第九話「店主と学生の天秤(後編)」

 そして、日曜日。

 午前から仕込みに入ったシーフーに、時間までには戻るからとそそくさと告げて家を出た。彼の顔をまっすぐ見ることができなかった。

「楽しんどいでー」

 その裏表のない一声がありがたく、そして後ろめたさのしずくを飛ばす。

 

 

 秩父宮ラグビー場前で大学の女友達メグ、ノンと合流。

「え……?」

 その後ろに、知ってるけど友達ではない子どうしてここにいるの?がいた。

 もし男性だったら絶対ラグビー部に入っていただろうゴツゴツした骨格にまとわりつく豊満なゼラチンお肉。

 自称ラグビー通の花園球子はなぞのたまこ

 苦手だ……。あたしは指先で眉間をおさえた。

 球子はその分厚い唇を目いっぱい開けて黄色い歯を見せて笑った。

「ゲボハハハ。あんた達みたいな、にわかラクビーファン、そしてにわか母校愛の『ラグビーのルールよくわかんないけど早大生でよかったー、源五郎丸先輩カッコイイ♪』なうすっぺらい―――」

 応援団みたいな声だ。あたしは自分の意識に球子の声だけミュートするよう自己暗示をかけながら入場口へ歩き出した。

「誰よ、あのひと連れてきたの?」

 メグとノンは同時に否定する。

「気がついたらいた。怖かった」

「ついてくるよぅ」

「ゲボハハハ。ラグビーというのはね―――」

 ミュート、ミュート。


 

 源五郎丸先輩の命令を受けた1年生部員がおさえていてくれた最前列の席は3つだったのだが、気がつくとその隣の席に元から座っていた生徒が消えて球子が座った。

「ゲボハハハ。席もボールも奪い合い。最後は凄みが勝つ!おしゃっ!」

 あーあー聞こえない。


 試合は早稲多エンジKO黄色の地を揺るがす激突の連続。

 エンジを率いるのはフォワードの3列目サードローに位置するナンバーエイトは源五郎丸先輩。

 ナンバーエイトとは、自分より前線で攻めるフォワード陣をコントロールして、試合の攻守を組み立てるポジション。

 自身も体格、スピード、パワー、判断力が揃っていないとつとまらない最も華のあるプレイヤー。

 スクラム時には、後方に運ばれたボールを自ら運び出して爆走することも多い。


「キャー☆」

「いけー!」

「危ないじゃないっ、なにあのバックス」

「源五郎丸さーん!」

「ゲボハハハ。我が早大は覇者と呼ばれる。憎きKO大は陸の王者と自称しとる。覇者は力で自らを示す!

 今日の覇者は徹底的に血筋重視の陸の王者おぼっちゃまを完封してるわね。やはり源五郎丸先輩のゲーム支配能力とフィジカルは群を抜いている!」


 あたしは球子に嫌味を言われたとおりラグビーについて詳しくない。それでも生観戦するとやはりそのド迫力には興奮する。

 母校の皆と応援する一体感の熱い大波に足下から揺さぶられ、大いに楽しんでいた。


 源五郎丸先輩はこの日絶好調。

 彼を中心として怒濤の攻めで早大が終始試合を支配したまま、伝統ある早慶戦は早大が勝利した。


 試合が終わり、大学とOB会が主催する祝勝会が近くのホテルで催される。

 火照った頬のまま帰ろうとすると、ラグビー部の1年生が携帯を片手に全速力でやってきた。

「失礼します!主将からお電話です!」

 と言って丁重に携帯を手渡すと、後ろ手になって佇立した。

「ハ、ハハ。さすが縦社会」 

 とメグ達に言いながら電話に耳を当てる。

「オウ!俺だ!勝ったぞ!祝勝会も来てくれるよな」

 声でかすぎ。

「すみません。私お店の支度が……」

 その時、ノンが電話をひったくって

「あ、源五郎丸先輩、絶対行きまーす。もちろん連れて行きますから」

 と承諾して電話を切った。

「ちょっと!」

「あんたが行かないと私達も行けないじゃない。豪勢な料理に源五郎丸先輩。OBもリッチなおじさんに、かっこいい商社マン揃い。こんな機会は滅多にないんだから」

「私も来年のミスコンに出たいから、ラグビー部とコネは作っておきたいなあ」

 とメグまで同調した。

「あのねぇ」

 あたしは溜息をついた。たしかに時間に余裕はあるけどさ。


 そのとき、背後から声がかけられた。

「あら、自営業って大変ねえ。早くお店に行った方がいいわよ。祝勝会の華は私たちの担当だし。源五郎丸クンもあなたみたいな。……ねえ」

 スタイル抜群の着飾った一団。おー、女子アナ予備軍に読モ。

 ねえ、の後に軽く笑いやがった。この晩秋にヒラヒラの合コン用ワンピースとか無理しすぎ。


 カチーン


 あなたみたいなってなんだよ。

 どこかであたしにしか聞こえないゴングが鳴った。

 祝勝会、ちょっと顔出すくらいなら店の準備に間に合う。後は走ればいい。

「あたし行くわ。あの暑苦しい先輩にはけど、いい席で観戦できたお礼くらいしてもいいし」

 ごめん、シーフー。あたしにもプライドってもんがある。

「ゲボハハハ。あんたたちじゃ、上っ面の寒い祝福しかできないから、ラグビー愛の申し子の私も行ってあげるわよ」

 


 祝勝会はラグビー部はじめ、学内関係者、プロ選手、政財界に広く散ったOBらが出席したそれは豪華なものだった。

 元総理大臣のOB会会長が失言まじりの長い挨拶のあと、乾杯。

 体育館くらいはある会場内はお祭り騒ぎになっていた。

 あちこちで豪快にグラスが干され、何度も乾杯の音が続き、校歌が歌われる。

 どこかで胴上げが始まり、選挙演説めいたものまで聞こえてきた。

 女子アナ予備軍たちはお偉いさんに挨拶をしまくっている。将来の布石を打つことにかけて彼女たちも必死。あたしはオレンジジュース飲みながら冷やかしの目で見ていた。


 こんな馬鹿騒ぎ、いつもなら足を速めて通り過ぎてただろうな。

 父さんが亡くなってから、友達とのつきあいの距離も遠くなり、蓬莱軒の切り盛りばかり考えていた。

 そんな私にとってこの空間は抜け出すのが難しい、楽しく魅惑的なハレの場だ。

 私は若い女の子で、受験からも就職からも等分に距離をとったこの時期に少しぐらいフツーの大学生らしく騒いだっていいじゃないと、いつのまにか自分の行為を正当化していた。


 でも。

 お店のことが頭をよぎった。

 あと少しくらい大丈夫、もうちょっとだけならギリギリ間に合う。

 と自分に言い聞かせてこの熱狂的な空気の中に居続けた。

 一流の料理人がつくるヨーロッパ料理のあれこれを堪能して、ここのところ中華漬けになっていた味覚にリセットをかけていた。

 

 この2ヶ月キープしていた、蓬莱軒を守る気概はあたしの心の海でもがいている。

 「そんな程度だったの?」と問うている。

 それが水しぶきをあげながら少しずつ沈んでいくままにしていた。ひっぱりあげることもできたのに。


 楽しい刻ほど時計の進みは早い。

 もう完全に仕込みは終わり、本当なら今あたしは配膳やお酒の支度をしてないといけない時間だ。


 このホテルから蓬莱軒までどんなに急いでも小一時間。

 シーフーは独り―――いや、周天の術を使ったシーフー『たち』はフル稼働で団体客用のセットをしているに違いない。

 彼は常識を越えた仙術を使う。料理人としての腕も一級。

 おそらくあたしがいなくても団体相手のおもてなしすら軽々とこなしてしまう。

 まぎれもない事実。


 店主だ雇い主だと言っておきながら、あたしはシーフーのおまけでしかない。あたしがいなくても店は成り立つがその逆は一日も保たない。

 そして、この状況。

 今更どの面下げてお客様とシーフーの前に出て行けばいいのだ?


 心の海から、あっぷあっぷしながらまたもうひとりのあたしが浮き上がってきた。不格好に水をかきながら。

 「あんたはおまけ。そんなことあんたが一番よくわかってたことじゃない。だからこそ掃除でもお運びでも会計でも、自分にできることだけはしっかりとやろうと頑張ってきたんじゃないの?かっこわるくても頑張る、それがあんたのたったひとつの売りじゃなかったっけ?」

 そう……かも。

 拳法も受験も蓬莱軒もそれで乗り切ってきた。

 一時の楽しさと引き換えに、そのあたしの本分ってやつに目隠しすることはとてもかっこわるいし、ずっと後をひく座り心地の悪さはやっぱり嫌だ。


「どうかしてたな。自分が選んだ夢を自分で裏切ってどうするってのよ。かくは一時の恥。こんな大した価値のない頭だったらいくらでも下げて、あたしはあたしのやるべきことをやるべきね」


 メグとノンも楽しんでるみたいだし、もうあたしがいなくてもいい。


 そのときだった。

「オウ!飲んでるか」

 今日の主役、大学ラグビーのスーパースターである源五郎丸かける先輩が、あたしの肩を力強く抱いてきた。さすがに肉体の迫力ハンパない。

 片手にはビール瓶。

「オウ!注ぐのも飲むのもチビチビは面倒だから瓶ごとよ。これがビー部のスタイルだ。オウ!1年、このお嬢さんに口当たりのいいお酒を持ってきて差し上げろ」

 1年生が敬礼して走る。軍隊か、ここは。

「オウ!ヨントリー以外は認めんぞ」

 どうやら就職先に内定しているらしい。


 源五郎丸先輩は、口調や声こそ勇ましいが見た目は意外とさわやかイケメンの系統。当然、女子にモテないわけがない。浮いた噂もよく聞く。

「オウ!よく来てくれたの。今日の俺どうだったよ」

 あ、あまり近くで微笑まないで。ちょっとだけぐらつきそう。相手はスーパースター。あたしにもミーハーな部分があるんだな、意外。


 あたしは肩から先輩の分厚い掌を外してから、

「源五郎丸先輩、おめでとうございます!先輩ががむしゃらに突き進んで勝ちをもぎとったみたいに、あたしも泥まみれになってやってみます」

 と言った。そう、キラキラしたここから離れて下町の狭い店で、うちを選んでくれたお客様相手にがんばるのがあたし。

 先輩は満面の笑みでビールをゴクリと一口。

「オウ!俺の試合見て何かをつかんだようだの!ところで、俺もお前にちぃと話しがあるんだ」

「あの、すぐに家に帰らないといけないので。そのお話はまた今度に―――」

「オウ!すぐ済むって」

 

「ゲボハハハ。飲み過ぎた。一旦リバースしてこよ」


 ……。ちょうどいい。着いて行ってここを出よう。


 溢れる人を縫ってようやく会場から出たあたしは、追ってきた先輩に一礼した。

「先輩、これからもがんばってください。申し訳ありませんが実家のお店があるので、あたしはこれで失礼します!」

 先輩は下唇をニュッと突き出してあたしの進路に立ちふさがる。

「オウ!ちょっと待て待てって。ようやくOBの誘いを振り切ってきたんだ。それに、俺が袖にされるなんて珍しいぞ」

 スターはやっぱり俺様自己中。

 

「オウ!せっかく今日のMVPとマンツーになったんだ。少し別の場所で飲みなおすか?」

「ですから、今言いましたように今日はダメなんです。先輩と飲みたい子なら山ほどいると思いますよ」

「オウ!しかしの、俺に媚びてくる女子にはうんざりしててのう。いっつもつれないでツンツンしとるお前みたいなのが俺はいいんだ」

「そのお話ですけど、あたし、先輩とつきあうイメージが全然湧きません。なんの共通項もないし」

「オウ!だからいいんだ。それに男は―――いやラガーマンはどんな強敵にも突撃あるのみ、トライをもぎとるもんよ」


 ダメだ。話がかみ合ってない。

 この人は自分がどう思うか、どうしたいかから行動が始まる。スターと呼ばれる選ばれた存在はそういうものかもね。

 やっぱり無理。あたしはこういうギラギラした太陽みたいな人より、何考えてんだかわかんないぼんやりした月みたいな人の方がいい。


 ん、誰のこと?

 

「先輩、お願いですから試合でのかっこいい先輩のままでいてください」

 あたしの顔は少し険が入っていたかもしれない。口角がひくついてきた。

「オウ!その俺がこうしてお前にアタックしとるんだ。少しはチャンスくれや」


 ぎゃっ。急速に抱きついてきた。

 ここ、ホテルの廊下。まずいって。つか酒臭いし、醒めるようなことすんなや。

 力ずくなのも気に入らない。あたしはもう我慢しない。


 自由になっていた右掌底を、先輩の頑丈な顎に鋭角に突き入れた。

 ショートレンジの掌底アッパーは、先輩の無防備な顎を揺らした。我が大学の運動部エースはふかふかの絨毯の上にくずおれた。

 しかし、抱きしめられて体重をかけられた形になっていたあたしも仰向けに倒れた。とっさに身をひねったが足の上に先輩の体が倒れてきた。

「痛いっ」

 足に体重がかかり捻った。

 幸いなことに廊下には誰もいなかったため今の一部始終を見た人はいなかったが、あたしを助け起こしてくれる人もいなかった。

 なんとか自力で巨体の下敷きになった足を引き抜く。ひねったらしくズキズキする。

 

 さきほどまで感じていた大学生活を楽しみまくろうという気持ち、母校愛、先輩への尊敬がスーッと抜けていく。

 スマホを見ると19時まであと5分。もうダメだ。この足では走れない。走っても絶対間に合わないのはわかっていたけれど。

 


 自分が守ると宣言した蓬莱軒に対しての裏切り。

 初めての団体客なのに、準備の約束を破って自分が楽しむことを優先した愚かさ。

 憧れてはいたスターは相手のことお構いなしの自己中だったことの幻滅。

 ズキズキと痛む足。


 大切にすべきものを見失っていた自分に対する罰だと思う。全て自分が未熟な子どもだったせいだ。

 自分の馬鹿さ加減に涙がポロポロこぼれてきた。

 絨毯に水滴がいくつもいくつもドットをつくる。


 何とか立たなきゃ。タクシー拾って少しでも早く帰らなくては。

「シーフー……」

 その名前を呼ぶことで痛みを我慢して立ち上が―――?


 目の前に白い袖の手が差し伸べられていた。

 視線を滑らせて上を見上げると、今無意識に名前を呼んだ青年の茫とした顔があった。


「……どうして?」

「もう団体のお客さん来たから。店主兼看板娘がいないと始まらないでしょ」

「でもお店からここまで」

「無駄口は後。この周天の術(実態を持った分身)はそんなに長い時間もたないんだから」

 本人が心配して分身―――周天というようだが―――を飛ばしてくれたのだ。

「足痛いの?どれ」

 シーフーがスッと足を撫でる。じんわりとした温かさとともに痛みが少しずつ薄らいできた。

「君の体内の気をここに集中させてる。2時間くらいは大丈夫。効果が切れたらまた痛むけど湿布でも貼れば?」

 ちょっと素っ気ない。

 あたしは涙を拭って、シーフーの手を借りて立ち上がった。


「ごめんなさい!」

 頭を下げた視線の先には、しゃがみ込んだシーフーの白い背中。

「あとで自己嫌悪で死にたくなるほど謝らせてあげるから、今は店に戻ろう。

縮地しゅくちの術で飛ばすよ」

 何も言わずに背中に体を預けた。


「ォゥ!アッパー効いたぜぇ」

 よろよろと源五郎丸先輩が立ち上がった。


 シーフーは首だけ後ろに巡らせて、源五郎丸先輩と目をあわせた。

「あんたさ、どれだけすごいラグビー選手だか知らないけど、うちの店主はどんなラグビーボールより複雑に転がるよ」

「ォゥ……」

「女の子と仲良くなりたかったら、自分のことばかり押し通すんじゃなくて相手の子が大切にしてるものを知ろうとする努力もしなよ」

 シーフーの言葉は鈍い先輩にも理解できたのかな。

「今度蓬莱軒に来て、この子が大事にしてる味を食べに来てよ」

「オウ!いや、はい!」

「よろしい。―――それと、あんたに女難の相が出てるよ。気をつけなね、今すぐに」

 


 シーフーはあたしを背負い直すと、縮地の術の準備に入った。

「シーフー」

「なに?」

「ありがと」

 あたしはなぜか無性に気恥ずかしくなって彼の背中に顔をうずめた。どうして胸が高鳴るのか。

「罰として胡麻団子は今日も食べさせないから」

「えっ」

 シーフーは縮地の術を使った。数瞬後には下町の蓬莱軒に着く。



 ホテルの廊下に取り残された源五郎丸駆、22歳。大学ラグビー界のスター選手。

「ゲボハハハ。リバース完了。また食って飲むか。お、源五郎丸センパイ発見でゴザルー。別の場所で飲みなおしますか!ゲボハハハ」

 筋骨隆々の巨大ゼラチンが発する声が響く。



 源五郎丸先輩の明日はどっちだ。

 

(終わり) 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る