料理人と音楽隊
第十話「空の貴賓室にて」
ロサンゼルス発、成田行きのトランスワールド航空008便。
機中の貴賓室、ファーストクラス。
キャビンアテンダントのスーザン・ヨークに対し、その客は
「これは再加熱したものだろう?僕の口にはあわないから下げてくれたまえ」
と機内食の提供を拒否した。
二十歳前後に見える客―――アジア人の年齢は見定めづらい―――の堂に入った物言いは、周囲から特別扱いされることを当然の権利と受け止めている
切れ味の良さそうな刃の色にも似た銀髪。
思わず手を這わせたくなるようなきめ細かく浅黒い肌が、大胆に開いた胸元からのぞく。
無駄なく引き締まった長身の肉体を覆う白いシルクシャツと光沢をたたえた黒いパンツはシンプルなデザインだが、間違いなくオーダーメイドの逸品。
そしてラピスラズリのような紺色の目―――。
社会的な地位や所有する資産の差異を理由に、キャビンアテンダントを召使いのように見下すわかりやすいVIPたちとの決定的な違いは妖しい目の光の中に示されていた。
そう、この青年の目には自分以外の他人は全て等しく無知蒙昧な
物言わずに語るその孤高が、何に拠るものかスーザンにわかるはずもなかったが、ファーストクラスを定位置とする男女がひけらかすステータスと比較困難な別次元の何かであることまでは察知した。
この青年の前ではあらゆる貴顕が膝を折る。
プロのキャビンアテンダントが意識せず瞬時に行う上客の分析は、続く声によって打ち消された。
「しかし、
冠なき精神的な王侯は命じる。
トカイワインは通常500ミリリットルの小ぶりな瓶であり、ひとりで空けるのは可能だが、グラスを求めないところは貴賓には似つかわしくない。
まさかラッパ飲みするわけじゃないわよね。それは王侯ではなく
青年に微かな失望を感じながら、スーザンはワインセラーに向かう。
その途中、目にしたくない光景が入ってきた。
いかなるときも極上の微笑を絶やさずにファーストクラスで客の様子を自然と伺うのが彼女の仕事であり、目を背けることは許されない。
横並びの2つの席を占めている、これまたアジア人。先ほどの青年は美しい英語を使っていたが、こちらは
横に従うは鞄持ちという名のボディーガード。
ゆったりとしたスーツに包まれた肉厚の体から放たれる威圧感は、ファーストクラスの四方八方まで放たれている。
他の客は不快と不安をその顔に塗り付けながらも、中国人たちのことを意識の外に追い出して無関心を装う。
アッパークラスの人間は暴力的な雰囲気に対し、とことん気づかないふりをするのが得意なのである。
若すぎる主人はやはり二十歳くらいなのだろうか。トカイワインを所望した青年と同年代とは思えない、落ち着きのなさと教養の欠落をふりまいている。
今は機内食として提供されたフォアグラとビーフのフィレを冒涜的な方法で食している最中であった。
クッチャクッチャと不快きわまりない咀嚼音の合間に、隣のボディーガードに喋りかける。
「日本に着いたらさっそく買い物に行くからな。ギンザ、アキハバラ、ロッポンギ。パパからは無駄遣いするなって言われてっけど、知ったこっちゃねえよ。欲しいもん全部買っちゃうぜ。免税店でバクガイは日本も歓迎してるっていうんだからよ。ゲェプッ」
ボディーガードは無表情で小皇帝の仰せのままにとうなずく。
彼も内心では、主人の口の中で転がされる高級食材の惨状を見て辟易しているのだろうがおくびにも出さない。金と権力を持った主人の父に対する忠義の示し方にはそれも含まれているからだ。
ガチッ ガチャ カチーン ギリリリ
ナイフとフォークの持ち方が間違っているがゆえに奏でられる残酷な演奏会。
間違ったことを間違っていると誰にも指摘されずに育ってしまった彼は、ついに人目も気にせず、
「あー、めんどくせえや」
と皿に顔を近づけて直接食べ始めた。
両肘をついて短く刈り上げた髪をボリボリと掻きながら。
「ペッ、セロリ嫌いなんだよ」
赤い絨毯の上に吐きだしたそれを、スーザンの同僚が間髪入れずサッと紙ナプキンで拾い上げる。
「ラオはさ、俺の代わりにママが喜びそうなお土産をテキトーに買っといてよ。今ママに投資しておけば、来月の誕生日にフェラーリ買ってくれるかもしれないからな」
小皇帝は両手でハンドルを握るジェスチャーをして、ぐるぐるとまわした。
スーザンは
(すぐにコースアウトするわね、これは)
と思ったがおくびにも出さない。
ラオと呼ばれたボディーガードはまたも、仰せのままにと頷く。
「おい、そこのお前。シャンパン持ってこい。一番高いのな」
小皇帝は、次の粗相に備えて近くに立っていたスーザンの同僚に挑発的なハンドサインで『行け』と命じた。
こんなときでも微笑みを絶やさない彼女たちはプロである。
成田まであと1時間足らず。それまでの我慢だと胃をキリキリさせながら自分に言い聞かせている。
「ラオ、日本の女は清楚でカワイイって言うけど本当かなあ。いくらあげれば着いて来るかなあ」
ドカッとシートにふんぞり返った小皇帝は垢抜けない顔をだらしなく伸ばす。
「実に嘆かわしい。最近は金さえ払えば畜生でも人間扱いされるらしいが、それなら飼い主はきちんとしつけをするべきだ」
洗練されたモデルのような立ち姿が貴賓室の中の歓迎されざる客たちの近くにあった。銀髪に野性的な肌のあの青年だ。いつの間に。
「なんと獣臭い」
それが自分の主人に向けられた侮蔑と即座に理解したラオは機敏に立ち上がるや、遠慮ないパンチを青年に繰り出す。
拳は青年の端正な細面に吸い込まれたかに見えたが、その顔面を撫でるように滑って横に流れた。
青年は吹っ飛ぶところか、優雅な立ち姿を1ミリたりとて動かしていない。
「僕の顔を撫でるだけの簡単なお仕事で餌がもらえるのかい?」
「ラオ、やっちまえ。揉め事はパパが揉み消す。そいつを半殺しにしろ」
小皇帝の父は大陸沿海部有数の富豪一族の出身であった。小皇帝が引き起こすトラブルは自国内であれ、異邦の地であれ、無かったことにされてきた。
今回もそうなるはずだ。
「空の貴賓室にて、そうなったかもしれないね。僕がいなければ」
青年は小皇帝の心のつぶやきに答えた。
どうして?と思うべきであったが、残念なことに小皇帝はそれを疑問に思うこともなくボディーガードを急き立てた。
ラオは腰の回転に体重を乗せた回し蹴りを青年に放った。座席間の広いファーストクラスと言えど、退避するだけの奥行はない。
青年の立ち位置の背後の席に座っていたアラブ系の老人が悲鳴をあげる。自分もまきこまれることを悟ったのだろう。
ラオの棍棒のように太い脚は青年の細い腰まわりを滑らかになぞって、空を蹴り抜いた形になった。
「いい加減に僕の体をなでるのはやめにしてくれないか」
青年がラオの軸足に呆れたような目線を送り、彫刻のように整った鼻を小さく鳴らした。
十分な鍛錬の末、絶対の安定感を獲得していたはずのラオの軸足が、途端にたよりなく絨毯の上を滑る。
ラオはこれ以上ないくらい豪快に後頭部を床に打ちつけ、一度痙攣して動かなくなった。
青年は振り返り、恐怖に縮こまっていたアラブ系の老人に、
「怖がらせてしまい失敬。もう安心してくれたまえ」
と囁いた。
「ラオ!?」
小皇帝は驚愕した表情でボディーガードに声をかけるが応えはない。
守る者のいなくなった偽りの玉座に悠然と近づく真の王侯貴族然たる青年。
小皇帝は短い脚をシートに持ち上げて体を丸めガタガタと震え始めた。
「僕は何もしていないが君の近衛兵は勝手に滑って転んでしまった。では今度は君の口を滑らせてみようかな」
青年の妖しい目の光が小さい皇帝のソースで汚れた口元を見つめる。
「うっ、ぐががが」
小皇帝の口は持ち主の意識に逆らい動き出した。
そして、彼が父の権力と金で揉み消してきた数々の悪事―――その中には明確な犯罪行為も含まれていた―――を高らかに放言し始める。止めようにも止まらない。
それが広東語だったため、ほとんどの者が理解できなかったことは小皇帝にとっては不幸中の幸いと言えよう。
「笑う気も起きないほどの下賤な小悪党だね」
言い捨てて、青年は紺色の瞳を上げた。
「君が生まれ育ったあの黄砂の国は何千年もの間、知性と謀略と暴力に鍛えられた荒々しい生存本能の持ち主たちが鎬を削って生きてきた大地だ。それは和の精神とは異なるが、多様な民族や文化をまとめあげるには必要な美徳とも言うべきものだった」
「しかし、大陸は大きく変わってしまった。権力と武力は堕落し、竜の精神は衰えた。絹と権力の産着にくるまれ、自分では何一つ為さずに食べ物を無為にする、
小皇帝は青年の話をほとんど理解できなかったが、紺色の瞳に輝く人間らしさを欠如させた本物の侮蔑に怯えきり、ガクガクとうなずき続けた。
涙も鼻水はとうに決壊している。
青年はトカイワインを持って棒立ちになっていたスーザン・ヨークから
「ほう、93年モノじゃないか。これはいい」
片手でボトルを受け取った。
そして、ファーストクラスの全員を見渡すと、
「こちらのお二方と多少行き違いがあったようだ。この図体だけは大きい、人のなりをした牛は倉庫に入れておくことをおすすめする。
そしてミス・ヨーク、この
スーザンは従った。
震えが止まらない小皇帝をチラリと見て、悪意を込めて微笑した。
「最後に。この醜悪な成り上がり者の素行に見て見ぬふりを決め込んでいた、貴賓席の皆様、お騒がせしたことをお詫びする。今後はその地位と名誉に見合った
では僕はここで退場するとしよう」
シェイクスピア劇の役者の如く、堂々とした立ち振る舞いでワイン瓶を片手に青年は一礼するとファーストクラスから出て行った。
トレーを片付けて戻ったスーザン・ヨークは
どうしてあの青年は自分の名前を知っていたのだろう?
と思い至った。
そして、手元の乗客名簿を手繰って、遂に成田空港に着いても戻らなかったあの青年の席が空席だと知ることになった。
同僚たちと協力して青年の姿を探したが、初めからいなかったとしか答えのない結果に終わった。
あの青年は、幾重もの搭乗チェックを潜り抜けてファーストクラスに乗り込み、誰よりも堂々とふるまい、ワインボトルを持ったまま高度3万フィートの機中から消えたのである。
東京スカイツリー。634メートルの高さを誇る東京で最も高い建造物の本当の頂上、寒風吹きすさぶ高みに青年はいた。
片手のトカイワインをボトルから直接飲みながら、青年は四方に紺色の瞳を巡らせ―――ある一方に焦点を合わせる。
そこはこの都市の下町と呼ばれる一帯。
「見つけた。竜穴の上にいるからすぐにわかったよ。相変わらずいい包丁さばきをしている」
傍目には東京の景色を見下ろしている風にしか見えない青年の行動であったが、その独り言の内容からすると遠く離れた場所の光景を間近で見ているとしか思えない。
俗にいう千里眼である。
「『鍋』は……驚いた。あの
「今日は冷えるわね」
大学から戻ってエプロンを着けていたあたしは、厨房のシーフーがいつになく訝しげな表情をしているのに気がついた。
「どしたの?」
「遠くから、すっごく面倒な視線を感じた。もし嫌な予感が当たってあいつが来たら塩まいて追い返そう」
「あいつ?」
「
(終わり)
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