍。二番五味くん、十四・五倍。三番奥山くん、四・四倍。」


 そのとたん、みんながくすくすと笑った。およそ勝ち目がないと思われてるぼくが意外に低い倍率だったからだろう。先輩がたくさん買っ てくれたおかげだ。


 「四番西尾くん、一〇・九倍。五番宮寺くん、二・二倍。六番栗田くん、八・七倍。七番竹本さん、四十三・五倍。」


 一番人気はやはり宮寺、その次が藤江だった。


 しかし、ぼくが気になったのは、誰が竹本さんに投票したかということであった。倍率が出てるということは、誰かが買ったということで ある。倍率もさることながら、その大穴を買ったのは誰なのかということが気になった。ぼくは胴元の宮田さんに聞いてみた。


 「宮田さん、誰がどの券を買ったかわかりますか。」


 「わかるよ。全部控えてあるから。」


 「竹本さんを買ったの誰ですか。」


 「竹本さんはなあ。自分で買うとるわ。」


 「自分で自分の券を買うんですか。」


 「そや。買ったら自分の儲けになるんや。気合いが入るというもんや。」


 竹本さんの倍率は四十三・五倍。竹本さんがもしも一位になれば三百円が一万三千五十円になる。それはラリーの参加費がすべて 戻ってきて、しかもおつりが返ってくる金額だ。


 そこからしばらく瀬戸内海を左手に見て、海岸沿いの少しアップダウンのある道を走った。景色がいいのでついつい見とれてしまって、 何度か前を走る自転車にぶつかりそうになった。音戸大橋が見えたところで二度目の休憩を取った。フロントバッグに入れたコースマップによれば、ここから音戸大橋を渡るのではなくて、逆方向に休山スカイラインを登ることになっている。それが今日のフリーランなのだろ う。標高差は約五百メートル、距離は7、8キロというところだろうか。クルマはあまり通ってなさそうだった。フリーランの時間計測のために山本さんと宮田さんがお互いの腕時計の時間を合わせていた。ゴールで待つために山本さんが先に出発した。宮田さんがてきぱきと 指示を下す。


 「まず、竹本さん以外の女子が先にスタートします。無理せずにマイペースで登ってください。その次にレースに参加する七人が一斉に スタートします。最後に残りの二回以上の方がスタートします。なお、走行中はくれぐれも安全運転をお願いします。」


 山本さんが行ってから十分後くらいに女子が発進した。それからさらに五分ほどしてからぼくたち競走馬は横一列に並ばされた。


 「よーい、ドン!」


 宮田さんの合図と同時にぼくは立ちこぎでダッシュした。


 宮寺が素晴らしい加速でたちまちトップに立った。続いて五味がチェーンがきしむような異音を出しながら続く。ぼくはその後ろにくっつ いて好位をキープした。藤江はどうしたのかと思って振り向くと、ぼくのすぐ後ろにいる。そして西尾と栗田さんがいて、最後尾は竹本さ んのようだった。


 ぼくはできるだけ先頭に食いついていこうと思った。ギヤを少し軽い目にして回転数をあげて、シャカシャカとペダルを軽快に回しながら 五味の真後ろにくっついた。真後ろから見ると、五味のマシンはリムが振れていてブレーキのシューと接触しながら走っている。もっとも そのブレーキシューもすり減ってほとんど厚さがない。二、三回雨が降れば完全に溶けてしまって台座の金属がリムとこすれそうであ る。そんなコンディションで徳島から長駆やってきたのである。やはり恐るべき男だ。後ろを見ると藤江は徐々に遅れていく。あんなに食 べているのにどうして遅いのだろうか。ただの大食いというだけで、走りの実力はたいしたことないのであろうか。もしかしたら燃費の悪いだけの男なのだろうか。それだったらさっき投資した六百円は紙切れとなる。栗田さんは上回生なのにその藤江よりもまだ後方にい た。後半に追い込んでくるのだろうか。


 走り出して五分後くらいだったろうか。後ろから凄い勢いで強引に抜いていく二人がいた。


 「奥山、気合い入ってへんぞ。声出せ声!」


 岡田先輩が風のようにぼくの右側を駆け抜けて行った。そして瀬川さんがその後に続いた。まるで二人はマッチレースを楽しんでいる ように見えた。ぼくは自分との実力の違いに情けなくなった。


 前方に先発していた女子のグループが見えた。まるで歩くようなスローペースである。自分よりも遅い者を見るとなぜか安心感がこみ 上げて力が湧いてきた。ぼくは追い抜くときに一人一人に声を掛けた。


 「味村さん、ファイト!」

 「上原さん、頑張って。」


「奥山くん、ありがとう。」


 井藤さんがぼくの励ましに答えてくれた。ただ,ぼくは味村さんの顔色が悪いのに気が付いた。まあ二回生、三回生の女子が付いて るので安心だろう。


 風のように追い抜いて行った岡田先輩たちほどのスピードではなかったが、他の上回生の先輩も次々とぼくを追い抜いていった。そし て、いつのまにか宮寺と五味の姿ははるか前方に見えなくなった。ぼくは少しずつペースダウンしてきた。だんだん疲れてきた。後ろに誰かが追いついてきた気配がして振り向くと、なんと竹本さんがいた。


「竹本さん! どうしてここにいるの?」


 「どうしてって、追いついたからよ。」


 「いつのまに追いついたの。」


「わたし、最初からずっとこの一定のペースで走ってるよ。岡田先輩がアドバイスしてくれた通り。どの組み合わせのギヤで行けばいい かということと、時計の秒針を見ながら一分間の回転数を一定にして、ペースをあまり変えないで走ったらいいって。」


 先輩がフリーランのスタート前に竹本さんと話していた内容はこれだったんだ。竹本さんに走り方の極意を先輩は伝授した。どうして自分には何のアドバイスもしてくれなかったのかということが少し悔しかったけれど。


 ぼくは少し竹本さんを先行させて、同じギヤ比でペダルの回転数も合わせて走ってみた。それはとても楽チンのペースだった。人間工学的に考え抜かれたような、ちょうどクルマがカタログに載せる六十キロ定地燃費で一番いい数値が出るように仕組んでいるような、そ んな軽やかな走りがたちまち実現できた。ペースをつかめばもう大丈夫だ。ぼくは竹本さんの真横に並んでペアランを楽しむことにした。


 並んで走ってると、後ろから栗田さんが来た。


「こら奥山、八百長はあかんぞ八百長は。女と一緒にチンタラ走らんとまじめにレースをやれ。」


 「すいません。でもぼくらのペースはちょうど一緒なんです。」


 「見え透いたウソ言うなよ。おまえは竹本さんとベタベタしたいだけちゃうんか。」


 図星だったが、そのまま言わせておくのもシャクだったので、ぼくは少しペースをあげて竹本さんの前に出た。栗田さんはそのぼくより もやや速く、どんどんぼくを引き離して行った。ぼくも負けたくなかったので付いていこうとペースをあげたが、しばらく走ると急に足が重く なった。そして竹本さんがまた追いついてきた。


 そのとき、ぼくは大変なことに気が付いた。ほんの少し無理をしてペースを乱したせいで急に足がだるくなってしまって、竹本さんとさっき一緒に走ったペースにも戻れなくなっていた。しばらく無理して竹本さんと同じ速さを維持しようとしたができなかった。


 「竹本さん、ごめん。ぼくバテてきたから先に行ってください。」


ぼくに合わせてゆっくり走ってくださいとは言えなかった。竹本さんは相変わらず同じペースを守って走っていったので、だんだんぼくとの間に距離が広がった。ぼくは少し体力を回復させるためにさらにペースを落とした。やがて竹本さんは前方に見えなくなった。


 スタートしてから四十分ほどでやっとゴールが見えてきた。道の両側に先に到着した人が並んでいる。ぼくは拍手と歓声に迎えてもら ってなんとか七人中の五位ということになった。ぼくがゴールしてからしばらくして藤江、西尾という順序で到着した。一着はやはり宮寺だったそうである。二着の五味とは十秒ほどの差だったらしい。マシンさえ互角ならきっと五味が勝っただろうとぼくは思った。あのオンボ ロマシンでたったの十秒差なら勝ったも同然だ。


 ぼくは岡田先輩と瀬川先輩のマッチレースの結果が知りたくて、宮寺に聞いてみた。


 「一番先にゴールしたのは誰かわかる?。」


 「途中で岡田先輩に抜かれた以外は誰にも抜かれなかったけど。」


「だったら岡田先輩が一番速かったのかな?。」


 「たぶんそうだと思うよ。」


 ということは、瀬川さんとのマッチレースに先輩は勝ったのである。しかもずいぶん先にスタートしていた宮寺もしっかり追い抜いたので ある。なんというスピードだろうか。ぼくは改めて先輩の偉大さを思い知った。


 しばらくして井藤さんが一人で登ってきた。表情が暗い。


「岡田先輩、大変です。味村が倒れました。」


「行くわ。」


 先輩は間髪入れずにマシンに跨って今登ってきた道を下った。一瞬だけ振り向いて、ぼくに向かって大声で叫んだ。


 「奥山、サイドバッグ降ろしてから来い。」


 ぼくはサイドバッグだけではなくてフロントバッグも降ろしてからあわてて先輩を追って坂を降りた。二キロくらい下ったところで、味村さんは道路に横になって休んでいた。松阪さんと上原さんが心配そうにのぞき込んでいた。


 「典型的なハンガーノックや。ちゃんとメシ食べてないからこうなるんや。」


 先輩はフロントバッグからカロリーメイトを出して、味村さんの口に入れた。味村さんのボトルではなく、自分のボトルから直接水を飲ま せた。非常事態だから間接キッスがどうのこうのと気にする場面ではない。


 回復を待っている間に、ぼくは味村さんのマシンからフロントバッグ、サイドバッグを降ろして自分の方に積んだ。先輩は洗濯用のナイロンのロープを出して、それで自分のマシンのサドルの下の金具と、味村さんのマシンのハンドルステムを結んだ。そして味村さんに向 かってちょっと厳しい口調で言った。



 「今朝、ちゃんとおかわりしたんか。メシ喰うたんか。」


 「ダイエット中なので、食器に半分くらいしかごはんは食べてません。」


 「アホか。そんなんで一日もつわけないやろ。無理してでも喰わんとあかんのや。そのためにノルマがあるんや。最初は苦しくてもだん だん喰えるようになるんや。一日目よりも二日目の方が楽になる。昨日よりも今朝の方がみんな楽やったはずや。ちゃんと食べへんから こんなことなるねんぞ。オレはおまえらのこと心配して喰わしてるんや。ノルマはいじめとちゃう。愛のムチや。」


 先輩は怒ってた。味村さんはうつむいている。でも、何か口に入れると少し元気になってきたようだ。さっきよりも顔色がよくなった。


 頂上の展望台であまりみんなを待たせるわけにもいかないので、まだ少しふらついている味村さんは自分のマシンにまたがり、それを 引っ張りながら先輩はゆっくりと発進した。ほとんど味村さんは自力でこぐ必要がなかった。二人分の重みをものともせずに先輩はぐいぐ いと進んでいったので、ぼくの方がついていくのがやっとだ。はじめからそうして登ればよかったのにとぼくは思った。だがそうすると速さが発揮できない。やっぱり先輩に一番になって欲しい。


 頂上で待っていたみんなは、先輩とぼくの姿を認めると歓声をあげた。ほとんどこがずに先輩に引っ張ってもらっていた味村さんは、も うすっかり元気になっていた。ハンガーノックの特徴は、何か食べたらすぐに回復するということである。


 班長の宮田さんと主管の山本さんが相談していて、それから宮田さんが言った。


 「みなさん、ちょっと予定を変更して今から昼食にします。一回生は準備をお願いします。」


 展望台のところにちょっとした木陰になっている芝生のところがあったので、そこに食器を並べた。みんな輪になって座った。ぼくは外し ていたサイドバッグから飯ごうを取り出した。十七個のガチャがまるく並べてある。みんなその周りの思い思いの場所に座った。西尾が 言った。


「ブキ取ってください。」


 空っぽの飯ごうにスプーンが無造作に突っ込んである中から、ぼくは自分のスプーンを取った。よく見ると同じスプーンがいくつもある。 そしてそのいずれにも名前が刻印してあるのがわかった。先輩はその刻印のスプーンのひとつを自分のブキとして手に取った。十七人 の中でその同じスプーンを持ってるものが六名もいる。ぼくはそのことが気になって、隣にいる五味を見た。すると、五味もそのスプーン である。合計七名だ。ぼくは五味に聞いてみた。


 「どうしてみんなそのスプーンを持ってるの。」


「ぼくは部の先輩からもらったけど。」


 「みんなが持ってるスプーンと同じやね。」


 「ラリーの記念品ですよ。」



 五味から手渡されたスプーンには、OIUCCと、16th・WUCAラリーの刻印があった。OIUは大阪工芸大学の略称だ。するとこれは去年のラリーの記念品で、去年ラリーを主管したのは大阪工芸大学だったということになる。


 「今年院生になった先輩が、部を引退したのでぼくにくれたんです。名前もGOMIじゃなくて、YAMADAになってるでしょう。」


 宮田さんがいただきますの手拍子を始めた。


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーはーん」


「いただきまーす。」


 フリーランを一本半させられてるぼくはその分を取り戻すように猛然と喰った。大食いの割に期待はずれだった藤江も、いつもの勢いで 喰った。そしてふと味村さんの方を見ると、今度はちゃんと食器にいっぱいのメシをよそっていた。


 みんなが食べている最中に、フリーランの表彰式があった。


 「本日のフリーランの結果を発表します。一位は大阪工芸大学の宮寺くんです。勝ち馬投票券の倍率はニ・九倍ということになります ので、宮寺くんに投票した人は三百円あたり八百七十円の配当を受けることになります。なお、二十五パーセントの収益金は明日のプ レコンパの費用の一部に充当されます。」


 もしも一万円あまりの全財産をそこにつぎ込めば、倍になって返ってきたかもしれなかったかと思うと、なんだか悔しかった。しかし、そもそも自分より遅い藤江に投票したという時点で、自分の読みは大ハズレである。


 「賞品の授与があります。」


「ふぁーふぁーふぁふぁーふぁ ふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁ ふぁふぁふぁふぁふぁふぁふぁーふぁ ふぁふぁふぁーふぁふぁ」


表彰のBGMをみんなが唱和し、賞品を進呈するために岡田先輩は立ち上がった。先輩の手には何種類かのフリカケの袋があった。


 「おめでとう。ノルマ克服用フリカケセットを授与しよう。これでどんな過酷なノルマにも耐えられるぞ。」


 「ありがとうございます。」


 みんなどっと笑った。何が出てくるのかとちょっぴり期待していたぼくも拍子抜けした。宮寺は嬉しそうな顔でそれを両手で押しいただい ている。考えたらラリーが終わった後も個人ツアーはある。そのときに必ずフリカケのお世話になるのだ。大量のメシを喰うためにはフリカケというのはやはりサイクリストの必需品であり、それが豊富にあるということは、喜ばしいことに違いない。


 食べ終えた後、そばに食器を洗えるような場所がなかったので、片付けただけですぐに出発ということになった。


 登りの後には必ず下りがある。さっき登ったコースを今度は豪快なダウンヒルで楽しめるのだ。ぼくは少し期待した。宮田さんの注意が あった。


 「これから長い下りなのでみなさんに注意をしておきます。まずブレーキがちゃんと効いてるかどうか確かめてください。それから決して スピードを出しすぎないようにしてください。特に重い荷物を積んでる一回生の人は注意してください。」


そんなことはわかりきったことだとぼくは思っていた。


 一班が下ってしばらくしてからぼくたち二班は発進した。ふだんの班別走行と違って、前走者との間隔を十分に開いて抑えたペースで 下り始めた。しかし、抑えて走っていても、急な下りなので自然にスピードが出てしまう。ジェットコースターの下りのようにスリルを味わ いながら緩いカーブをいくつか高速で旋回するうちにぼくは自信がついた。ジェットコースターと違って転倒やコースアウトという危険と背 中合わせなのを忘れていたのである。車体をいっぱいに倒してコーナーを鮮やかにクリアする下りの面白さに目覚めてしまい、ガンガン と攻めたのだ。このオレ様よりも速く下れる者がいるのかという自信に満ちたコーナリングを何度か繰り返し、道路に細かい砂が浮いて る場所でも同じようにタイヤのグリップを信じて高速旋回したからたまらない。ブレーキでロックした後輪がスリップして派手に転倒した。 そのまま滑走してガードレールに激突して停まった。後から来たみんながあわててその場に停止した。


 「アホやなぁおまえは。ロックさせたらこけるに決まってるやんけ。」


 やはり岡田先輩の罵声が飛んだ。


 「奥山くん、どこもケガしてない?」


先に下ったはずの井藤さんが激突の衝撃音を聞いてあわてて戻ってきた。ぼくは泥を払って立ち上がった。少し腕と膝を擦りむいた程 度で、大きなケガはなさそうだ。岡田先輩はすぐにぼくのマシンを起こして点検していた。先輩は人間よりも自転車の方が気になるのだ ろうか? 


あちこちに触れてチェックして、それから先輩はぼくのマシンに自分でまたがって少し走ってみてから言った。


 「マシンは大丈夫や。フレームもたぶん歪んでないぞ。あとはおまえや奥山。骨折とかしてないやろな。もし骨折しとったらしばき倒した るぞアホ。」


 骨折のダメージの上にさらにしばき倒されてはたまらないと思ったが、幸いなことにかすり傷程度だったのでその悲劇は起きなかっ た。荷物を満載したサイドバッグが転倒時の衝撃を吸収してくれたのかも知れない。反省してそこから後は慎重に慎重を重ねてゆっくり と下りることにした。まるで登るときのような低速だった。あまりの遅さに後ろを走る先輩が怒鳴った。


 「コラ! いくらこけたと言っても遅すぎるぞ。」


 ぼくはひたすら恐縮したが、速度を上げるのはやはり怖くて、長い下りが早く終わらないかと願った。


 目の前に道路が螺旋状になった大きな構造物が出現した。フリーランのはじまる前にはチラリと横目に見ただけの音戸大橋である。ただ、今度もこの橋を渡る予定はない。地図入れに入ってるコースマップの太線は、音戸大橋の上を通過していなかった。橋を背景にして 記念写真を撮るために、見晴らし台のところで先に下りた一班が待っていた。全員が到着するのを待って記念写真を撮った時、ぼくはさりげなく竹本さんの隣をキープして写った。


 しばらく休憩した後、また班別にスタートした。十分に休憩を取ったのでペダルが軽く感じられる。背後に音戸大橋、左手に海を見なが ら呉市街の方向に進むと少しずつ前方に呉市の街並みが見えてきた。急な山が背後に迫ったこの狭い街は戦前は軍港として賑わっていて、人口も今よりもずっと多かったらしい。


 スーパーの駐車場のところに先に着いた一班が止まっていた。買い出し場所はここだろうか。


 「宮田、一回生三人ほど連れて米の買い出しとガソリン頼むわ。米は重いから一人に全部積ませるなよ。」


 「わかりました。五味、西尾、藤江。行くぞ!」


先輩は松阪さんとスーパーに入っていった。ぼくは昨日同様荷物運びを引き受けるためにカゴを持って後に続いた。先輩が言った。


 「奥山、量が多いから台車に載せろ。」


ぼくはその忠告に従った。


 いったい今夜のメニューは何なのか、ぼくは松阪さんと先輩が次々とカゴに放り込む食材で推理するしかなかった。


 先輩は何にも買わずに店の中を一回りした。歩きながら考えてるようだった。昨夜のトンカツにしても、肉を見ていて思いついたわけで ある。アイデアが湧くのを待ってるようだった。


 「これや!」


「マトンですか?」


 「そうや」


 先輩がつかんだ袋は、真空包装になっていて「味付きマトン」と書かれていた。それが特売品としてワゴンに積み上げられていて大量 にあった。それは次々とカゴに投げ込まれた。全部で十七個ほどだった。人数から考えて一人当たり一袋ということになる。


 「明日の晩はプレコンパやさかい、あんまりリッチなメシにする必要なんかあれへん。食ってもどうせ全部出してしまうこともあるからな あ。今日はその分リッチにやろやないか。たっぷり肉を入れて野菜も入れて、今日の献立はジンギスカン風肉野菜炒めや。」


ぼくはメニューを了解した。カゴにはタマネギ、もやし、ピーマン、ニンジンなどの野菜が次々と投げ込まれた。しかし、大鍋とブスで炒め物をするには少し無理があるのではとぼくは不安に思った。


 前を歩く松阪さんと先輩の会話が聞こえてくる。


 「先輩、メニューは最終日まで決めてはるんですか。」


 「そうやなあ。やっぱりこういうものには流れちゅうもんがあるからな。プレコンパの時は軽くしとかんと苦しいし、その翌朝はみんな酔い つぶれて死んどるしなあ。せっかくメンバーに大阪学芸大がいてんねんから、敬意を表して学大サンドも一回はせんとあかんしなあ。」


 「えーっ、学大サンドするんですか。わたし学大サンドは苦手です。」


「そんなわけにもいかんのや。やっぱりラリーというのはひとつの儀式やから、イノコにしてもそうやし、いろんな欠かすことのでけへんもんがあるんや。」


 「そうですね。勝手なこと言ってすみません。やっぱり名物の学大サンドは覚悟しておきます。」


「女子には悪いけど、これもしきたりやさかい、勘弁してえな。」


 ぼくは初登場の「学大サンド」という単語が妙に気になった。いったいそれはどんなメニューなんだろうか。イノコの謎に、さらに学大サ ンドの謎まで加わってしまったのである。


 「松阪さん、塩とコショウはまだ残ってたなあ。」


 「昨日のトンカツではそんなに減ってないので大丈夫だと思います。」


 「そしたら、焼き肉のタレだけちょっと買っとくわ。肉にも味付いてるけど、おかずにしてメシをたっぷり食うためには味が濃いめの方がええんや。」


焼き肉のタレが2本カゴに投げ込まれた。


 「あんたら、明日の缶詰選んどいてえな。それとみそ汁の具と。」


 先輩は味村さんと上原さんに指示した。


 「えーっ、わたしらだけで決めてもいいんですか。」


 「納豆以外やったら全部OKや。」


 先輩はレジのところまで来ると、そのまま後を松阪さんに任せて外へ出ていった。ぼくは竹本さんと二人で、精算の済んだものをスー パーの袋にできるだけ重さが均等になるように分けた。サイドバッグに積むことを考えれば、あまりたくさんは入れられない。小分けでき るように袋を余分にもらった。


 駐車場では米の買い出しを終えた五味たちが荷物を移し換えていた。10キロの米袋を積むのはさすがにこたえるので、米を積む者の 団体装備を一部積み替えるのである。


 そこに岡田先輩がやってきた。買い物袋を提げている。中には大量のアイスクリームがあった。


「みんな揃ったところで、アイス喰おうや。」


アイスと聞いてみんな駆け寄ってきた。アイスクリームはいろんな種類があった。上回生から順序よく取ると思ったのに、みんな我勝ち に好きなものを選んでいた。もちろんぼくも争奪戦に参加してガリガリくんソーダ味を手に入れた。久々に冷たいものを口にできてぼくは 嬉しかった。でも、こんなところでふと平等になるからとまどってしまう。何か行動を起こすときに、一回生ならどうあるべきかとまず考えて しまうし、先輩の行動をまず確かめてしまうのはラリーに来てから自分を縛ってる習慣だ。自分が何か恥ずかしい行動をとってしまうこと は、それは自分の所属大学のクラブの恥になるのではないかと意識している。


 「岡田先輩、ごっつあんです。」


 宮田さんが言った。他の人からも同じセリフが次々と繰り返された。


 荷物の整理が済んで、フェリーの乗り場に向かってぼくたちはほんの少し走った。ゆっくりと買い物をしたのは、フェリーの出航時間までの時間調整の意味もあったのだ。


 フェリーに載せられた自転車はそれぞれ航走中に動かないようにロープで固定された。先輩はフレームにロープをかけられて傷が付か ないようにわざわざ輪行時のカバーを巻いていた。


 フェリーに乗ってる時間はたったの三十分と聞いていたので、冷房の効いた客室には入らずに、ぼくはデッキに立って海を見ていた。 五味や藤江たちも、竹本さんもデッキに居る。アスファルトの照り返しを受けながら走ってる時と比べれば、潮風に吹かれてる方がはる かに快適だった。ぼくはさっきの謎を知りたくなって訊いてみた。


 「五味、学大サンドって知ってる?」


 「ぼくは知りませんよ。」


 ぼくは同じ質問を繰り返したが、藤江も竹本さんも知らなかった。考えたらこの場にいるのは全員一回生、ラリー初体験の者ばかりで ある。デッキの反対側で仲田さんが一人で海を見ていたので、ぼくたちは近づいて聞くことにした。


 「仲田先輩、学大サンドってなんですか。」


 「学大サンドは大阪学芸大の名物だよ。」


「どんな料理なんですか。」


 「サンドだからサンドイッチに決まってるだろ。」


「どんなサンドイッチなんですか。」


 「その特徴は大きさにある。ひとつのサンドイッチに使用されるパンの量は一斤。」


 「一斤?」


 「そう、一斤。通常は六枚切り、六枚の間に五種類の具をはさむというのが学大サンドのルールなんだ。」


 ぼくはそんなでかいサンドイッチをどうやって持つのだろうかと思った。あまりにもばかげている。しかしそれが名物である以上、何か食 べ方があるはずだ。そしてそのメニューはいずれ登場するのである。パン好きのぼくはひそかに期待していた。


「奥山、今日の晩メシはなんや。おまえ買い物カゴ運びやったからわかってるやろ。」


 もっとも食い意地の張った男、藤江がいきなり訊いてきた。


 「今日は肉と野菜だったので、炒め物じゃないですか。」


 「肉は牛肉か。」


 「いえ、マトンです。」


 「マトン? それいったいなんや。」


 「マトンは羊の肉です。」


 「そんなもん食えるんか? 羊なんかまずいんちゃうんか。」


 「ぼくもマトンは食べたことありません。」


 五味も会話に割り込んできた。五味のことだからマトンだけではなくて、およそ肉というものに縁遠い食生活を送ってるに違いない。


「わたし、北海道でジンギスカン食べたことあるけど、すごくおいしかったわよ。」


 竹本さんがマトンをフォローした。実はぼくも食べたことがあったけど、先に竹本さんに言われてしまった。


「どんな材料でも岡田先輩と松阪さんが居るから、二人に任せておけば心配いらないよ。」


 仲田さんが言った。 確かに昨日の夕食のトンカツは絶品だった。


フェリーが江田島の小用港についた。ロープがほどかれ、上陸したぼくたちはすぐに班ごとにスタートした。島といってもけっこう道路は 起伏があるし、目の前には高そうな山もそびえていたが、海軍兵学校跡までほんの十分ほどで走ってしまった。到着したみんなに主管 の山本さんが今夜の予定を説明した。


 「今日の宿泊について説明します。今日はテントは使いません。キャンプ場ではありません。だからテントは装備からおろす必要があり ません。この近くの公民館を借りています。ふとんはありませんが、畳の上でシュラフで眠ることができます。」


テントの中と、公民館で眠るのとではどちらが涼しいだろうかとぼくは考えた。テントで眠る時はメッシュの小窓から入る風しか期待でき なかったので、公民館の方が涼しいかも知れない。ちゃんと網戸があればだが。


「食事の支度は公民館で行います。海軍兵学校の見学は自由に行ってください。銭湯に入りたい人は今から一時間自由時間にします ので、その間に行ってください。」


 考えたら、二晩連続で風呂には入っていなかったのだ。見学と入浴を比べると、入浴の方が自分にとっては切実な問題に思えた。ここ は迷わず風呂だ。


「お風呂に入る人は、私が先導しますので、後をついてきてください。荷物は公民館におろしておいてください。」


 山本さんはテントはおろさなくてもいいと言ったけど、サイドバッグの片側だけ荷物が入ってるというのはバランスが悪くて走りづらい。 結局みんな装備をおろしていた。ぼくもサイドバッグを両方ともはずした。


 タオルと着替えと洗面用具を持って、身軽になったマシンに乗って行こうとすると、一回生の中で一人、五味だけが準備をしていない。


 「五味、どうして行かへんの。」


「ぼくは風呂には入りたくないから。」


 「ええっ、昨日もその前も入ってないやん。」


「たった二日だよ。」


 「二日も入ってないのに我慢できるの。」


 「一週間でも大丈夫だよ。」


 確かに五味は大丈夫かも知れないが、同じテントで寝る者の身にもなってくれよとぼくは思った。


 「五味、おまえも一緒に入れや。風呂代は主管校持ちらしいぞ。」


 いつのまにか岡田先輩がぼくたちの後ろにいた。岡田先輩は五味の後ろで鼻をつまむマネをした。


「タダやったら入ります。」


 「現金なやっちゃのー。ほんまは各自で払うんやったけど、全部オレが出しといたるわ。みんなさっぱりしてこいや。」


五味はあわてて白いコンビニの買い物袋の中にブリーフやTシャツ、少し黄ばんだタオルを詰め込んだ。結局全員が見学ではなくて風呂を選択したことになる。女子が支度するのを待ってからぼくたちは出発した。


 入り組んだ路地を入ったところに小さな銭湯があった。ぼくたち全員が入るとそれだけで満員になってしまうような規模だった。岡田先輩が番台のところで十七人分まとめて払った。ぼくは低い番台から女湯の脱衣場が丸見えであることに気づいたが黙っていた。


 早速みんな汗くさいTシャツや短パンを脱いだ。ぼくは自分の脱いだTシャツに鼻を押し当てて少し匂ってることを確認した。


 「くっさー、こいつ自分のシャツの匂い嗅いでらぁー」


 栗田さんがぼくを見て言った。ぼくはムッとしたが言い返せずに黙っていた。


 「何言うとんねん、おまえみたいに女のパンツの匂い嗅ぐよりましやんけ。栗田、おまえさっき番台から女湯覗いてたやろ。」


 岡田先輩の鋭い指摘にみんな大爆笑した。栗田さんは腰にタオルを巻いていたが、心なしかそのタオルの下のものが縮こまったよう に見えた。


 ただぼくが気になったのは、栗田さんが覗いていたという事実だった。番台から女湯の脱衣場が覗けるということは、そこで着替えてい る女性の裸が覗けるということである。そこで着替えている人というのは、マドンナ井藤さんや松阪さん、そして竹本さんである。もしかし て栗田さんはその裸を見たのだろうか。もしもそうなら絶対に許せないとぼくは激しい憤りを感じた。


 高校や中学の修学旅行の時のように、ぼくはタオルで股間を隠していた。見ていると隠してる人隠さない人は半々で、岡田先輩や宮田先輩は堂々と立派なものを誇示している。栗田さんは絶対に見られないように慎重に隠している。ぼくは隠匿派か公開派か去就を決 めかねたが、いちおうそのまま隠匿派で行くことにした。


 「五味、いきなり湯船につかるなよ。おまえはよく洗ってから入れ。」


 栗田さんが五味に言った。すると岡田先輩が栗田さんに言った。


「栗田、おまえがタオルで隠してるそのチンポもよく洗っとかんかい。」


 そのナイスな突っ込みにぼくは心の中で拍手喝采を贈っていた。


田舎の銭湯らしく、シャワーのある洗い場が五つしかなかった。先輩たちにその場所を譲ってぼくは洗面器に汲み出した湯船のお湯で 髪を洗うことにした。


「おっ、奥山がシャンプー持ってるやんけ。」


 見つかってしまったぼくのシャンプーはみんなの手のひらに一回分ずつ分捕られてたちまち残り少なくなってしまった。なくならないうち に岡田先輩にもシャンプーを献上しようと思って近づくと、シャワーの前にいた先輩はもう髪を洗っていた。


 「先輩、シャンプー使いませんか。」


 「おおきに。オレはいつも石鹸で洗うからエエねん。気持ちだけもろとくわ。」


 頭を泡まみれにしたままで先輩はそう答えた。


 髪を洗ってから湯船に浸かったぼくは、誰が一番先に出るのだろうかと考えた。ぼくの頭の中には「番台から女湯が覗ける」という事実 がまだ燦然と輝いていた。それがマナーに反することだとはわかっていても、せっかくのチャンスを生かさないというのはもったいない。そ れに自分では見る意図はなかったとしても、偶然見えてしまうというアクシデントが発生したという言い訳も可能かも知れない。そういう わけでぼくは「先に出てチラリと覗く」という考えを棄てていなかった。


 栗田さんが湯船からあがった。


 「栗田、もう覗くなよ」


 「先輩もしつこいですね。そんなこともうしませんよ。」


 「もうしませんということは、さっきはしてたちゅうことか。」


「いや、そんなことは・・・」


 「おまえも往生際の悪いやっちゃのー。さっさと認めんかい。ほんまはオレらもみんな見たいんや。マドンナの裸なんか見たくてたまらんのや。でもそれをしてしもたらせっかくラリーに来てくれた女子にイヤな思いさせてしまうことになるやろ。そやから我慢してるんや。見たいけど見たらあかんのや。」


ぼくは自分の心の中にあった「早くあがって覗く」という作戦をあっさり撤回した。先輩の言うとおりだ。


 風呂からあがって、ぼくは匂いのしていたTシャツからきれいなTシャツに着替えた。女の長風呂という通り、女子が全員出てくるには 少し待たなければならなかった。岡田先輩が目の前のコンビニに入って何かを買ってきた。


 「奥山、おまえのシャンプーなくなったやろ。ラリー終わった後でツアーに出るときにいるはずやからこれ使え。」


 先輩はみんなに分捕られてなくなったぼくのシャンプーのことを心配してくれていたのだ。


 女子が出てきて、全員揃ったところで公民館に戻って、食事の支度がはじまった。いつものように次々とブスに点火して、飯ごうやコッフェルを載せてまずメシ炊きからはじまる。ぼくは調子のよさそうなブスを選んだ。どのブスが調子がいいかはもうこれまでの数回の炊事 で確認済みだ。


 「復活したぞ。」


 仲田さんの嬉しそうな声がした。見ると、確かに死んでいたはずの祇園2のブスが、勢いよく炎を吹き出していた復活している。


「ラリーが終わるまでに絶対に直すつもりやったんや。これで今夜の炊事に間に合うぞ。」


仲田さんが勝ち誇ったように言った。


 先輩は仲田さんの後ろで会心の笑みを浮かべていた。


「岡田先輩、野菜は指示通り切りましたけど。もやしはどうされますか?」


松阪さんが指示を仰いだ。


 「もやしもちゃんと掃除した方がおいしいんやけど、そんなヒマないなあ。量も多すぎるし。」


「手分けしてできるところまでやってみます。」


 「コッフェルの方のメシが炊けたら、ブスがあくから、それまでに急いでや。」


 今度は芯メシを喰いたくなかったので、ぼくは慎重にメシを見守った。


 次々とメシの炊けた香りが広がり、いくつかのブスが使用可能になった。


 「そろそろはじめるか。」


先輩はブスを3発並べ、その上に大鍋を置いた。大鍋が熱くなってから油を垂らした。その油は昨夜のトンカツを揚げたあとのものであ る。冷めてからもとの容器に戻してあったのだ。これが「献立の流れ」というものではないかとぼくは一人で納得した。油が鍋の底に広が ってから、タマネギやピーマンやニンジンといった野菜が投入された。そしてその上からアジシオや胡椒がちょっと多いんじゃないかと思うくらいぶっかけられた。岡田先輩は右手に軍手をはめて鍋を押さえ、もう左手にお玉をつかんで素早く鍋の中の野菜をシャッフルする。 リズミカルに、踊るように。


 「松阪さん、肉のパッケージを破って。」


 鍋に投入される食材は、きれいに三等分されている。その第一陣の山から肉が投入された。タレの香りがあたりに広がった。投げ込ま れた肉はたちまち鍋の中の野菜と混ぜられていった。


 キャベツやもやしといった柔らかい野菜が後から順次投入され、先輩は炒めながら鍋の中の野菜を少しつまんで口に入れ、それから焼き肉のタレを上から少しかけた。そうして味を確認してから言った。


 「一発目完了や。この鍋はもう一回使うからカラッポにしとけよ。」


 待機していた配膳部隊がすぐに鍋を受け取った。たちまちに十七個の食器に中味が取り分けられ鍋がカラッポになった。そして、メシ が全部炊きあがってブスが次々と使用可能になり、祇園のブスも戦力に加わっているので、二つの鍋で同時に炒めることが可能になっ た。


 「奥山、そっちはおまえが炒めてみろ。」


 「先輩、それはわたしがやります。」


 松阪さんが横から言った。ぼくも自信がなかった。


 「いや、この量を強火で一気に炒めるのは体力が要る。松阪さんよりも奥山の方がエエんや。」


 「でも、先輩・・・」


 「松阪さんはそばについて見といたってくれ。」


「奥山、おまえ今ずっと見てたからわかるやろ。オレと同じようにやれ。」


 先輩と同じようにやれと言われても、なんだか自信がなかった。


取り分けてカラッポになった鍋を先輩は手に取った。ぼくはその前で向かい合う位置で先輩とは逆に左手で鍋を押さえた。同じタイミン グで同じ順序でやれば、失敗することはないだろう。


松阪さんがぼくの鍋に油をたらし、野菜を投げ込んだ。ぼくは焦げないように激しくかき回し、野菜がよく混じり合うようにした。かき回す のに精いっぱいだったので、松阪さんが横からアジシオや胡椒をぶっかけてくれた。同じタイミングで肉を投入して十分に火を通し、同じ タイミングで残った野菜を入れて炒めながらからふと先輩の鍋の方を見ると、先輩は肉が焦げないように野菜を下に敷いていたので、ぼ くもしっかりとそのマネをした。


 「タレはどのくらいかけるんですか。」


「おまえが味見して決めろ。」


 ぼくは自分の味覚に全然自信がなかったので、すがるような目で松阪さんを見た。松阪さんはぼくの意図を理解して最後を代わってく れた。


 炒め終わった大鍋を食堂にあてられた集会室まで運ぶと、すでに長机がロの字型に並べてあり、パイプ椅子がその周囲に配置され、 食器が十七組並べられて、準備は整っていた。


 運ばれてきた大鍋が置かれると同時に、宮田さんが話しはじめた。


「六班のみなさん、今日はフリーランお疲れさまでした。少々トラブルもありましたが、岡田先輩のおかげでなんとか危機を免れました。 味村さんも大喰いの快感を理解して下さったようで安心です。」


 大喰いと言われて味村さんは恥ずかしそうにしている。


 「今夜のメニューは、昨夜同様岡田先輩の繰り出したジンギスカン風肉野菜炒めです。食器にすでに入ってるおかずは全量の二分の 一ですのでたっぷりおかわりがあります。もちろんメシもたっぷりありますので、気合いを入れて喰いましょう。それでは手拍子をお願い します。」


 もう何度も聞き慣れたいつもの手拍子が始まった。「ごーはーん」の声が終わるやいなや、みんな一斉に喰い始めた。ぼくは一口食べてびっくりした。肉が柔らかい。マトンがこんなにおいしいとははじめて知った。


 「岡田先輩、今日もめっちゃうまいです。」


 藤江が思わず口に出して言った。


「おまえみたいな食い意地の張ったヤツにうまい言われても褒められても全然嬉しゅうないで。」


 みんな食べながら吹き出しそうになっていた。藤江ならきっと腐った牛乳でもおいしいと言って飲むだろう。


 そしてふつうなら、メシをたくさん食べるためにおかずはセーブしながら食べるものだが、今日はそんなことをしてると他のヤツらにこの 肉野菜炒めを喰われてしまう。ぼくはなんとしてもおかずのおかわりをGETしたかった。しかし藤江の方が一歩早かった。やはり最初の おかわりは早喰いの藤江だった。


「藤江くん、肉ばかり取らないでね。」


 大鍋の一番近くに座っていた味村さんが言った。彼女の食器はごはんがしっかりと盛られていた。


 藤江に続いて五味もおかわりに立った。仲田さんも立った。ぼくはなんとか四番目におかわりの権利を手に入れた。そうして何人かが おかわりをよそったので、大鍋の中の野菜炒めはすぐになくなってしまった。そのとき、藤江が素っ頓狂な声を上げた。


 「メシがありません。」


「どっかに炊き忘れのコッフェルあるんちゃうんか?」


「そんなことありません。ちゃんと数は確認しました。」


「コメの量が少なかったんちゃうんか。」


「ちゃんと先輩の指示したとおりの量のお米です。」


「なんでメシ足らんのや。」


「みんなが喰ったからじゃないですか。」


 五味が言った。


 「おかずがおいしかったら、自然とごはんもよく喰えるんちゃいますか。ぼくはさっきからいっぱい喰ってますよ。」


 五味のメシには、茶色い汁が掛かっていた。五味は大鍋の底に残っていた汁をメシに掛けて汁掛けメシにして喰っていたのだ。


 「五味、おまえ喰ってるの、汁か。」


 「この汁、むちゃくちゃおいしいです。」


 「ほんまか。」


 たちまち大鍋の周りに一回生数人が群がって、たちどころに残った汁は分配されてしまった。一瞬の出遅れの結果、ぼくが覗いた時に はもう鍋の底が見えているだけだった。


みんながほとんど食べ終わった時に、主管の山本さんが言った。


 「今日は地元の方からの差し入れのデザートがあります。夏みかんです。一人一個ですからこれから配ります。」


三国志には曹操が梅林を想像させて兵士の渇きを癒すという故事があったが、ぼくは夏みかんの酸味を想像するだけで唾が出てき て、すでに満腹状態であったことも忘れていた。


夏みかんを食べ終わって、手拍子が始まった。


 「パーン、パーン、パーン」


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーとーろくとーななとーはちとーくったーくったーごちそうさまでした。」


 「ガチャとブキここに入れてください」


 味村さんと上原さんが立ち上がって、大鍋をひとつずつ持って、その中に食器を回収していった。西尾も如才なく立ち上がって食器洗いに参加した。ぼくは夏みかんの皮を片づけた。


 昨夜は狭いテントの中だったので、今日は広々とした畳の部屋で過ごせるのが嬉しかった。松阪さんは一回生の女子と一緒にまだ食 器洗いをしていたが、ラリーのマドンナ井藤さんと江村さんは部屋でくつろいでいた。岡田先輩もそこにいた。


「井藤さん、さっきは危なかってんで。」


 「えーっ、何かあったんですか。」


 「風呂屋で女湯をのぞこうとしてるボケがおったんや。」


 「ええっ、それって先輩ですか。」


「ええかげんにせえよアホ。オレがそんなんするわけないやんけ。」


 「誰ですか。教えてくださいよ。」 


 ぼくはこっそりと栗田さんの方を盗み見た。栗田さんは消え入りそうな表情をしている。


 「そんなん、言えるわけないやんけ。男はみんな考えることは一緒や。かわいそうやから名前は言わへんのや。男同士の連帯感みた いなもんや。」


 「先輩はその人のことかばいはるんですねえ」


 「やっぱり同じラリーの仲間やからなぁ」


 先輩がどういう気持ちで栗田さんを見てるのか、ぼくにはちっともわからなくなった。ぼくが先輩の立場なら犯人の名前を出してさらし者 にするだろう。


「それで実際は見たんですか、見なかったんですか。」


 「事件は未遂に終わったんや。」


 「それは本当ですか。だったら別にいいんですけど。」


「よくないなあ。今オレのこと疑ったやろ。」


「先輩が言い出しはった話題でしょ。そうやって話題にしはったということは、やっぱり本当は先輩が見たかったのじゃないんですか。」


「オレはこっそり見るのは嫌いや。見たかったら堂々と見る。頼むからオレにヌード見せてえなと拝み倒す。」


 「そんなんされて見せる人なんかいませんよ。」


 「そんなことない、ちゃんと一人おったんや。」


「いったい誰ですか。」


 「祇園女子大のあんたの先輩におったんや。」


「うそやわ、絶対うそや。うちの大学にそんな先輩がおるわけないわ。」


 井藤さんは必死で否定したが、先輩に惚れた女の人なら、そんなむちゃな頼みでも聞いてくれるんじゃないだろうか。そしてさっきの買 い物の時や料理の時の、松阪さんと先輩の息のあったやりとりを思い出した。もしかしたら松阪さんは先輩のことが好きなのではないだ ろうか。ぼくはその検証も観察の対象に加えておこうと思った。


 食器洗いが終わって、一回生の女子がみんな部屋に戻ってきた。まだ就寝予定の十時まで二時間近くある。ぼくは瀬川さんに訊いて みた。


 「どうして先輩たちは夜にお酒飲まないんですか。」



 開会式の日も、そして昨日も夜にお酒やビールは登場しなかった。一回生が飲まないのはわかるとして、先輩たちだけでも飲むと言う ことはないのだろうかとぼくは思ったのだ。


 「普通は飲めへんよ。ラリーの時に飲むのは最終日の打ち上げコンパと、その一日前の班ごとのプレコンパだけと決まってるから。そ れがいちおうラリーの慣例かな。」


 ということは明日の晩は飲めるということだ。ぼくはその答えに納得した。毎日の練習の後のビールの習慣でぼくはすっかりアルコー ルになじんでいたから少し物足りなく感じていたのだ。岡田先輩は江村さんに話しかけていた。


 「江村さん、プレコンパの翌朝は学大サンドにするから頼むで。」


 「先輩、わかりました。じゃあ明日の夕食の買い出しの時に一緒に買えばいいですね。」 


 「パン十七斤はちょっとかさばるけど、手分けして積ませるさかい頼むで。」


「やっぱり学大サンドはうちの名物ですから、メニューに入れてもらっただけでも光栄です。先輩、ありがとうございます。」


明日の予定は、フェリーで広島の宇品港に渡ってから平和公園や原爆ドームを見学して、それから宮島口まで軽く走って、もう一度フェリーに乗って宮島に渡って、そこのキャンプ場に泊まるということだった。実走距離は三十キロもない。そうなるともうラリーは終わったも 同然である。


 ろくに走ることもなくただこうして適当におしゃべりして親睦を深めるのがラリーなのだろうか。ぼくはまたしても「イノコ」のことを思い浮 かべた。このままラリーが終わってしまうとすれば、いったいイノコにはどんな意味があるのか。ぼくのこの焦燥感は、まだイノコが何か わかってないということとも関わってるような気がした。


 初日が体育館の硬い床の上、二日目がテントの中だったので、三日目にしてやっと取り戻した畳の部屋の心地よさに、ぼくたちは早く シュラフを敷いて眠りたいという誘惑に負けてしまい、就寝時間を待たずに次々とごろ寝し始めた。


 横になって眠りに就く前にぼくは今日一日のことを思い出していた。そして、もしかしたら竹本さんのヌードを見たかも知れない栗田さん に激しく嫉妬しながら静かに眠りに落ちていった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る