第二日 水玉パンティ

雨の音でぼくは目を覚ました。広い体育館のフロアはまだ色とりどりのシュラフで埋まっていた。すでに起き出した者もいるのか、抜け殻になっているシュラフもある。隣のシュラフの先輩はまだ眠ってるようだった。


 「奥山、一回生は全員五時起床や。起きろよ!」


 仲田さんに言われて、ぼくはあわててシュラフから抜け出した。雨が降ってるということは、屋根のある場所で朝食の支度をしないとい けないということだ。他の班よりもいち早く炊事場所をキープしないといけない。まだ眠ってる他の一回生を仲田さんと一緒に起こして回 った。


 装備置き場に出かけて、自分たちの班の団体装備の中から調子の悪い祇園のブス以外のホエブス五個を運び、わずかに屋根のある 通路の部分を陣取って炊事の場所を確保した。その通路というのはトイレに向かう渡り廊下の部分である。ぼくたちがそこで炊事を始めると通路が通れないのでトイレに行く人は雨に濡れることになるのだが、そんなことを考える余裕はぼくたち一回生にはなかった。上回生たちが起きてきたときにメシの支度ができていないことで激しく罵倒されることへの恐怖の方がはるかに優先した。


 ガスポリから燃料をそれぞれのホエブスに補充し、与熱用のメタに火をつけ、ポンプを激しく動かして加圧してから点火すると、どのブ スもすぐに青い炎が吹き出した。昨日ぼくが手こずった祇園のブスとは大違いである。トイレの前の手洗い用の水道で米を研ぎ、研ぎ終 えた分の飯ごうからどんどんホエブスに乗せた。案の定、起きるタイミングがわずかに遅れた班は、炊事の場所を求めて右往左往してい る。傘をさしてその下でブスを点けている班もあってかわいそうだった。


 「松阪さん、お米は何合研げばいいんですか。」


 「昨日岡田先輩が言うてはったように、人数×二合だから全部で三升四合、それに昼と合わせた二食分を炊くから飯ごうもコッフェルも 総動員よ。それでも少し足りないけど、全部総動員して炊けば先輩も文句はないでしょうよ。」


 装備表に書かれていた飯ごうは七個、コッフェルは五個だった。コッフェルでは八合炊ける。飯ごうは四合ずつ、ということはフルに使っ て六升八合炊くのが限界という計算になる。いつのまにか一回生は全員起き出してまわりにいた。女子も全員そろっている。まな板を出 してきてみそ汁に入れる具を切ったり、タクアンを切ったりしていた。主管校が用意してくれたみそ汁の具は、じゃがいもとタマネギ、油揚げという無難な組み合わせだった。


 朝食分のメシが炊きあがると、今度は昼食分の飯ごうをブスの上に載せた。みそ汁用の大鍋二つを載せるためのブス二台以外はす べて、メシを炊くために動員された。みそ汁はぎりぎりにできあがったらいいので、急ぐ必要もなかった。


 松阪さんがタイミングをうまく合わせてくれたので、メシが全部炊きあがるのと、みそ汁ができた時間はほぼ同時だった。朝食の場所 は昨日カレーを食べたのと同じ場所である。ぼくは昨日に引き続き大鍋を運ぶ使命を仰せつかった。


 昨日はカレーだったので食器は一人一個でよかったが、今朝はメシとみそ汁とを入れるので二つずつ必要だ。


 「食器を一個しか出してない人は、もう一つ出してください。」

 「タクアンを入れますから、食器のフタをお願いします。」


 松阪さんがてきぱきとみんなに指示を出した。十七人分三十四個の食器に流れ作業で次々とメシとみそ汁が入れられ、並べられてい く。そして、さっきまでシュラフの中にいた上回生たちが這い出してきて思い思いの場所に陣取った。


 「メシやメシや。みそ汁の具はなんや、じゃがいもか。」


 「広島平和大のみそ汁は平凡やのー。なんか工夫はないんか。」


 と文句を言いながらも昨夜と似たような位置にどんどん着座していく。そしてみんなが揃うやいなや例の手拍子が始まった。


 「パーン、パーン、パーン」


 だんだん手拍子は大きくなる。


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーはーん。いただきまーす。」


メシとタクアンとみそ汁だけという貧弱な朝食だが、メシだけは大量にある。そのメシを頑張ってたいらげるためにぼくは隣の藤江に負 けないペースで食い始めた。ふと隣の藤江を見ると、ポケットからふりかけを出してごはんにかけている。ぼくが見てるのに気づいた藤江 は、そのふりかけをぼくのメシの上にもかけてくれた。


 「一回生にとってふりかけは必需品やで。奥山は持ってるんか。」


 「どうしてふりかけがいるんですか。おかずがちゃんとあるのに。」


 「アホやな、あんだけメシがあるのにおかずが最後まで残ってるわけないやろ。おかずがなくなったらメシだけで食わんとあかんのや で。アジシオかけたり、マヨネーズやソースや醤油かけたりして無理にメシ食わんとあかんのや。調味料があったらまだマシな方やで。 おかずも調味料も無しでメシだけで二合食うのはなかなかきっついで。」


 「きっつい」という言い方には妙にリアルな感じがあった。きっと藤江はそんな目にどこかで遭ったのに決まっている。その頼みの綱で ある貴重なふりかけをぼくに恵んでくれたのかと思うと、むしょうに嬉しかった。


 使える「ブキ」はスプーンだけ、それでメシを食い、みそ汁を飲むというのが食事のパターンだった。箸を使ってる者は誰もいない。タクアンを食べるには少し無理が感じられるがおかまいなしだ。昨夜のメニューはカレーだったのでスプーンだけで食べたのも納得がいった が、メシとみそ汁の時も相変わらずスプーンだけなのである。


 ぼくが三杯目のおかわりをした頃、先輩たちや女子の中にはもう食べ終えた者も出始めた。ぼくは昨日出遅れたので今日はしっかりと 飯ごうの飯粒掃除をしようと思って、カラッポの飯ごうを探した。するとまだ一口も食べられていないずっしりと重い飯ごうを発見した。あ わててそこからメシを自分の食器に盛った。もうみんなほとんど食い終わっている。この四合のメシをどうやって処理すればいいのか。どちらかというとおいしくメシが炊けるコッフェルの方をみんなが集中して食べたので、飯ごうにはまだメシが残っていたのである。ぼくはそ の重い飯ごうを藤江に見せた。


 「しゃあないなあ。」


 藤江は自分の食器にそこからメシをよそって、そしてぼくの手から飯ごうを受け取って他の一回生の食器に少しずつ順によそっていっ た。ぼくの方を見ている先輩の口元に笑みがこぼれたように見えたのは気のせいだろうか。


 メシが残っていたのはその飯ごうだけではなかった。他にもまだ中味が半分以上残ったコッフェルもあった。ぼくはそこからさらに自分 の食器にメシをよそわなければならなかった。これが「メシ地獄」という状態なのだろうか。


 ぼくは藤江にだけ聞こえるような声で言った。


 「無理にこんなに食べなくても、昼に回したらいいのと違う?」


 「アホ言うな。昼の分は別にあるねんぞ。今頑張って喰うとけへんかったら、昼にはもっと苦しいことになるんや。」


 藤江は自分の食器にメシを山盛りにして、そこに持参のふりかけをかけた。恐るべき食欲だ。藤江だけではなかった。新島大の西尾、 大阪工芸大の宮寺といった他の一回生、そして関門大の竹本さんまでが志願してノルマをこなそうと自分の食器にメシを盛り上げてい た。ぼくもあきらめてしっかりとよそった。やがて大量のメシはすべて一回生たちの胃袋の中に消えた。これぞ団結の勝利だ。だが、このような苦しみを与えた元凶はまぎれもなく岡田先輩であるとぼくはちょっぴり恨んだ。


 一回生が食べ終わって、最後の飯ごうがきれいになるのを見届けてから、宮田さんは手を叩き始め、みんなそれにあわせた。


 「パーン、パーン、パーン」


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーとーろくとーななとーはちとーくったーくったーごちそうさまでした。」


 「みんな、ガチャとブキここに入れてください。」


 味村さんと上原さんが立ち上がって、それぞれさっきまでみそ汁の入っていた大鍋をひとつずつ持って、その中に食器を回収していっ た。大鍋の中で食器はガチャガチャと音を立てた。竹本さんもあわててその後をついていった。女子が食器洗いに出払ったので、装備係 の仲田さんが一、二回生の男子を集めた。


「これから、団体装備の分担をします。原則として団体装備は一回生、二回生男子で全部振り分けますので、みなさん自分が分担す る装備は責任持って運んでください。」


ぼくが運ぶことになったのは、テント(六テン)一つとブス一個だった。来るときにブスを二個入れてきたスペースが空いてるので、そこ にブスを入れ、テントはサイドバッグから少しはみ出したが強引に差し込んだ。左右の重量バランスを揃えるために少し荷物を入れ替え ないといけなかった。


 出発予定時間が近づいたが、全く雨は止まない。


食器洗いをしていた一回生女子が戻ってきた。そこで宮田さんが今日の班分けを発表した。


 「今日の走行班のメンバーを発表します。一班のコースリーダーは主管の広島平和大学の方に担当してもらいます。二班は井藤さん、 三班は仲田くんにお願いします。それではメンバーを発表します。


 一班、山本、松阪、奥山、藤江、五味、宮田。


 二班、井藤さん、竹本、栗田、宮寺、味村、岡田さん。


 三班、仲田、西尾、江村、上原、瀬川さん。


 以上三班です。一班のサブリーダーは不肖この宮田が担当いたします。二班と三班は岡田さんと瀬川さんにサブリーダーをお願いし ます。」


 地図を確認しながらグループの先頭を走るのがコースリーダー、そして最後尾で安全確認しながら走るのがサブリーダーである。ぼくは竹本さんとは同じ班になれず、松阪さんや藤江と一緒だった。


 いつでも走り出せるように自分のマシンに団体装備を積み込み、出発前の点検を行った。昨日は駅からここまでしか走っていないの で、異常があっても気がつかなかったかも知れない。雨の中ということで、ブレーキの効きもチェックしておいた。


 出発の予定時間の九時が近づいても雨はいっこうに止む気配がない。


「ホンマに出発するんか。このまま停滞するわけにはいけへんのか。わざわざ雨の中走らんでもええやんけ。」


 ぶつぶつ不満を言う岡田先輩は、自慢の美しいマシンを雨中走行で汚したくないのか走り出したくなさそうだった。ぼくはサイドバッグ からゴアテックスの上下セパレーツの雨具を取り出した。まだ買ってきたばかりでおニューだ。岡田先輩は高価なマシンに乗ってるのだ から、きっと雨具だってすごくリッチなものを出すんだろうと密かに期待していたが、フロントバッグの後ろのポケットから先輩が取り出し たのは水色のナイロンのゴミ袋だった。袋を指で引き裂いて頭を出す部分、腕を出す部分の穴を開けて、貫頭衣のような雨具がたちまち できあがった。


 「奥山、おまえええカッパ着てるやんけ。ナンボしてん?」


 「安くしてもらって一万二千円で買いましたけど。」


 「アホか。たかがカッパになんでそんなに出すんやアホ。そんなとこに金使うんやったらまともな皮サドルでも買わんかい。おまえのサドルなんやねん。そんだけ出したらイデアルの革サドルくらい買えるやろ。ほんまにお前は金の使い方のわかってないヤツやのう。どう せカッパ着てても夏は汗かくから中から濡れるんや。そんなん着とっても同じことや。ゴアテックスなんかムダやムダ。」


 ぼくのように上下セパレーツの雨具を着ているのは、仲田さん、江村さんくらいで、後はみんな簡単なポンチョ風の雨具だった。もちろ んゴミ袋の貫頭衣を着てるのは岡田先輩だけだった。


 「六班のみなさん出発の記念写真をお願いします。」


主管校の方にせかされてぼくたちはマシンを押しながら会場入口の垂れ幕の方に移動して、そこに横二列に並んだ。前列真ん中に班 長の宮田さんと岡田先輩、そして女性が中央にかたまるように並び、ぼくは後列の端の方だったのでかろうじて顔だけが記念写真に入る位置だった。宮田さんは開会式の時にかぶっていた黄色いヘルメットをしていた。もしかしてこのヘルメットが走るときのいでたちなんだろうか。ヘルメットには「中曽根内閣打倒」などの怪しいスローガンの文字が独特の書体で書かれていた。


 写真を撮り終えると、すぐに出発した。雨は少し弱くなったがまだ降っている。ぼくの位置は前から三番目、松阪さんのすぐ後ろだっ た。


シャカシャカシャカと軽快にペダルを踏んで、前を走る松阪さんとの車間距離を二メートルくらいに詰めて、ピッタリとくっついて走った。 松阪さんの着ているポンチョがひらひらして、風でまくれ上がってTシャツの背中の文字まで見えたりする。やっぱりセパレーツの雨具で ないと雨は防げないことにぼくは自信を持った。


女子も混じってるせいか、走るペースもそれほど速くはない。ふだん自分が走ってるクラブランの時よりもはるかにゆっくりとしたペース だったので楽だった。ペダルの上の足はトークリップとストラップで固定されてるので、雨で滑ることもない。ハンドルに巻いてある布製の バーテープが濡れて少し冷たかったが、それ以外気になることはなかった。少しアップダウンがあるカーブの多いコースを、ゆったりとし たペースでぼくたちはどんどん走って行った。


 前を走る松阪さんが、右手をハンドルから放して、掌を後ろに向けて、その手をお尻のあたりに当てると、それが走行中の「減速」の合 図である。クルマがブレーキを踏んだときに赤いテールランプがつくようなものである。


 左折や右折はそれぞれ手をその方向に水平に出して合図する。また、左側に障害物があったりして回避しないといけないときは、右手を斜め下の方向に突き出す。そうしたサインがあるので、車間距離を詰めていてもそれほど危険はない。また、前車のブレーキ本体は後ろを走る自分から見えるので、たとえ急ブレーキをかけられたとしても、自分には十分回避する自信があった。


 それらの走行中のサインは、鴨川大学のクラブランの時に使用しているものと全く同じだった。きっとどの大学のサイクリング部にも共 通するものなのだろう。


 後方からの合図は声で行う。後ろから大型車が接近すると注意を喚起するために大声で「後ろ、クルマ」とか「後ろ、大型」という合図を 前に伝達する。それも、鴨川大のクラブランの時と同じだった。今日のように雨が降ってるときは視界がせばまるので、さらにそうした合 図の重要性が増す。


 前を走っている松阪さんの後をくっついて走ればいいだけなので、地図を見る必要もなく、いちおうコースマップのコピーは渡されていた のでそれをフロントバッグの地図入れに入れていたが、それを確認することもほとんどなく、ただぼくはひらひらするポンチョの下で見え隠れする短パンのお尻のあたりをじっと見ながら走っていた。


 祇園女子大お揃いの赤いTシャツの下に松阪さんは今日は白い短パンをはいていて、その短パンは雨にぐっしょり濡れている。そのうちにぼくは、その短パンが白ではなくて、水玉模様であることに気がついた。さっきまで、確かにその短パンは白だったはずである。どう して水玉模様になったのだろうかとさらに目を凝らして観察すると、どうもそれは、短パンの下のパンティの模様が透けて見えているのだ ったということがわかった。


 ぼくはひょんなことで、短パンではなくて水玉パンティを見ながら走り続けることとなったのである。


 信号で停まった時に教えてあげた方がいいものかと思ったが、そんなことをいちいち言うのはおせっかいで余分なことである。


 考えてもみるがいい。駅の階段で目の前のミニスカートの女性に向かって、パンティが見えてますよと親切に教えてあげる人がどこに いるだろうか。


 どうせ気づいてるのは自分だけだと思ったので、ぼくは何も言わないで自分だけの楽しみにした。ただ、けっこうアップダウンのあるコ ースなので、ときどき短いダウンヒルもある。そんなときはスピードが出すぎないように緊張してブレーキレバーをしっかりと握りしめた。 下り坂でスピードが出すぎて水玉パンティめがけて顔から突っ込んでしまうという事故だけは避けないといけなかった。そんなことが起き ると自分が見とれていたことがバレてしまう恐れがあるからである。


 信号で停止するときも減速時同様に、右手を下に出して、掌を後ろにしてお尻のあたりにあてる停止のサインを出す。そして「ストーップ」と声をかけるので、よっぽどぼんやりしているとかでない限り追突するとかいうことはないはずである。信号で停まってるときに、自動 車で横を追い越していくドライバーたちはサイクリングの集団が珍しいのか、窓を開けていろいろと話しかけてくる。後ろを走っている藤江 が話しかけられた。


 「あんたら、どっから来たのかね。」


 「鹿児島です。」


 「さっきの人は京都と言うとったぞ。」 


 「ぼくは鹿児島から来ました。」


 この集団が「ラリー」といういろんな大学の混成部隊であることを説明するのは大変に面倒である。そのヒマそうなドライバーは藤江に 話しかけた後、ぼくを通り過ぎてぼくの前を走っていた松阪さんに今度は話しかけた。


 「ねーちゃん、男に混じって大変じゃろ。乗せてってやろうか。」


 松阪さんはそのドライバーを完全に無視して前を向いて走っていた。無視されたことが気に入らなかったのか、そのドライバーは罵声を 浴びせてきた。


 「雨の中本当に大変じゃろう。濡れてパンツ見えちょるよ。」


 あわわわわわっ。

 なんてことを言うんだ。ぼくの大切にしていた秘密をそんなに軽々しく口にするんじゃない。本人が気がついちゃったじゃないか。なんて ことだ。


 松阪さんはあわてて停止のサインも出さずにブレーキ音を立てて急停止した。


 ぼくは右手をお尻にあてて後ろに大声で「ストーップ」と怒鳴った。その声に先頭の山本さんも停まった。もちろん、後ろから来ている人 たちも全員がその場に停止した。みんな何事が起きたのかと驚いている。松阪さんは自分の腰のあたりを見て、そこに浮き出る水玉模 様に気づいてあわててお尻を手で覆い隠して、それからサイドバッグから濃い緑色のスポーツタオルを取り出して、腰のあたりに巻き付 けた。そして山本さんに向かって言った。


 「すみません。もう大丈夫ですから行ってください。」


 「いったいどうしたんですか。」


 「なんでもありません。マシントラブルですがもう直りました。」


 「大丈夫ですか。」


 「ええ、大丈夫です。」


 山本さんはいつまでも不思議そうな顔をしていたが、先を急がないといけないという主管校の論理が優先したのか、それ以上事情を訊 かずに発進した。しばらく走ってから信号で停止したときに、松阪さんはぼくにだけ聞こえる小さな声で言った。


 「奥山くん、ずっと見てたんでしょ。」


 「いや、ぼくもあのオッサンのせいで気がつきました。」


 「うそ、ずっと見えてたはずよ。」


 「ポンチョに隠れてるから見えていません。あのときだけ風が吹いてポンチョがまくれたので見えたのだと思います。神に誓って見えて いないと断言します。」


「本当に見えてなかったの。」


 「もしも見えてたら絶対にすぐに教えますよ。」


 松阪さんはぼくの言い訳に対して半信半疑だった。


 ただ、タオルで腰を隠したらもう安心と思ったのか、それ以上水玉パンティ目撃犯のぼくを追求することはなかった。ぼくは走行中の楽しみを奪われたことが残念で、その無粋なドライバーのことを深く恨んだ。


 水玉パンティを鑑賞する楽しみを奪われると急に退屈になってしまった。走るペースがのんびりしてるので、さらに退屈して、へたをすると居眠り運転して今度こそ本当に追突してしまうかも知れないと、ぼくは事故を恐れた。


 雨の中ということで、無理せずにゆっくりとしたペースで走ってるのに、そのうえ一時間走れば十分ほどの休憩をとるというパターンであ る。疲れないのはいいがその分なかなか距離がかせげない。ぼくは走りたくてうずうずしたが、先頭を走る山本さんがペースを抑えてい る。少しアップヒルになると極端に速度が落ちて、ギヤを軽くして足をクルクル回さないといけなかった。


 二度目の休憩の時に、晴天を想定した昼食場所が使えないので、コース途中の幼稚園の集会室を借りてそこで昼食をとることを山本さんが説明してくれた。


 地図入れのコースマップで見るとそこまではあと八キロである。九時に出発してここまでの約二時間で二十四キロ走ったことになるの で時速十二キロのペースである。これは鴨川大のふだんのクラブランの時のペースよりもはるかにのろい。クラブランでは時速二十キロ は出ているはずだ。いくら女子がいるといっても、もう少しペースをあげてもいいのになあとぼくは物足りなく感じた。


 昼食の説明を聞いた後は少し走行ペースがあがった。その分運動量も増えたのでぼくは暑苦しさが増した。その幼稚園までの八キロ を約三十分で走ってしまったのでいきなり平均時速十六キロになった。幸いなことに幼稚園には雨の掛からない自転車置き場があり、 みんなそこにマシンを置いて昼食ということになった。


 ゴアテックスのセパレ-ツの雨具を脱ぐと、岡田先輩が言ったとおりTシャツはぐっしょりと汗で濡れてしまっていた。先輩もブサイクな ゴミ袋製の貫頭衣を脱いだ。昼食時にはブスに点火する必要がないので、ぼくはサイドバッグを開く必要はなかった。松阪さんがさっそく 指示をする。


 「ごはんの入った飯ごうとコッフェルを積んでいる人は全部降ろしてください。用意した缶詰は今日の昼の分ですから全部だしてくださ い。昨日の賞品の缶詰も出してください。」


 その指示に従って、一回生は次々とサイドバッグを開いた。建物の入口のところで山本さんが飯ごうやコッフェルを抱えた一回生に食事場所を説明した。


 「食べる場所は入ってすぐの集会室です。靴を脱いで上がってください。靴下が濡れていたら裸足になってください。壊れるので園児用のイスには座らないでください。食事の用意はゆかに並べます。」


 藤江がリアキャリアから降ろした大鍋を持ってきた。その大鍋の中には、味村さんと上原さんが洗ってくれたガチャがきれいに重ねて 入れてあった。空っぽの飯ごうの中にまとめて入れてあったブキの中からぼくは自分のスプーンを取り出した。ガチャを一個ずつ出して、 メシをよそって、円形に並べていくという作業が始まった。


 輪の真ん中にあたる位置で松阪さんが缶切りで缶詰を開けていたので、ぼくもさっそくお手伝いすることにした。もう腰のところにはス ポーツタオルは巻いていなくて、短パンもすっかり乾いたのか、水玉模様ももう拝めなかったのが残念である。缶詰はいろんな種類が混 じっていた。サバの水煮、サバの味噌煮、まぐろのフレーク、いわし、コーンビーフなどだった。それをすべて開けて、ガチャの輪の中に等間隔に配置した。十七個のガチャにすべてメシが充填されたら、もう食事の準備完了である。宮田さんが腰をおろして手を叩きだした。


 「パーン、パーン、パーン」


 だんだん手拍子は大きくなる。


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーはーん。いただきまーす。」


メシと缶詰と朝の残りのタクアンだけという貧弱な昼食だが、メシだけはやはり大量にあった。どう考えても多すぎる量を朝と昼と半分 ずつにしただけなので、朝と同じようにメシ地獄が再現されることだけは間違いない。そうするとどんなペースで食べるか迷ってしまう。も しも最初から勢いよく食べてしまったら、後でノルマをつがれた時にはもう余力が残ってないかも知れない。その時にある程度胃袋に余 裕を残しておけば、安心してノルマに耐えられるはずだ。そんな卑怯な作戦でゆっくり食べはじめることにした。しかし、この秘策はたち まち藤江に見破られてしまった。


 「奥山、何ゆっくり食べてんねん。」


 「いや、別に、普通ですよ。」


 「うそつくなよ。さっきから妙に食い方がスローやんけ。おまえノルマの時に喰えるように余裕かましてるやろ。卑怯モンやな。」


 一回生のみんなの冷たい視線が自分に突き刺さった。


 いくら図星であるとはいえ、人を疑ったその藤江の言い方にぼくはムッとした。そういう藤江は、いつもどおりの快ペースでおかわりに 立ちあがる第一号として席を立っていた。彼は手抜きを知らない真面目な男なのか、ただ食い意地が張ってるだけなのか。


 「みんな無理して食べてるんや。苦しいのはおまえだけちゃうで。さあ、しっかり喰おうや。」


 「わかりましたよ。でも、ぼくは食べるの遅いんです。ぼくなりに一生懸命食べてるので勘弁してください。」


 「そやなあ。どうせノルマは一緒にするんやしなあ。」


 結局ぼくは藤江につきあっておかわりをしなければならなかった。


 しかし、ノルマがはじまる随分前に、缶詰はすぐにどれもカラッポになってしまったのである。昨日の運動会の賞品の缶詰もあったが、 大量のメシを支えるにはおかずの量はあまりにも少なすぎた。少量のおかずで大量のメシが喰える訓練をまだみんなできていなかった のか、それとも贅沢におかずばかり喰う人がいたせいか、とにかく缶詰はいつのまにか全てカラッポになっていた。人気がなさそうなサ バの水煮でさえも、缶の底に残った汁まできれいになくなっていた。


 このままではノルマのメシが喰えない。ぼくはこれから起きるメシ地獄のことを思うと不吉な予感がした。先輩や女子が食べ終わり、一 回生が飯ごうの飯粒掃除モードに入りかけた時、まだ手つかずの飯ごうとコッフェルが一個ずつ発見された。一回生の誰が最初に手を 出すのだろうか見てると、突然六甲大学の栗田さんが立ち上がった。


 「一回生はしっかりノルマせえよ。これから一人一人ついでいくぞ。」


 「オッス!ありがとうございまーす。」


 栗田さんの声に大阪工芸大の宮寺がすぐに反応した。WUCAで最も封建色が強いと言われてる大阪工芸大らしい。でもノルマをする のは宮寺一人ではない、一回生が全員でするのである。栗田さんが巡回しながら一回生男子の食器にメシを盛ってまわった。全く手加減しない強引な盛り方だった。ぼくの食器もいきなり山盛りにされてしまった。


 このメシを全部食べきれるのかと不安でたまらなかったが、ふと横を見ると藤江がさっそくフリカケを自分のメシの上にかけて喰い始め ている。ぼくはおかずがないのでどうしようかと悩んだ。それに気づいた藤江はぼくのメシにもフリカケを恵んでくれた。しかし、そのメシを 喰い終わったらそれで終わりではない。まだコッフェルにも飯ごうにもメシが残っている。ノルマの第二弾をするために栗田さんは立ち上 がりかけた。岡田先輩が栗田さんに向かって言った。


 「栗田、オレにもよそってくれや。オレはまだ喰えるぞ。」


「気がつきませんでした。すいません。」


 栗田さんは駆け寄って先輩の食器に軽くメシをよそった。


「栗田、おまえはちゃんと喰うとんのか。」


 「はい。最初からしっかりと喰っています。」


 「一回生だけにノルマさせるのはかわいそうやな。オレも喰うてるんやし、おまえももうちょっと喰うたれよ。」


 「はい。わかりました。食べさせていただきます。」


 「しっかり喰ってしっかり走る、それがラリーの基本や。わかっとるなあ。」


「ありがとうございます。」


 「おまえの分はオレが入れたるよ。」


 岡田先輩は、飯ごうをひとつ取って、そこから焦げメシと一緒に栗田さんの食器に大量にメシを盛り上げた。ぼくは心の中でざまあみろ と快哉を叫んだ。一回生をいじめようとした栗田さんは逆に墓穴を掘ったことになる。でも、岡田先輩はよそってしまった自分のメシをどう するんだろう。もうおかずはないはずなのにとぼくは心配したが、先輩はウエストポーチからアジシオを取り出して、それを自分のメシの 上にかけてあっというまに食べてしまった。栗田さんは味のないメシに苦しんでいたが、お焦げの部分をわざわざ入れてやったのはもしかしたら先輩の親切心かも知れないとぼくは思った。結局栗田さんはボトルの水でメシを胃に流し込んでいた。


 四回生の岡田先輩がノルマに参加したので、二回生、三回生の先輩方もみんな少しずつ自分の食器にメシをよそった。とてもなくなりそうもないように見えた大量のメシもたちまち減っていき、無事にぼくたち一回生は飯粒掃除モードに突入できた。まだ食べてる最中に、 山本さんが今日の予定を説明し始めた。


 「ここの出発時間は一時半です。それまでは休憩時間とします。ここから今日の宿泊場所のキャンプ場までは三十三キロなので、途中で買い出しの時間をとります。買い出しまでにコック長の松阪さん、今夜の献立の決定をお願いします。」


 いったいどんな料理が喰えるのだろうかとぼくはちょっぴり楽しみが増えた。昨夜のカレーなんかはキャンプの定番過ぎて面白くなかっ たからだ。最後まで飯粒掃除をしていた藤江が食べ終わるのを確かめてから、宮田さんは手を叩き始め、みんなそれにあわせた。


 「パーン、パーン、パーン」


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーとーろくとーななとーはちとーくったーくったーごちそうさまでした。」


 「すいません、ガチャおねがいします。」


 新島大の西尾が立ち上がって大鍋にみんなの食器を入れ始めた。西尾は食事の準備の時もブスの点火の時も、後ろで見てることが 多くて目立ってない男だった。それが急に自分から働きだしたのはどうしてだろうか。


 西尾と一緒になって今朝と同じように味村さんと上原さんが食器を回収し、西尾はそのまま洗い物するために二人についていった。そ の後ろ姿を見ながらぼくは初めて西尾の意図を理解した。


 他の一回生たちがきびきびと仕事をしている時にワンテンポずれてしまうかわいそうな男のように見えた西尾は、他大学の女子部員と 仲良くなる千載一遇のチャンスをこうして虎視眈々と狙っていてGETしたのだ。うーむ。この男もなかなかあなどれないなあとぼくは感心 してしまった。ぼくはあわてて竹本さんを探した。食器洗いに出遅れた竹本さんは自転車置き場で荷物の整理をしていた。さっそくぼくも 自転車置き場に移動した。


 出発予定時間までにはまだ少し余裕がある。ぼくはサイドバッグからテントを取り出して荷物のバランスを直した。少し右のサイドバッ グの方が重いような気がして走りながら気になっていたのである。岡田先輩は祇園女子のサイクリング部の四台のお揃いのマシンに近寄った。祇園の一、二回生の女子部員はまだ洗い物をしているので、そこには井藤さんしか居なかった。岡田先輩は井藤さんに話しかけた。


 「今年の部員は輪行は上手ですか。」


 「そんなこと聞かんといてください。メカのことは全然あかんのがうちの部員ですから。先輩に出張指導に来てもらいたいほどです。」


 「ぼくなんかが行ってもいいんですか、よろこんで行きますよ。」


 「ええ、メカの指導だけならぜひ来てもらいたいです。それ以外のご指導は申し訳ありませんがご遠慮なさってくださいませ。」


 「やっぱり井藤さんはきっついなあ。ちゃんと下心見抜いたはるわ。」


そう言いながら、岡田先輩は目の前の祇園の一台のマシンの前輪を両足の間に挟んで、ハンドルをつかんで軽くねじると、たちまち向 きが九〇度回転した。


 「なんやこれ、全然ステムが締まってへんやんか。」


 先輩は他のマシンも次々とねじってハンドルをとんでもない向きにした。仲田さんもぼくの横でじっと見ている。


「仲田、ちょっと祇園のマシン見たってくれや。この通りや。こんなんで走ってたら事故のもとや。この班で何か事故が起きたら最上回生のオレや瀬川の責任や。班のメンバーのマシンは点検しといたらんとあかんねん。」


 仲田さんは自分のフロントバッグから工具袋をとってきて、さっそく6ミリのアーレンキーを取り出して祇園女子大の四台のマシンのそれぞれのハンドルステムの引き上げボルトを緩めて、向きを直してから締め付けた。


 「仲田、あとで女の子がそれを緩めるということを覚えとけよ。おまえの馬鹿力で手加減せんと締め付けたら今度は輪行するときに分解できへんようになるぞ。」


「先輩、それくらいわかってますよ。それより、他のところは点検しとかなくていいですか。」


 「そやなあ。出発までまだ時間あるし、他も見といたれや。」


 仲田さんは祇園女子大の四台のマシンを一台ずつチェックし始めた。


 「これはタイヤの空気圧が低すぎます。」


 「これはリムにブレーキシューが当たっています。」


 「そんなん、気づいたら全部直しといたれや。」


そうして作業している間に、松阪さん、上原さん、味村さんが戻ってきた。


 「先輩、何かあったんですか。」


 「あんたら、自分のマシンはもっときちっと組み立てへんかったら危ないで。」


 「今、先輩がマシンの点検をしてくれたんですよ。上原さんと味村さんのマシンはハンドルステムがきちっと締まってなかったので、締 め直しました。それから上原さんのマシンは空気圧が低かったので空気を入れました。味村さんのマシンはリムとブレーキシューが接触 していたので、調整しました。」


 「わざわざ直してくれはったんですか。ありがとうございます。」


ぼくはその一部始終を見ながら、一緒に食器を洗うという西尾の行動と、マシンを点検しておいてあげるという先輩の行動の、どちらが相手にアピールするポイントが高いだろうかと考えた。しかし、食器洗いは自分にもできるが、マシンの点検はメカの知識の少ない自分 にはきわめて荷が重い。いいかげんな点検なら逆に危険ですらある。竹本さんのマシンは大丈夫だろうかとふと思った。今見ていたステムの締め付けトルクとタイヤ空気圧とブレーキの点検だけなら自分にもできる。ぼくは竹本さんのマシンに近寄った。


 「奥山、それを組んだのはオレやぞ。オレを舐めんなよ!」


 先輩の罵声が飛んだ。ぼくは三次駅に着いた時のことを思い出してあわてて竹本さんのマシンから離れた。先輩と仲田さんは二人で ゲラゲラ笑っていた。


 山本さんが先頭になって一班から出発した時にはもう雨があがっていて、松阪さんの後ろを走るぼくの水玉パンティの夢はあえなく断 たれた。そしてやはり思った通り、雨が上がるとほんの少しだけペ-スも上がった。午前中のゆっくりとしたペ-スよりは少しマシになっ た。


 ぼくは自分の体力にピッタリのペ-スに満足して走りながら、走り方のコツについて練習の後のビ-ルの時に岡田先輩が言ってたこと を思い出した。先輩の理論によれば、「ケイデンス」と呼ばれる常用回転数をあげることの方が、重いギヤを踏める力をつけることよりも大切だそうである。普通の人がペダルを踏んでクランクを回転させる回転数は一分間に五十回転以下だそうだ。それを訓練によって上昇させて、百回転くらいを可能にすれば速く走れるようになるとか。一番重たいギヤは長い下り坂でもない限り使うなというのが先輩の持論だった。ぼくはその教えを忠実に守って、少し軽い目のギヤをシャカシャカシャカと回転させて走った。対照的に前を走る松阪さんは重いトップギヤをシャーカシャ ーカとゆっくり回して走っていた。ぽっちゃりした体型の松阪さんが力のこもった踏み方でペダルを回せば、ますます脚が太くなるような 気がした。


 雨があがると今度は急に暑くなる。ぼくは走りながら喉の乾きをいやすためにボトルに手を伸ばした。ゆっくりしたペースでの集団走行 なので、飲みながら走ることにはなんの困難もなかった。飲み過ぎたらバテるなあと思いながらも、飲まずにはいられない強烈な暑さが ジリジリとぼくを襲った。ちっとも速くないのに暑さのために急激に体力は消耗した。五十分ほど走ってからやっと休憩になった。


 「むっちゃ暑いやんけ。たまらんわ。」


藤江がぼやいていた。でも、藤江は鹿児島の桜島大学である。南国だから暑いのには慣れっこじゃないのだろうか。ぼくは停めてある みんなのマシンを観察していて、ふと極めつけにボロい一台のマシンに気が付いた。そのマシンはボトルを差すためのボトルゲージに、 五百CCのコカコーラの小瓶がボトル代わりにさしてあった。大きさがピッタリでそのまま代用できることをぼくは知った。布製のハンドル バーテープはビリビリに破れてほとんど原型をとどめていない。これでは走行中に金属むき出しの部分を握らねばならず、フレームには たくさんサビが浮いていて、変色も激しくどうやら緑色っぽい色だったということしかわからない。チェーンは油汚れのかたまりとなっていた。


 「あんまりぼくの自転車じろじろ見ないでください。」


 後ろに渦潮大の五味が立っていた。


 「おまえのマシン、むちゃくちゃ汚いなあ。なんでや。」


 藤江は言いにくいことをストレートに訊いた。


 「ぼくのは自分の自転車やないんです。クラブに所属する部車です。ずっと前に卒業した先輩が部室に残していった自転車を、後輩が 受け継いで卒業まで乗り、また次の新入生が受け継ぐという形で代々引き継がれてきてるんです。」


 「そしたら初めっから汚かったわけやな。それでもバーテープくらい巻いたれよ。それやったら握るときに手が滑るやろ。」


 「今度のラリーの前に新しいバーテープを買って巻こうと思ったのですが、参加費を払ったら金がなくなったのです。徳島からここまで来るにも電車賃がないのでずっと走って来ました。」


「おまえ、徳島から走ってきたんか。めっちゃ体力あるやんけ。」


 藤江の口調は一転、賞賛に変わった。


 自分はゴアテックスの雨具に一万二千円使った。しかし、千円もしないボトルを買えずにボトルゲージに空き瓶をさしているヤツもいる。 そうして、何に金を使うかということの価値観は人それぞれだ。だから先輩の雨具はゴミ袋なんだ。ボトルゲージにコーラの瓶を挿してあ るのは正直言ってカッコ悪い。しかしボトルとしての機能はすべて満たされておりなんの問題もない。それなのにわざわざボトルを買う必 要があるのか。徳島から三次までは三百キロ以上あったはずだ。自分にはそれだけの距離は一気に走れない。そう思うとちょっぴり五味を尊敬したくなった。でも、五味のファッションからは学ぶことはなさそうだ。ヤマシタキヨシ風の汚れたランニングシャツと茶色っぽい短パン、もしかしたら彼には部のお揃いのTシャツを買う金もなかったのかも知れない。


 二度目の休憩は、駐車場を備えた大きなスーパーの前だった。宮田さんがみんなに説明した。


 「ここで休憩と買い出しを行います。食糧品の買い出しはコック長と女性のみなさんにお願いします。一回生の男子は積み込みのため に待機していてください。装備係の仲田くんにはガソリンの購入をお願いします。」


 今日の献立はいったい何になるんだろうか。ぼくは松阪さんが何を考えてるのか知りたかった。買い出しが終わるまで他の積み込み 役の一回生と一緒に待つつもりでいたら、岡田先輩に呼ばれた。


 「奥山、おまえ松阪さんにくっついて買い物のカゴ持ったれ。」


 「奥山くん、お願いね。」


 ぼくは買い物用のカゴを台車に載せて先輩と松阪さんの後を追った。


 「先輩、今日のメニューは何にしましょうか。」


 「松阪さん、コック長やからあんたが決めたらエエんやんか。」


「先輩の意見を無視するわけにはいきません。先輩が決めてください。」


 「そやなー。肉が喰いたいなあ。」


 「じゃあ、何がいいですか。」


 「暑いときほど、こってりしたものがバテ防止にエエんや。」


 二人は肉を並べてあるケースの前まで来た。そこでは「カツ・テキ用」の豚肉が特価だった。


 「安いなあ。これ十七枚買うて、今夜はトンカツにしよか。」


 「先輩はトンカツ作ったことあるんですか。」


 「何でも作れるで。でけへん料理はないわ。自炊生活も四年目やさかい。」


 「じゃあ、先輩にお願いしていいですか。」


 岡田先輩はぼくの押している台車のカゴに、十七枚の大きな「カツ・テキ用」の豚肉と玉子、小麦粉、パン粉、塩胡椒、サラダ油、とい ったトンカツを作るのに必要なアイテムを次々と投げ込んだ。松阪さんは付け合わせのサラダを作るためにレタスやキュウリなど野菜をど んどんカゴに入れた。


 買い込んだ食糧を買い物袋に詰めるときに、あまりかさばらないように均等に分けないといけなかった。一回生は全員すでに装備の分 担があるので、積載量に余裕がほとんどない。その上に食糧を積むのである。レジを通過するときに松阪さんが袋を余分にもらっていたが、その意味は後でわかった。小分けして、それほど負担にならない量にして一回生全員に均等に分けたのである。ぼくはレタスが数個入った袋をサイドバッグの上にぶらさげた。


 キャンプ場は瀬戸内海を見おろせる眺めのいい場所だった。四時少し前に到着して、すぐに夕食の準備がはじまった。雨がやんでくれ たことにぼくは大いに感謝した。実はテントで眠るのはぼくにとって生まれて初めてのことで、せめて天候くらいは自分に味方して欲しいと思っていたからである。雨の中でテントで眠るのはなんとなくいやだった。


 ベンチのひとつが調理台となった。そこには使わない飯ごうのフタが並べられ、小麦粉、溶き卵、パン粉が入れられ、一直線に配置さ れた。そしてぼくと藤江は岡田先輩から包丁を持たされた。


 「おまえら二人を肉叩き係りに任命する。包丁の背を使って肉を叩いてのばすんや。元の大きさの二倍を目標に叩いて薄くのばせ。こ うして叩いといたら、肉の繊維が切断されて、口に入れたときに簡単にちぎれるんや。ただ、力を入れすぎると肉がちぎれるから気をつ けろよ。」



 ぼくと藤江は、手をきれいに洗ってからその「肉叩き」作業に入った。トントントントントントントントンと分厚い肉は叩かれ、みるみる広が って巨大な面積になる。その広がった状態を見て、「こんなばかでかいトンカツを揚げるのか」とぼくは期待した。叩き終わった肉に竹本さんが塩胡椒を振りかけ、そして上原さんが小麦粉をまぶす。小麦粉をまぶされて白くなった肉は溶き卵を通過し、その後でパン粉の衣をまとう。江村さんと松阪さんがパン粉付着作業を担当した。そうしてトンカツの原材料となる白い不定形の物体ができあがった。原材料は大鍋の中に折り重なって出撃の時を待つことになる。仲田さんは調子のいいブスに点火して大鍋でサラダ油を加熱していた。ブス三発をくっつけるとなかなか強い火力が得られる。残り二台のブスにはメシを炊くコッフェルが載せられていた。これまで2回の炊事と同様に、残り一個の祇園のブスは黙殺されていた。使えないブスはただの荷物となってぼくたちをこれからも苦しめるのだった。


 岡田先輩は大鍋のそばで油温の上昇を待っていた。松阪さんはどうしたのだろうかと、ふと手をとめて振り向くと、サラダに入れるレタ スやキュウリを切っている。ただ、ぼくはふと気になった。大鍋は二つしかないのである。そのうち一つは今ここで出撃前のトンカツ入れ になっている。もう一つはサラダ油が満たされてブスの上にある。サラダを作るにしても、それはいったいどうやって作るのか。十七人分 のサラダを入れる大きなボウルなどあるわけがない。この油の入った大鍋が空くまではきっと作業は中断だろう。


 岡田先輩はパン粉をつまんでは油の中に落下させて油温を確かめていた。


「よっしゃ、入れるぞ。」


 出撃を待っていた白い物体は油の中に落下させられた。白い物体はすぐにこんがりと染まっていく。岡田先輩が何度か箸を使ってひっ くり返し、両面がいわゆるキツネ色になったのを確かめてから、広げられたてんぷら用の白い吸い取り紙の上に第一号が揚げられた。そ れはまぎれもない本物のトンカツだった。どこにキャンプ場でトンカツを作るなどという面倒なことに取り組む酔狂な人たちがいるだろう か。後は残る十六個の白い物体が順番に揚がるのを待つばかりだった。


 付け合わせのサラダがどうなるのか気になってぼくは松阪さんの方を見た。井藤さんが松阪さんに話しかけた。


 「ビニールサラダの出番ね。」


「先輩、やるんですか。」


 「袋持ってくるわ。」


 井藤さんは青色の大きなビニール袋を持ってきた。今朝、岡田先輩が雨具代わりに貫頭衣にしていたのと同じ袋である。そのゴミ袋の 中に、すでに刻まれて小分けされていたレタスやキュウリなどの野菜類が投げ込まれた。材料をあらかた入れ終わると、今度は袋の中 にアジシオが振られマヨネーズが豪快にぶちまけられ、袋の口を軽く縛って井藤さんは袋を空中で振り回して中身を混合した。


 「おおっ! 祇園名物のビニールサラダやんけ。」


岡田先輩はトンカツを揚げながら振り向いて言った。ビニールサラダと言う名前だけ聞けば、まるでサラダの中にビニールの切れっぱし が混入しているみたいであるが、なんと合理的なキャンプ場での調理法であろうかとぼくは感動した。


 トンカツは次々と揚がって並べられていく。トンカツが十七個揃えばすぐにいただきますにするために、芝生の上に食器が並べられた。


 「ガチャは三十四個用意してください。ひとつはごはん、ひとつはサラダを入れますから。」


 「トンカツはどこに入れるんですか。」


 「先輩、トンカツはどこに入れたらいいですか。」


 「トンカツはよそったメシの上に一個ずつ置いていったらエエわ。」


 さっきまでトンカツ流れ作業に加わっていた女性陣が食器にごはんとサラダをどんどん盛っていた。ぼくはそれを円形に並べるのを手 伝った。見ているとお腹が鳴った。早く喰いたくてたまらなくなってきた。まだ十七組揃わないうちに宮田さんが手を叩き始めた。みんな その手拍子にあわてて適当な位置に座った。トンカツの大きさにはばらつきがある。ただ、肉叩き係だった自分は、もともとそれらの肉の 大きさにはそれほど大きな差がなかったことを知っている。叩いて伸ばしている時の微妙な加減で大きさが変化しただけである。そし て、パン粉の衣をまとったばかでかい白い物体の時よりもカツは若干小さくなっていた。高温の油の中ではそれは縮むようだ。


 「パーン、パーン、パーン」


 だんだん手拍子は大きくなる。まるでトンカツの到着を待ちわびるようだ。


 最後の一個のトンカツを松阪さんがメシの上に載せた。これで十七個のトンカツが勢揃いした。


「ちょっと待て、宮田。」


突然岡田先輩が叫んだ。みんなそのまま手拍子を続けている。


 「今日はトンカツやで。かけ声はいつもと同じでエエんか。」


 「じゃあ、先輩、どうしましょう。」


「そやなー。トンと数字のテンをかけて、テンのところでテンカツとやろう。」


「そしたら他の数字は英語ですか」


「そや。九まで日本語でいきなりテンやったらおかしいやんけ。」


「わかりました。最初から英語でいきます。」



 「ワンとーツーとースリーとーフォーとー」


 みんな思わず吹き出した。どう考えても手拍子のかけ声に英語は似合わない。


 「ファイブとーシックスとーセブンとーエイトーナインとーテンカツ。いただきまーす。」


 歓声をあげてみんなトンカツにかぶりついた。


 このいただきますの儀式こそが食事というラリーの最大の楽しみを甘受するときの礼儀なのだ。 手拍子もそしてかけ声も、すべてが神聖な儀式を盛り上げる。


 口に入れたトンカツは大学のそばの定食屋で喰ったものなど足元にも及ばないほど美味だった。かじると香ばしさが口中いっぱいに広 がる。あれだけ叩き伸ばしてあるので、舌に触れた瞬間に溶けるような感じで喰える。トンカツソースが五味から手渡されたが、ソースを つけなくても十分に美味しかったのでぼくはそのまま隣の藤江にソースを渡した。藤江は自分のトンカツに豪快にソースを垂らしながら言った。


 「奥山、おまえはラッキーやなあ。岡田先輩のトンカツ最高やんけ。おまえとこの合宿はきっとリッチやねんやろなぁ。桜島大の合宿な んかいつもカレーばっかりやで。」


「ぼくはまだ一回生やから合宿はまだ未体験やねん。」


 「なんや、新歓合宿とかはあれへんかったの?」


 「泊まりがけの行事にはまだ一回も参加してないし、岡田先輩のトンカツも今日初めて食べたわ。」


昨日の夕食の準備の時に、松阪さんがぼくに岡田先輩への弟子入りを勧めてくれたことを思い出した。先輩がラリーの有名人であるこ との理由のひとつはこのことだったんだ。料理を作るときのあの真剣さ、そしてみんなに指示を与える手際の良さ。でも先輩はそれだけじゃないと思う。先輩が栗田さんの後輩いじめをうまく止めてくれたこと。そんな気配りもぼくは知っている。そして、ラリーはまだはじまっ たばかりである。


 一気に食べてしまうのが惜しくて、トンカツを少し食べては大量のメシを喰い、サラダを食べ、それからまた少しトンカツをかじっては大量のメシを喰った。わずかなおかずで大量のメシが喰えるという藤江の境地に少し近づけたような気がした。


 そうやっておかず節約術を駆使したにも関わらず、メシの上に載せたおいしいトンカツはすぐになくなってしまった。まわりを見回すと、もう誰のごはんの上にもトンカツは存在していない。誰もが満足そうな表情を浮かべていた。そしてごはんの方もノルマなしできれいになくなっていた。おいしいトンカツのおかげで、みんながメシをたくさん喰えたからだった。


 食べ終わった後、ごちそうさまの手拍子がなかなかはじまらなかった。それはみんなしばらくの間、満腹感に酔っていたからである。宮田さんが岡田先輩に向かって手拍子をはじめてもいいか尋ねていたが、岡田先輩は手で×印を作った。飯ごうの飯粒掃除を終えて、ゆ っくりとお茶を飲んで、それからやっと岡田先輩が宮田さんに目配せした。


 「パーン、パーン、パーン」


 「いちとーにーとーさんとーしーとーごーとーろくとーななとーはちとーくったーくったーごちそうさまでした。」


 「すいません、ガチャおねがいします。」


 昼食時に見た西尾の行動に影響されたぼくは、自主的にガチャ集めに立ち上がった。西尾は意表を突かれてワンテンポぼくに遅れ た。そして驚いたことは、ぼくの直後に竹本さんが立ち上がったことである。大鍋のひとつにはまだトンカツをあげた油が入っていたの で、さっきまでメシが入っていたいくつかのコッフェルに分けてぼくは竹本さんと二人でガチャを集めた。二人しか立てないキャンプ場の狭 い洗い場で、ぼくは竹本さんと一緒にガチャ洗いをすることになった。


「奥山くんはふだん下宿でこんなことしてるの?」


「全然ということはないけど、作るのが面倒でたいてい学食で済ませてるからたまにしかしません。」


「自炊した方が安くつくでしょ。」


 「いろいろ作れたらきっとそうなんでしょうけど、ぼくは料理のセンスがないですから。」


「やってると自然に上手になるわよ。」


上手になる頃にはきっと四年間が終わってるだろうとぼくは思った。


 ガチャ洗いを終えたときには、すっかりとあたりは暗くなっていた。みんなテントの中に荷物を入れていた。


 テントの割り振りは宮田さんが発表した。テントは全部で五つあった。六テンと呼ばれる巨大なものが二つ、四テンが三つだった。四テン二つが女子のテント、後の三つは男子用に決まった。


 「やっぱり祇園のテントに男子を寝かすわけにはいきませんね。」


 「そやそや。テントに入るだけで興奮して寝られへんかも知れへんぞ。」


 宮田さんと岡田先輩がそう話している。


ぼくは藤江、五味と一緒に四テンに寝ることになった。五味の発する饐えたような臭気がシュラフに付くような気がして隣に寝たくなかったので、卑怯にも藤江を間にはさんで眠ることにした。マシンからはずしたバッテリーライトがテントの中の灯り代わりになったが、貴重な電池を最終日まで持たせたいと思ったので、あまり長時間点灯していたくなかった。


 テントの外から岡田先輩の声がした。


 「おまえら、花火せえへんのか。」


 「花火って・・・」


 「昨日の運動会で取った花火やんけ。」


 ぼくはあわててテントから飛び出した。みんな手に花火を持っている。大学生にもなって花火を楽しむなんて正直言って思ってもみなか った。ラリーのマドンナ井藤さんや、竹本さんが色っぽい浴衣姿だったらなどとぼくは想像しつつ、自分の花火を受け取って、ライターで 火を点けた。


 ふと見上げた夜空にはきれいに星が瞬いていた。


 出発したときはあんなに激しく雨が降っていたのに、空はもうすっかり晴れていた。この調子で最終日まで晴れていて欲しい。


 花火を終えた後、夕食の準備に使ったベンチに座ってみんななんとなく星を見上げていた。都会の夜空と違って空が澄んでいるので見 えている星の数が全然違う。ぼくはわざと竹本さんの隣に座った。 


 「奥山くんは頭いいのね」


「いや、そんなことないです。いつもドジばっかりやってます。」


 「だって、鴨川大学でしょ。みんなのあこがれよ。」


 「少なくともぼくはそれほど頭よくないです。受験の時にたまたま運がよかったんです。」


 「控え目なのね。わたしも京都みたいなすてきな街で学生生活送りたいな。」


「竹本さんは関門大学でしたね。学部はなんですか。」


「文学部で国文学よ。」


 「ぼくも文学部ですよ。」


「そうだったの。奥山くんは理系だと思ってたわ。」


 「理系は実験が多いので大変です。ぼくは受験勉強が苦しかったので、大学では楽できるようにと文学部を選びました。」


 「そんな言い方は、文学部のわたしに失礼じゃない。」


 「いや、そんなつもりじゃないです。ごめんなさい。ただ、鴨川大学に関して言えば、文学部の人はあまり勉強していません。授業にも出てきません。みんな自由に自分の好きなことをやってるんです。勉強しない自由というものもあるんです。」


 「わたしは家を出たかったから進学したの。」


 「どうしてですか。」


 「家にいると息が詰まりそうだったの。わたしは小学校や中学校の時からみんなの模範のようなよい子であることをいつも義務づけられ ていて、先生からもそう思われていてなんだか息苦しかったの。だからすごく学校が嫌いで行きたくなかったけど、登校拒否どころかわたし皆勤賞なの、おかしいでしょ。それほど頭がよくなかったからいっぱい勉強したわ。ちょっと成績が下がるとすごくお父さんに叱られたし。中学の先生に勧められるままに高校を受験して進学したけど、田舎の高校だったせいでみんなのんびりしていたの。気がついたらずいぶん遅れをとってしまっていて、模擬試験を受けたら悲しくなるような点数だったわ。自分なりに努力はしてるつもりだったのにね。そん なわたしが大学選びで重視したのは家から離れられるかどうかということ。絶対に自宅から通えない遠くの大学に行きたかったの。一人になることで、本当の自分を見つけたいという気持ちが強かった。親や教師に期待されて、その思い通りになるんじゃなくて、自分には 本当はどんな生き方が合ってるのか、それが知りたかったから。」


 竹本さんはそこまで一気に話して、それからまた空を見上げた。ぼくもつられて夜空に瞬いている星を見た。


 「わたし、高校の時にひとつの出逢いがあったの。その時にきっとわたしは大きく変わったの。高校の図書室にあった『ぼくを探しに』と いう題名の不思議な絵本を読んだ時に、これだ!って思ったのよ。それからずっと探していたの。自分にピッタリ合う片割れってどこにあ るのか、どこに居るのかって。自分にふさわしい場所っていったいどこなのかって。今自分がいる世界はたぶんそうじゃないっていう気がしてたから。ピッタリ合ってないからうまく転がれないのよ。なんかギクシャクしちゃうのよ。それを見つけるためにはまず家を離れないとだめだと思ったの。親の反対を押し切って関門大学に進学して一人暮らしを始めた時、わたし、いきなり時間を持て余して困っちゃった。 二十四時間全部が自分の時間になっちゃったから。きっとそれまでのわたし、何をするにも必ず親や先生や友人を意識していたのね。 自分が何をしたいということじゃなくて、こんなことをしたらどう思われるかばかり考えていて、それが怖くて言われたことしかしなくなっていたの。自分の時間は全部自由に思い通りに使えるんだって実感したとき、やっと生きる自信が湧いてきたの。サイクリング部に入ったのも、その自分探しのひとつかな。奥山くんはどうして鴨川大学入ったの。どうしてサイクリング部に入ったの。」


 「ぼくの高校はけっこう進学校だったから、まわりにも鴨川大学を受験する人は多かったし、毎年たくさん入学してるし。」


 「恵まれてたのね。わたしもそんな高校に行けてたらもっと勉強できるようになったかな。」


 「でも、みんな勉強はしてるけど、本当の自分は探してないよ。」


 「それはどういうこと?」


 「とりあえず、偏差値の高い大学に入るために勉強はする。でも、そこで誰も喜びなんか感じてないよ。決められた課題をこなして、勉 強のノルマをこなして、そうしてただ毎日の時間がすぎていくだけ。そのまま気が付けば大学受験の季節になって、先生の指導通りに受験して、何校も合格して、その中で一番偏差値の高い大学にとりあえず決めて、今度はそこで思いきり遊んで・・・」


「なんだかそういうのも虚しいわね。」


「うん、虚しいと思ってた。」


 「思ってたって過去形にするということは、今は違うの?」


 「サイクリング部に入って少し楽しくなったから、少なくとも虚しくはないと思うようになった。でもまだ完全にスッキリしたわけじゃない。」


「奥山くんも、自分探しの途中なんだ、きっと。」


 「そうかも知れない。ぼくもその絵本を探してみるよ。『ぼくを探しに』だったっけ。」


 「そう、作者はシルヴァスタインよ。必ず感想を聞かせてね。」


ラリー中にその絵本を読めるわけがないので、どうやって感想を聞かせればいいんだろうかと思った。後で手紙を出せばいいのか。


 「鴨川大学に入った理由はわかったわ。でももうひとつの方がまだよ。どうしてサイクリング部に入ったの。」


「あまり積極的理由じゃないよ。たくましい肉体を手に入れたいというあこがれと、なんにもスポーツ経験がないという現実とのギャップ を埋めるための手段として選んだんだ。せっかく鴨川大学に入学したんだから人気のアメリカンフットボール部とかで活躍したいけど、向 こうから入部を拒否してくるよ。おまえなど絶対に使いものにならないって。この腕の筋肉をみればわかるでしょ。」


 竹本さんはぼくが見せた細い腕を見てくすっと笑ったようだった。


 「でもテニスとかスキーとかを名目にしたただのナンパサークルには入るのはいやだったんだ。そんなとこじゃ身体を鍛えるという目標は達成できないし。もちろん今も達成できてないけど。とにかく、スポーツをしているという実感を持つことができて、しかも自分でも十分にがんばれる、そんなクラブに入り たかったのから入部したんだ。」


 「たしかに、サイクリング部って誰でもできそうな軟弱なイメージだけはあるわね。」


 「入部勧誘ビラをもらった時に、自転車なら乗れるって思ったのは事実だったしね。」


 「わたしも同じよ。」


 「とりあえず入部説明会に参加してみたらすごくいい雰囲気で、一人暮らしをしている自分にはとても嬉しかったんだ。」


 「わたしも似てるかな。一人になりたかったから家を出たのに、実際ひとりぼっちで下宿生活に入ったら今度は早く友達を作りたくて、そんな気持ちでいたから入部して仲間ができたという気分がすごく嬉しかったの。」


 「気に入らなかったらいつでもやめられると思ってるうちに新歓行事に誘われて、そのうちに他の一回生と一緒にサイクルショップに連れてかれて、気が付いたらマシンを買わされちゃってたよ。一ヶ月の生活費よりもずっと高かった。」


 「わたしのは安かったよ。よんきゅっぱ、四万九千八百円のマシンよ。きっと鴨川大に入学するような学生はお坊っちゃんが多いから高いのを買わされてるのと違うかしら。」


 「残念ながらぼくはお坊っちゃんでもお金持ちでもないよ。それは万一の出費のために用意してあった虎の子のお金だったんだ。買っ てしまえばもう後戻りはできなかったよ。たかが自転車に十万円以上も使うのかと一時は後悔したけど、とにかく、かけた金額のもとをとるまでは楽しまないと損だしね。最初はそんな気持ちだったかな。」


 「確かにそうね。たかが自転車にこんなにお金をかけるのってばかげたことね。速く移動したければバイクやクルマにすればいいんだ し。その方がずっと楽だし。」


 そう、確かにばかげている。しかしこの世におよそばかげていないことなどあるだろうか。まじめに向き合うことが虚しくなるようなことば かりじゃないか。たかが自転車にお金をかけまくっているもっともばかげた行為の具現者として、ぼくは先輩を思い浮かべた。先輩のマシンは三十万円は軽く超えているというウワサだった。


 自分と竹本さんは似通っているようで、決定的に違う。大学進学が自分にとって消極的逃避であるのに対して、竹本さんには積極的逃避だったのかも知れない。彼女は親元から逃げ出して自由になるために家を出た。ぼくはそれまでの勉強漬けの日々から逃げ出したかったから自由な大学生活を望んだ。ぼくたちは同じようにサイクリング部の一員となった。でも背負ってるものは違う。


 話してるぼくたちのそばに栗田さんがやってきた。


 「奥山、初日からいきなりツーショット決めてるんか。なかなか手が早いのー。先輩譲りか。」


 ぼくは冷やかされてむっとしたが、先輩のことを悪く言われたのにも腹が立った。」


 「何言ってるんですか。先輩は硬派そのものですよ。栗田さんとは違います。一緒にしないでください。」


 「おっ。いっちょまえに言い返すんやな。生意気な一回生や。明日のフリーランで恥かかせたるぞ。」


 「フリーランってなんですか。」


 「知らんかったんかい。明日はフリーランがあるんや。そこで負けたら罰ゲームさせられるんやぞ。」


 ぼくは走りで他の一回生に勝てる自信など全くなかった。


 「フリーランは大学の名誉をかけてやるんや。おまえみたいな軟弱そうな一回生連れとったら岡田先輩もたいへんやで。」


 先輩のお荷物にはなりたくない。でも今夜一晩寝て、明日急に速くなってるという奇跡も起きるわけがない。ぼくはうつむいた。


 「そのフリーラン、女子も出ていいんですか。」


 竹本さんはきっぱりとした口調で言った。


 「出てもかめへんよ。男子に勝てるわけないと思うけど。」


 「それは走ってみないとわからないと思います。」


そのときに、山本さんが回ってきた。


 「そろそろ就寝の時間ですから、テントに戻ってください。よろしくお願いしします。」


「奥山、明日が楽しみやのー。」


 「栗田先輩失礼します。おやすみなさい」


ぼくはテントに戻った。藤江と五味はもうシュラフに入っていた。五味はマシンだけではなくて、シュラフもとてつもなく汚かった。長い間 風雨にさらされてもとの色もわからないように変色したそのシュラフは、中綿がこぼれないように破れた箇所にガムテープが貼ってあっ た。おそらくシュラフも先輩からのお下がりなのだろう。十万円以上する高価なマシンを手に入れてサイクリングの世界をエンジョイする者もいれば、よんきゅっぱの最低ラインの値段のマシンでスタートする者もいる。そしてこうしてほとんど金を使わずにサイクリング部の一員として歩み始める者もいる。五味は参加費をどうやって捻出したのだろうかとふとぼくは気になった。一万円という参加費は彼にとって大金のはずである。でも、それが自分とどう関わるんだ。他人が自分よりも貧しいことを知って、それでつまらない優越感に浸りたいのならなんてさもしい根性だ。そんなことを思い ながらいつのまにか眠りに落ちていた。

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